渤海と日本

■渤海と日本

▶︎僧 侶

古畑徹 

 古代東アジアの国際交流を見ていく時に、もっとも目をひく存在の一つが、国境を越えて往来・交流する僧侶たちの姿である。

 紀元前後に中国に伝来した仏教が、中国で本格的に受容されるようになるのは、3世紀の三国時代以降である。5世紀の南北朝期に入ると、仏教は非常に盛んとなり、さらに東方の諸国へと伝わり7世紀には東アジアに共通する文化要素と呼べるまでに発展した。その共通性の下で広範囲に張りめぐらされた仏教界のネットワークが、国家の枠を超えた僧侶たちの活動の一つの背景であった。また、東アジアに広がった仏教は、個人の解脱を目指して民衆への布教をおこなうという側面よりも、中国の皇帝支配の論理との長い確執の末にその論理と妥協し、国家による統制と庇護の下で国家安寧の獲得を目的とするようになった、いわゆる国家仏教という側面の方が強かった。それゆえ、僧侶たちの活動はそれぞれの国において保護され、また、僧侶自体が国家に登用されて政治的に活動したり、外交活動を担ったりということも存在した。彼らの姿が国際交流のなかで目につくのには、このような背景がある。

 渤海と日本の通交のなかに登場する数多くの僧侶のなかから、外交使節の一員として日本へやってきた海僧・仁貞と、中国で訳経に従事りょうせんした日本僧・霊仙及び彼と日本との間をつないだ渤海僧・貞素とに焦点を絞り、国境を越えた僧侶たちの活発な活動の一端を見てみたい。

▶︎渤海僧・仁貞

 潮海僧・仁貞のことは、814年に来日した第17回遣日本使に関する諸史料にしか見えず、その生年やそれまでの経歴などは一切わからない。ただ、この第17回遣日本使には様々なエピソードが残されているので、それらを通してうかがわれる仁貞の姿を、可能な限り描いてみたい。

 第17回遣日本使が出雲に到着したとの報が、平安京の朝廷に届いたのは814(弘仁5)年9月30日のことである。今の暦に直すと、11月19日にあたり、北西の季節風を利用して、渤海の南部、南京南海府から東海を横断してきたものと推定される。遣日本使の来日は4年ぶりのことで、その来日目的の一つは、その前々年に定王・大元(定王809~812(3)姓名は大元瑜。康王の息子)が死去し、弟の僖王・大言義(僖王812~817(5)姓名は大言義。定王の弟。)が即位したので、それを日本に告げることだったと考えられる。

 仁貞は、この第17回遣日本使録事という地位で来日した。録事とは、遣日本使の人員構成において、大使(便頭)・副使(嗣使)・判官に次ぐ4番目の役職で、これ以下の訳語・史生などの随員とは明確に区別される使節幹部である。この構成は日本の遣唐使と同じもので、遣唐使のそれは律令官制の各官庁における4等官構成に準じたものであることが指摘されている。渤海の律令官制においても、各官庁は4等官構成だったのであろう。

 また、遣唐使の録事の仕事は公文書の作成にあったと見られるので、遣日本使の場合も同じであろう。注意すべきは、僧侶でありながら、このような公式の役職に就いていた点である。高句麗・百済・新羅・日本などの例を見てくると、当時一流の知性ともいうべき僧侶たちは、漢籍に通じ、古今の事例にも詳しかったため、外交顧問となり、外交文書の作成を担うことも少なくなかった。しかし、その身分はあくまで僧侶であって、僧官という仏教統制機関の官職に就くことはあっても、俗界である朝廷の正規の官職に就くということは原則なかった。日本の8世紀後半に、称徳天皇(先掲の孝謙上皇が再度天皇になったときの名前)の寵愛を受けた道鏡が、僧籍にありながら太政大臣となった例はあるが、これは異例のことである。また、804年の遣唐使の際、空海が大使・藤原葛野麻呂に代わって漢文文書を作成したことも知られているが、この時の空海の身分はあくまで留学僧である。それだけに、僧侶でありながら使節の公式の役職に就いている仁貞の事例はきわめて異例なのである。前章で取りあげられているように大使・王孝廉も優れた文人で、彼の代筆役として仁貞が録事になったとは考えられないので、何ゆえ僧籍にあるものが録事となったかは一つの疑問である。この後まもなくの時期に来日したと見られる遣日本使が仏寺に礼拝したという記録が、『経国集』(827年成立)という日本の漢詩集に残されており、遣日本使の仏教崇拝や仏教界との交流ということが関連している可能性も考えうるが、現時点では明確な解答は導き出せていない。

