ジャコメッティ-2

■ジャコメッティ-2

■ 9. 犬と猫

 動物をモデルに多くのブロンズ作品を残した弟ディエゴとは異なり、もっぱら人間のみをモデルにしていたジャコメッティであったが、1951年に幾つかの動物の石膏像一2頭の馬と1匹の猫、そして1匹の犬を制作している。このうち猫と犬だけがブロンズで鋳造され今日まで残っている。《猫》(cat.90)のモデルは、同じ路地に暮らす弟ディエゴのもとに棲みついていた猫であった。「朝起きる前、ディエゴのあの猫が寝室を横切ってぽくのベッドに向かって来るのを何度も何度も見て、ぽくはあの猫をありのままに正確に記憶してしまった。あとはそれを作るだけでよかった。だが、似たものであるように見せかけることができているのは頭部だけだ。ぼくはいつも猫が正面からぽくのベッドに向かって来るのばカ叫見ていたからね」1)。ジャコメッティが語るとおり、《猫≫の胴体と4本の脚は、ほとんど骨組みのままで、肉付けがはどこされているのは頭部のみである。

 他方、《犬≫(cat.89)のモデルはより曖昧だが、ジャコメッティはその痩せ衰えて尻尾と頭を垂れた姿に自身を重ねて合わせていたようだ。《犬≫を制作してから10年以上経った1964年、その頃モデルをつとめていたジェイムズ・ロードに対して、ジャコメッティは次のように語っている。「ずっと前からぽくの心のなかに、どこかで見た中国犬の記憶があった。それから、ある日、ぽくは、雨のなか、ヴァンヴ通りを歩いていた。建物の壁に沿って、頭を下げて、おそらく少し悲しみを感じて。ちょうどそのとき、ぽくは自分を犬のように感じた。それであの彫刻を作った。しかし、はんとうはまったく似ていない。ただ悲しげな鼻面が少しだけ似ているにすぎない」2)。ジャコメッティと親しい交友のあった作家のジャン・ジュネは、美しい曲線を描く前脚を持つこの《犬≫を目にして、「孤独というものの、至高な壮麗化」3)と称えた。

 そして、極端にデフォルメされたその姿を、イヴ・ボヌフォワは大胆にもスタンパの山々に重ね合わせる0「ジャコメッティが生まれ故郷の山について試みたデッサンをこの彫刻〔《犬≫〕と比べてみよう0そこには剥き出しの、刃物のような山頂、そこから落ちている氷河の長い尾根、不可視のものの、無のへりに、白い紙の上にそれらを示すためのごく細い教本の線がある。こうしてみると、類似は驚くべきものであり、ふたつのイマージュをほとんど重ね合わせてみることさえできそうだ。パリの街を彷捏する50歳の男の体験の下に、子どもの視線を、樹木で覆われ、人の住む谷の彼方の、これらの山頂[…]の孤独のなかに自分の孤独の反映を探し求める子どもの視点を出現させるものがそこにはある」4)。こうして、ジャコメッティ自身の姿であるそひ《犬》において、奪え立つアルプスに囲まれた小村スタンパで育った幼少期の孤独が、パリで終わりのない制作を続ける孤独に結びつけられるのである。   (Y・Y・)


■ 10. パリの街とアトリエ

  ジャコメッティは、1926年に落ち着いたパリのイポリット=マンドロン通りのアトリエを生涯離れることはなく、およそ40年あまりその慎ましい部屋に住み続けた。モンパルナス墓地の南に位置するその界隈はパリの中でも比較的寂れた場所だったが、ジャコメッティは矢内原と旅について話していたとき、「世界中のどこに行ってもパリの場末のこの界隈の風景以上に素晴らしい風景はない」1)ときっばり答えている。《真向かいの家≫(cat.91)は、通りを挟んでアトリエの向かいに建つ家を描いたものである。アトリエからさらに50メートルはど南に下ると、東西に伸びるアレジア通りに突き当たる。この通りを舞台にしたリトグラフ(cat.94,95)でも、何の変哲もない街角がモティーフとなっている。

