第2章・秦・漢帝国と韓国朝鮮の古代国家

■秦・漢帝国と韓国朝鮮の古代国家

吉田光男(放送大学)

▶︎韓国朝鮮の古代国家

 文献史料を紐解けば、古代の朝鮮半島においては、古朝鮮・高句麗・百済・新羅・潮海などの古代国家が勃興し、沃狙(よくそ)・濊(わい)・靺鞨(まっかつ)などの諸族が活動していたことを確認できる。だが、中国東北地方で興起し、その後、朝鮮半島北部・中部にまで領域を拡大させた高句麗・潮海などのように、それら国家・諸族の領域・活動範囲は必ずしも朝鮮半島に限定されず、中国東北地方に及ぶものもある。

 それだけに、近年では、それら諸国・諸族の動向・史的展開過程を「韓国朝鮮の歴史」とみなすことに批判的な見解も提起されているが、そもそも古代国家・諸族の領域・活動地域は、近代の国境とは関係なく、広範囲に及び、それらの動向・史的展開過程は、その後の朝鮮半島の歴史・文化形成において大きな影響をも与えており、「韓国朝鮮の歴史」を語るうえで必要不可欠でもある。そこで、ここでは朝鮮半島に限定せず、より巨視的な観点から「韓国朝鮮の歴史」に関わる諸国家・諸族の動向・史的展開過程を主に文献史料にもとづきながら論及していくことにしたい。

▶︎古朝鮮・檀君朝鮮

 文献史料によれば、韓国朝鮮の歴史は朝鮮で幕があく。この朝鮮は、近世以降の朝鮮王朝と区別して、一般に古朝鮮と呼ばれ、檀君(だんくん)朝鮮・箕子(きし)朝鮮・衛氏(えいし)朝鮮の総称である。このなかでも最初の檀君朝鮮は、降臨した天帝(帝釈天)の子桓雄(かんゆう)と人間となつた熊女との間に生まれた檀君が、前2333年に建国し、朝鮮と称し、平壌(ピョンヤン)を都として1500年治めたと伝えられている。だが、この「檀君神話」は、高麗時代に編纂された朝鮮古代の記録である『三国史記』にも一切認められないばかりか、中国の諸史料にも伝えられておらず、檀君の名を記すもっとも古い記録は、13世紀に成立した「三国遺事』や『帝王韻記』である。その原典と考えられる史料も11世紀頃まで遡及可能だが、それ以前の想定は困難で、檀君神話10世紀以後、契丹の侵入という民族苦難の過程で造作され、民族の拠り所となつたと考えられ、史実として認めることは困難である。

※檀君朝鮮(だんくんちょうせん)は、神話上の檀君王倹が紀元前2333年に開いたという国の名称。朝鮮半島ではこの年を起点とする記述から計算して檀君の即位した年を西暦紀元前2333年とし、これを元年とする檀君紀元(檀紀)を定め、1961年まで公的に西暦と併用していた。一部では現在も使用されている

 

▶︎古朝鮮・箕子朝鮮

 同時代史料の乏しさでは、檀君朝鮮に続く箕子朝鮮の建国過程も同様である。「檀君神話」によれば、末の聖人・箕子は殷が滅亡した後、周に仕えるのを潔しとせず、朝鮮に東走し、周の武王箕子(きし)を朝鮮に封じたので、檀君は国を譲り山神となり、かわって箕子が朝鮮を治めたという。箕子が周の支配を嫌って朝鮮に移ったとの記録は、中国史料に認められるが、それは同時代の記録にみえず、神話的要素が強く、その史実性に疑問が残らざるを得ない。ただし、『史記』や『漢書(かんじょ)」など漢代以後の記録には箕子開国伝説が記されており、少なくともその頃には箕子開国伝説が流布していたことがわかる。

