第2編小国から統一国家へ

■第2編いくつかの国から統一国家へ

▶︎概 観

 遼東地方から満州(現在の中国東北地方)を経て韓半島までの広い地域に成立していたいくつかの小国連盟体は、紀元前1世紀中葉から順々に新しい古代国家に再編されていった。まず、辰韓6つの小国の支配層が新羅(シルラ)を建てた(紀元前57)。次に鴨緑江の中流地方でおこった朱蒙(チュモン・高句麗の始祖王・東明聖王前37‐前19年)が新しく高句麗の主導権をにぎって国家体制を再整備した(紀元前37)。江(ハンガン)流域(ソウルを通る川)では温祚(オンジョ・おんそ)百済をおこして馬韓の小国を再統合した(紀元前18)。一方、韓半島南部では、弁韓に属していた12の小国のうち半数が新羅に吸収された。残った小国は加椰連盟体を形成して、強力な統合王権を築くことなくそれぞれ発展していたが、6世紀になると次々に崩壊してしまった。

※弁韓 (べんかん)は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ。弁辰とも言う。

※温祚王(おんそおう、生年未詳 – 後28年)は百済の初代の王(在位: 前18年 – 後28年)。源流を扶余に求める神話を持ち、氏は扶余、または余とする。

※東明聖王(とうめいせいおう、トンミョンソンワン)は、高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年 – 紀元前19年)であり、東明王、都慕王とも呼ばれる。姓は高、朱蒙(しゅもう、チュモン)または鄒牟(すうむ、チュモ)、衆解(しゅうかい、チュンヘ、)とされる『三国史記』高句麗本紀第六や百済本紀第六によると、黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた。扶余の7人の王子と対立し、卒本(朝鮮語版)(ジョルボン、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して高句麗を建国した。

 韓国史において7世紀後半までの三国時代は、中国の東北地方で大きな勢力を形成した漢族との戦いに敗れた後、四方に分散した東夷族のうち、満州や韓半島に移住した種族が国家をおこし、勢力を整えて漢族に対する組織的な反撃を試みた時期である。

 そのため3国の文化は劣勢だった韓民族が強大な漢族勢力に対抗して独自性を維持しながら生き残っていくための方向性を示すという性格を持っていた。3国は、小国が分立していた時代の文化的伝統を維持しようとする地方勢力をまとめて、国王中心の中央集権的な支配体制を整えていったという点では発展の方向性を同じくしていた。しかし、高句麗は強力な軍事力を百済は豊かな社会の健全性を全面に押し出した文化を発展させたという点にそれぞれ特色があった

 このうち、新羅が加耶を統合して国際的な外交活動後、社会構成員の間の信義と愛国心を重視した健全な文化を土台にして、残る2国を統合した676)。しかし、新羅の統一は先祖の活動舞台であった中国の東北地域には及ばなかったし、高句麗の遺民の大部分を受け入れられなかったとう限界があった。こうした歴史のプロセスで、靺鞨(まっかつ)女真などがしだいに韓民族から排除され、別個の民族へと分かれていった

 高句麗の旧領土には渤海(パレ・ぼっかい)がおこり、新羅とは別に発展した。渤海高句麗を受け継いだ国だったので、新羅はこれを「北国」と呼んで、南北に分かれた兄弟の国と認識していた。韓民族の統一は、高麗が渤海の遺民を受け入れ鴨緑江(おうりょくこう)流域まで領土を広げることによって、不完全ながらもある程度達成されることになった。

靺鞨(まつかつ、まっかつ)は、中国の時代に中国東北部、沿海州に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎,挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。

女真(女眞、じょしん)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。 民族の聖地を長白山とする。 10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「

■第1章・新羅・高句麗・百済・加耶

■いくつかの国が3国に統合される

▶︎新 羅

 経済力の向上によって成長した下戸をうまく統制できなくなった辰韓の小国の王たちは、互いにまとまり、1つの大きな国を建てて支配を強化することに合意した。そして紀元57年朴赫居世(パクヒョクコセ)を国王に推挙して新羅を建国した。新羅の建国に加わった辰韓の小国ははじめ6国だったが、のち12国に増えた。6国の支配層はそれぞれ「部」という政治体をつくり新羅の中央政治に参加した。新羅の支配層は六部の軍事力を統合して外敵に対する防衛力を高めるとともに、下層民に対する統治を強化した。新羅を率いた六部の支配層の一部は、地方で自分たちの治めていた小国を、それまでと同様に統治した。領土全体を郡・県に編成し、地方官を派遣して中央集権的に統治するまでにはもう少し時間が必要だった。

 