 この2点の《アレジア通り≫を制作した1954年に、アトリエの内部を描いた17点のリトグラフが制作されている。本属に出品されるそのうちの6点(cat.96−101)を見ると、彫刻が所狭しと置かれた、雑然としたアトリエの様子が伝わってくる。ジャコメッティのアトリエを頻繁に訪れた、友人であり作家のジャン・ジュネの描写を見てみよう。「建物の一階にあるこのアトリエは、いつ崩壊してもおかしくない。アトリエは、虫食いだらけの木と、灰色の填で出来ている。立像は石膏像で、縄、麻屑、あるいは針金の端が見えている。画布は灰色に塗られ、画材屋にいた頃のあの落着きを、とっくの昔に失っている。すべては染みだらけで、廃品同然だ。不安定で、いまにも崩れ落ちそうだ。分解に向かっている。浮遊している。ところが、このすべてが、ある絶対的実在のなかで、凝固してしまったかのようなのだ」2)。ジュネが綴った最後の一文は、そのままこれらのリトグラフにも当てはまる。ときに強弱を付けながら執拗に重ねられた線は、紙の白い空間のなかで、物たちに唯一無二の居場所を与えているかのようである。

 一方、スツールや椅子をクロースアップしたデッサンやエッチングもある(cat.92,93,102)。矢内原の回想によると、前者はジャコメッティの腰掛、後者はモデルの椅子であった。「ぽくが座るのはカフェのテラスなどによくあるような粗末な藤の椅子だ。これは普段はアトリエの隣の居間にあってアネットが使っている。常に絶対に自由であろうとするジャコメッティは家具調度の類に対して極度の恐怖を抱いており、家具と名付けられるようなものをはとんどもっていない。[…]他方ジャコメッティが坐るのは固い木の踏み台のようなもので、あまり長時間これに座り続けているため彼のズボンは尻のところがすりきれてしまっている」3)。一連の椅子のチノサンは、ジャコメッティが身の回りにあるどれはどささやかな物にも敬意あるまなざしを注ぎ、その物がそこにあるという現実を描きとめようとしたことを示している。  (Y.Y.)


■ 11. スタンパ

 ジャコメッティは、パリで暮らすようになって以降も、母が暮らす故郷スタンパに毎年のように帰省していた。スタンパは、スイス南東部、イダノア国境に近いアルプスの山々に挟まれたプレガリア渓谷にある小村である。《スタンパ≫(cat.104)や《木のある風景》(cat.105)に描かれるように、寄り添うように建つ家々の周りにはなだらかな斜面が広がり、その先にアルプスの嘩をのぞむことができた。幼いジャコメッティは、荘厳な山々に囲まれたこの村で、斜面に転がる巨岩や林を遊び場としていた。そして、このとき慣れ親しんだスタンパの自然は、原風景としてジャコメッティの中に留まり続けた。のちに生み出された彫刻作品の幾つかには、この原風景が内在している。そして、家族とともに暮らした慎ましい家と父のアトリエも、ジャコメッティにとって生涯を通じて重要な制作の場であり続けた。

 弟ディエゴの回想によると、ジャコメッティは早くも10歳のとき、居間の中央にあった吊りランプのスケッチを試み、「鰍こ貼り付けられたようにではなく、空気のなかにそれを置こうとしていた」1)という。それからおよそ半世紀を経て、1958年から最晩年にかけて、ジャコメッティは再びこのモティーフに集中して取り組んでいる。《吊りランプ≫(cat.103)や《読書する芸術家の母Ⅰ》(cat.107)では、まさにこのランプの下で本を読む母の姿が描かれている。また、《室内》(cat.108)で、空間に奥行を与えているのも同じランプである。テーブルや椅子が置かれた部屋の中で、苗に吊るされたランプ一日中は光をはのかに反射し、夜は室内を照らすランプは、それを取り巻く親密な空気と結びついて、ジャコメッティにとってかけがえのないモティーフであり続けたのかもしれない。

 そして、スタンパの室内を描いた多くの作品に登場するのが、母アネッタである。上記の2点に加えて、《窓辺に座る芸術家の母≫(cat.106)でも、本を読む彼女の姿が見てとれる。地理的にも社会的にも周囲の世界から隔絶された渓谷の小村スタンパで、アネッタは一家の母としてだけではなく、村の人々にとっても特別な存在であった。ジャコメッティのモノグラフを著した詩人のイヴ・ボヌフォワ(1923−2016)は、彼女の存在について次のように記している。「おそらく彼女以上によく人間の社会と土地との相互の親密さを具現した存在はなかったし、彼女ほどよく光や大気の振動に反響し、ひとつの場をつくり出す話力の均衡を享受した存在はなかった」2)。ボヌフォワ以外にも彼女を知るジャコメッティの友人たちが指摘する通り、伝統を守り、村と家族の番人たる母アネッタの存在は、たとえ離れて暮らしていても、ジャコメッティの制作を深いところで支え続けたのである。(Y.Y.)