第3章・古代三国の社会と政治

■魏晋南北朝時代と朝鮮三国

 朝鮮半島を中心に国家を形成した高句麗・百済・新羅・加耶諸国の歴史と文化を学ぶ。中国大陸では西晋以後、諸族・諸王朝が乱立し、複雑な様相を呈した、いわゆる五胡十六国・南北朝時代に突入するが、高句麗・百済・新羅・加耶諸国の国家形成過程を、中国王朝との関係をふまえつつ考察する。また、高句麗・百済・新羅の文化の特質を、共通点や差異点を意識しながら理解する。 

▶︎高句麗の発展と試練 

 魏の攻撃によって壊滅的な被害を受けた高句麗(コグリヨ)ではあったが、国家体制の整備などを通して、発展を遂げていくことになる。その一つが官位制の再編・整備であった。三世紀の高句麗には五部を前程とした族制的な10等の官位が存在していたが、高句麗の国家的発展を迎える四世紀前半頃、国王を中心とする13等の官位制が整備された。

※高句麗五部(こうくりごぶ)は、高句麗において5つに編成された部族である。 高句麗は建国時より多数の部族により形成されていたが、故国川王は高句麗内の部族を5つ(五部)に再編することを命じた。内部(桂婁部、黄部とも)北部(絶奴部、後部とも)東部(順奴部、左部とも)南部(灌奴部、前部とも)西部(消奴部とも)

 これは五部を前提としつっも、国王を頂点とする一元的な身分秩序に編成しようとしたもので、これによって王権を支える基盤が拡大・強化され、その後の高句麗の発展を支えることになった。この高句麗の官位制百済や新羅、日本に大きな影響を与えた。対外的には楽浪・帯方二郡に対する軍事的圧力を強め、三二二年、ついに楽浪郡は平巌がら遼東へ撤退し、ほどなく、帯方郡も遼東へと移転した。約420年に及ぶ中国王朝の朝鮮半島支配はここに終焉を迎えた。高句麗は楽浪・帯方地域を手に入れ、朝鮮半島南部への進出の足場を築いたのである。

 

 この高句麗に立ちはだかったのが、遼西で勢力を拡大させつつあった五胡十六国の雄、鮮卑族の慕容 皝(ぼようこう・337年 – 348年)であった。燕王と称し、中原への進出を企図していた前燕の君主・慕容 皝は、遼東方面に勢力を拡大する高句麗を警戒していたが、342年、五万の大軍を派遣して高句麗を攻略した。迎撃した高句麗軍を撃破した前燕軍は、高句麗王都を陥落させ、前王の美川王(びせん・在位、300〜31)の墓を暴き屍を奪い、王の妻と母・珍宝を掠(かす)め丸都城を破壊して宮殿に火を放って凱旋した。翌年、故国原王(ここくげん・在位、331〜371)は前燕に臣従し、その冊封体制下に入り父の屍を取り戻し、この難局をしのいだ。人質となっていた王母は一四年間前燕に留め置かれた。

 だが、苦況はさらに続いた。今度は高句麗の南方、百済「ヘクチエ)との対立であった。成長著しい百済は北上して平壌を攻撃したが、迎撃した故国原王は流れ矢にあたり戦死を遂げた西方・南方の二方面での軍事的対立の激化によって高句麗は試練の時を迎えた。

 続く小獣林王(しょうじょうりん・在位、371〜384)は、国力の回復を図り、律令を制定し、大学を設け、次の故国壊王(ここくじょう・在位、384〜391)は国社・宗廟を建て礼制を整備するなど、国利の整備・充実に努め、国難の克復を図った。

 こうしたなかで登場したのが、広間土王(在位、391〜412)であった。その王号の如く、広間土(こうかいど)王は高句麗の領域を飛躍的に拡大させ、高句麗最盛期を現出した。高句麗旧都である中国吉林省の集安に現在も屹立 (きつりつ・高くそびえ立つこと)する「広間土王碑」(414年建立)には、王が親征して百済やその同盟国である倭、任那加羅(みまなから)、安羅(あら)、さらには稗麗(ひれい・契丹の一部族)を撃退し、粛慎(しゅくしん)、東夫余(ふよ)、新羅(しらぎ・シルラ)などを勢力圏に収め、領土を拡大したことを刻記している。この王碑には伝えられていないが、広間土王は遼東の方面にも勢力を伸張させ、遼河(りょうが)以東を領有化した。