▶︎高句麗

 衛満朝鮮が滅亡したのち、移住することなくその地に留まった政治勢力は侵入してくる中国の郡県の勢力に対抗して、その影響力から逃れるために戦いを繰り広げた。こうした動きを主導した政治勢力が高句麗であった。高句麗はかつて古朝鮮を形成した小国連盟体の1つだったが、自分の領土に漢が玄菟郡を置くと、これに対抗して戦い、内部の結束を固めながら他方では中国文を受け入れて社会の発展に力を注いだ。しかし、高句麗の勢力は結局漢の郡県勢力に追われて離散してしまった。

 分裂した高句麗勢力をもう一度統合し、新しい王朝国家を再建したのはだった。朱豪(チュモン・高句麗初代王・東明聖王)は、夫余で生まれ育ち夫余南部の地域を統治してきたが、鴨緑江中流地域で旗揚げして、かつて高句麗を率いた政治集団を統合して、紀元前37年に王朝国家を建て、国号をそのまま高句麗とした。

 漢と戦争をしながら強大な軍事力をつくりあげた高句麗は、建国当初から領土拡張に力を入れ、東濊(とうわい)沃沮(よくそ)夫余などを次第に勢力下におさめて支配した。そしてついに中国郡県を追い出した

▶︎百済 

 はやくから韓半島で発展してきた馬韓は、北から南下してきた流移民の動きに絶えず苦しめられた。紀元前2紀末からは、漢に滅ぼされた衛満朝鮮の遺民がつぎつぎと韓半島南部に移住してきた。流移民の南下によって、彼らが持っていた発達した鉄器文化が伝えられたが、反面では安定した政治発展を妨げる要因にもなった。

 馬韓のいくつかの小国を統合し、新しい政治的発展の方向を示したのは温祚(オンジョ・おんそ)あった。温詐は鴨緑江流域の卒本夫余の出身であったが、この地域に高句麗がおこり発展すると、民衆とともに南下し、漢江(はんがん)流域に都を定めて紀元前18年に百済を建国した

 

 はじめ百済漢江下流の一小国に過ぎなかったが、馬韓のいくつかの小国の支配層をしだいに統合して広い領域を持つ国家に成した。

 このようにして、満州と韓半島の諸国は新羅・高句麗・百済に統合された後、統一の主導権をめざして互いに争う三国時代になった。3国は、4世紀のはじめまで互いに国境付近で衝突しながらも、それぞれが国家体制の整備に力を注ぎ、4世紀中葉からは大規模な軍事を動員した征服戦争を本格的に開始することになった。

▶︎加耶

 韓半島東南部にあった弁韓勢力は進んだ製鉄技術を持りており、質の良い鉄を生産して、楽浪や倭などとの交易によって強固を経済力を築きながら急速に発展していった。弁韓の支配勢力は、紀元前1世紀末頃、現在の慶尚南道金海にあった駕洛国を中心に加耶連盟を形成して共同の利益を追求した。

▶︎古代日本は韓半島南部を支配したのか? 

 かつて日本の一部の学者は『日本書紀』(百済)の6世紀中葉の記事に見られる「任那日本府」を、古代の日本が韓半島南部を支配をするために設置した統治機構であったと考え、広開土(クァンゲト)大王碑の辛卯年条の記事がこれを裏づける証拠であると主張した。しかし、民間の歴史学者によって構成された第2期日韓歴史共同研究委員会が2010年3月に提出した最終報告書では、いわゆる「任那日本府説」を歴史事実ではないということで、両国の学者の意見が一致したことを明らかにし、この学説を公式に破棄した。日本のヤマト勢力は韓半島南部で活動したが、「任那日本府」とう公式の機構を設置して支配したと見ることはできないのである。

※  田中俊明は、百済主導で、新羅によって滅んだ金官国の復興の話し合いを名目に、伽耶諸国の首長層を召集して、新羅ではなく百済側に付くよう説得したのが、いわゆる「任那復興会議」であり、「任那日本府」はこの会議に関連して日本書紀中に記されていると主張した。田中は「任那日本府」の実体について、「倭からの使臣」でこのような会議に参加した、または、恒常的に開催される伽耶諸国の合議体に倭の使臣も参加していた、とする見解を否定している。

田中は、大体この会議も安羅や大加耶などは消極的で、百済が懇願した結果開かれたものであり、この会議を「伽耶全体の合議体」とする解釈は大きな誤りだと主張している。会議が友好関係にある国のみの集まりという点は認めるものの、そこへの「任那日本府」(=倭の使臣)の関与は個別的な事項に限られたとした。また「任那日本府」がこのような会議に関われたのは、安羅と倭の古くからの友好関係に立脚したもので、それ以上のものではないとした。また田中は、日本書紀の記述に基づいて、倭からの使臣は倭系安羅人に統制され、安羅の意思に沿うように会議で誘導されたとも主張している

