図説・新治村史

■南北朝の動乱

▶︎万里小路(藤原)藤房卿 

 『太平記』によると、元弘二年(1333)万里小路藤房は常陸に流され、小田民部大輔に預けられた。『異本伯書巻』には常陸国土浦とあるが、土浦には伝承なく、配流地は藤沢とみてよい。ここで民部大輔は一般に治久のことと考えられているが、疑問はある。『岩波古典文学大系、太平記』では兼秋としている。父貞宗の可能性もある。

 藤沢のどこに住んだかは不明だが、極楽寺か来栖主計屋敷といわれる所であろう。後者は今の神宮寺の門前に当る。神宮寺に住んだと考える人もいるが、神宮寺が藤沢に再建されたのは江戸時代になってからである。

 藤房の遺跡として髪塔塚がある。来栖家に祀る藤房の位牌には、ここが納骨の地だと善かれているが、落飾した時の髪を埋めた所と考えられる。配流中の落飾だというのが、荒井庸夫・吉田一徳両氏の説で、落飾の理由は不明だが、『太平記』に次のような話が載っている。

 「元亨の秋のころ、天皇の北山行幸の際、中宮の女官で左衛門佐局と いう美人を見染めた。元弘元年の八月二十四日、ようやく思いが一夜の契りを結んだ。ところが天皇が笠置へ落ちゆき、藤房もお供をすることになり、一目逢いたいと北山殿へ行くと、中宮のお召しでいないという。章の毛を少し切って歌を書きそえた。

 黒髪の乱れん世までながらへば是を今はの形見ともみよ 女官が戻って髪と歌を目にし、余りの思いに堪えかね書きおきし君が玉章身にそへて後の世までの形見とやせん  前の歌に書きそえ、形見の髪を袖に入れ、大井川に身を投げた。」 この話が事実なら、藤房の落飾はこの女性の死を知っての心中立てともみられよう。藤沢在住は一年有余であった。


′ 伝 藤原藤房真筆(神宮寺蔵) 

 建武中興は、彼を再び政治の渦中に引き戻した。しかし、その政治はかんりん彼を幻滅させた。天皇へ何度も諌言した。それが結局無駄と知ると、彼は政治を捨てて出家した。あるいは、来栖主計が形見の髪を抱いて、主君藤房と別れたのはこの時だったかも知れない。天皇は驚いて、藤房の父道房に探させたが、行方は遂に知れなかった。

万里小路 藤房は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿(くぎょう=大納言・中納言・参議・三位以上の官人))。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。藤原藤房とも言う。 江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えられている。

▶︎藤房と授翁宗

 藤房は遁世後、諸国を遊歴し、脇屋義助の家来が鷹巣山中で出逢った人が藤房らしいというので、探してみると既に消えてしまっていたとか、土佐へ赴く途中船が遭難して死んだとか、85歳で近江の妙感寺に没したとか、三河国一色村の養林寺に葬られたとか、諸説紛々である。来栖家(くるすけ)の位牌には、授翁弼、康暦二年(1380)2月28日、81歳とある。

 

※授翁宗弼(じゅおうそうひつ、永仁4年(1296年) – 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は宗弼、字は授翁。諡号は円鑑国師・微妙大師。父は藤原宣房、万里小路藤房と同一人物とする説もある。

 この授翁弼は、『本期高僧伝』によれば、大徳寺開山大燈国師の弟子で、妙心寺二世になった授翁宗弼のこと、藤房の後半生であるという。しかし、僧道忠の『正法山記』をはじめ、授翁と藤房は別人だという説も多く、今後の検討を要する問題である。

 上の写真は、藤沢の神宮寺に伝わる藤房の真蹟(しんせき・本当にその人が書いたもの)とされるものである。三島毅(中州)氏は、「筆墨蓮勤、古色蒼然、其ノ語玄奥ニシテ千古ヲ洞察ス。……及チ、公ノ真蹟タル疑ヲ容ルルナク」と言う。内容は禅僧の書く香語の下書きに似ており、書体は彼の他の書の筆蹟とは違った趣きをしており、検討の必要はあろう。ただ、こうした伝承をもつ所にも藤房と藤沢の因縁の深さが感ぜられるといえよう。

