■文化交流の歴史を正しく理解しよう
民族、国家を問わず、形は違ってもそれぞれの文化を持っている。文化を発展させるためには、昔の人々から受け継いだ伝統文化を基礎にして、これに民族的創造の知恵を加える努力を常にしかなければならない。また、異質文化を進んで受け入れて、これを消化し摂取することで、自分のものにする能力を発揮しなければならない。自分の文化だけに固執すると、発展に限界が生じたり、時には後退したり衰えたりすることにもなる。
異質な文化は、外から伝わったり内から求めたりするという2つの姿で受容される。隣接して暮らしてきた民族同士は、昔から現在まで、互いに知らをいうちに多様な姿で文化を交換しながら歴史を歩んできた。韓国と日本の国民は、これからもずっと隣接して暮らさなければならない地理的宿命にある。両国民は、国際化の動きがいっそう高まる現代世界と地球村時代の未来をともに生きていかなければならない。そのためには今までの歴史から貴重な生き方の教訓を得て、未来の歴史のパートナーとして、お互いに信頼し合う関係を築いていかなければならない。
人間は同じ所でだけ暮してきたのではなく、必要に応じて個人的に移住したり、集団的に移動して暮らしてきた。このような人間の移動は文化の伝播をともなった。すなわち、人間は彼らが持っていた技術と文化を、新たに移動した地域に伝えた。その地域の先住土着民社会は、移住民が伝えた技術と文化を受け入れ自分のものとして消化した。そして、その文化に自分の知恵を加える創造的努力を傾けて、さらに新しい発展を成しとげてきた。山を越え海の向こうに移動する人間の流れは、すでに先史時代から、私たちが想像するよりずっと多様な姿で展開されてきた。狭い海峡一つを間にして暮らしてきた日韓2国の間にも、遥かな昔から人間の移動があり、そのたびごとに文化の伝播と交流があった。
ここでその歴史を簡略ではあるが整理して、1つの項目としてまとめてみよう。これを通じて、韓国人は日本との関係がとても昔からあり、深かったことを知ることができるだろう。また、日本人は韓国をよく理解して親密に感じ、互いに助け合う心を持つようなってほしいと思う。2国の間で繰り広げられた相互交流とつながりの歴史を正しく把握し、この土台に立って互いを尊重し、真心から向かい合う国家と国民になり世界の発展に貢献できるだろう。このことが、先史時代から現在まで続いてきた親交と信頼の歴史および伝統を、正しく継承する道であるといえよう。
■原始時代、東北アジア大陸と日本列島の文化交流
■第1章・陸地と海洋を通じて文化交流が進展する
▶︎韓半島の交流史的な位置
アジア大陸と日本列島の間にある韓半島は‘文化交流の架け橋の役割’をしてきたと言われる。しかし、この言葉は歴史的に誤解を招きやすい表現である。
架け橋は人間が渡っていくだけで、その上に暮らす人はいない。韓半島には昔から韓国人が暮らしてきたし、独特の文化を発展させてきた。まさに歴史展開の舞台であった。韓半島が大陸文化を日本列島に伝える架け橋の役割を果たしてきたという表現は、ともすれば韓半島に暮らしてきた韓国人の存在とその歴史を忘れて誤った歴史認識を育むことになる。
大陸文化が韓半島に伝わると同時にただちに日本列島に伝わったわけではないということである。大陸文化は韓半島で受容された後、韓半島の主人公である韓国人によって韓国的に消化され、形を変えて韓国文化になった後に、日本列島に流れていったのである。これは大陸の文化だけでなく、韓半島に住んだ韓国人の創造的活動によってつくられた個性的な韓国文化も日本に伝わった。
▶︎ 開かれた海上の道
地質学者は1万5000年前まで、日本列島は大陸とつにつながった陸地であり、日本海(東海)は大きな湖だったという。その時代に生きた人々の文化を旧石器文化というこ今日、旧石器時代の文化遺跡は、韓半島と日本列島の各地で発掘され、旧石器人の生活を知らせてくれる。その後、地球の気候環境が変化して、地球全体の海面水位が高くなるとともに、日本列島が生まれ韓半島が形成された。
日韓両国の先祖は、彼らが住む地域の自然条件の差によって、それぞれ異なった歴史を展開するようになり、2つの民族がつくった文化にも少しずつ差が生ずるようになった。海をまたいで暮らすようになった2つの地域の間には、新石器時代になっても人間の往来が続いていた。それぞれに違う歴史的な生き方をしながら、2つの地域が分離された後にできた対馬、壱岐を介して、海流を利用しながら丸木船で往来した。この事実は両国で出土するこの時代の遺物を通じて証明されている。
■ 2.先史文化が交流して稲作を伝える
▶︎櫛目文土器と縄文土器
韓半島と日本列島が形成された後、新石器時代の歴史が開かれるとともに、韓半島では櫛目文土器文化が、日本列島では縄文土器文化が、それぞれ発達した。この時期、2つの地域の人々の主な生活基盤は、狩猟、漁持と植物採集を中心にする抹集経済から徐々に脱し、一部では農耕もはじまった。
日本の九州では、韓半島の楠目文土器が多くの場所で発掘されている。一方、韓半島の南海岸地域では、日本の縄文土器、日本産の黒曜石とそれを材料にして製作された鏃、漁具などが出土する。このような出土品を通して、2つの地域の間に往来があったことが分かる。
