第3章・統一新羅と高麗による対日外交の閉塞と民間での文化交流

■第3章・統一新羅と高麗による対日外交の閉塞と民間での文化交流

■ 1.統一新羅と日本が疎遠になるなか文化交流が展開する

▶︎統一新羅時代の日本

 260年もの統一新羅の時期(676〜935)、日本は、飛鳥時代の後半から奈良時代を 経て平安時代初期にわたる時期にあたっている。この時期、ヤマトは律令制による集権的王権国家として 発展し、天皇を中心とした「日本」へと生まれ変わった。

▼ 頻繁だった使臣の往還

 新羅は668年に日本に使節を派遣して国交を再開し、唐と戦いながら遣日本使を何度も派遣した。一方、日本も672年に王位をめぐる権力闘争を乗り越えた後、それまで5度派遣していた遣唐使を30年にわたって中断して内政に力をつくし、頻繁に遣新羅使を派遣した。これらの使節は政治的な目的を持っていたが、日本の遣新羅使には僧侶や留学生が同行しており、彼ら留学生は帰国後、日本に律令体制を成立させるのに貢献した。

遣新羅使(けんしらぎし)は、日本が新羅に派遣した使節である。特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。

▶︎貿易による文物の交流

 日本と新羅との関係は、大陸情勢の変化よって次第に疎遠になり、779年まで続いた両国の交流は途絶えてしまった‥ しかし、商人による緯清的な交流までもが断絶したわけではなかった。文物の交流は商人の貿易活動によって新羅末まで続いていた。

 当時の新羅人は活発に海外に進出し、唐の海岸都市のいろいろな場所に、新羅人の居住地である新羅坊や寺院である新羅院を建てた。唐に渡った日本の求法僧の円仁は、新羅人のさまざまな施設を利用して求法巡礼を無事に終えることができた。9世紀以降、新羅商人が博多や大事府に出入りして新羅の文物を貿易する一方で、中国と東南アジアの商品の中継貿易に携わったこ新羅商人を通じた文物交流は、王室の貴重品の収蔵庫であった東大寺の正倉院に保管されている新羅文物を通じて知ることができる。

▶︎新羅仏教の影響 

 統一新羅時代の日本との文物交流史上、注目される人物は、新羅僧の審祥(しんじょう)である。彼は571巻の程典を日本に伝え、新羅の高僧である元曉(がんぎょう)や義湘(ぎしょう)の影響を受けた華厳宗に関する経典60余種を3年間日本で講義し、日本華厳宗の宗師として活躍した。奈良時代に経典の注釈を行った99人のうち11人が新羅の学僧であり、元曉の著述が数多く筆写されて流布した事実などから、8世紀頃の日本仏教と新羅仏教の間には密接な交流があったことが分かる

円仁が日本に帰国した後、建てられた赤山禅院

■ 2.潮海と日本の交流が頻繁になる潮海王国

▶︎ 渤海王国 

 渤海は高句麗が滅びた後、高句麗の領土であった中国東北地方と沿海州および韓半島の北部を支配し、229年間君臨した国家である(698〜926)。韓半島を政治的に続一した新羅と対抗して、国内の統治に力を入れ、唐と政治的、文化的に密接な関係を維持して国力を強化し、一時は東アジアにその勢力を誇った。

 渤海の文化は高句麗の文化的遺産を安け継ぎ、唐の文化を受け入れて再編した文化であったこその文化の痕跡は、遼・金・宋・元・明・清など異民族国家によって長年統治される間に損傷し、破壊され、その実情を詳しく把握することはできないが、中国で海東盛国と呼ばれるほど水準の高い文化を築いたことを記録によって知ることができる。

▶︎ 日本との関係

 渤海は高句麗を継承した国家であり、建国当初から統一新羅と良好な関係を築けなかった。渤海は親唐政策をとり、頻繁に遣唐使を派遣する一方、日本にも30余回にわたって遣日本使を派遣して親交を結んだ。日本も新羅に対する牽制策の一環として15回の遣渤海使を派遣した。唐との関係は政治的な目的だけでなく文化交流を重視していたが、日本との親交は主に政治的・経済的な必要性から成り立っていた。