■小田治久と孝朝・治朝

 小田治久の治の字は、後醍醐天皇の偏諱(へんい・尊治の治の字)を賜ったものといわれ、それ以前は高知(たかとも)を名乗った。この高は、北条氏の得宗高時から貰った一字であろう。尾張権守時代に、宇都宮高貞と共に奥州へ赴き、安東氏の乱を鎮定した。元弘の変では幕府軍に従って上洛し、楠木正成の籠る赤坂城などの攻撃に加わった

 

元弘の変(げんこうのへん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である

偏諱とは、漢字二文字の名前のうち通字ではない方の字のこと。 概要 要するに「北条氏康」「北条氏政」「北条氏直」ならそれぞれ「康」「政」「直」の方を指す。「氏」の方は通字と呼ぶ。

 藤房を預つて常陸へ戻ったとも、天皇の隠岐遷幸(せんこう・他の位置に天皇が移ること)に供奉したとも伝えられるが、この頃の官職が宮内権少輔だったこと、建武中興で左近衛権少将となり、天皇の偏謹を賜ったことなどからみて、天皇の側近にあつた可能性が強い。小田城が治久の城であるのに、藤房が小田でなく、藤沢に住んだ理由も、治久が小田に戻って来たとすればうなずけない。

幕府軍の包囲網から脱出した正成は護良親王(後醍醐天皇の皇子)と提携して和泉・河内を中心に各地に出没し、幕府を悩ませ、さらには河内金剛山の要害・千早城に篭城し、天才的軍略と山岳ゲリラ戦で10万に及ぶ幕府の大軍を翻弄しました。正成自身は直接鎌倉幕府を攻撃したわけではなく、彼の戦略は幕府の大軍を引きつけて長期戦に持ち込み、全国の武士達に弱体化した幕府を知らしめることだったのです。ですから赤坂城の落城も脱出も予定の行動だったのです。そして後醍醐天皇は隠岐から脱出。新田義貞、足利尊氏が鎌倉、六波羅を攻め落として鎌倉幕府はここに滅びました。楠木正成の奮戦が鎌倉幕府の権威を決定的に失墜させ、全国に倒幕の機運を形成し、遂には足利尊氏や新田義貞ら有力御家人の倒幕参加を招いたのです。ある意味では、正成の果たした役割は尊氏・義貞以上とも言えます

 

 『太平記』 では、藤房を預ったのは民部大輔だという。この職は宮内少輔より上位にあり、藤沢に城館をもっていたとすれば、父貞宗か叔父がふさわしいのではないか。

 治久は、南北朝分裂後は南朝方に属した。藤房の影響といわれるが、後醍醐天皇の属する大覚寺統が、南野荘を含む八条院領を伝蘭してきたこと、天皇に近侍して出世したこと、足利尊氏が常陸守護を佐竹貞義に与えたことなどが、南朝方についた理由と考えられる。

 建武三年(延元元、1336)久慈郡の花房山・大方河原で佐竹の軍と戦ったのを皮切りに、石岡近辺・信太郡・大枝郷(現玉里村)と転戦し、この間春日顕国、つづいて北畠親房が小田城に来て指揮をとった。暦応四年(興国二、一三四一)には、高師冬(こうのもろふみ)が志筑から山ノ庄を経て宝筐山に陣をとり、小田城を攻撃した。一進一退あり、師冬は一時信太荘を経略したりしたが、冬十一月に治久が降伏し、北畠親房は城を撤退した。ここで治久の官職は建武前の宮内少輔に戻されている

 つづく関・大宝戦には、治久は師冬に従って攻撃軍に加わり、以後孝朝(たかとも)に代るまで佐竹義篤(さたけよしあつ)らと共に足利尊氏の手に属して活躍した。文和元年(正平七、1353)53歳(一説に70歳)で没した。墓地は、小野善光寺とも藤沢邦見寺とも紫尾(しいお)妙光院とも諸説あって不明である。

▶︎孝朝と治朝

 治久没後尊氏の下で活躍、その功で田中荘の一部や信太荘下条の支配権をとり戻したが、難台山事件で再びそれらを没収された支配圏は南野荘の大部分に制限された。孝朝はその後、出島村の牛渡に隠棲した。小田氏としては最も没落した時である。

 しかし、孝朝は大光禅師の影響であろう、禅の素養も深く、義堂周信など当代一流の禅僧とも交流している。自ら和歌も詠み、『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』にそれぞれ一首ずつが収録されている。また、真言宗の普及にも力を入れ神郡の普門寺、出島の南円寺、大岩田の法泉寺、平塚(現在永国へ移転)の大聖寺などを保護した。のちにこれらを小田領四ヵ寺とよんでいる。