■ 3国の社会と文化が発展する

▶︎貴族中心の社会と文化

 3国を形成した小国出身の王族とその子孫は、世襲貴族として国政を掌握して、 政治・経済・社会・文化などあらゆる面で特権を持っていた。高位の官職を独占しただけでなく、与えられた土地と農民から租税を取る権利を持ち、日常生活全般を規制する身分制度を整備して下級身分の上昇を抑えた身分制度としては新羅の骨品制がよく知られている。

骨品制・・・朝鮮半島の古代国家新羅で導入されていた身分制度である。「骨」は血統や家系を意味し、すなわち骨品とは出身氏族や血統の正当さを以って品位に代える、という考え方であり、制度はこれに基づいている。新羅の王都のみにおいて導入された氏族の序列をつけるための制度で、地方では適用されていなかった。

▶︎軍事大国高句麗

 高句麗人は、はじめ山間の狭い平地で生活し、物が豊かではなかったので、常に勤倹節約する精神が身についた。また、中国の度重なる侵入を受けたので国防に力を注いだ。そのため高句麗は、早くから強い社会的な結束力をみせ、戦闘に優れていたので、中国人から恐れられた。軍事大国に成長した高句麗は、中国の侵入から韓民族を守る防波堤の役目をはたした。古墳の壁画には高句麗人の先進的で躍動的な気質がよく表れている。また、高句麗人は歌舞を楽しんだが、これは軍人中心の社会が陥りやすい硬直性を解きほぐす役割をはたした。こそれで大勢で踊る群舞を好み、組織の協同と利を重視した。

▶︎文化盛国新羅

 新羅の文化は強い主体性と健全性を持っていた。仏教を受け入れて、仏教によって国王の神聖な権威を裏づけ、さらに国家の平安と繁栄を祈る護国信仰に発展させた。戦争がおこれば僧侶も戦闘に参加して外敵を退け。また、青少年貴族を武士団である花郎徒に組織し忠孝と信義を重んじる人材に育てあげ、健全な文化を持ち続けた。

 新羅人は黄金をあつかう金属工芸技術に優れていた。王や王妃の金冠などの装身具からこれらのことが分かる。そして、建築が発達し、大規模な寺院と石塔を数多く建立した。そのなかでも高さが80メートルを超える巨大な9層木塔のある皇龍寺が有名である。

▶︎経済富国百済

 百済は3国のなかでも最も広い平野を持ち、ここから生産される豊かな産物を基盤に、中国・日本などと海上貿易を展開して経済力を蓄積して繁栄した。その文化は雄壮でありながら穏やかな性格を帯びていた〔石材を利用して木造建築のように建てた弥勒寺址石塔からは百清人の碓壮な気性を、瑞山(ソサン)磨崖三尊仏の穏やかなほほ笑みからは百済人の優しく豊かな心性をうかがうことができる。

 百済は優れた建築技術を持った国であった。新羅の皇龍寺9層木塔仏田寺3層石塔をつくったのは百済の技術者であり、日本の古代寺院や木塔のなかにも百済の建築技術の影響を受けたものが多いことが知られている

※加耶磨崖三尊仏像 「百済のほほ笑み」と呼ばれる瑞山磨崖三尊仏は清純で飾り気のない百清美の極致を示している。

▶︎交易の国

 加耶は国際的な海上交通路として有利な位置にあったので、早くから周辺諸国と交易しながら発展した。加耶人の発達した製鉄技術でつくられた鉄製甲胃や馬具、環頭大刀(環状の装飾のついた大刀)などは人気のある交易品だった。この頃、倭は加耶の土器製作技術を受け入れて、須恵器のような良質の土器を生産するようになった。一方、加耶の遺跡からは外来文化の要素を持った遺物が数多く出土している。土師器、須恵器系統の土器と碧玉製石鉱などの遺物が多く出土しており、倭との交易が活発だったことが分かる。

 加耶人は交易によって経済力を高め、豊かな生活を送りながら、楽や踊りを楽しんだ12弦の弦楽器を演奏したが、この楽器が加耶琴と呼ばれている。加耶琴は新羅に伝わり韓国の主要な伝統楽器へと発展した。加耶は、初期には金海の金官加耶を中心に発展したが、4世紀末頃にその勢力が弱まり、5世紀からは成安を中心にした安羅国や伴披国が盟主となって加耶を主導して大加耶を名乗った。