 さて、潮海の使節団は通常、幹部などのごく一部だけが入京し、残りの随員は現地に残って帰国の準備をする。仁貞は使節幹部であったから入京組となり、年が改まる前に入京し、正月朝賀に列席した。そのとき、女楽(妓女が演奏する歌舞のこと)の演奏があったことが記録されている。ついで正月7日には宴を賜わり、叙位された。この正月7日の宴とは、838年以降、白馬節会(あおうまのせちえ)と呼ばれるようになる宮中行事のことである。当時のこの行事は、白馬を豊楽殿の庭に引きまわして天皇の御覧に入れたのち、群臣に宴を賜るというもので、この日に白馬を見ると、年中の邪気が払われるという中国の故事に由来するという。仁貞はこの時に従五位下に叙され、それに見合う絹製品などの奉禄の支給を受けた。

 また、この宴席では詩の交歓が行われ、その折の仁貞の次の詩が、嵯峨天皇の命で勅撰された「文章秀麗集(818年頃成立)という漢詩集に残されている.。

七日禁中陪宴詩 一首  釋仁貞  

入朝貴国暫下客  七日承恩作上賓  

更見鳳啓舞妓態  風流攣動一國春

訳 正月7日に宮中にて御宴に陪席しての詩 一首 繹仁貞

 貴国日本(貴国は他国を誉める表現)に来朝してより、低い身分の客(下客は自己を卑下した表現で、日本の官位を持たないことも暗示する)であることを恥じいっていましたが、本日7日の節会に列席し、天皇の御恩を受けてりっばな身分の客となりました(叙位されて日本の官位を授けられたことを指す)。そのうえ、美しき雅楽の調べには、元日のような妓女による歌舞こそありませんが、その雅やかさが国中の春を揺り動かしているようです(本当にすばらしい宴席に列することができて光栄です)。

 この使節の日本滞在時における詩の交歓は、7日の宴席以外にも盛んに行われており、『文華秀麗集』には、上記の詩のほかに、潮海側では大使・王孝廉の詩が5首、日本側では坂上今雄・坂上今継・滋野貞主(しげのさだぬし)・巨勢識人(きせのしきひと)・桑原腹赤(くわはらのはらあか)の詩各1首が収められている。

 この遣日本使は、正月22日に嵯峨天皇から僖王・大言義への国書を受け取って、帰国の途に就いた。しかし、彼らの帰国は悲劇の連続となる。まず、出雲の地から出港した遣日本使一行は、途中で逆風に遭って越前の地に流され船も大破して使えなくなってしまう。このことが日本の朝廷に伝わったのは5月のことで、朝廷は早速、越前国に帰国用の大船を用意するよう命じている。つづく6月になると、大使・王孝廉死去したとの報が朝廷に届き、嵯峨天皇はさっそく哀悼の詔を出し正三位を追贈した。その後、船が新調されるまで時間がかかり、またその後もよい風が吹かず、とうとうその帰国は翌817年5月まで延びてしまう。そしてその間に、判官の王升基、それに仁貞までもが病でこの世を去ってしまったのである。

 仁貞が亡くなった正確な年月は不明である。ただ、「華秀麗集』にみえる坂上今雄(今雄は、今継の誤写との説もある)の詩によって、816年秋ごろまでは生存していたものと推測される。その詩は以下のとおりである。

秋風聴層、寄潮海入朝高判官繹録事 一首  坂今雄

大海途難渉  孤舟末得廻  

不如開隋巨雁  春去復秋来

訳 秋風のなかに雁の声を聞き、渤海入朝使判官・高英善と録事・  仁貞に寄せた詩 一首  坂上今雄

 大海(東海のこと)を横断する海路はなかなか渡るのが難しく、そのため1隻の船(通日本便船のこと。9世紀の遣日本使は大型船1隻で渡日した)はまだ帰国することができないままです。関中・陳西地方(中国の長安から甘粛省にかけての地域)の雁たちが、空を渡って楽々と大海を越え、春に去って再び秋に戻って来るような訳にはいかないのです(いま雁の声を聞いて、そのことが思い起こされ、遣日本使一行の皆様が大変お気の毒に思えてしかたありません)。