 日本と渤海は、使節を乗せた船が出入りする各地に客館を建てて、文物の交流に力を入れた。渤海は南京南海府に、日本は能登や松原に客館を建てて、使節の往来と交易を支援した。渤海と日本の使節の往来は、文化的な側面よりも政治的、経済的な目的に重点を置いたので、日本西部の山陰地方に異国的な刺激を与えることはあったが、両国の文化交流が双方の文化の流れそのものを変えるようなものではなかった。

■ 3.高麗と日本との疎遠な関係が続く

▶︎ 東アジア史の新しい情勢

 10世紀はじめの907年、中国で唐が滅亡した。続いて926年には渤海王国が、935年には新羅の国運が尽きて、韓半島に最初の統一国家である高麗が登場した。一方、日本はこ れに先立つ894年に唐との公的な通交を完全に停止した。唐を頂点とする東アジアの国際秩序が崩壊するなかで、高麗と日本はそれぞれ独自の政治活動を進めて、特色のある独自の文化を発展させた。

▶︎ 日本の外交的鎖国

 海洋国家である日本は、779年に新羅との外交関係を断ち続いて唐との外交関係も終わらせた(838)。一方、渤海が926年に滅びると、日本と東アジアの諸国との通交は、10世紀を前後して全面的に途絶えた。以降、日本が再び韓半島や中国大陸の国家と公式に国交を開いたのは15世紀のことである。中世の日本はおよそ600年以上も政治的に対外接触を断った鎖国を続けたのである

▶︎ 高麗との関係

 新羅の後を受けて韓半島の支配者となった高麗は、建国後に日本に使臣を派遣して国交を開こうと努力したが、日本は消極的な態度を貰いた。2つの国が再び国交を開いたのは、高麗末に倭冠問題で使臣を取り交わした1367年のことであった。

▶︎ 宋商人を媒介にした経済交流

 唐が滅びた後、五代十国の政治的混乱平定した国は宋であった(960)。宋は契丹と女真に何度も軍事的な圧迫を受け、揚子江下流地域への遷都をせざるを得なかったが、経済的には豊かな国だった。南宋の商人は高麗や日本と活発な交易を行った

 高麗と日本は公式の国交を結ばなかったが、寧波(にんぽー)、碧潤渡、博多を往来する宋商人を媒介にして経済的な交流は続いていた。しかし、この交流が両国の文化生活に大きな影響をおよぼすほど活発なものではなかった。

■ 4.倭寇をめぐって高麗と日本の対立が深まる

▶︎ 倭寇問題 

 13世紀の東アジアは、モンゴルの建国とヨーロッパ遠征、遼の滅亡と金の建国、宋の南への移動、モンゴルの40年にわたる高麗侵攻、そして2度のモンゴルの日本遠征などによって国際的に混乱していた。

 モンゴルの日本遠征に高麗軍が動員されたために、高麗と日本の関係はさらに疎遠になり、続いていわゆる倭寇韓半島の海岸地方に頻繁に出没するようになると、両国の関係はさらに悪化した。倭冠が高麗に出没するようになったのは13世紀からであった。その勢いが非常に激しく、高麗の海岸地帯につぎつぎと出没し、深刻な被害を与えるようになったのは、日本の政治的な争乱期である南北朝時代のことであった。

▶︎ 高麗の倭冠対策

 高麗は倭冠問題に強行策と懐柔策の2つの政策で対応した。外交的には日本の執権担当者や西日本の有力な武家勢力に使臣を派遣して倭冠の鎮圧を繰り返し要請した。しかしこれといった結果が得られないと、沿岸各地で倭寇と戦う一方、倭寇の巣窟と考えられていた対馬に征討軍を送って討伐戦争を繰り広げたりした

▶︎ 両国の国交再開

 1367年以降高麗はモンゴルの日本遠征で疎遠になった日本に使臣を送り、倭寇鎮圧のために積極的な対策を要請した。当時日本の実権を握っていた室町幕府と倭寇問題でたびたび接触するようになった。しかし、両国間の正式な国交回復は、高麗時代ではなく朝鮮建国後のことであった。日本の実権を握っていた足利義満が1401年に日本国土の名義で朝鮮王国に使臣を派遣したことで、新羅末に断絶していた国交は625年ぶりに再開されることになった。