■クラスキノ城と福良港
金恩国
渤海は、7〜10世紀の東アジアにおいて、大陸と海洋をあまねく経営した海東盛国である。渤海は、建国初期から周辺国と多様な交流を展開した。代表的なものが、対外交通路の設定と運営である。「新唐書』に渤海が運営した五つの対外交通路(渤海と日本、新羅、唐、契丹などの交流窓口)がみられるが、このうち日本道に最初に言及していることから、渤海と日本との交流の比重がどの程度であったかを推測できる。
日本道は、陸路と海路からなっているこ陸路は、上京から豆満江に沿って東海岸に至る。琿春の東南約40km、ロシア沿海州ハサン区域にあるクラスキノ(kraski)土城は、日本道の海路の始発点であった。渤海使は、ここから東海を横断して日本に向かった。
渤海は、第2代武王から15代末王まで34回日本に使者を派遣し、日本は13回渤海に使節を送った。これは、新羅と日本の関係よりも頻繁な接触である。渤海が日本に初めて使者を送ったのは、武王の仁安9(727)年である。漸毎使節団は、寧遠将軍・高仁表と高斉徳ら24人で構成された。しかし、日本の東北方の蝦夷地域に到着したとき、16名が蝦夷族によって殺害され8名がようやく生き残ったほど非常に険しい旅程であった。こうしたことに遭いながらも、渤海が持続的に日本と交流した背景は、当時、日本に伝ぇられた渤海武王の国書から窺うことが出来る。漸毎は国書で「高句麗の旧地を修復し、扶余の風俗を有」していることを強調している。渤海は、高句麗の継承政策と周辺国との緊密な交流政策を通じて、建国の正当性と東アジアの歴史の構成員であることを内外に知らせた。
渤海から日本に行く道は、上京城から出発した後、東京(琿春)を経由して塩州(渤海62州のひとつ。現在のクラスキノ)に到着して東海に行く方法と、南京(成鏡道北青ニーから海を渡って南の新羅と東の日本に行く方法が想定できる。
本稿では、潮海と日本の交流窓口の役割を果たしたクラスキノ城と福良港を中心に、渤海と日本の活発な交流を見ていくこととする。
▶︎渤海・・・日本の交流と港
渤海武王の国書は、海に妨げられて交通が不便だが周辺国との交流を強調してきた慣例によって日本を訪れたということを明らかにしている。これは、渤海建国初期の高王から推進してきた対外政策でもある。高王は、突厭・新羅・唐との積極的な交流を通じて自立の基盤を構築した。そのおかげで、武王は対外政策を活発に展開することができ、日本へも使者を派遣することができた。
それでは、渤海はどこから日本に行ったのだろうか。「龍原の東南部沿海は日本道」という記録から分かるように、東京龍原府は漸毎と日本の交流史における中心地であった。もうひとつは柵城(兵を駐屯させる軍事的拠点)である。このことは、「渤海国南海・鴨緑・扶余・柵城四府は高句麗の故地である。新羅泉井郡から柵城府に至るまで59駅ある」という記録が物語る。泉井郡は現在の成鏡南道(ハムギョンナムどう)徳源であり、柵城は琿春地域をいう。「新唐書」渤海伝に「穢狛の故地を東京とし、龍原府または柵城府とした。慶・塩・穆・賀川を率いた」と記していることからも柵城の重要性が分かる。
また、龍原の東南部沿海を通っていく出発地は、おおよそクラスキノ城と認識されている。龍原府に属する4州のうち、塩川の治所がまさにクラスキノ城であった。ここから東海に出て、日本または新羅に移動するのである。ところで、柵城と嘩春に象徴される東京龍原府が、最近、北韓の発掘成果を通じて清津市富居里という説が粘り強く提起されている。
こうした解釈は、主に不凍港か否かという観点から提起されている。クラスキノ城から東海に出る関門であるポシェット(Posyet)湾が、冬になると凍り付いて利用できないという点を考慮すると、主に12〜2月に日本に渡った後期航海ではここを利用しなかったというのである。
こうした点から、北韓の富居里説に共感する理由がある。しかし、大部分が10〜11月に日本へ出発した初期航海の出発地と、主に春・夏であった帰国航海の到着地としては、利用されたであろう。