 彼らの死は、このように親しく交わった日本の文人たちに大きな衝撃を与えたものと思われる。時の嵯峨天皇は、この第17回遠目本使の再度の渡海の際、あらためて漸毎王への国書を作成し、王孝廉・仁貞らの死去とその事情に触れて、「甚以愴然」(訳:たいへんにそのことを心の底から痛ましく思っております)とその思いを述べている。また、この時の使節で漢詩の交歓をした渤海側の人物は王孝廉・仁貞以外にもいるが、日本の勅撰漢詩集である『文章秀麗集』に異国人でありながら詩が載っているのは、王孝廉と仁貞だけである。それは彼らの詩が単にすぐれていたからというだけでなく、そこには日本の文人たちの彼らの死を悼む気持ちも働いていたのではないだろうか。

▶︎日本僧・雲仙と潮海僧・貞素

 858年に遣唐使に従って入唐した日本僧・円仁は、847年に帰国し、天台宗の総本山・延暦寺の座主になり、死後には慈覚大師の誼号を贈られた高

である。彼は、その中国滞在中の経験を、「入唐求法巡礼行記」という日記にまとめており、これは9世紀半ばの皆の状況を伝える貴重な史料となっている。この F入唐求法巡礼行記三 のなかに、日本僧・霊仙と渤海僧・貞素の話が出てくる。

※霊仙(りょうせん、759年?(天平宝字3年?) – 827年?(天長4年?))は日本の平安時代前期の法相宗の僧である。日本で唯一の三蔵法師。出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される。

 円仁は、山東半島の先にある、張保革ゆかりの寺・赤山法花院の力を借りて、遣唐使船をこっそり抜け出し唐に密入国した。彼はまず北親以来の中国仏教の聖地・五台山を目指して巡礼の旅に出る。840年4月、やっと五台山の領域に入り、28日に停点普通院に宿泊した。普通院とは、巡礼する僧俗のための無料宿泊所のことである。円仁はここで、その西亭の壁に「日本国内供奉翻経大徳霊仙、元和十五年九月十五日、到此蘭若」(訳:日本国出身の内供奉翻経大徳という僧官を持つ霊仙が、元和15年9月15日にこの寺に到着した)と記されているのを見て、これを記録する。

※霊仙とは 霊仙は平安時代前期の法相宗の僧侶で、「南都六宗」と称された奈良仏教を学びました。生まれは近江(現在の滋賀県)とも阿波(同:徳島県)ともいわれ定かではありませんが、法相宗大本山・興福寺にて修行に励んでいました。霊仙が唐へと渡ったのは延暦23年(804年)。第18次遣唐使のメンバーとして選抜されてのことでした。同期には最澄や空海、橘逸勢(たちばな の はやなり)らそうそうたる顔ぶれが並び、いかに霊仙の能力が卓越していたかがうかがわれます。霊仙はサンスクリット語経典の漢訳や、外国僧の翻訳などを通して通訳者・翻訳者としての能力を遺憾なく発揮します。そして唐の元号での宝暦2年(811年)。ついに「三蔵法師」の称号を授けられます。歴史上、日本人で三蔵の号を得たのは霊仙ただ一人という偉業です。

 ついで五台山の中心部に入った円仁は、5月17日に大花厳寺の菩薩堂院を巡礼した際、千尋の崖の上に建てられた亭において、老僧から「昔、日本国の霊仙三蔵法師がこの亭で一万菩薩の姿をご覧になられた」という話を聞く。さらに五台山のなかを巡礼した円仁は、今度は長安に向かうべく、7月1日に大花厳寺を出発し、まず堅固菩薩院に宿泊すると、この院の憎から、霊仙が2年間この院に滞在し、その後七仏教誡院で亡くなったこと、彼が自分の手の皮を剥いで仏画を描き金銅の塔を造ってこれに入れ、その塔は今も金閣寺で供養されていること、を聞く。そして7月3日、七仏教誡院に到着した円仁は、霊仙の死を悼む渤海僧・貞素の「哭日本国内供奉大徳霊仙和尚詩并序」が書かれた板が、寺の壁に釘で打ちつけられているのを見、さらにその先の霊境寺で、彼がこの寺で毒殺されたというショッキングな話を聞くのである

