第1編・文明の発生と国家登場

■第1編・文明の発生と国家登場

(アジア三国史のアニメーション)

▶︎概 観

 新石器時代が始まった頃から、灤河(らんが)大陵河(テルンハ)遼河(ヨハ)流域は、東夷(トンイ)のさまざまな部族が生活していた中心地であった。

 これらの部族は紀元前6〜5000年頃には櫛目文土器を作って使用し、紀元前3500年頃になると大きな神殿と祭壇を建て、女神を崇拝し、死んだ者のために標石塚を築くなど、黄河流域の華夏族と明確に区別される独自の文化を発展させた東夷文化圏万里の長城付近から満州、沿海州をへて、韓半島および日本南部にいたる広い地域に広がった。

※東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)

 後期新石器文化を土台にして政治社会を発展させた東夷族は、その文化圏の中心部である大陵河・遼河流域で紀元前2300年頃に国家を建設して、国号を朝鮮とした。檀君(タングン)は朝鮮の君主の呼び名である。遼河文明が発見されることで、その実態がさらに確実となった。しかし、文献資料がもともと少ない上に、見るべきものもなく、関連する考古遺物が韓半島ではなく中国に分するという理由から、この時期の古い朝鮮の歴史を明らかにすることは現時点で難しい状況にある。

 

 朝鮮青銅器の製作技術を習得して広い地域に政治的影響力を及ぼす広域国家として発展した朝鮮の琵琶形銅剣は当時の最高水準の武器であった。しかし、朝鮮は鉄器文化に移行する中国の変化に適切に対応することができないまま、時代の流れに後れを取ってしまった。中国の商・周交替期、朝鮮の支配勢力は太陽の息子と称して神政を展開した檀君を追い出し、新しい首長を箕子 (キジャ)と呼び、合議政治を行うなど、大々的な改革を図った。

 

 しかし、鉄器にょり重武装した周の軍隊に敗北して、勢力の基盤を失なってしまった。これにより、多くの朝鮮人はアイデンティティを失い、中国の燕・斉・超地に散らばった。勢力が大きく縮小した箕子朝鮮 (キジャチェソン)の中心勢力は国力を回復し、一時期、燕と対等になるほど成長したものの、紀元前194年に衛満(ウィマン)に政権を奪われ、東側に追われ国名を辰(ジン)国に変えた

 衛満の朝鮮は孫の代まで続いたが、紀元前108年に漢に滅ぼされ、漢はこの地域に郡県を置いて直接統治した。漢に追い出された辰国の支配勢力の多くは韓半島南部に移動し、一部がその地にとどまった。そのため、辰国は政治的求心力を失い、実質的に瓦解して小国に分立した。そのなかで南に下った勢力は、78の小国を形成した。これらの国々は3つの韓に分かれ、辰国体制の連盟関係をしばらく維持していた。

■琵琶形銅剣文化圏から古朝鮮が建国する

▶︎青銅器文化

 新石器時代の人々は、土器を火で焼く過程で、加熱すると熱で溶ける金属を出す石があることを知った。最初に取り出した金属は銅であった。しかし、銅は柔らかく、道具をつくる材料には適さなかった。人類が銅に錫を混ぜて比較的硬い物質、すなわち青銅をはじめて手に入れたのは紀元前3700年頃であった。

 青銅は簡単に人手できない貴重な金属であった。銅と錫をそれぞれ抽出した後、混ぜて青銅をつくる技術を体得することも難しかったが露天で得られる鉱石も少ないからであった。したがって、青銅は主に装身具や祭器、武器などをつくる程度であり、農具には依然として石器を使用した。青銅器の大部分は戦いに勝った集団が独占し、服属した集団の首長には少しだけ分け与えられた。青銅器文化の最も大きな特徴は、支配者の文化ということであった。