 こうした伝説の背景にあったのが、実在の朝鮮の存在である。『戦国策』史記』 には紀元前四世紀戦国七雄の一つで北京あたりを中心とする燕(えん)の東方に、朝鮮と呼ばれる勢力が存在していたと伝える。さらに、三世紀末の『魏略』は紀元前四〜三世紀頃に、燕が朝鮮の西方を攻撃して、二千里に及ぶ土地を奪取し、満播汗(まんはんかん・清川江・チョンチュンガン)を境界としたこと、前221年に秦が天下を統一して長城を築いたが、その時、朝鮮王は秦に服属しながらも、秦に入朝しなかったこと、秦漢交代期の動乱を避けて朝鮮に逃亡してきた燕・斉(せい)・趙(ちょう)の民を朝鮮の西方に安置したことなどを伝えている。このように少なくとも紀元前四〜三世紀頃には、朝鮮王を頂点とする独自勢力が朝鮮半島西北部に存在していたのである。この朝鮮王と箕子(きし)とを結びつける確かな史料的根拠は存在せず、箕子開国の物語はあくまでも伝説の域を出ないが、それは朝鮮西北部に実在した朝鮮とそこに流入した多数の漢人たちを前提として、両者が結びついて成立したのであろう。この伝説はさらに変容を遂げ、三世紀末の『魂略」では、秦が天下を統一した時の朝鮮王を否(ひ)、その子を準(じゅん)と伝え、『三国志』「魏書」・「濊伝」(わいでん)は朝鮮王・箕子の四十世孫と称するまでに至った。さらに前述の『魏略』はその子孫で朝鮮に留まった者は韓姓を称した、と述べる。後、漢の武帝が古朝鮮を滅亡させて設置した楽浪郡下では、王姓に次いで韓姓が圧倒的な勢力を振るっていた。神話はこうした状況をふまえ、造作され、発展していったのであろう。

※漢姓(かんせい)は、漢民族および漢化された周辺民族の間で用いられている姓である。その分布はベトナム、マレーシア、インドネシア、台湾、韓国朝鮮、日本などに渡る。漢姓は漢字で書かれるのが普通だが、現代ではアルファベット表記される機会も増えた。漢字一字の「単姓」が大多数を占めるが、漢字二字以上の「複姓」も存在する。漢姓は伝統的に父からその子達に受け継がれ、日本と異なり女性は婚姻しても自身の姓を変更しない。ただし香港などの西欧化された地域では、女性が配偶者の姓に合わせる事例も見られる。周時代以前の古代の漢姓は「姓」と「氏」の二つの要素を内包し、前者は母系の同邑血縁を示し、後者は父系の同族血筋を表していたが、秦漢時代以降になるとその区別は廃れた。

() 韓(かん)は、漢姓の一つ。 韓信 – 秦末から前漢初期の武将。漢の三傑の一人。 韓安国 – 前漢中期の政治家。 韓当 – 後漢末期から三国時代の武将。 韓擒虎 – 隋の武将。 韓愈 – 唐中期の文人。唐宋八大家の一人。 韓世忠 – 北宋末期から南宋初期の武将。 韓侂冑 – 南宋の外戚・官人。 韓山童

 このような漢人の朝鮮半島への流入は、出土遺物からも確認できる。朝鮮半島西北部からは燕(えん)のと、「銅製貨幣である明刀(めいとう)銭が出土しており、燕の交易圏に組み込まれていたのである。

▶︎古朝鮮・衛氏朝鮮

 このように朝鮮半島西北地域と遼東地域との間では古くから人や物が行き交ったが、そのなかに衛満(えいまん)と呼ばれる人物がいた。衛満はもともと漢建国の功臣である燕王盧綰(ろわん)に仕えていた。しかし、劉邦(りゅうほう)の死後、呂后(りょこう)による粛清を恐れた慮棺が前195年、匈奴(きょうど)に逃亡すると、衛満は徒党1000人余りを率いて朝鮮に亡命してきた。『魏略』によれば、時の朝鮮王準衛満を受け入れ、朝鮮西方の国境の守備に当たらせたという。衛満は燕・斉からの亡命漢人を糾合して次第に勢力を拡大し、遂に朝鮮王準を攻撃して王位を奪取し、王倹城(平壌)を都と定めた。これが衛氏朝鮮である。

 

 衛満は近隣の小国、真番(しんばん)・臨屯(りんとん)などを服属させ、勢力を拡大させていった。王位はその子を経て、孫の右渠(うきょ)へと三代にわたって受け継がれた。朝鮮王のもとには、裨王(ひおう)太子・大臣・相(しょう)・将軍などの称号を帯びる有力者がおり、支配層を形成し、合議して政治の運営にあたった。彼らのなかには、「朝鮮相路人(ろじん)相韓陰(かんいん)」「将軍王峽(おうきょう)」などのように「路」・「韓」・「王」など中国式単姓を有する亡命漢人と、「谿(じけい)の相参(しょうさん)」などのように、姓をもたず、尼谿という属国の相のような在地有力者も存在していた。衛氏朝鮮の支配者層には亡命漢人と土着の首長たちも含まれており、衛氏朝鮮は属国の存在を認め、それらを取り込みながら、穏やかな連合国家を形成していたと考えられる。