これを基に、日本へ出発した地域は、不凍港であるか否かを離れて、東京龍原府管轄地域の4州と東南沿海という地域的性格、そして、日本への出発時期と帰国時期などを考慮する必要があるだろう。また、1回のみで終わってしまったが、南京南海府の外港である吐号浦からの出港などを参照すると、渤海から日本に渡るときに利用した港として複数箇所を想定できる。東京龍原府の所在地をめぐる論争は、結局は、4州を率いた広義の概念設定で補強されねばならないだろう。これと関連して、延辺地域に分布する渤海の城を、高句麗の城と交通路運営の延長線上で解釈する視角が注目される。これは、沿海州内に分布した渤海の城の性格理解とも脈絡を同じくするものである。
■渤海国と日本の仏教文化交流の歴史(動画 90分)
次に検討するのは、渤海便が日本のどこに到着したのかという点である。727年、最初の渤海使が日本の出羽国に到着した。ここは、当時、蝦夷境内であった。その後、8世紀に13回、9世紀に18回、10世紀に3回の全34回、日本に渤海使が行っている。渤海使の到着地は、8世紀には加賀以北の北日本、9世紀には西日本であったここうした到着地の変化には、東海横断航路の歴史と東アジア国際情勢などが影響を及ぼしたと解釈される。
■クラスキノ城と福良港
▶︎クラスキノ城
クラスキノは、現在、ロシア沿海州南端、北韓から豆満江を渡った対岸に位置する。19世紀後半に沿海州には朝鮮人が集落を形成したが、クラスキノも同様であった場所である。南側の海に∃要するクラスキノ城は、集落の名前を付けたものである。
この遺跡は、潮海62州のひとつである塩川所在地であり、新羅道(渤海と新羅の交通路)や日本道(渤海と日本の交易ルート)などとつながる関門であった。現在のツカノフカ(Tukanovka)河とポシェット湾海岸が会う場所に位置し、周囲1・3kmほどの平城である。
クラスキノ城に行くと、渤海に会うことができる。クラスキノ城発掘には、韓国だけでなく、北韓、日本、中国も大きな関心を寄せている。日本の場合、潮海と日本の交流史に早くから注目して、城の東門を中心に発掘してきている。北韓は、豆満江を共有するところが潮海時代の歴史領域であるという点から、最近、北韓内の潮海遺跡とのつながりを探っている。特に、中国は、中国式の潮海遺跡解釈を拡張しうる遺跡地とみて、ロシア学者と交流を積んでいる。このようにクラスキノ城は、潮海を通じてふたたび形成された東アジア史の国際的な宝庫といえよう。
この遺跡で韓国とロシアの共同発掘が本格化し、城内から多様な発掘成果が現れている。瓦片で整然と積み上げた正方形の遺構と、2005年に発掘されたオンドル遺構が代表的な成果であり、特に、試料分析の結果、補正年代AD620年と 540年をえた。この時は、11代王の統治時期である。これら遺物と遺跡は、海東盛国の歴史を証明するものであり、文献の空白を埋めるタイムカプセルである。
最近の発掘のもっとも大きな意味は、発掘と解釈方法の転換である。そのなかでもまず、渤海早期文化層の確認を挙げられる。遺構最下層までの発掘を試みた結果、高句麗時期のものとみられる甑などの遺物が出土した。
※甑(こしき)は古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器。 需とも。 竹や木などで造られた同目的のものは一般に蒸籠と呼称される。 日本各地の遺跡で発見されており、弥生時代には米を蒸すための調理道具として使われていたと考えられる。
渤海早期文化層の設定は、最近の発掘で出土した試料の年代測定から提起されている。2007年、2008年度発掘で出土した試料を分析した結果、7世紀半ば〜8世紀前半と確認された。2009年度発掘でもこれを立証する層位と遺物が出土する成果をえた。