▶︎琵琶形銅剣文化圏

 青銅器文化を代表する遺物は銅剣である。櫛目文土器を使用した人々は、紀元前2500年頃に青銅器を製作できるようになり、周辺地域とは異なる独自の青銅器文化をつくり出した。彼らは、特に琵琶形銅剣を使用したが、刀身部を琵琶のように幅広くつくり破壊力を大きくしただけでなく、刀身に直接持つ部分(柄)をつけずに軸(茎)をつけ、必要に応じてその軸に短い柄をつけて剣として使うだけでなく、長い柄をつけて槍としても使えるようにした点、刀身の両面に1つもしくは2つの脹らみをつくって刀の強固性と機能性を高めた点などにおいて、極めて優れた武器であったこ今まで発見された最も古い時期の琶形銅剣は、紀元前1000年頃のものであるが、これよりかなり前から使用していたと推測される。

 青銅はつくることが難しいため、青銅器を持つ者と持たない者の間に明確な区別ができた。ここに私有の観念が生まれ、身分と階級が形成され、従来の共同体関係が崩れた。青銅器の武器をより多く確保するために他の集団を征服したので、勝利した集団と敗北した集団の間では支配と服従の新たな関係が成立し、集団内では力関係によって序列が生まれるようになった。

 支配集団は、服従した集団にそれまでの支配秩序を保護する代わりに、貢納を要求した。そうして、体系的に支配するために官僚や軍事体系が整備され、納税の制度がつくられた。これによって、国家が形成され統治体制ができていった。

※『呂氏春秋』「蕩兵」では、蚩尤は兵(兵器)を発明した元祖であると人々は言うが蚩尤は活用をしただけであり、それ以前から木などをつかった武器(械)は存在していた、と説かれている。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。『管子』でも金属を用いて剣・鎧・矛・戟などを蚩尤がつくりだしたと記されているが、ここでは蚩尤が黄帝の権臣として登場しており、両者の関係性がまったく異なっている。

 

▶︎蚩尤(チウ)

 『史記』によると、黄帯の時代に蚩尤という人物がいた。蚩尤(チウ)大陵河流域濊貊(わいはく)族社会を率いた大首長であったと思われる‥当時、濊貊族社会には大小さまぎまな集団ができていて、小さな集団の首長は大集団の首長を兄と呼んだ。蚩尤には81人の兄弟がいたとする中国の歴史書もあるが、それは大集団の首長が兄弟のような秩序によって連合体を構成していたことを伝える内容である。しかし、蚩尤(チウ)が率いた濊貊族社会は、黄河流域に生活していた中国の華夏族集団との対決に負け、求心力を突いばらばらになってしまった。

濊貊(わいはく、かいはくは、中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて、北西から南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族 (紀元前75年頃)

 

81人の兄弟 兄弟のような秩序を持った濊貊族の社会の構成形態は、後に高句麗にまでそのまま継承され、小兄、大兄、太大兄のような官職として残った。

▶︎桓雄と弘益人間

※多文化共生」という掛け声は、韓国では大変盛んです。これを以て「日本より韓国の方がグローバルだ」と主張する人も少なくないぐらいです。これもまた「ナムをウリに入れてやる」という「弘益人間」の理念に基づいたものでしょう。

 蚩尤(チウ)の後、ばらばらになった濊貊(わいはく)族社会を再び結集させたのは、天帝の息子を自称していた桓雄(ファヌン)であった。桓雄は、広く人間を有益にするという弘益人間の政治理念にもとづいて、風(空気)、雨(水)、雲(雷)を、それぞれ勢力の象徴としている大きな集団を中心にさまざまな勢力を統合した。弘益人間は、まさに天にある数多くの星が互いに闘わずに共存して夜空に美しい刺繍を縫っているように、私たちすべても互いに調和を保ち平和に生きていこうという理念である。そのため、彼らは、太陽と月、そして北極星を中心に天を回る北極五星と北斗七星などの星を自分の集団を象徴する星として互いに連帯し、天と同様に地上においても、みんなの利益となる平和の秩序を実現するために力を尽くし。このような思想と理念は、三国時代まで継承され、高句麗(コグリョ)古墳の天井壁画の日月星辰図を残した。

 