 これを継承し、より発展させたのが、その息子の長寿王(在位、413〜91)であった。長寿王は、四二七年、国内城から南方の拠点であった平壌へ遷都するとともに、中国の南北王朝のいずれにも使者を派遣し、南北王朝の対立を巧に利用して外交を展開し、国際的にも高い地位を得た。こうして中国王朝との関係を安定させた上で、積極的に南下政策を断行し、朝鮮半島南部の百済・新羅らを圧倒した。

 475年には百済の主都・漢山城を陥落させ、蓋滷王(がいろ・在位、455〜75)を殺害して漢江(ハンガン)以南をも領有した。その領土は、西は遼河、南は朝鮮半島中南部にも及び高句麗史上最大となった。

 

 その後の文書明王(在位、492〜519)代も高句麗は朝鮮半島の北の大半を支配し、北の大国として君臨していたが、衰微の兆しが見えてきた。531年には安臧王(あんぞう・在位、519〜31)が殺害され、次いで即位した安原王(在位、531〜45)の末年には、王の病を契機に王位継承をめぐる外戚間の武力抗争が勃発し、乱中、王が死去した。八歳で王となった陽原王(在位、545〜59)代には丸都城で反乱が起こるなど王権が弱体化した。さらに、新羅が勢力を拡大して、高句麗領を侵蝕し、高句麗が70年余りにわたって支配してきた漢山城地域は新羅と百済軍によって奪取された。こうした情勢に対応するために、陽原王は552年、王都を平壌市内に移した(長安城)。堅固な城塞都市である新都で高句麗は激動の七世紀に突入し、終焉を迎えることになる。

▶︎百済の成立・発展

 この高句麗と敵対し続けたのが百済であった。百済は馬韓諸国の一つ伯済国から発展したと考えられ、楽浪郡・帯方郡の朝鮮半島から遼東への撤退を画期に、周辺諸国を糾合して四世紀中頃までには勃興し、漢山(ソウル)に王都を置き、国家の基礎を固めた。当時の朝鮮半島には、楽浪郡・帯方郡の遼東移転以後も朝鮮半島に滞在し土着化した漢人や、中国大陸の戦乱を避けて新たに朝鮮半島に流入した漢人などが存在していたが、彼らは百済王権に取り込まれ、百済の国家形成に大きく寄与したと考えられる。

 こうして興起した百済を待ち受けていたのが、朝鮮半島北部を支配し、強力に南下政策を推し進めていた高句麗との対立であった。それは四世紀半ば、近肖古(きんしょうこ)王代(在位、346〜375)頃から激化していくが、百済は高句麗に対抗するため、朝鮮半島南部沿岸部の安羅(あら・咸安・かんあん)・卓淳(とくじゅん・昌原・しょうげん)・金官国(きんかん・金海)らと通交した。さらにこれら諸国を媒介にしてその南の倭にも接近した。石上神宮(奈良県)所蔵の七支刀は、こうした百済の対倭外交の過程で、369年に百済で製作され、372年頃、倭王に贈られたのであった。

 こうして加耶諸国や倭と連携を強めつつ、高句麗と敵対した百済は、371年、平壌城の戦闘で高句麗の故国原王を戦死させると、その翌年には使者を東晋に派遣して、はじめて国際社会に登場し、東晋から鎮東将軍などの官爵号を受けた。これ以後も百済は主に南朝諸王朝と通交し、南朝冊封体制下で国際的な地位を築いていった。このように百済は高句麗に対抗するために加耶諸国や倭との連携を強め、南朝と通交したが、これはその後の百済の基本的な外交戦略となった。

 だが、高句麗との対立は、百済をたびたび苦況に陥れることとなった。396年、広間土王率いる高句麗軍によって五人城・村七百が奪取され、阿華王(あか・在位、三392〜405)は高句麗への忠誠を誓わされ、王弟・大臣が連行された。百済はすぐさま倭と結んで反旗を翻し高句麗との対立姿勢を強めていった。しかし、平壌に遷都して強力に南下政策を進める高句麗の前に百済は苦しみ続けた。472年、ついに百済はこれまで通交のなかった北魂に使者を派遣し窮状を訴えたが効果もなく、その三年後の475年、高句麗の攻撃を受け、王都は陥落し、蓋滷王(がいろ・在位、455〜75)は殺害され、百済は一時滅亡したのであった。