次に、発掘が集中してきた城内北西地区から南門周辺の道路遺跡をはじめて発掘した点である。いわゆる朱雀大路の基礎的調査と、城周辺の漸毎遺跡調査を本格的に推進した。以上の一連の共同調査は、ロシア科学院極東分所歴史考古民俗学研究所と東北亜歴史財団の協力で科学的な遺跡追跡などに支えられて可能となったものであり、これらの成果は、今後の共同発掘の里程標として大きな画期になるものと評価できる。
▶︎追加資料・東北アジア歴史ネット
渤海の領域は現在の中国、ロシア、北朝鮮などに分布しており、渤海関連史料も中国をはじめ、日本、韓国に残っており、その歴史の解釈において多くの異見を生んでいる。
このような状況で、新しい資料を手に入れられる渤海遺跡と遺物が持つ意味は格別であると言える。しかし、絶対多数の渤海遺跡が残っている中国側は、関係国の研究者の参加だけでなく、意見提示をも拒否したまま渤海遺跡を発掘、整理しており、また別のわい曲の可能性が提起されている。
そのような面で着実に続いているロシア沿海州のクラスキノ渤海城などに対する韓国とロシアとの共同発掘調査は、望ましい遺跡調査の方向を示している。両国は発掘時期や場所などを協議して決め、その調査結果も毎年公開的に発刊することにより渤海史研究に寄与している。
今や渤海遺跡の管理対象各国は、遺跡と史料をめぐる意見の隔たりを埋めるための努力を集中的にしていくべき時点である。将来的に中国にある上京省などの渤海遺跡からロシア沿海州にあるクラスキノ城などを経て日本に至り、さらには陸路で北朝鮮の青海土城などを経て、南の新羅、慶州へと続くなど、古代の東アジア交流史を復元するためにも渤海史研究の国際的協調は欠かせない。
▶︎福良港
福良は、現在の富来町福浦港で、江戸時代には北海道に往来する北前船の寄港地としても繁栄した。『続日本紀』には、「海上で遭難して漂着した渤海使節を福良津に留まらせた」と記しており、『日本三代実録』元慶7(883)年10月条には、「渤海便が帰国する時の造船に使用するため、福良泊の木を切ることを禁じた」とある。こうした点から、福良港は、日本から渤海に行く渡航地であり、渤海に渡る船を建造した場所であると考えられている。福良港は、西北に開いた大小二つの湾入(大潤・水潤)からなり、台風を避けられる天然の良港で、中世・近世を通して台風と遭難を避ける港として東海航路で重要な位置を占めた。旧福良灯台は、現存する日本最古の灯台とされ、石川県指定文化財になっている。
考古学的遺物資料からみると、韓日間交流が始まった時期は新石器時代まで遡る。その後、高句麗・渤海と日本との間の航路は、東北地域から本州中部の路線である。この航路は歴史時代から利用され始めたが、文献に初めて登場するのは570年である。『日本書紀」欽明31(570)年の記事によると、高句麗便船は高い波により漂流して越国(越前、越中、越後地域)の海岸に到着した。高句麗使船は、573年と574年(敏達2年、3年)、そして668(天智7)年にも越国の海岸に到達した。これらの事例は、高句麗の使者が東海を航海して本州中部海岸に至ったことを意味する。
高句麗便船の出発地としては、高句麗西海岸と東海岸の両側の港がどちらも利用されたとみられる。
潮海使節団は、風向きと海流によって、北は出羽、西は出雲に至る東海岸の様々な場所に到着した。しかし、敦賀・福良以外の場所に来朝した場合も、その場所を一時的に規定入港地と認定し、その地の国守が入朝に関する様々な手続きを担当して、不適当な点があれば報告を通じて中央から依問使または領客使が下ってくることになる。こうした場合は、入港地付近の郡家・駅舎などを客館としており、「安置於便所」または「安置於便所、依例供給」と記されている。
福良港から海に出た船は、北上してロシア沿海州ハサン地区にあるポシェット湾に向かった。ポシェット湾の海岸にはクラスキノ土城がある。この城は、渤海塩州の州城(山城)であり、東海を航海する船舶・人物・物資の往来を管理する施設があったと考えられている。現在までの調査で、渤海の寺院跡や瓦窯跡、鍛冶炉などの遺構が発掘された。