▶︎檀君王倹の朝鮮建国

東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)。 「夷」という漢字は「大」(人の象形)と「弓」(「己」、縄の象形)と書いて、好戦 … 後に徐夷(じょい)が王位を僭称し、九夷を率いて宗主国である周を撃つべく、西の河(黄河)にまで迫って来た。

 太陽に仕える桓雄(ファヌン)集団は、熊を崇拝する東夷族の異なる集団と婚姻を通じて同盟関係を結び、周辺の村落を統合してさらに勢力を広げた。生産力の発展によって、社会が分化し、階級秩序がつくられたこ大きな勢力に発展した集団が9つほどあり、周辺の他の民族は彼らを九夷と呼んだ。九夷には兄弟のような序列はあったが、互いに対等な立場で大連盟を形成した。

 隣の黄河流域で華夏族が国家的体系を持った大きな勢力に成長すると、この勢力から自らを守る必要を感じた九夷の首長は、紀元前2300年頃に集まり九夷のなかで最も有力だった桓雄集団の首長を檀君主倹(タングンウォンゴム)すなわち神政を行う王に推戴し、正式に国を建て朝鮮と呼んだ。檀君は日の王として桓堆の志を代々受け継ぎ、弘益人間の理念に立脚して国を治めた。檀君の朝鮮を昔から古朝鮮(コチョン)と呼ぶ。

 

■古朝鮮の文化が発展する

▶︎古朝鮮の文化

 古朝鮮の人々は、天の下の世界が地、風、水、火の4元素によって成り立っていると信じていた。そのため、地の上でおこる世の中のことを、生命と疾病、農事と食物、善悪と刑罰の3種類の分野に大きく分けて風伯、雨師、雲師にそれぞれ担当させた。さらに、天体の動きを観察して時間と天気を予知するなど、すでに天文にもたけていた。360余日で成りたっている1年を同期として、人間のすることは毎日別に決められていると考えるほど科学的であり勤勉な風俗と文化を持っていた。そして、ニンクとヨモギなどの植物を薬として利用できることを知っていど、医薬学的な知識にも広く通じていた。

▶︎古朝鮮の社会

 古朝鮮の人々は天を崇拝し、太陽は天を支配する天帝と考え、檀君を天帝の息子と信じた。北極星をはじめとする多くの星天帝の息子と臣下であった。そのため、大きな勢力になった集団は、北極五星と北斗七星の各星を自分の集団を象徴する星とみなし、檀君王倹(タングンウォンゴム)の影傾歴代の先祖.とともに祭祀をとり行った。

 

 古朝鮮では、成熟した青銅器文化の段階に入ってからも、農作業では石器を利用していたが、社会が安定するにつれて農業技術が大いに発展した。古朝鮮の王は、支配勢力全体を代表し、統治する権力を持ったが、同時に天帝の息子として、農作業に適するように天候を調和させ、百姓が食べていけるようにする義務があった。王は祭壇を建てて農業の神に祭祀をとり行う一方、凶年に備えて穀物を貯蔵できるように土器を大量につくり広く普及させた。

▶︎古朝鮮社会の変動

箕子(キジャきし) 古朝鮮は、檀君朝鮮から箕子朝鮮に継承されたと伝えられる。箕子に対してはさまざまな説があるが、居西干の異なる表記と見ることが妥当だと思われる。居西干は古朝鮮に属するさまざまな小ヨの王、すなわち干たちがすべて集まり合議して共立した′干たちの首長′を指す用語であった。つまり、箕子は特定の者の名前ではなく、檀君に引き続き登場し、合議体制によつて朝鮮を率いる新しい性格の王を自称した一般名詞である。

 紀元前11世紀中国の商から周への交替期は、東アジアの文化基盤が青銅器から鉄器に変わった時期にあたる。この頃、古朝鮮でも文化の変化に対応して政権が替わった。祭政一致の神政的な檀君体制限界を見せたためである。そこで、最大勢力の首長を新しい主として推戴したが、それが子(きじゃ・きし)である。箕子は各地域の首長の合意を得て、朝鮮社会を統治した。箕子は政権を握った後、8項目からなる掟をつくり、古朝鮮社会を安定させたと伝わっている。一方、檀君(たんぐん)を推戴していた桓雄(ファヌン)集団は、このような決定に従わず、東に移動して夫余(ブヨ)を建てた。