 『入唐求法巡礼行記』に記された貞素の詩の序文は難解で、研究者の間でもその解釈は一致していない。脱字や誤記も想定されるので、正確な解釈は容易ではなく、筆者も完全には理解しきれていないが、現時点の理解によれば、およそ次のような内容が書かれているものと思われる。

 私を啓発してくれたのは応公である(応公を貞素の師とする理解もあるが、ここでは採用しない)。彼は師に従って日本から渡って来た者で、今や僧侶のなかでも抜きん出た存在となっている‥私も仏教を学ぶことを志し唐に留学したが、元和8(813)年晩秋に、旅の途上で彼に出会い、肝胆相照らした(出会った相手を霊仙とする理解もあるが、ここでは採用しない)。私の学業が成功したのは、応公の感化のためである。その応公の師父が日本僧・霊仙大師である。彼は長慶2(822)年に五台山に入室した。長慶5(825)年、日本の天皇(当時は嵯峨天皇)が遠方より金百両を彼に賜い、それが長安に届いたので、私がその金と書を持って五台山金閣寺に届けた。霊仙大師はこれを受領すると、1万粒の仏舎利と新訳の経典2部、及び詰勅5通などを私に託し、日本に行って国の恩に感謝の意を伝えてほしいと要請した。私はそれを承諾し、日本へ渡り、戻るときにはまた霊仙大師への金100両を託された。大和2(828)年4月7日、霊境寺に戻り、霊仙大師を訪ねたが、すでに死去してから長い時間がたっていた。私は悲憤で血の涙が出るほど泣き崩れた。私が死を覚悟して4度も海を渡i)、短い間に5度も旅を行ったのは、応公とのもともとの交わりがあったからである(4度の渤海とは、唐と渤海、渤海と日本の間の往復の渤海のことをいい、5度の旅とは、長安から五台山、五台山から渤海、渤海から日本、日本から渤海、渤海から五台山の各旅路をいうものと見られる)。その悲しみを表すために、4月14日に詩1首を作ってここに残すものである。

 なお、通常、応公は渤海僧と見られ、この序文に見える「至浮桑」は渤海から日本(浮桑扶桑の別表記で、日本のこと)に渡った意味と理解されている。しかし、そのように理解すると、貞素の応公に関する説明がたいへんわかりにくいものになってしまう。たとえば、彼の日本行きだけを説明し、肝心の来唐事情がないことになるし、この時に従った師も霊仙以外の僧と解さなければならず、きわめて紛らわしいことになる。実は、この5文字を含む「僕而習之、随師至浮桑」の一節は、次の「小而大之、介立見乎指緇林」と対句なので、「至」と「浮桑」の間に1字脱落があることは明らかである。ここには「乎」との対関係から助字が入るはずで、それは「自」などの英語のfromに該当する助字の可能性がある。この推定が正しければ、貞素の応公についての説明も、文意が通ってわかりやすいものになる。そこで、ここでは通説を採用せず、応公を日本僧とする解釈を提案することにした。

 この『入唐求法巡礼行記』の記録に出てくる霊仙と貞素のことは、他の史料でも確認できるので、それらを加えて、この二人の交流とそれに関連する渤海と日本の通交を詳しく見ていきたい。