縄文時代前期に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けたと考えられている。同時代には他に朝鮮半島に起源があるとされる「結合式釣り針」、日本列島に起源があるとされる「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」など南朝鮮と九州に共通する文化要素が見られる。
▶︎稲作のはじまり
稲作は、紀元前2000年頃の炭化した種籾(たねもみ)が漢江の下流地域で発見されたが、一般的には中国から黄海を渡って韓半島に伝わり、それから約2世紀の後、九州の北部地域に伝わったと考えられている。日本の多くの場所でも韓半島と同じような炭化した米粒が出土し、稲の収穫器具である石包丁も発見され、稲作が行われていた事実が立証されている。稲作が東日本に伝わったのは縄文時代末期のことといわれているが、本州の西部で稲作が広く普及したのは弥生時代に入ってからのことであった。この時から米を主食とする新しい文化がはじまった。
▶︎弥生文化
稲作が東日本に普及する紀元前3世紀頃、日本では弥生時代が幕をあけた。韓半島の無文土器時代と関係する青銅製の武器類である銅剣、銅丈、銅鉾と細絞鏡のような青銅器文化と鉄器文化が伝わった。また、青銅器と鉄器の製造技術も伝わった。このような遺物は、九州と本州西部各地で発見されており、紀元前3世紀から紀元3世紀の間の弥生時代にも、両地域には文化交流が成立していたことを証明している。
■第2章・3国から日本列島に向かった人々、そして文化
■ 1.3国が‘倭’と交流する
▶︎政治生活の変化
稲作や金属器文化を受け入れた北九州では、弥生時代中期以降、各地に農業共同体が作られ、さらに農業を基礎にして農業共同体の競合が進み、各地に小規模の国家ができるようになった。青銅器や鉄器など全域器が使われるようになると、これら小国家の間では争いが激しくなり、統合が進んでいった。こうしたなかで、周りの小さな国々を支配するようになった。「倭」が登場した。倭は4世紀に入って古代国家日本に発展する政治的母体であった。(下図・3世紀頃の地図)
▶︎ヤマト政権と韓半島
日本が弥生時代(紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代)だった頃、韓半島では古朝鮮の歴史が終わり、中国の東北部と韓半島一帯にさまざまな国が生まれ、競い合う新しい歴史が展開した‥古朝鮮の道民の一部はそのまま残って彼らの土地を支配するようになった漢の郡県勢力に対抗し、一部は遠く韓半島の南部に移住してそれぞれ新しい国を建てた。これらの諸国は、鴨緑江の流域におこった高句麗と漢江の下流域におこった百済、韓半島東南部の一帯を舞台に登場した新羅の3国に統合され、3国が互いに競い合うようになった。洛東江の中・下流地域には加耶連盟が生まれたが、加耶連盟は中央集権国家として発展することなく新羅に併合された。
中国古代の歴史書には、倭の国王が中国に使臣を送って朝貢し、倭主として印綬(金印)を与えられたという記録がみえるが、これによって日本が中国と直接に文化交流を行ったわけではなかった。この時期の倭は、先進文物を韓半島から受容していたのである。
▶︎倭・ヤマト・日本
倭は古代人が日本を呼んだ呼称である。韓国人や中国人はもちろん日本人自らも国号として使用した。例えば、5世紀に倭の五王が「倭王」を自称して中国に使者を送り、上表(意見を書いた文書を、君主に奉ること)したことがあった。「倭」の漢字の訓は‘ヤマト’であり、時代によって‘邪馬台’や’大和’とも表記された。‘日本,という国号は702年に唐に使者を派遣する時にはじめて使用されたと考えられているが、『三国史記』には新羅の文武王10年(670)12月に倭国が国名を日本に変更し、太陽が昇る場所に近いことから、このように変更したと記録されている。
■ 2.日本列島に集団で移住する
▶︎韓半島の政治的激動とヤマト社会
弥生時代に続いて3世紀末から7世紀頃まで、日本では古墳時代の歴史が展開した。奈良地方のヤマトが権力を強化して律令国家に発展した時代であった。
この時期の韓半島では、王朝国家として基礎を固めた高句麗、百済、新羅の3国と南部の加耶連盟が覇権をかけて激しい戦いを展開し、それぞれ特色のある文化を発達させた。一方、ヤマト勢力が先進文化と鉄資源を獲得しようと韓半島へ進出を試み、軍事的衝突をたびたびおこした時期でもある。韓半島では長い間政治的激動期が続いたので、韓民族のなかには安全と平和を得ようと海を越えて日本に集団で移動する人々も出てきた。このような移動は韓半島の情勢と関係して3段階の波となって進展した。
▶︎日本に渡っていく移住民
韓半島から日本列島に移住した人々を、日本では’渡来人‘と表現している。渡来人は海を渡って移住してきた人という日本側の歴史用語である。彼らはたび重なる戦乱による切迫した危険や苦難を避けて韓半島から海を越えて日本列島に移住した渡航移住民であった。
5世紀中葉以降の渡航移住民は、韓半島の政治情勢の変動と関連して、数次にわたって集団で海を渡って日本列島に渡来した移住民なので、こオt以前の弥生時代に日本にやってきた移住民とは区別されている。
<前漢の五銖銭、三翼鏃、楽浪系滑石混入土器など大陸や韓半島系の遺物発見>
楽浪郡・帯方郡の漢人集団が南下して南朝鮮(辰韓、弁韓)にいたのが、五世紀初頭に韓人に追われて半島を撤退し、日本へ来たと言う。長崎県の壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土している。