 箕子朝鮮では次第に鉄器文化が普及し、鉄製の農機具を使い農業を始めた。これによって生産力が大きく高まり文物が発展した。生産が増えると、中央に租税を納めても余るようになり、各地には軍事力を持って新しく台頭する勢力もあらわれた。春秋戦国時代と同じ分立的な様相は、単に中国だけでおこったのではなかった。箕子朝鮮でも数多くの国が生まれ、互いに競争したり協力したりして発展した。

※箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[1] – 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家。古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに具体的な記述があり、考古学的発見からは、箕の姓を持つ人々が殷朝から周朝にかけて中国北部に住んでおり、殷朝から周朝への時代変化とともに満州、朝鮮へと移住した可能性が指摘されている

▶︎衛満朝鮮

衛満(ウィマン・えい まん) 衛満は燕王である廬綰(ろわん)の副将であった。廬綰が謀反を計画して発覚して匂奴に逃げたが、衛満は朝鮮に亡命してきたと伝えられている。ところで彼が来た時、東夷の服を着て、ぎっと髪を結い上げていたが、国を占領した後も国名を以前と同じ朝鮮としたことなどから推測すると、もともと彼は燕地域に残留して生活していた朝鮮遺民の子孫であったと考えられる。

 中国の春秋戦国時代に、北方の諸侯国が発達した鉄器文化を土台に勢力を広げると、朝鮮の多くの小国が征服され吸収された。これによって箕子朝鮮は大幅に縮小し、その中心勢力も東に追いやられて遼河を越えた。そして、紀元前2世紀はじめには、準王が衛満(えいまん)に国を奪われてしまった。衛満はもともと東夷族の出身であり、生活していた地域が燕(エン)に編入されると燕の将軍として活躍したが、その時朝鮮に亡命したのである。

 

 朝鮮の中心部を手に入れた衛満は、中国との貿易を独占して利益をあげ、これを基盤にして権力を強化したこ 周の政治体制を導入して独自性を持っていた小諸国の王をそれぞれ相(サン)に編成して、中央集権的な国家体制の構築を図った。しかし、多くの小国勢力が衛満の統治を受け入れず、衛満に服属していた勢力も時が経つにつれ離脱するようになった。箕子朝鮮の中心勢力は、衛満に服属せずに東部地域に移り住み、辰国と称して衛満朝鮮との往来を絶った。

 このように朝鮮社会のなかでさまぎまな利害関係が絡み合い、社会関係が複雑になっていくと、自己の集団の利益を何よりも重視する風潮が広がった。

 主張が通らなければ集団を率いて国を離れていく支配勢力もあらわれた。こうした分裂の様相は、が侵入してきた時、これを効果的に防ぐことができずに自滅する道をたどる決定的な原因にもなった。

▶︎辰国

 箕子(きし)朝鮮に属するさまぎまな小国の支配勢力は、各自が一定の星を自己の集団の象徴とする慣習があり、彼らが樹立した朝鮮を他の名前で「星たちの国」すなわち辰国とも呼んだ。多くの小国が地域ごとに辰韓(じんはん)、馬韓(ばはん)、弁韓(びょんはん)の三韓としてまとまり、三韓全体を辰国と称し、三韓のなかで最も大きな勢力を保っていた辰韓から、辰国すなわち三韓全体の主である辰王(箕子)を推戴する仕組みであった。衛満に国の中心部を奪われて東に追いやられた箕子朝鮮の人々は、自分の国を辰国と呼んで衛満の朝鮮と区分した。

 

 衛満によって最も大きな打撃を受けた勢力は、国の中心部を占めていた辰韓であったが、弁韓も同じように勢力を削られた。辰国は名目だけは維持していたが、辰韓および弁韓の支配層の一部生きる道を探してばらばらに離れてしまい馬韓の土地に移住した。一方、反面、箕子朝鮮の最後の王となった準王は、国を衛満に奪われて勢力と地位をすべて失い、側近を率いて馬韓の地に入り自ら韓王と称したが、長くは続かず孫の代で終わってしまった