 霊仙は、日本の奈良・興福寺で法相宗を学び804年の遣唐使に従って留学僧として入唐した。彼は短期間で中国語・サンスクリット語を習得し、入唐のわずか6年後の810年には、長安の泉寺において、『大乗本生心地観教』の訳出作業に、筆受と訳語という役割で加わった。この訳出は翌年には完成したが、この訳出作業自体は憲宗の命で行われたもので、日本の石山寺所蔵の古写本の奥書に残された訳場列位によれば、訳出に当たった8人の僧の筆頭が般若、その次が霊仙となっている。般若唐代最後の訳経憎といわれるインド僧で、781年の来唐以来、皇帝の庇護のもとで仏典の収集・訳経事業を担った当時の仏教界随一の高僧である。その訳経方法は、彼がサンスクリット語で仏典を読んで解説・講義し、それを訳語が中国語にしたものを、筆受が文字に筆記していくというスタイルだった。したがって、霊仙は事実上、この経典の翻訳者筆頭なのである。訳経事業に加わったことが知られる日本僧は彼ひとりであり、綬が唐に留学した日本僧のなかでいかに傑出した存在であったかがよく分かる。

 また、『入唐求法巡礼行記」 により、820年の時点で霊仙内供奉翻程大徳という称号を持っていたことが分かるが、このうちの内供奉大徳とは、仏事を行うために宮廷内に設けられた寺院である内道場に出仕して儀礼・法要を行う僧に、皇帝が下賜した称号である。彼は入唐後十数年で、唐において高僧としての地位を確立していたのである。

 在唐日本憎が本国へ書状を送ったり、本国から賜金や書状を受け取っていたことは、霊仙以外にもいくつか事例があり、そのなかには渤海の使節がその仲介役であったことが明確な事例もある。「入唐求法巡礼行記』には、825年に嵯峨天皇からの賜金100両と書状が届けられたことが書かれているが、これらを持って長安から五台山に向かったのが渤海憎・貞素であることから、これらを仲介したのも渤海であろうと推定される。ちょうど823年来日の第21回遣日本使は824年5月以降に渤海に帰国し、825年5月には渤海の使節が唐に朝貢しているので、彼らが仲介して長安金100両が届けられたのであろう。ただ、どうして天皇が霊仙に100両を下賜することになったのか、それ以前にも同様のことがあったのか、などは不明である。

 一方、霊仙に賜金と書状を届けた渤海僧・貞素の経歴は、先に見た「入唐求法巡礼行記』の記事以上にはわからない。彼が霊仙のところに行ったのは、その弟子・応公との関係によるもので、おそらく彼は霊仙のもとにそれらを届けた後は、自分が学んでいる長安に戻る予定だったものと思われる。しかし、霊仙はそれらを受け取ると、今度は貞素に天皇への礼状と礼物を託して日本へ行くことを依頼し、貞素はこれを受諾するのである。この礼物のうち、新訳経典2部の方には先述の「大乗本生心地観教」が含まれていたと見られ、また詰勅5部の方には先述の内供奉大徳の任命書が含まれていたものと見られる。

 貞素は急いで五台山を下り、おそらく先の使節の帰国に便乗して渤海に戻り、渤海の朝廷にこのことを報告したこ渤海の宣王・大仁秀は、ただちにこの霊仙の礼状・礼物の送付を目的に第22回遣日本使を編成し、825年12月にその遣日本使は隠岐に到着した。ただ、この遣日本使は前回の遣日本使来日の際に決められた、12年に1度の来日という年期を無視するものだったため、日本側では入京させるかどうかが議論になった。最終的には、嵯峨から淳仁へ天皇の位を譲位したことを海外にも知らせる好機とする意見が優勢となり、入京を許され霊仙の書状と礼物は無事天皇に献上された。この使節はその転送の労を慰める渤海王への国書を受け取って、826年5月に平安京を離れて帰国の途に就く。このときに貞素自身が日本に至ったことは、その国書に明記されている。

 貞素が引き受けた依頼は、霊仙から預かった書状・礼物を日本へ届けることでひとまず終了した。本来ならこれで彼の肩の荷は降りるはずだったが、彼に新たな依頼が舞い込んでくる。日本の天皇が再び霊仙に金100両を賜うことを決めそれを貞素に託したからである。彼は帰国後、再度渤海の使節に従って入唐し828年4月に五台山霊境寺に至るのだが、霊仙はそこですでに死んでおり、この依頼を果たすことはできなかった。

