■日本の統治政策と国家独立のための抗争
■朝鮮総督が‘武断統治を行う
▶︎大韓帝国の廃滅
景福吉勤政殿に掲げられた日章旗 (右は現在の勤政殿)
日本政府は、1909年に大韓帝国を−併合することに決定した。しかしながら、日本よりも歴史と文化が古く、日本領土の3分の2にもなる国土を持った大韓帝国を占領することは容易なことではなかった。当時、大韓帝国では、主権回復のための坑日闘争が火のように燃え上がっていた。日本は、結局このような抗日闘争を武力で弾圧する一方、大韓帝国の大臣を懐柔し、脅迫して、1910年に “併合条約”を締結した。日本は、欧米帝国主義国家の了解を得ることによって、大韓帝国の占領を正当化しようと努力した。
▶︎朝鮮総督府
日本は大韓帝国を占領した後、その領域を朝鮮と呼び、漢陽(ハニャン)を京城に改称した。また朝鮮総督府を設置して本格な植民地支配に乗り出した。朝鮮総督府は、行政・立法・司法・軍事のすべての権限を行使することができる帝王のような存在であった。歴代総督が陸軍・海軍の現役大将であり、韓国には2個師団の日本陸軍が駐屯していたように、日本の植民統治は軍事力に基礎を置いた武断統治(武力を背景にして行われる専制的な政治のこと)であった。
朝鮮総督府は、末端の官僚にまで日本人を派遣して全国を支配した。そして、日本人を移住させて、あらゆる産業の主導権を握ろうとした。また、鉄道と道路などを四方延長して、日本の勢力を浸透しやすくした。こうして韓国では、日本人による日本人のための支配が徹底的に行われた。
▶︎武断政治
日本は韓国人を武力で支配するために憲兵警察制度を実施した。直民地支配の基盤を固めるために、1910年に行われたこの制度は、憲兵と警察が一体となって、民間人に対する行政事務までも担当しようとしたものであった。
武断統治の下で、韓国人の政治・社会団体はすべて解散させられ、集会・言論などの活動も禁止された。学校でさえ、日本人教師は制服を着て剣を身につけて授業をした。
▶︎土地調査事業
日本は、韓国で近代的土地所有制度を確立するという名目で、土地の面積と所有者を徹底して調べる一方、土地調査令を宣布して、地価に基づいて税金を納付する制度をつくった(1910〜1918)。この過程で、膨大な土地が朝鮮総督府と日本人の所有になった。また、長い間農民が小作していて耕作権を持っていた官有地と開墾地などでは、国家と地主だけに所有権が認められた場合もあり、農民はいっそう苦しい立場におかれることになった。
朝鮮総督府は、また山林令を宣布して、全国の山林を調べて大部分を国有地にした。国有地は、日本人の農民や会社に安値で払い下げられた。このような土地調査事業などを経て、土地の売買が容易になり、米の値段が上がり続けると、金持ちは土地を大量に購入して小作人に耕作させた。反面、借金に追われた零細農民は、土地を失って農村を離れて流浪した。農村に残っている韓国人の大部分は小作人で、50%以上の小作料に苦しめられた。こうして韓国では、地主と小作人の争いが深刻になった。
▶︎‘強占,か‘併合,か、‘施恵,か‘差別‘か
大韓帝国を‘併合’した日本政府は、武力を動員して大韓帝国を強制的に占領したのでもなく、また2国が対等な立場で統合したのでもないという印象を与えるために非常に気を使った。すなわち、大韓帝国を植民地にしたのではあるが、合法を装う必要があった。日本で現在しばしば使われている‘韓国併合’という用語は、こういう苦心の末に作り出した歴史用語であった。
ところが、韓国と日本では、いまだに‘韓国併合’は合法か不法かをめぐって論争が行われている。不法であるという主張は、条約が強制的に締結されたうえに、国際法上の手続きを正しく踏まなかった点を強調する。したがって、日本による大韓帝国の廃滅は、軍事力を動員した強制占領であるという意味で‘強占’という用語を使用する。反面、合法であるという主張は、条約の締結過程で強い圧力をかけたことはあったが、国際法上の手続きを遵守し、欧米列強がこれを認定したという点を重視する。彼らは主に‘併合’または‘合併’という用語を使用する。韓国併合,に対する認識の差は、日本の朝鮮統治時代をどのように呼ぶかとも関連する。韓国の歴史教科書などでは・日帝強占期・という用語を使用し、日本の歴史教科書では‘植民地支配期’という用語を使用することもある。
日本は韓国人を懐柔して服従させるために、韓国人の精神までも日本人と同じにする同化政策を行った。そうするためには、朝鮮が昔から日本と同じ祖先を持ち、不可分の関係であったことを一方的に強調し、また韓国人も日本人と同じように天皇の恩恵を受けてきたと宣伝しなければならなかった。けれども、これはあくまで言葉だけで、韓国人は学校と職場などだけでなく日常生活のあらゆる面で、日本人よりはるかに劣る待遇を受けた
▶︎会社令
1910年代、日本は韓国で商工業が発展することを抑圧した。朝鮮総督府は、韓国人か日本人かを問わず、会社を設立しようとする時には、総督の許可を受けさせた。会社令、1910、1920)韓国人は日本人より資本が零細だったので、会社設立を許可されたが日本人よりはるかに少なかった。こうして、韓国人の経済力はしばらく沈滞状況から抜け出すことができなかった。