▶︎辰国と三韓

 「後漢書』では三韓はすべて辰国を起源とし、辰王は三尊全体の王として記録していた。これは辰韓を昔の辰国であるとする『三国志』の記述とは異なる内容であり、その信頼性について論争があったが、最近では「後漢書』の信頼性が高いという見解が有力になった。つまり、後期の箕子朝鮮を辰国と呼び、辰国を形成した3つの連合体に属した小国の一部が個別的に南下して韓半島南部で三韓をつくりあげたということである。

■衛満朝鮮が中国勢力に倒される

▶︎漢帝国の侵略

 漢の武帝は、シルクロードを開拓して北方の旬奴勢力を遠ざけ、経済発展のきっかけをつくった後、衛満朝鮮が行っていた中継貿易の利益に注目した。漢の武帝は紀元前109年に陸軍5万と水軍7千を動員して衛満朝鮮を攻撃した。朝鮮では鉄器時代に入ってからも鉄を主に農具をつくるために使っており、鉄製の武器の開発は多少おろそかになっていた。その弱点を狙った武帝が、全面攻撃に出たのであった。

▶︎古朝鮮社会の崩壊

 当時、朝鮮の王は衛満の孫である右渠王であった。はじめはの大軍に対抗してよく持ちこたえたが、戦争が1年あまり続くと和平を望む支配勢力の離脱や裏切りがあり、ついに王は殺害されてしまった。そのため、大臣であった成己が城内の人々を励ましながら抗戦したが、敵を撃退することはできず、紀元前108年王倹城は陥落して衛満朝鮮が滅んだ。衛満朝鮮の滅亡は、隣国の辰国にも大きな打撃を与え、朝鮮社会全般を揺るがし、崩壊のきっかけになった。

▶︎漢都県の設置

 漢は衛満朝鮮を滅亡させた後、その領土に楽浪郡・臨屯郡・真番玄菟郡の4郡を次々と設置し、太守を任命して直接支配を行った。しかし、当初任命された太守は現地に赴任せず、実際にこれら4郡を支配したのは衛満朝鮮の主和派勢力であった。彼らは漠への降伏を主張した勢力で、漢とは良好な関係にあった。漢は彼らを媒介にして周辺の東夷勢力を統制し、中原文化を普及させて中国化をはかり、交易によって多くの利益を得た。

▶︎漢郡県の変動

 漢の郡県支配は、中国内部の情勢だけでなく、昔の朝鮮支配勢力の動向にも大きな影響を受けて実現された。土着の朝鮮遺民が中国人による直接統治に強力に反発したことによって、漢は紀元前82年に真番郡と臨屯郡をそれぞれ楽浪郡と玄菟郡に統合し、その7年後には玄菟郡を北方に移動させた。これにょって漢が設置した郡県は、実質的に楽浪郡だけが残ったが、土着勢力の反発は続き、23年には土着豪族である王調(ワンジョ)楽浪太守を殺害するという事件もおこった。王調を中心にした朝鮮遺民の抵抗運動は7年間も続いた。しかし、このような動きにもかかわらず、楽浪郡は313年に高句麗に追い払われるまで存続し、韓半島の情勢に大きな影響を与えた。

※王調は後漢の楽浪郡太守の劉憲を殺害し、大将軍・楽浪郡太守を自称した。30年(建武6年)、光武帝が王遵を派遣してこの反乱を鎮圧させようとしたが、王遵が遼東に到着すると、すでに郡三老の王閎と郡決曹史の楊邑らによって王調は殺害された後であった。この反乱を契機に後漢は、楽浪郡の地方豪族を県侯とし、一部郡県を県侯として、内政の自治を認めるようになった