『新宮書』は、渤海と日本を繋ぐ道を「日本道」と記している。福良とポシェット湾を繋ぐ航路は、渤海使節や商人、留学生などを乗せて運ぶ、海の日本道であった。「日本道」は、渤海を経由して唐と契丹など各地に向かう道路と繋がっていた。渤海を経由して長安に向かう遣唐使もいるなど、日本と渤海を結ぶ道は、西アジアから日本に至るシルクロードの北回り経路でもあった。そうした意味から、このルートを北東アジアの十字路または日本道とみることもある。
■結 び
渤海国王の一覧(ぼっかいおうのいちらん)では、渤海の国王、および国王の諡号を列記する。
高王 | 大祚栄 | 698年–718年 |
武王 | 大武芸 | 718年–737年 |
文王 | 大欽茂 | 737年–793年 |
大元義 | 793年–794年 | |
成王 | 大華璵 | 794年 |
康王 | 大嵩璘 | 794年–808年 |
定王 | 大元瑜 | 808年–812年 |
僖王 | 大言義 | 812年–817年 |
簡王 | 大明忠 | 817年–818年 |
宣王 | 大仁秀 | 818年–830年 |
大彝震 | 830年–857年 | |
大虔晃 | 857年–871年 | |
大玄錫 | 871年–895年 | |
大瑋瑎 | 895年–907年 |
以上で日本と渤海、渤海と日本の交流を、交通路とクラスキノ城を中心に検討してきた。高王・大所栄が渤海を建国した後、渤海は周辺国との交流を持続的に推進した。これを象徴する代表的なものが交通路の設置であり、日本道は、渤海と日本との間の活発な交流を象徴する。高王が建国して基盤を確立した後、第2代武王からなされた渤海便の日本派遣は、はじめから使節団の人命損失と船舶破損などの災いが続いた。渤海は、34回使節を日本に送り、日本は渤海に13回使節を派遣した。渤海と日本が展開した東海を横断する交流は、単純な海の往来ではなく、両国間の国家政策が裏付けたものであった。特に、日本の史書に記された渤海使の往来の様子は、渤海人が直接残した記録がない中で貴重な実録である。高句麗の故地を修復して扶余の風俗を有することを強調しているように、渤海は高句麗の継承と周辺国との緊密な交流政策を通じて、建国の正当性と東アジア史の構成員であることを内外に伝えることに努めた。
渤海から日本に行く道は、上京城から出発した後、東京すなわち現在の琿春を経由して現在のクラスキノである塩州城から東海にでる方法と、成鏡道を想定できる。
渤海と日本との交流の窓口の役割を果たしたクラスキノ城と福良港を中心に、渤海と日本の交渉を検討した。渤海から日本に行く出発地は、不凍港か否かをめぐってクラスキノ城、富居里などまだ議論がある。しかし、不凍港の問題に集中した東京龍原府の所在については、広義の概念設定が必要な時点である。また、渤海使節の日本到着地は、8世紀には加賀以北の北日本、9世紀には西日本であった。こうした到着地の変化には、東海横断航路の歴史と東アジア国際情勢などが影響を及ぼしたものと解釈されるこ 結局、潮海と日本の交流の核は、東京龍原府から東海を経由して日本列島に続く日本道に帰結する。したがって、日本道は渤海と日本の交流史の中心地と設定される。
いまから1000年前、渤海は、南側には新羅、西側には唐、北側には黒竜江を含む沿海州北方、東側には東海を越えて日本と交流する海東盛国であった。こうした渤海の位相のよく分かる場所の一つが、クラスキノ城である。クラスキノは、現在でも中国の琿春から沿海州のジャルビノ・スラビヤンカ・ウラジオストノクに、北にはウスリースクを経て北部地域にまで至る要衝である。それこそ、沿海州を南から北につなぐ動脈の出発点であり、漸毎の時期にもあったもう一つの渤海大路である。渤海を通じて再び形成された東アジア史の宝庫である。
渤海時期に活発に展開されたクラスキノ城と日本列島の間の交流は、現在、この時代の韓日交流の里程標として位置づけられている。