■3国が互いに争いながら統一をめざす

▶︎4世紀一百済が馬韓全体を統合する

 百済は3世紀に支配体制を整備して中央集権国家に発展した。国家組織を整備した百済は4世紀後半に積極的な領土拡張にのりだした。北部では黄海道一帯を掌握して高句麗の首都である平壌城をも攻撃し、南部では馬韓の全地域を確保した。平壌城では百済の攻撃を受けた高句麗王が戦死した。

 百済、外には加耶や東晋、倭などと緊密な外交関係を結んで高句麗を牽制した。とりわけ中国の東晋からは仏教を受け入れて保護し、仏教思想を王朝国家体制を安定されるために活用した。

▶︎5世紀・高句麗が領土を大きく拡張する

 一方、百済の攻撃で国王が戦死したことに衝撃を受けた高句麗は、学を建てて人材を育成し、律令を公布し、仏教を受け入れて社会の統合を行うなど、国家発展のための基盤を固めた。

※太学(たいがく)とは、古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関。古代の教育体系においては最高学府にあたり、官僚を養成する機関であった。

 国家組織を整備した高句麗は、4世紀末の広間土大王の時代に百済に対して反撃にでる一方、周辺諸地域へ征服戦争を開始した。広間土大王は、倭に侵入された新羅が救援を要請すると騎兵を派遣して倭軍を退け、さらに加耶に圧力を加えた。北部では夫余を統合して遼河の対岸にまで進出し、中国の東北地域の大部分を領有した。続いて即位した長寿王は、首都を国内城から平壌城に移し(427)、南進政策を積極的に推し進めた。そのために百済は漢江流域を失い、都を熊津(ウンジン・現在の公州)に移した

 

長寿王(ちょうじゅおう、394年 – 491年)は、高句麗の第20代の国王(在位:413年 – 491年)。姓は高、諱は巨連。『魏書』などには「璉」の名で現れる。先代の好太王の長子であり、409年に太子に立てられ、413年に先王の死により後を継いで即位する。

 5世紀末、高句麗は、歴史上最大に領土を広め、東アジアの強大国として威勢をふるった。しかし、高句麗は戦争を繰り返したために、政治的な不満も強まり、経済的にも負担が大きく、6世紀には国力を消耗して危機に直面するようになった。

▶︎6世紀・新羅が加耶を併合して漢江流域を占有する

 新羅は、4世紀後半に金氏が政権を握って王位を世襲して発展の転機を迎えた。5世紀には百済と同盟を結んで高句麗の攻撃に対応し、6世紀に入る頃には国家組織を中央集権的な体制に整備して飛躍的に発展した。6世紀前半、新羅は金官加耶を滅ぼして洛東江流域に進出した。6世紀中葉には漢江 (ハンガン)流域も領有し、続いて6世紀後半には加耶連盟の盟主である大加耶を征服して洛東江(らくとうこう)西岸一帯を掌握し、さらに東海岸に沿って威減興平野に進出した。

▶︎7世紀前半・高句麗が隋・唐の侵入を退ける

 6世紀末に、が長い間分裂していた中国を統一すると、高句麗は隋と東アジアの覇権をかけて正面から衝突するようになった。7世紀に入ると、隋は大規模な軍隊を動員して高句麗に侵入した(612)。この時、高句麗乙支文徳(ウルチムンドク)将軍は薩水(サルス・現在の清川江)で隋の精鋭部隊を全滅させた。その後しばらくして隋は無理な戦争による国力を消耗して滅んでしまった。

 隋が滅びた後、中国を統一した唐も、国家体制を整備するとすぐに高句麗に侵入してきた。しかし、高句麗は強大な軍事力で唐に勝利した7世紀半ばには唐の太宗が自ら大軍を率いて攻めこんだが、安市(アンシ)城の戦いで敗れて退却した(645)

▶︎7世紀後半・新羅が韓半島を統一する

 高句麗が隋・唐と熾烈な戦争を戦っている間に、百済は新羅の西方を攻撃してこれを領有した。危機に直面した新羅は、唐と軍事同盟を結んで百済を滅ぼした660)。百済が滅びると、新羅と唐の連合軍は高句麗を攻撃した。高句麗はじめ攻撃をよく防いでいたが、うえに、内部で権力闘争がおきて滅亡してしまった。(668)

 百済と高句麗を滅ぼした後、唐は新羅を討って韓半島全域を支配しようとした。そこで新羅は百済・高句麗の遺民と力を合わせて官軍を追い出すために戦った。新羅は長い戦争の末に大同江以南から官軍を完全に追い出し、韓半島の統一を成しとげた(676)