■古朝鮮の道民が束・南進しいくつかの国に分立する

▶︎朝鮮遺民の移動

 衛満朝鮮が内紛によって分裂し、漢の郡県支配が始まった後、これを受け入れなかった勢力は本拠地を離れて、四方に散っていった。このような急激な社会変動は、東方の辰国の社会にも大きな影響を与えて民族の連鎖的大移動をうながしたが、大部分の勢力は南の馬韓の地に移り住んでいった。同じように、現在の黄海道一帯で生活していた馬韓の中心勢力も南に移動したこ馬韓は、弁韓と辰韓の勢力が馬韓の小国と入り乱れて、馬韓の既存の社会秩序を混乱させることを恐れるあまり、彼らを韓半島の東南部方面へと導いた

▶︎弁韓と辰韓の人々の雑居と日本列島への渡航

 韓半島の東部と南部地域は、早くから馬韓に編入された地域であり、すでに多くの人々が国家を形成して生活していた。そこに移り住んできた弁韓と辰韓の人々は、小規模な集団に分かれて、先住民が暮らしている山里に入って各地に雑居するようになった。生活に適した土地を見つけることができなかったり、居住地の確保をめぐる紛争に敗れたりした一部の勢力は、船に乗って日本の九州や山陽・山陰に渡っていくこともあった。三韓の人々の日本列島への大規模な移住はこの頃から本格化した。

漢朝歴代皇帝

•  紀元前202年–紀元前195年 劉邦
 • 紀元前11年-5年 平帝
 • 25年–57年 光武帝
 • 189年–220年 献帝

▶︎北方のさまざまな国

 古朝鮮が滅びると、多くの勢力が南方に移動したが、北方では多数の朝鮮遺民が残り、以前と同じように生活を続けていた。漢が設置した楽浪郡地域を中心として、北方には箕子朝鮮ができた時に離脱して独立した桓雄・檀君系の夫余と、玄菟郡を追い出し独自性を確保した高句麗、東北には南沃沮(オクチョ・よくそ)と北沃、そして東南には東濊(トンイェ・とうわい)あった。これらの国はそれぞれの地形、地勢、人口、産業などによって、政治的発展段階や制度、風習などに違いがあったが、互いに似通った言語を使用し、もとは同じ部族であるという歴史意識を持っていた。しかしその社会も、下戸奴僕(ぬぼく・どぼく・召使の男。下男)のようにあつかう奴隷制社会であることに変わりはなかった。

※下戸 「戸」とは律令制における課税単位のことであり、元来、最上位の大戸から、上戸、中戸、下戸と定めた上で婚礼時の酒量を決めたことから、転じて酒を良く飲む人を上戸(または大戸)、余り飲めない人を下戸と呼んだのが由来とされる。 

▶︎夫余の興亡

 桓雄(ファヌン)・檀君(タングン)系とそれに従った勢力が朝鮮を離脱して別に夫余(ブヨ)を建てたのは、中国の商・周の交替期より前のことであったこ天帝の息子である東明が夫余を建国したと伝えられているが、夫余の領域は今日の中国の東北3省にあたる広大な地域であった。

 

※殷(いん、拼音: Yīn、殷代(いんだい、拼音: Yīn dài)とも。紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)は、古代中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、拼音: Shāng)、商朝、殷商とも呼ばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)

 夫余は、古朝鮮と同じく、加と呼ばれる小国の王がそれぞれ自分の領地を治めながら、近隣の加と同盟を結んでつくった国家であったこ初期の夫余の王たちは神政を行い、日照りや洪水がおこったりして農業がうまくいかないと、その責任を取って追わjれることもあった。中央政治に参加する加では、馬加・牛加・狗加・猪加など動物の名前を帯びた官名で呼ばれ、自分の領地、以外にも貴族官僚として統治する邑落(ゆうらく)を別に分け与えられていた。これらの邑落は都から四方に伸びる道に沿って発達したので四出道と呼ばれたこそれぞれの邑落には裕福な生活をする百姓もいたが、大部分の百姓は加の下戸と同じように扱われ、農業や牧畜に従事した。