  難を逃れ、錦江(きんこう)上流の熊津(ゆうしん・公州)へと商運した百済王族・支配者層たちは文周王(在位、475〜77?)を擁立し、百済は復興を果たした。遷都後しばらくは文周王の殺害や権臣の反乱などがあり王権は安定せず、王権の伸張を図った東城王(在位、479〜501)501年、臣下によって殺害されたが、武寧(ぶねい)王(在位、501〜23)は反乱を鎮圧し、政治不安を克復していった。この間、東城王は対南朝外交を展開し、王や臣僚への官爵授与を要求し、外交を媒介にして王権の強化に務めるともに、新羅と婚姻を結び高句麗に対抗した。さらに朝鮮半島西南部に本格的に進出し、耽羅(たんら)とも通交した。武寧王もこうした南進政策を加速させ、朝鮮半島南西部へ領域を拡大させた。こうした百済領域内には櫓魯(たんろ)と称される22の拠点が置かれ、王の宗族が派遣された。

※櫓魯制度・・・王家の親族が、地方の有力都市や新たに獲得した土地に領主として派遣される。そして、それらの領主は王族だけに、王位継承権をも持つ。

  続く聖王(在位、523〜54)は、さらに南の泗沘城(しひ・扶余)遷都して、国号を南扶余とし、王都と地方をそれぞれ五つに分割して統治する支配制度(五部・五万制)を導入した。さらに佐平(さへい)を長官とする中央官僚制度(6佐平・22部司制)や佐平以下、十六等からなる個人的身分制である官位制もこの頃、完備し、国家体制の基盤が整備された(上図左右)。こうして泗沘遷都して国力を充実させた聖王はさらなる加耶地域への勢力拡大を図ったが、同地域への軍事的侵攻を強める新羅に阻まれ不首尾(よい結果が得られない)に終わった。また、北進して新羅と連合して高句麗を撃破し、漢城を奪取したものの、新羅によって同地を奪取され、聖王の外交戦略は失敗に帰し聖王自身も新羅との戦闘の過程で戦死した。

▶︎新羅の台頭

 新羅は辰韓12国の一つ、慶州(けいしゅう・キョンジュ)の斯慮(しろ)国を基盤に国家を形成した。377年には北朝の前奏に朝貢して、はじめて国際舞台に登場した。だが、これは高句麗に伴われてものであり、独力で中国王朝と通交するにはまだ時間を要した。むしろ、「広開土王碑」に、百済と同盟して高句麗に対抗する倭からの侵略に苦しむ新羅高句麗に援助を要請した、と伝えられているように、新羅は北方の高句麗と海を隔てた倭の軍事的圧力に苦しみ高句麗へ従属しながら、国家的成長をとげていった。

 だが、五世紀中ごろ以後、新羅は高句麗の従属下からの離脱に転じ高句麗と敵対する百済に救援軍を派遣するなど、百済と同盟して高句麗との対立姿勢を強め、六世紀には高句麗領を侵蝕するようになっていった。一方、国内でも六世紀以後、王権が強化され、諸制度が整備され、その後の新羅伸張の基盤が形成されていった。上古・中古・下古からなる独自の時代区分法によって新羅の歴史を区分する「三国遺事(さんごくいじ)」(13世紀)は、この6世紀初めからの約150年を、「中古」とし、それ以前の「上古」と区分する。

 法興王(ほうこう・在位、514〜40)は、王都六部の人を対象とした17等の官位である「京位(けいい)」と、地方人を対象とした11等の官位である「外位」を確立し(上表)、こうした官位制とそれにともなう衣冠制の制定を中心として、政治運営の基本を定めた法規定である「律令」を頒布した。また、軍制も整備し、独自の年号を創始した。外交では百済に導かれながらも、約140年ぶりに中国王朝と通交するとともに、加耶諸国への進出を強め、金官国を滅ぼした

 