 孝朝は応永21年(1414)78歳で没し、山島村牛渡の宝昌寺に葬られた。治朝は難台山事件のあと琳須氏に預けられ、その後許されたとしても、あまり活躍の機会はなかったとみられる。そのせいか、没年にも諸説が生じている。『常陸志料』の応永25年(1418)41歳説が妥当かと思われる「一応永23~4年の禅秀の乱では、禅秀側についた。治朝の妻が佐竹の一族山入与義(やまいりともよし)の娘、与義は佐竹本家が上杉憲定の子義憲を養子にしたのに反対していた。反管領ということで禅秀についた。治朝は与義との関係で禅秀についたのであろう。敗れたが、子の持家が鎌倉公方持氏につき、活躍したので罪を許されたらしい。

■法雲寺と大光禅師法

▶︎大光禅師・復庵宗己                     ,

 禅師の父は小田宗知、母は家臣宮宅(みやけ・宮家とも書く)源五国経の娘小夜(さよ)、また羽生氏という説もある。俗名宗儀、治久の猶子(ゆうし・公卿・武家の社会で兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの)となり治儀と改名した。弘安3年(1280)の生れだから、治久より二〇も歳上である。猶子というのは、庶子(しょし・本妻以外の女性から生まれた子)のため外祖父の家で生れ育ち、のちに治久の弟治敦の家に住んだからとも、後光厳院より禅師の俗姓を尋ねられたので、前後を考え少将治久の子と答えたからだともいう。

※法雲寺(市内高岡)は延慶(えんきょう)3( 1310)年に中国浙江(せっこう)省しょう天目(てんもく)山ざに留学した復庵宗己(ふくあんそうき)が小田治久の招きで文和(ぶんな)3(1354)年に開山した禅寺です。復庵は31 歳の時に中国(元)に渡り天目山正宗禅寺の 中峰明本(ちゅうほうみんぽん)(普応国師・ふおうこくし)を師として数年間学んでいます。嘉暦(かりゃく)元( 1326)年に帰国してからは、小田城近くの高岡に法雲寺の前身となる楊阜庵(ようふあん)を設けて北関東を中心に活動しました。(土浦市博物館誌より)

 松島円福寺の空岩恵和尚の下で薙髪(ていはつ)受戒した。円福寺は真壁平四郎性西法心中興(一度衰えていたり途絶えた物を復興させるという意味)した寺で、のち瑞巌寺とよばれる。空岩は蘭渓道隆の弟子だが顕密(顕教と密教を併せたもの)を学び、宗儀はここで密を学んだ。その後禅寺を歴し、最後に入元して中峰明本に教えをうけた。帰国して数年、関東の諸寺を歴遊し、正慶元年(1330)治久が高岡に建てた揚阜庵(ようふあん)に落ちついた。

  建武二年(1335)、中峰十三回忌正受庵(しょうじゅあん)と改称、開山を中峰とし、在元中に作った中峰の木像を安置した。文和三年(1354)には同門の古先印元を導師として中峰の追善供養をしたが、この時正受庵大雄山法雲寺と号した。

 以後来参する者後を絶たず、「一度は復庵の輪下に到らざれば、遍参(禅僧が各地の師のもとを訪れ、修行してまわること)を果したものとはいえない」と囁(ささ)やかれたという。近江の永源寺の寂室元光(じゃくしつげんこう)とは二甘露門とたたえられた。後光厳院や足利尊氏の招きも断わった。尊氏は、左上に掲げた写真のように、書簡で禅要を問うて来たので、法語一篇を与えている。

 延文三年(一三五八) 九月、数日の病の後「老僧今日行脚せん。吾に深密の語なし。幻住の家訓を格守して、須らく法をして久住せしむべし」といい、端座して示寂した。79歳。同五年、後光厳院は禅師を哀慕して大光禅師と諡(おくりな)した道号(どうごう・出家者が法名のほかに、自己の悟りの内容や願いを表現してつける名前)が復庵、法諱(ほうい・天皇などの貴人が没した後につける、仏法上の尊称)宗己(そうき)、幻住派に属する。