※扶余伝にも、「六畜(ろくちく)の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる。邑落には豪民がおり、下戸という奴僕がいる。諸加(馬加など)は主要四道(一種の道州制)に別け、道における大邑落の首長は数千家、下位の小邑落の首長は数百家を支配する。」とある。牛加・馬加・猪加・狗加については、
1)各部族のトーテムで、トーテム信仰に基づく部族名とするトーテム説
2)方角を意味する夫餘語に当て字しただけで動物の意味はないという方角名説
3)方角を易の八卦によって該当する動物でよんだものとする易説
4)部族ごとに飼育する家畜を分担してその家畜名で部族がよばれたという飼畜分担説

 紀元前5世紀頃、夫余全域に鉄器が普及して、の自律性が強くなり、戦争がおこると、はそれぞれ自分の国の民を率いて戦った。夫余の掟はとても厳しく、他人の物を盗んだ場合はその値段の12倍を償い、重い罪を犯したものは諸加が合意してその処罰を決めていた。諸加の社会的地位と政治的権限は強大であり、彼らが死んだ時には殉葬を行っていた。

 しかし夫余は、紀元前2世紀のはじめに衛満が箕子朝鮮の中心部を占領し、紀元前2世紀末頃に漢が衛満朝鮮を滅亡させて朝鮮を直接支配するという情勢の変化にうまく対応できなかった。夫余は衰退と回復を繰り返し、領土の南方におこった高句麗によって5世紀末に吸収されてしまった。この過程で夫余を離脱して三韓社会に流れていった勢力も少なくなかったが、その一部はさらに南下して海を越えて日本列島にまでたどりついた。

▶︎南方のさまざまな国

 韓半島の南西部には馬韓があり、東部・南部には辰韓と弁韓が互いに雑居し、馬韓の小国もいくつかあった。馬韓に属した小国は54国、辰韓と弁韓に属した小国はそれぞれ12国あり、すべて合わせると78国であったと伝えられている。三韓が北方にあった時代には辰韓が最も優勢であり、三韓全体の王である辰王を出していたが、南に移動したのちには馬韓が最も力を持ち、馬韓のなかの支国の王が辰王に推戴された。辰韓ははじめ馬韓に服属したが、紀元前1世紀の中頃に独立して新羅となったこ.弁韓は1世紀中頃に加耶として発展していく。馬韓では紀元前1世紀後半に北の漢江(ハンガン)流域百済(ペクチェ)がおこり、新しい社会変動の中心になった。

馬韓54カ国

感奚国・ 監奚卑離国・ 乾馬国・ 古臘国・ 古離国・ 古卑離国・ 古爰国・ 古誕者国・ 古蒲国・ 狗盧国・ 臼斯烏旦国・ 狗素国・ 狗奚国・ 内卑離国・ 怒藍国・ 大石索国・ 莫盧国・ 萬盧国・ 牟盧卑離国・ 牟水国・ 目支国・ 伯済国・ 辟卑離国・ 不彌国・ 不斯濆邪国・ 不雲国・ 卑離国・ 卑彌国・ 駟盧国・ 桑外国・ 小石索国・ 素謂乾国・ 速盧不斯国・ 臣濆活国・ 臣蘇塗国・ 臣雲新国・ 臣国・ 兒林国・ 如來卑離国・ 冉路国・ 優休牟涿国・ 爰襄国・ 爰池国・ 一難国・ 一離国・ 日華国・ 臨素半国・ 咨離牟盧国・ 支半国・ 支侵国・ 捷盧国・ 楚離国・ 楚山塗卑離国・ 致利鞠国

弁韓12カ国
弁韓は12国に分かれていた。魏書では弁韓と辰韓はあわせて24国あるとされるが、辰韓馬延国が重複掲載されている。

弁辰彌離彌凍国・弁辰接塗国・弁辰古資彌凍国・弁辰古淳是国・弁辰半路国・弁辰楽奴国・弁辰彌烏邪馬国・弁辰甘路国・弁辰狗邪国・弁辰走漕馬国・弁辰安邪国・弁辰瀆盧国・