 霊仙の死去が毒殺であることは、「入唐求法巡礼行記」に五台山の僧からの伝聞として明記されているが、実は貞素も毒殺の事実を知らされたものと思われる。彼の詩の最後の句、「的説遺鞋白足還」は、死んだ達磨の魂が片方の鞋(わらじ)を中国に残し、片方だけ素足のままでインドに帰っていったという伝説に基づくものだが、これは達磨に毒殺説があることを踏まえての詩句と考えられるからである。むしろ毒殺の事実を知ったことこそが、彼を大いに悲憤させ、この詩を板に書きつける動機になったと考えた方がよかろう。霊仙の亡骸はその弟子たちによって埋葬されたというが、円仁が十数年後に霊境寺を訪ねた時には、その場所はすでにわからなくなっていたという。

※霊境寺(れいきょうじ)は、中国山西省の五台山にある日本人僧霊仙ゆかりの寺院。五台山南台にある。「大暦霊境寺」とも呼ばれ、唐の大暦年間(766-779)に創建されたと思われる。日本人で唯一、中国の皇帝から「三蔵法師」と認められた興福寺霊仙(759-827)の最期の地として知られる。霊仙は日本の延暦23年、空海最澄とともに入唐。訳経に従事し、宮中にも出入りしたが、何らかの事情で五台山に移り、霊境寺で毒殺された。五台山を訪れた円仁はその最期を僧侶から聴いている。清の道光12年(1832)の修復記念碑がある。文化大革命で徹底的に破壊された。

 なお、貞素を同伴した渤海の遣唐使節だが、史料上は827年4月に朝貢したと記録されている使節以外に該当するものはない。これだとすると、日本からの渤海への帰国との時間関係に問題はないが、何ゆえ入唐後1年以上も経った828年4月に貞素が五台山に至ったのかという問題が残る。貞素が828年に単独で入唐した可能性も否定できないが、それでも渤海に戻ってから時間が経ち過ぎている。筆者としては、『入唐求法巡礼行記』の「大和二年(828年)は円仁が「大和元年」(827年)誤記したのではないかと推測しており、ここでは827年4月朝貢と記された使節に従って入唐したものとしておきたい。

 その後の貞素の行方は不明であり、また、淳仁天皇が賜った金100両がどうなったかもはっきりしない。ただ、841年に来日した第24回遣日本使が持参した、渤海王・大彝震(830年-857年)の「別状」には、渤海の朝唐賀正使に霊仙への金百両を託したが、その使節は霊仙の死によってそれを届けることができず、帰路に塗里浦(遼東半島の先にあった里鎮と同じ場所と推定される)で、暴風にあって船が沈没し、その金もともに沈んでしまったことが記されている。これを信じれば、金100両は海中に沈んだことになるが、この「別状」には明らかに虚偽の内容が含まれている。虚偽の内容とは、上記の事情は先の第25回遣日本使が持参した国書に書かれていたのだが、年期違反で国書を渡せずに帰国させられたため、それを伝えるのが遅れてしまった、と述べている点である.。朝唐賀正使遭難のことは次の遣唐使節の帰国によってはじめて知ったとも述べるのだが、これに該当する遣唐使節は唐側に828年12月朝貢と記録された使節しかない。だとすれば、第25回通日本使は827年12月に来日しているから、その時にはまだ霊仙の死が潮海に伝わっていなかったことになるのである。どこからが虚偽なのかがはっきりしないので、金100両の海中沈没の真偽は判然としないが、日本にそれが戻ってこなかったことだけは確かである。

 最後に、霊仙の遺品の一部が日本にもたらされたことに触れておきたい。これを持ち帰ったのは、円仁と同じ838年の遣唐便で渡唐した真言宗の僧・円行(えんぎょう)で、遣唐使とともに長安に行き、帰国も行をともにした。彼が長安で短期間に収集して請来したものは、「霊巌寺和尚請来法門道具等目録」に記されており、その中には、霊仙の弟子から受け取った仏舎利2700余粒梵爽1具があった。先にも霊仙は日本に仏舎利1万粒を届けているが、彼は日本に請来するために仏舎利を集めていて、それが円行に託されたのかもしれない。また、霊仙の死を日本に最初に伝えたのは、今まで話に出てきた遣日本使でも円仁でもなく、839年に帰国したこの円行だったのである。

■渤海国と日本の仏教文化交流の歴史(動画 90分)