 衛満は建国後、漢の外臣(がいしん)となり、周辺の諸族を統制して漢に侵入させないようにすること、周辺諸族の君長の漢への入朝を妨げないことを遼東太守と約していた。ところが、孫の右渠(うきょ・衛右渠・衛氏朝鮮第3代王)の代になると、漢からの亡命者を招き寄せることが多くなった。また、朝鮮王は一度も入朝して天子に謁見しをかっただけでなく、周辺国がに朝貢するのを妨げた。

漢(王朝)首都:長安(紀元前206年– 9年、190年–195年)、洛陽(25年–190年、196年)、 許昌(196年–220年)

世界史対照略年表(前400〜600)

※衛 満(えい まん、生没年不詳)は、紀元前2世紀に朝鮮半島北部に衛氏朝鮮を建国した人物。朝鮮史において同時代の歴史書に明記される最初の君主である。『史記』朝鮮伝では名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは『三国志』裴松之の注で引かれた『魏略』以降である。

 漢ではかつて文帝(在位、前180〜前157)代に兵を擁して逆党となっていた朝鮮と南越の討伐が建議されたが、文帝の反対によって実行されなかった。だが、武帝(在位、前141〜前87)は違った。積極的な対外政策を推進し、すでに南越を滅ぼしていた武帝は、前109年使者を朝鮮に派遣し、右渠(うきょ)の違約を責めた。だが、右渠は武帝の命に従わず、交渉は決裂した。この時、漢の使者は帰国時に自分を護送してくれた朝鮮の稗王を殺害し、漢に逃げ帰ってしまった。その後、彼は遼東郡の東部郡打として赴任したが、このことを恨んでいた右渠は兵を派遣し、これを殺害してしまった。このことが武帝の朝鮮討伐の直接的契機となった。前109年、武帝は朝鮮遠征を断行し、漢軍は海・陸両面から朝鮮を攻撃し、王倹城を包囲した。朝鮮軍は激しく抵抗し、漢の攻撃をしのいだが、翌年、右渠漢への降伏か徹底抗戦かをめぐる対立のなかで殺害され、漢に抵抗した大臣も殺されて、王倹城は陥落した(22代約80年続いた衛氏朝鮮はここに滅んだ。

▶︎漢四郡

 こうして衛氏朝鮮を滅ぼした武帝は、その翌年の前108年、衛氏朝鮮の故地である平壌を中心にそれぞれ臨屯郡(郡治は東碗、現在の江陵か)・真番郡 (郡治は言県、不明)を、さらにその翌年前107年に朝鮮半島東海岸から吉林省東部にかけての地域に玄菟郡(げんと・郡治は沃阻(よくそ)県、現在の減輿、第一玄菟郡)を設置した(下図)。郡はいくつかの県から構成され、郡や県の長官(太守・県令)などの地方官が中央から派遣され、朝鮮半島西北部漢の郡県支配となった。もっとも、これら郡県はそれぞれの郡や県が互いに接するような形で存在していたのではなく、主要拠点とそれを結ぶ幹線をおさえる点と線による支配であり、朝鮮半島西北部の全域が漢の直轄領となったわけではなかった。

 こうして設置された漢四郡ではあったが、漢から遠く離れており、統治の困難さもあって、早くも前28年に改編が行われた。まず、漢土からもっとも遠くに設置された臨屯郡・真番郡が廃止され、楽浪・玄菟郡に編入された。その玄菟(げんと)郡は、前75年改編され、単単大領(たんたんたいれい・太白山脈)以東の玄菟郡治の沃阻県と旧臨屯郡下の六県の全七県を楽浪郡に移し、郡治遼東(遼寧(りょうねい)省新賓(しんぴん)県、第二玄菟郡)へと移転した(下図)。このように漢の武帝によって設置された四郡は、わずか30年余りで楽浪郡を残してみな朝鮮半島から撤退・消滅してしまった。こうした漢の郡県支配の改編は、高句麗などの在地勢力の伸張とも無関係ではなかったのである。