▶︎禅の教え 

 「延宝伝灯録』によると、師の中峰から狗子無仏性の公案をもらい、六年間工夫弁道して大悟したという。この公案は『無門関』の冒頭にある一種州狗子」という公案で、「堪州和尚、因に僧問ふ、狗子に還仏性有りや無しや、州云く、無し」とある。大乗仏教の教えでは一切衆生に仏性がある、すべてのものは仏になる性質をもっているという。そこで、大にもあるかと聞いたら越州は、案に相違してないと答えたのである。越州の答えを言葉通りにうけとったら、禅を含めた大乗仏教の根本思想に反する。これを理解するのに六年を要したわけである。

 また、大光禅師は、法雲寺へ参禅してくる僧たちに、よく「越州柏樹子」の話をしたという。これも『無門関』に収録された公案で、「越州、因みに僧問う、如何なるか足れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。」

 祖師は禅宗をはじめて中国に伝えた達磨のこと。彼が中国へ来た意味は何かと問うたのである。仏教の真理、或は禅の精神を伝えるためだ、という答えが期待される。ところが越州は「庭の前の柏の木だよ」と答えたのである。『古尊宿語録』には、このあと「事物で教えるというのではなくお願いします」というと、「私は事物では教えないよ」という。そこでもう一度同じ事を尋ねると、また 「庭の前の柏の木」と答えた、とある。この意味が分ってはじめて禅の世界に住めるのである。

※古尊宿語録四十八巻 縮蔵騰4‐6、続蔵2‐23明の永楽初年(1403)に南京で開版された大蔵経の一部として新たに編せられたもの。先にいう杭州版『古尊宿語録』二十二冊を母体として物初大観の総序をそのまま踏襲するが、『臨済録』のテキストに変動があるほか、さらに次の九家の語が新たに加わる。

■法雲寺と禅師開山の寺

 法雲寺は、前述のようにはじめ楊阜庵、ついで正受庵文和三年に大雄山法雲寺と名付けた。

天目山法雲塔院の錆に、「親々横伽上極無際 大雄善喩 著二無上義一欝乎法雲 法雲弥レ天 有レ蔭斯酒 協二千皇風一永填二終古

とあるところからとったという。

※法雲寺(ほううんじ)は、茨城県土浦市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は大雄山。本尊は釈迦如来。城郭造りの境内で知られ、国指定重要文化財や県指定文化財が数多く残されている。

 正受庵が法雲寺になったといっても、室町時代の禁制や寄進状に 「法雲寺井正受庵」とあるから、正受庵も塔頭として残されたのであろう。五山十刹に次ぐ諸山に列し、中峰派の本山であった。戦国の争乱で火災に遇い、江戸初期にはやや衰えたが、元禄二年(一六八九)に至り、東山天皇の勅願で再興、宮中参内・紫衣が許され、また将軍家の葬礼には十万石の格式で列したという。

▶︎大光禅師開山の寺

 禅師の開山した寺は 「法雲雑記便覧」 によれば、筑波の禅源寺、大村の崇源寺、上曽の龍門寺、椎尾の妙光寺、古内の清音寺、結城の華蔵寺、上総愛宕村の円照寺、会津の実相寺、三春の福聚寺、小山の長福寺、香取の東福寺、八王子の瑞雲寺と真城寺などである。禅源寺や崇源寺のようこ廃寺になったのもあるが、清音寺以下今に続く寺も多い。

 

(三春の福聚寺所蔵・玄侑宗久より・左図)

※復庵宗己は,弘安3年(1280)常陸国に生まれ,小田治久の猶子となり,延慶3年(1310)中国に渡り中峰明本(臨済宗)の法を受けました。元弘2年(1332)小田宗知の招きによって,高岡(新治郡)に揚阜庵(後に正受庵・法雲寺)を設け,林下の宗風を宣揚しました。復庵の禅風は近隣諸国に広まり,その活動と名声は朝野に名高く,延文5年(1360)に後光厳上皇から大光禅師の諡号を贈られました

▶︎法脈と法雲住持 

 「法雲雑記便覧」 にある法脈と法雲寺の住持世代を示せば次の如くである。

〔法要住持〕上図の数字が住持世代、上図以外の住持は左の通り。但し、22世以下は文禄以後となる。⑤実翁道契(上総内照寺二世)⑫雪伝祖団(大徳派下謹甫法嗣)⑦濂渓秀夫(上曽龍門寺二世)⑯玉隠英強(建長寺より)⑳貰翁宗守(師承不明)㉓大徹宗洪(雪伝法嗣)以下㉕傑曳碩成㉖乾甫昌貞 ㉗大畠嶺梵千 ⑳主山惟山(㉗㉘は遠渓の末流)