■百済と高句麗の道民が国家の復興をめざす

▶︎百済遺民の復興運動

※道琛(どうちん)・・・660年(義慈王20)新羅・唐連合軍が百済を打って滅亡させよう、百済の王族だった複信(福信)と一緒に日本にはあった王子・夫余豊(扶餘豊・ふよ ほうしょう)を迎え、近づいて王に独立国家としての面貌を備えるようにした そして、周留城(周留城:今の閑散)を根拠にして百済復興運動を展開した

 百済の支配層は潤批城が陥落した後、百済復興に立ち上がった。王族の鬼室福信(クィシルボクシン)侶の道琛(どうちん)と協力して同留城で百清の復興運動をおこし、日本に使者を送って救援を要請する一方、滞在中だった王子・夫余豊の帰還を催促した。日本の斉明天皇はすぐに救援を決意し、中大兄皇子(後の天智天皇)に北九州に行って援軍の派遣を直接指揮するよう命じた。日本は661年から3次にわたって約3万の兵を派遣して百済の復興を支援した。

 福信(ボクシン)は帰国した夫余豊を王に擁立して、任存城(イムジョンソン)で挙兵した歯常之(フクチサンジ)らと呼応していくつかの城を取こ)もどす成果をあげた)しかし、福信は内紛によって道琛(どうちん)を殺害すると、その後、自分も夫余豊(ふよ ほうしょう)に殺されてしまった夫余豊は勢力を結集して日本の援軍とともに新羅と唐の連合軍に対抗した。しかし、663年、白江(白村江)の戦いに敗れて失脚高句麗に亡命した。その後も戦い続けた者もいたが、結局、百済復興運動は失敗に終わった。

▶︎高句麗遺民の復興運動

 高句麗が滅亡した後、唐は平壌に「安東都護府」を置いて官吏(かんり・旧制度下での役人。特に、国務にたずさわり国家に対して忠実・無定量の勤務をする公法上の義務を負う者)を派遣して直接支配に乗りだした。これに対して、大兄(たいけい・兄を敬った言い方。)剣牟岑(コムモジャン)をはじめとする高句麗の遺民が各地で立ちあがり、唐に対抗した。剣牟岑(コムモジャン)漢城宝蔵王(ポジャンワン)の外孫である安勝(アンスン)を立てて復興運動をおこし、高延武(コヨンム)国内城で遺民を結集して唐軍を攻撃した。

 新羅は唐の勢力を追いだして統一するために高句麗遺民の復興運動を支援したが、唐に反撃され退却させられた。そのため、役興軍が内部で分裂し、安勝(アンスン)剣牟岑(コムモジャン)を殺害するという事件がおこった。唐はこの様に乗じて大規模な反撃を開始した。そのために北部の主要な城が陥落し、復興軍の連帯も崩れたため、安勝(アンスン)は復興軍の残った勢力を率いて新羅領にはいった。新羅はこれらの遺民を金馬渚(クマチョ・現在の益山・イクサン)に集団移住させて、安勝(アンスン)報徳国王に任命して待遇したが、高句麗の復興運動はその幕を閉じることになった。

▶︎復興運動の失敗後の遺民指導者

 任存城(イムジョンソン)で百済の復興運動を率いた黒歯常之(フクチサンジ)は、周留城が陥落すると唐に技降し、その後、唐で官職を与えられて吐蕃(チベット)や突厭(テュルク)の討伐軍に加わった。彼はこの討伐で武功をあげ、燕国公の地位にまで昇ったが、謀略で死刑になってしまった。高句麗遺民の息子である高仙芝(ユソンジ)も同じょぅな運命をたどった。高仙芝も優れた軍事戦略家として吐蕃や西域の征伐で大勝利をあげて名声を得て、右羽林軍大将軍(官職・唐名)に任命されるなどしたが結局、無実の罪で処刑された。祖国を失い唐に移り住んだ遺民のその後の人生は多くは悲惨なものであった。

 一方、高句麗の復興運動を主導した高延武(コヨンム)は、安勝(アンスン)とともに新羅に投降した。彼は新羅軍と協力して鴨緑江を越えて唐草を支援していた靺鞨(まっかつ)軍を撃破するなど、韓半島から官軍を追い出すために最前線で戦った。そして羅が安勝(アンスン)を報徳国王に奉じると、一緒に金馬渚に移住して安勝を補佐した。新羅に投降した百済・高句麗の遺民の指導者は、それぞれ自国に残った百姓を率いて羅と唐の戦争で活躍したのである。