 一方、朝鮮半島に残存した楽浪郡は旧玄菟・臨屯真番郡下の県も管轄することになり、25の県を領し、戸数6万、口数40万を超える大郡となった。これを大楽浪郡という。ただし、東部都尉・南部都尉が設置され、単単大領以東の七県は東部都尉によって、南部の県は南部都尉によって管掌された。これら都尉はその後、後漢の光武帝(在位、25〜57)の建武六(30)年に廃され、嶺東七県は放棄されるが、楽浪郡はその後、4紀初まで約420余年、朝鮮半島西北部に存続した

 この楽浪郡の郡治(朝鮮県)に比定(ある物が一定の物として認められない場合、他の類似の物と比較して、その性質がどういうものであるかを判断する)されるのが平壌市楽浪区域の楽浪土城である。東西約650メートル、南北約550メートルの不定形の土塁からなるこの土城址からは、「楽浪礼官」などの文字を刻みこんだ瓦当、「楽浪太守章」「朝鮮右尉」など楽浪郡関係封泥(古代の西アジアや中国において、重要物品を入れた容器や公的内容を記した木簡・竹簡の束を封緘するとともに、責任の所在を示す証明書として用いられた粘土の塊のこと)をども出土(上図)しており、ここが楽浪郡の中心部、官庁街の所在地であったことを示している。楽浪土城の周辺の貞栢洞(ていはくどう)・貞梧洞(ていごどう)などには千数百基を越える楽浪古墳群がある。前漢から後漢中期までは木槨墓(もっかくぼ・棺や副葬品を納めるための、木の外箱)が、後漢中期以後は塼室墓(せんしつぼ)が造営され、王光墓(おうこうぼ)のように豪華な家具や装身具、車馬具・武器類などが出土したものもあり、楽浪郡下の漢の官僚たちの実相の一端を伝えている。

塼とは、焼き物で作ったブロックのことです。 漢時代にはこのような装飾豊かなブロックを用いて、遺体や副葬品を納めるための部屋を作る墓が多くありました。 この塼は文様の配置からみて、墓室の入り口の上に水平に置かれたものと考えられます。

                                       また、近年では楽浪区域貞栢洞の木榔墓(もっかくぼ)から「初元四(前45)年」の年号が明記された戸口(ここう)統計木簡(下図)発見され、それによれば約4万人もの漢人が存在していたという。楽浪郡下には古朝鮮道民だけでなく、中国大陸から楽浪地域に移住し土着化した多数の漢人たちもおり、その中でも、祖先が山東瑯邪(ろうや)から楽浪に逃れて土着化し、郡三老として楽浪支配に尽力を尽くした王閏(おうこう)、天文・水利などの学芸でもって世に聞こえた王景(おうけい)父子がつとに有名である。この楽浪王氏はその後も名族として知られ、北魏文成帝皇后の母北周文帝の母などを輩出した。

▶︎郡県への抵抗と高句麗の台頭 

 このように遼東から朝鮮半島北部にかけての地域では漢の郡県支配が進展したが、それら漢の郡県との政治的・文化的交渉は、周辺諸族の成長を促すことになった。そのなかでいち早く台頭したのが、高句麗族である。鴨緑江(おうりょつこう)中流域・渾江(こんこう)流域を根拠地とした高句麗族は、紀元前2世紀末にはすでにその存在が漢に把握されており、玄菟郡はこの高句麗族を管轄下に入れることも設置目的の一つしており、土築の県城も築造された。高句麗族はこの玄菟郡への服属と抵抗過程で勃興してきたのである。前75年、玄菟郡の郡治が朝鮮半島東北の成輿から西方の遼寧省新賓県へと大きく移動したが、この背後には高句麗族の勢力拡大があった。玄菟郡の移置は高句麗族の興起とも対応し、郡治の西方への撤退は高旬麗の成長そのものを反映したものであった。

 八年新王朝を建国した王 莽(おうもう・在位期間8年-23年)は使者を派遣し、新の印綬を高句麗にもたらすとともに、高句麗王を高句麗侯へ格下げした。その後、高句麗侯騶(すう)王 莽匈奴討伐命令に従わず捕えられ斬首されたが、この時、王 莽は、高句麗を下句麗と改めたという。高句麗ではこの頃までに、すでに王と呼ばれる君主が存在していたのである。

 当時の高句麗の中心地は鴨緑江支流の渾江流域の卒本(そつほん・中国遼寧省桓仁・かんじん・県)で、某那・某奴(那・奴は「水辺の土地」「土地」を意味する)と呼ばれる地縁的政治集団那集団)が結集して首長連合を形成していたと考えられ、王や王妃は特定の有力集団から輩出されていた。後世のような強力な王権ではなかったものの、成長著しいこの高句麗の存在は中原にまで達し、中央においても問題視されるまでになっていたのであった。