沙弥道含禁制(県指定 法雲寺文書)    沙弥禅助禁制(県指定 法雲寺文書) 

▶︎法雲寺領と寺院経営

 「復庵大光禅師略伝」によれば、寄進地は二万石に達したというが、その根本飯は高岡と田宮(たみや)である。その他の所領についてはいくつかの禁制と寄進文書によって知られるだけである。

 「沙弥道合禁制」は関東管領上杉憲方(のりかた)が、寺領下総国青息村に軍隊が侵入して乱暴狼籍(ろうぜき)することを禁じた命令書であり、同時にここが法雲寺領であること示す史料でもある。康暦二年は1380年。なお、青鳥村の禁制は翌永徳元年にも、沙弥(しゃみ)法季と沙弥禅助の名で出されている。法季は「鎌倉大草紙」にも出てくる関東管領家の重臣木戸範季であり、禅助は応永二年(1395)に関東管領になった上杉朝宗である。これらの禁制は、宇都宮基綱と小山義政の所領争いから、鎌倉公方足利氏満小山征討にのり出した事件で、兵乱を避けるため出されたとみられる。これがのちの難台山事件の原因をなす事件であつた。永徳の禁制には上幸嶋青鳥村とあるから、境町の志鳥か三和町の小堤にある小鳥谷(ことりがや)に当ると思われる。

 もう一つの「沙弥禅助禁制」は、前記の事件の時出された禁制だが、下野国押切郷が法雲寺領だったことを示す史料である。押切は小山市の西数キロの所にあり、小山氏の支配圏に入る所である。

 寄進の例としては「聖治寄進状」がある。真壁郡福田郷南方の地を大長禅師開山の妙光寺へ寄進したものだが、法雲寺に蔵してある所をみると、のちに法雲寺領化したものと思われる。

▶︎室町時代の寺領

 室町時代に入って、寄進状二通と禁制一通が残されている。その一つは応永五年の「沙弥法春寄進状」で、伊賀彦三郎季平より相続した上小沢村内の田地を寄進したものである。法春は護国院花峯法春のことで、武田信奉であろう。伊賀季平は不明だが、伊賀氏は光季が和田義盛の乱の功で佐都郡を得、南北朝時代にその大部分が佐竹氏の手に帰した。岡田郷だけは天竜寺の夢窓疎石に与えられたが、小沢の地はこの岡田に接している。光季の子に季村がおり、その子孫が季の一字を嗣いでいると考えてよかろう。

上杉清万葉制(県指定 法要寺文書)

 次の禁制は永享十二年(1440)に、関東管領上杉清方によって出されたもので、関郡水飼戸(みずかいど)郷・久下田(くげた)・稲荷荒野と伊佐郡小節木が法雲寺領であることを示している。それぞれ八千代町の水海道・久下田・瀬戸井(その小字に稲荷のつく地がいくつもある)、下館市子思議こしぎ小伏木・子不思議とも書いた)で、結城合戦の混乱を避けるため出された。

 もう一つ、小田成治の寄進状の写しがある。文明二年(1470)南野荘神立(かんだつ)郷白鳥村(現土浦市)を寄進したもので、時の住持は十三世古献聖宝であつた。

▶︎寺院経営

 法雲寺の寺院経営を示すものとして、「法雲寺荘主寮年貢目録」が残されている。これは三つの部分から成っている。

 (1)「大雄山法雲寺庄主寮年貢納目録」 

 八反内・鍛冶内・五反内・竹内・源阿弥内・芹散在・井畠分・田宮田・拝島分の順で、本年貢高と田畑の面積と現作面積、岡代・長不作免の諸引と未進分を除く納分、そして集計したものを載せる。そのあとに、年間にかかつた諸費用を列記する。嘉吉三年(一四四三)のものである。

 長不作が多く、末進も多い、耕地が不安定なのであろう。年貢が銭納であることにも注目したい。支銭(諸費用支払)には橋・池・堰・建物の修理代・夫銭(夫役代)が多く、庫院江とあるのが寺での消費分であろう。

法雲寺荘主寮年貢目録(県指定 法雲寺文書)

田宮から出土した古銭の一部(中央公民館蔵)

