日本の前期古墳

■土浦市博物館/館長講座 2019.2.17(日) PM2:00~

■テーマ「日本の前期古墳」

■録音-1(23分)

■録音-2(16分)

■録音-3(24分)

■録音-4(11分)

■録音-5(2分)

■録音-6(5分)

■岡山県湯迫車塚古墳と京都府椿井大塚山古墳 

▶︎古墳とは

 土を高くもった古代の墓を意味する語。高塚ともいう。一般的な意味で古墳と呼ぶ墳墓は、世界各地において、国家統一の初期につくられている。日本では弥生時代に続く時代を、盛んに古墳が作られたことによって、古墳時代とよんでいる。弥生時代の墓や奈良時代以降の土葬墓・火葬墓はふつう古墳とはいわない。もっとも盛土の代わりに石を積み上げた積石塚の類は古墳の中に入れている。

 

 日本の古墳は盛土の外形から言えば、前方後円墳・円墳・方墳・前方後方墳等に大別される。しかし前方後円墳の特殊な形式として双方中円墳・帆立貝式古墳・上円下方墳等がある。埋葬は土中に坑(こう・あな)を穿(うが・穴を掘る)って行う場合と、地表に棺を置いて土で覆う場合がある。普通室は構造の材料によって。木槨(きかく・ひつぎ・木室)・塼槨(せんかく・墳墓)・石室などと呼び、構造によって竪穴式と横穴式がある。(小林行雄)

○古墳時代

 此の時代は3世紀末から7世紀亘るが、7世紀には仏教文化が社会の上層部に広がってくるので、古墳時代という観点から一面的にとらえることは不適当である。これを細分する場合に前期を4世紀、中期を5世紀、後期を6世紀にそれぞれ中心をおくことが出来る。

○古墳の発生

①  弥生時代の簡単な構造の墓が、しだいに複雑化し規模を大きくすることによって、古墳としての形式を備えるに至った。

②  古墳が一般農民のものではなく、豪族のみの墓であるという観点から、豪族の発生に原因を求めようとする。すなわち、共同体における司祭者的首長が、その地位の固定と権力の増大とによって首長権の世襲にむかって一歩をふみだしたときに、古墳をつくる豪族が発生したと考える。日本が30の小国にわかれ、みなそのうちの1国たる邪馬台国の女王卑弥呼の宗教的威力に服していたと、『魂志倭人伝』に伝える3世紀の状態は、おそらく古墳時代直前の段階にあったものであろう。1世紀ごろ輸入された漢鏡などが神宝的器物として首長の間に伝世されていたし、3世紀中葉にあたらしく、魂の鏡も尊重されていた。

○古墳時代前期

 この時期には首長はまだの司祭者としての性格を完全に脱却していなかったようである。副葬品から判断すると、実用的な武器や装身具のほかに、鏡や碧玉製腕飾類や特殊な碧玉製品などの宗教的呪術的な用途をもった器物を多く所持していた。鏡が宝器としてのとりあつかいを受けた事は、古く輸入された中国鏡が数世紀にわたって伝世されていたことからも察せられるが、畿内に中心をもつ魂の鏡の配布がある程度まで終了したのちには、中国鏡のみでなく、それらを参考にして作りはじめた彷製鏡(中国鏡を模倣してつくられた)も、豪族たちの所有品に加えられた。(小林)

○三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)

 半肉刻の神獣を主文とする1群の鏡の、縁が突出してその断面が三角形を呈するものを、わが国の研究者は特に三角縁神獣鏡と呼んでいる。直径20cmをこえる大型品が多く、内区より一段高い外区には複線渡文帯をはさんだ二つの鋸歯文帯がすべてに存在する。

 内区の神獣文は、配列や神獣の数量・形態に変化があって一様ではない。・‥(略)‥紀年銘鏡は少ないが「正始元年(240)」景初三年(239)」等が知られる。わが国の出土鏡中で最高の舶載鏡だけで300面を超えている。(樋口)

※舶載鏡(はくさいきょう)日本で出土する鏡のうち,中国で製作され日本に伝来したものをいう。弥生時代には精白鏡や明光鏡などの前漢の鏡,四神鏡や内行花文鏡などの漢中期から後漢の鏡があり,古墳時代には神獣鏡や画像鏡など三国・六朝時代の鏡が多数発見されている。

▶︎湯迫車塚古墳(岡山市湯迫〜四御神)

 丘陵の高所(標高138m)の尾根を了(了解)して構築された、北西に面する前方後方墳で[全長約48m、前方部最大幅約25m、後方部はやや台形を呈し幅は約24,5m、短辺23m、長さ約24m]である。

 

前方部前面が開く特徴を有する。昭和31年後方部が盗掘され長さ5mの竪穴式石室が発見された。内部から鏡13面・鉄刀1・剣1・槍1・銑鉄7・鉄斧1・短冊形鉄斧1等が発見された。鏡は全て中国鏡で、伝世内行花文鏡画文帯神獣鏡ほかは11面が三角縁神獣鏡であった。(鎌木)

   

 1967年と1968年に鎌木義昌と近藤義郎等によって発掘調査が実施され、墳丘に葺石状列石が上下二段に葺かれ、後方部及び前方部の前半部には斜面に葺かれた葺石が確認された。この調査によって既に発見されていた石室は墳丘主軸に直交することが確認され、他山の岩盤を一部掘りわって構築されていた。[石室は内法長5,9m、幅約1,3m、高さ1,5m]に規模で割り石を持ち送って積まれ、控え積も十分に行い、天井石は8枚である事が証明された。床面には割竹型木棺が安置されたと想定される粘土床存在した。再調査の際に石室内から鏡片・鉄錬・鉄剣・鉄刀・鉄棒・鈍・敏片等が採集された。

 

 また石室の天井石上部から大小の角礫と共に土師器片が検出された。石室の周囲土壌の壁面上部には石塁が70度の傾斜で築かれていた。

鎌木義昌「岡山市域の古墳時代遺跡」『岡山市史』1962.鎌木・近藤義郎「備前車塚古墳」『考古学研究』14−41968。

▶︎椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川市山城町椿井)

 木津川に突出する尾根を利用して構築された西面する前方後円墳。その規模は[全長約185m、後円部雀約75m、前方部先端幅約72m、高さ後円部約10m、前方部約5m等]を推定する。国鉄奈良線が開通する際に後円部が横断され、昭和28年後円部から線路の拡幅工事中に偶然竪穴式石室が発見され、[内法長さ4,9m、幅−1,字m、高さ3m]の石室内から[鏡・短甲・素環頭太刀・刀剣・槍・鉄石突・鉄鏃・銅鏃・刀子・鉄斧・鉄鎌・鉇(ほこ)・鑿・銛(すき)・釣針等]が発見された。鏡は36面以上あり全て舶載鏡である。その中、内行花文鏡2・方格規矩鏡1・画文帯神獣鏡1面以外は32面以上が三角縁神獣鏡である。(樋口)

 昭和45年(1970)近藤義郎によって後円部頂と石室付近が発掘調査され、墳頂部から少量の土師器片が採集された。更に円部裾部石垣状の施設を確認した。

 更に1992年以降山城町教育委員会により墳丘の調査が実施され、[後門部径約110m、高さ約20m、前方部長80m、幅約70m、高さ約10m]と推定された。(小林三郎)

樋口隆康「山城国相楽郡椿井村大塚山古墳調査概報」『史林』36−31950。 

梅原末治『椿井大塚山古墳』京都府文化財調査報告第23冊1964。

京都大学文学部考古学研究室編『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』京都大学文学部博物館1989。

22図 車塚古墳実測図(『岡山市史』より)