 その脅威はほどなく現実のものとなる。高句麗は頻(しき)りに都県へ侵攻し、105〜6年玄菟郡は郡治をさらに西方の撫順(ぶじゅん)へと撤退させざるをえなくなったのである(第三玄菟郡)。その後も高句麗は郡県への侵入を続け、成長を遂げていくのである。

■ 魏と韓国朝鮮の古代国家・諸族

▶︎公孫氏・鼓と東方世界  

 この高句麗と対峙したのが遼東の公孫(こうそん)氏であったこ玄菟郡の下役人から遼東太守にまで出世した。公孫度(たく)は高句麗や烏桓(うがん)を討伐し、玄菟郡・楽浪郡を手中におさめ、190年自立した。公孫度を継いだ公孫康は、高句麗の王位継承争いに端を発した支配者層の内部分裂に介入し、高句麗を攻撃し、国都を破った

※公孫 康(こうそん こう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての群雄。幽州遼東郡襄平県の人。家系は公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃・公孫淵

 さらに公孫康は、朝鮮半島南方の諸族の統制のために、楽浪郡の南の地を割き帯芳郡(たいほう)を設置し(郡治は、黄海北道鳳山・ポンサン郡智塔里・チタムニ・土城)、朝鮮半島南部の韓族らを討伐した。その結果、これ以後、韓族やさらにその南方の倭もこれに服属することになった。

 こうして遼東から朝鮮半島西北部に独自の勢力圏を築き上げた公孫氏の政権は公孫恭を経て、公孫淵へと受け継がれた。公孫淵は燕王と称呉と連携してを牽制するなど、反魏的姿勢を強めた。これに対しては、238年司馬 懿(い)を司令官とする遠征軍を派遣し、大いにこれを打ち破った。公孫淵斬首され、ここに公孫氏政権滅亡し、楽浪郡や帯方郡は魏の管轄下となつた。

▶︎魏と高句麗 

 この間、高句麗では、分裂の危機を迎えていた。高句麗王伯固(はくこ)薨去(皇族・三位(さんみ)以上の人が死亡すること)後、二子、抜奇(ばっき)と伊夷模(いいも)(山上(さんじょう)王在位、197〜227)兄弟の王位継承争いが起こっのである。国人たちは弟の伊夷模を王に擁立したが、兄の抜奇はこれを恨み公孫康と結び、王都のあった渾江流域を支配した

 弟の伊夷模は鴨緑江中流の国内城(こくないじょう・吉林省集安市)に移り、「新国」を建てた(209年)。抜奇はやがて遼東に逃れ、分裂は回避された。新都は漢代の県城を利用した平城の国内城と山城丸都山城(がんとさんじょう・山城子山城)が一体となっており、高句麗はここを拠点として新たな道を歩み始めることになったのである。

 だが、高句麗には試練が待ち構えていた。高句麗は当初、魏と敵対していた呉の使者を斬首して魏に送ったり魏の公孫氏討伐に協力するなど、魂と良好な関係を築いていた。しかし、高句麗が魏の郡県へ侵攻すると、244年から三年にわたって、高句麗は魏の攻撃を受けることになつた。高句麗軍を撃破した魏の将軍母丘倹(ぶきょうけん)は丸都城を陥落させ、王都を蹂躙(じゅうりん・ふみにじること。暴力的に侵すこと)した。時の王、東川(とうせん)王在位227〜248年)は主都を脱して、遠く朝鮮半島東北部の沃阻の地にまで逃れた。高句麗はかろうじて命脈を保ったのであった。

 この頃の高句麗には消奴部(しょうぬ)・順奴部(じゅんぬ)・絶奴部(ぜつぬ)・灌奴部(かんぬ)・桂婁部(けいろう)と呼ばれる五部が主都に集住し、王がこれを統御する部族連合国家を形成していた。王はそれまでの消奴部に替わって桂婁部から、王妃は絶奴部から輩出されていた。王のもとには遅くとも三世紀初頭までには10等の官位が存在していたが、それは必ずしも王を頂点とする一元的な上下序列で律せられたものではなかった。上位の官位は高句麗五部の有力者(大加・だせいか)が称したものであり、諸大加もそれら官位のいくつかを設置していた。このように三世紀の高句麗の官位は、王と大加という多元的中心をもち、族制的な制約を強く保持し、支配者集団たる高句麗五部の連合国家にすぎなかった高句麗王権の性格を色濃く反映していた。高句麗王権は部族的な制約のもとにあったのである。 