(2)「田宮郷」(年貢目録

 公田数・検田数・土貢(年貢)数・除田(寺社田)の次に「宿在家 内付田数」として、田積・年貢高・土地所有者(耕作者)を列記する。つづいて同様自分を記し、最後に辻屋敷分四筆を附加する。名寄帳とも年貢割付帳とも考えられるものである。長禄二年(一四五八) のものである。大規模経営、土地の移動(売買)が少く、年貢も軽い。

(3)「上乗庵外年貢目録」(仮称)

 寺僧所属の田に賦課された年貢の目録かと思われる。上乗庵・木戸 畠・高首座田・行木・高首座屋敷・揚明前の六筆一〇貫八〇〇文、延 徳元年(一四八九)のものである。

▶︎田宮出土の古銭

 昭和53年(1978)田宮字榎平の伊藤和男氏の畑から、布に入ったおびただしい古銭が出土した。辻屋敷跡といわれる所である。新治中の郷土研究クラブ員が調べた範囲では、唐銭と宋銭ばかりであった。開元通宝(六二一)が上限、紹定通宝(1228)が下限なので、鎌倉末期に埋められたものかと思われる。

 日本では和同開称(708)から元大宝(958)までの、いわゆる皇朝十二銭以来鋳銭がなかった。しかし鎌倉中期以降唐・宋銭による銭貨の流通が増加し、年貢なども銭納がふえた。田宮出土の古銭は、それが実証された点でも貴重なものである。

■法雲寺の塔頭

▶︎小田持家と金粟院

 禅宗寺院の境内に建てられた小院を塔頭(たっちゅう)という。     法雲寺境内にいくつもの塔頭があつたが、金粟院(こんぞくいん)は小田持家遁世の場所である。持家の法諡(ほうし・ おくり名をつける方法。死者に死後の名称をつけるやり方)を金粟院殿永昌桂林大禅定門という。

 持家は禅秀の乱では父と分れて鎌倉公方持氏を授け、永享年間(1429−40)の長倉討伐や結城には攻撃軍に加わったが、享徳四年(一四五五)の小栗城攻撃の時には、陣中朝久病死したため、兵をまとめて帰国してしまったと伝えられる。その後、長禄三年(一四五九)の信太荘の戦では、佐竹・土岐原氏らと幕府・堀越公方側につき、古河公方成氏の軍と戦ったが、敗れたばかりか治部少輔・上総介の二子とも失い、そのため遁世してしまったという。その隠棲の地がここ金粟院なのであった。

▶︎朝久と永興院

 前述のように小栗陣中で没し、小野善光寺又は永興院に葬ったという。

 法諡永興院殿閑雲道昌大禅定門。法雲寺開山堂のうしろに五輪塔二基があり、一基は朝久の墓とされ、花崗岩製で高さが1.6mある。室町末期の特色をよく表わした塔である。なお、もう一基は政治のものといわれる。

▶︎治孝と徳政庵

 朝久の子成治(しげはる)には治孝・顕家の二子があった。転家は北条氏の養子となり、小鬼の館に住んでいた。明応五年(一四九六)植木の松のことで喧嘩となり、顕家は小泉館で兄を殺し、間もなく治孝の家臣に殺されてしまったと伝えられている。しかし、小田・北条の関係は以前から悪かった。大掾慶幹(よしもと)が園部氏や北条氏と結束を図ったので、成治は明応三年に慶幹の府中城(石岡市)を攻めている。また、顕家が殺されたのも数年後で、彼らの弟に当る政治との戦いによるものと思われる。「真壁文書」に政治の書簡があり、それに顕家が攻めてくるといぅ噂をのせ、老父成治太田(八郷町)に移す旨のことが書かれてあるからである。治孝の死も単純な諍(いさか)いによるものではなく、小田・北条の勢力争いを背景に考えなければならない。

雲巌寺(栃木県繋羽町)大虫禅師の碑(雲巌寺)

 治孝の法諡徳林庵(徳林院)殿日東道舜大禅定門、徳隣庵に葬らゎた。徳隣は徳林とも書く。

▶︎政治と巣月院

 政治は小田氏の版図を、八田知家以来最大に広げた人であるが、その治績(ちせき・政治上の功績)は第六章の戦国時代の小田氏でふれることにする政治の建てた塔頭が巣月院である。政治の法諡は、巣月院殿州山長伊大禅定門、ここに葬られたとも、太田の善光寺に葬られたともいわれる。