▶︎三韓社会 

 魏は公孫氏を討伐し、楽浪・帯方郡を支配下に治め高句麗を攻略し、積極的な東方政策を断行した。その過程で東夷諸族(本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であった)に関する情報も収集され、その一部は「三国志魏書・東夷伝として伝られた。それによれば、三世紀の朝鮮半島南部には韓族が居住していた。この韓族は各線・辰 韓・弁韓弁辰ともいう)に分かれるというが、馬韓と辰韓は言葉が異なるものの、辰韓と弁韓雑居していて、衣服と住居は同じで、語や習俗も似ており、それぞれが政治的単位として行動することもなく、この区分に政治上の大きな意味は認めがたいというのが実状である。

 このうち、最大なのが朝鮮半島西部の馬韓で、50余りの小国家が併存し、大国は一万余家、小国は数千余家で、計10万余戸であった。朝鮮半島東南部には辰韓と弁韓が雑居しており、それぞれ12国、あわせて24の小国があり、大国は4~5000家、小国は6~700家、計4〜5万戸を数えたという。このように朝鮮半島南部には70強の小国家が存在していが、各国には天神を祭る天君や鬼神を祭る司祭者がおり、馬韓では蘇塗(上図・そと・古代朝鮮の南部に住んだ馬韓族にみられた宗教的行事であり、鳥居の原型)と呼ばれる別邑(特別な地域)で大木に鈴鼓をかけ、鬼神を祭ったという。さらに、それぞれ政治的首長が存在しており、有力なものは臣智(しんち)、それに次ぐものは邑借(ゆうしゃく)とも呼ばれ、弁韓ではさらにその間に険側(けんそく)・樊穢(はんわい)・殺奚(さっけい)があったという。

 

 三世紀初、これら小国は対外的な最高首長である辰王(しんおう)を擁立した。辰王は馬韓の月支(げっし)国を治所として、馬韓諸国を中心として三韓地域に大きな影響力を及ぼしていたが、必ずしも馬韓地域などを広域的に支配するような強力な専制君主的存在ではなく、諸国の対外関係の調整、諸国家間の交流・利害などに介入するのみで、外交的役割を担う存在であった。その後、246年韓諸国は、魏の帯方郡から楽浪郡への転属に関する通訳の誤訳などから魏に反旗を翻した。魏は帯方太守が戦死するなど被害を受けたものの、なんとかこれを鎮圧し、これによって辰王を媒介とする対外関係は破綻し、小国は個別に魏に統属するようになった。魏は諸韓国の首長である臣智(しんち)に「邑君(ゆうくん)」・「邑長(ゆうちょう)」の印綬、衣服を与えて、魂の外臣とし、魏の皇帝を頂点とする秩序のなかに位置づけ、支配したのであった。「三国志」魏書・韓伝には、首長たちは大挙して帯方郡を訪れ、好んで下賜品である印綬や衣服を身につけたといい、その数は千人以上にのぼったと伝えている。

▶︎沃沮(よくそ)と濊(わい)  

 

 朝鮮半島の東海岸に沿った地域には三韓とは別に沃阻と濊が居住していた。沃阻はもともと夫租と表記され、平壌からは「夫租蔵君」の銀印出土していたこ沃阻も蔵族であった。沃沮は成鏡道一帯を、濊は江原道三市を活動地としていた。

 ここは海獣や海産物の産出地で、濊族はそれらを遠くまで運び交易しており、その名ははやくから中国に知られていた。漢武帝は、当初、玄菟郡の郡治を沃阻城(沃阻(夫租)県)に設置しこれらを管轄していたが、玄菟郡の移転にともない、楽浪郡が統括することになり、東部都尉が設置された。後漢の建武6(30)年に、東部都尉が廃止され、県も放棄されると、首長たちは県侯とされた。二世紀初頃、高句麗に臣属することになつたが、高句麗は在地の有力者を仲介役に取り込み、支配者層を現地に送り込んで租税・海産物などを徴収・輸送させた。その後、魂による高句麗遠征が行われ、高句麗に従属していた沃阻や濊も討伐されると、高句麗から離れ、に統属するようになつた。