▶︎大虫禅師

 この巣月院の出身で、戦国時代に活躍した禅僧に大虫宗今がいる。下野の巨利雲巌寺が衰えたのを再興し、中興の祖とたたえられた。この寺は、鎌倉時代に高峯顕日(仏国国師)が開山した寺で、九州の南浦紹明(大応国師)と東西の二甘露門、上野長楽寺の月船環海とは束方の二甘露門と称され、臨済禅の伝播に中心的役割を果した。この寺を再興し、妙心寺派下にくり入れたのである。上の写真は、雲巌寺と開山中興大虫禅師の碑である。

※大虫宗岑(だいちゅう そうしん・1512-1599 戦国-織豊時代の僧)。永正(えいしょう)9年生まれ。臨済(りんざい)宗。江南殊栄の法をつぎ,下総(しもうさ)大竜寺(千葉県)の住持となる。のち常陸(ひたち)(茨城県)小田の巣月院,会津(あいづ)(福島県)興徳寺,鹿島(茨城県)根本寺などの住持をつとめ,北関東の五山派の寺のおおくを妙心寺派に帰属させた。慶長4年5月4日死去。88歳。

 「大虫禅師行録」は彼を小田の生れとするが、江戸崎の土岐氏の一族でもある。巣月院から足利学校で学び、法雲寺に戻り、駿河・京・伊勢などで妙心寺派の教えをうけ、永禄元年(1558)下総大竜寺の住持となった。ついで、巣月院・岩城神長寺・宍倉呆泰寺・会津興徳寺・下総大竜寺(再任)・鹿島根本寺などに任し、天正六年(一五七八)雲巌寺を再興、慶長元年(1569)近くの光厳寺に移り、同四年ここで没した。この間、関東に妙心寺派を広めた意義は大きい。

■向上庵と尼聖祐(あましょうゆう)

 向上庵の山号は翠巌山。「法雲雑記便覧」によると、小田治久が暦応年間(1338~42)に創建したという。寺島文一郎「小田氏系譜」には「治久の娘が病により出家し小野村に住んで小野尼と号す、尼聖祐はこの人か、宍戸安芸守知時の室か、貞和五年(1349)小野向上庵創立」とある。法雲寺と離れてはいるが、子院と考えられる。

 庭にあるしだれ桜は、周囲3.1メートル、樹高約10メートル、地上3メートルの所で樹幹が二またに分れ、枝が四方に広がって枝張一五メートル、樹齢百数十年と推定される見事な老木で、県指定の天然記念物となっている。

県指定 向上魔のしだれ桜(小野)

▶︎尼聖祐

 「法雲寺文書」に尼聖祐の書状がある。寄進状ともいわれるが、正確には副状であろう。漢字を入れて読み下せば、

 「小鶴の寄進状したため侯て参らせ侯。勝村ふるき人にて侯程に、わあき ざと書かせて候。故安芸の入道殿、世乱れ候てはことに罪ふかかるどぽ べき事のみ供し程に、追善のために殊更此所を寄進申候。永代御菩提をも御弔らひ侯はば、悦(よろこ)び入り参らせ候。猶々(なおなお)子々孫々違乱ある。まじく候。此由を申候ひ給へ。

 貞和五年(一三四九)七月二十九日(不明)口□(尚々か)(不明)法雲寺方丈口芳御房申候給へ」

 小鶴荘は涸沼川流域に成立した九条家領で、聖徳太子御廟料所として管掌された荘園らしい。在地領主である地頭は、八田知家の子家政の子孫がうけついだ。その所領の一部を、宍戸安芸守知時妻聖祐が、夫の冥福を祈って寺に寄進したのである。別に何処の田何段と書いた寄進状があり、これはそれに副えた書状である。法雲寺住職へよろしくと追伸しているので、寄進先は法雲寺ではなく、或は向上庵ではないかと思われる。山ノ庄と宍戸氏の関係は浅からず、永享七年(1435)の奥付をもつ鹿島大祝氏(おおはふり)蔵「富有(ふゆう)注文」には、山ノ庄本郷の地頭として、宍戸備前守と宍戸中務丞の名が記されている。備前守は知時の子孫の持朝である。中務丞(なかつかさのじょう)はその兄弟か叔父あたりと思われるが、こうした関係が生じた蔭には、向上庵と聖祐の介在が推測されそうである。なお、知時は南北朝争乱の時足利方にあって活躍した宍戸朝里(ともさと)の父に当る。