 続く真興王代(しんこう・在位、五四〇〜七六)も積極的な対外拡張政策を断行し、552年には百済が約70年ぶりに高句麗から奪回したソウル地方を奪取すとともに、朝鮮半島北東部の高句麗領を侵奪していった。さらに、562年には大加耶を滅ぼし、加耶諸国を掌中におさめた。こうして新羅は飛躍的に領土を拡大させ、その領域は高句麗・百済の間に割って入り、西海岸に到達した。これによって新羅は独力で対中国王朝外交を行うことが可能となり、564年には北斉へ、568年には陳へ使者を派遣し、南北両王朝との通交を果たし、その後も積極的な対中国外交を展開するようになった。

 新羅はこれら領域に上州・下川・新州を設置し、軍主を派遣した。また、在地首長を村主に任命し、州−郡−城・村の軍政と民政が一体となった統治体制を整えていった。

▶︎加耶諸国  

 朝鮮半島南部の洛東江流域を中心とする地域には、弁韓以来の伝統を持つ諸小国が併存していた。これら小国家群を加耶諸国という‥加耶諸国は楽浪・帯方郡以来の東アジア海上航路における幹線ネットワークの要衝に位置し、早くから海上交易などで栄えたが、政治的結合を果たすことはなかった。ただし、それら諸国のいくつかは連盟体を形成して大国に対抗することもあり、三世紀の狗邪国(くや)を前身とし、古来、日本列島との通交の中↓的役割を果たした金官国(金海)は、豊かな鉄資源と生産技術を背景にいち早く頭角をあらわして、四世紀には洛東江下流域を中心に盟主的な地位を築き、百済・倭と結び、高句麗とも抗争した

 五世紀後半になると、金官国に代わって大加耶(高霊・こうれい)が台頭した。大加耶は四七九年には南斉に朝貢し、「輔国将軍・加羅国王」に冊封され、盟主的存在として君臨した。だが、熊津への遷都以後、積極的に加耶地域へ進出を図る百済は、六世紀初頭に蟾津江(せんしんこう・ソムジンガン)流域を奪取するなど、加耶諸国に対する軍事的圧力を強めた。大加耶は新羅との婚姻関係を結び百済に対抗しょうとしたが、新羅はこれに乗じて加耶諸国への侵攻を強め532年には金官国を滅ぼし。その後、危機感を募らせた加耶諸国は百済や倭と連携して新羅の侵攻に対処しようとしたが、562年新羅軍の攻勢の前に大加耶も滅亡し、新羅に編入された。

■朝鮮三国の政治と社会

▶︎高句麗の社会と文化

 漢の郡県への服属・抵抗の過程でいち早く国家形成を遂げた高句麗では、居住地である平地での拠点に加え、逃げ城としての山城を築き、王都は平地の王城と背後の山城が一体となって形成されいた。建国初期の王都であった桓仁(かんじん)では五女山(ごじょざん)城とその東の蛤(らっこう)城が、その後、三世紀初めから王都となった集安では丸都山城(山城子山城)国内城が、427年の平壌遷都以後では大城(だいじょう)山城と清岩里(せすがんり)土城がそれぞれセットとなり、王都を構成した。六世紀後半以後、王都となった長安城平壌市内に造営されたものであったが、大同江北岸の丘陵を利用した総長約23キロの平山城(ひらやまじろ)で、それまで分離していた平城と山城を一体化させて、北城・内城・中城・外城に区画し、防禦力を高めた都城であり、高句麗伝統の王都のあり方を踏襲し、発展させたものであった。こうした平城と山城のあり方は新羅などにも影響を与えた。

 王都には支配者集団である五部が集任していたが、平壌遷都を契機として、それまでの族制的なものから王都の行政区分(内部・東部・西部・南部・北部)として改編され、五部には長官として褥薩(じょくさつ・地方官)が置かれた。

 王都の周辺の鴨緑江中流域大同江流域には墳墓が造営された。高句麗の噴墓は積石塚(つみいしづか)と石室を作って土で覆った封土墳(ほうどふん)に区分される。積石塚のなかには、整形した割石をピラミッド状に積み上げた一辺約50m以上の巨大墳もあり、古都集安には現在でも、王陵と考えられる将軍塚、太王陵、千秋塚などが残っている()。平壌遷都以後、積石塚は次第に衰退していき、それにかわって石室封土墳が平壌を中心に多数造営された。これら墳墓のなかには壮麗な壁画を描いた壁画墳もあり、集安に20基、平壌地域に60基ほどが確認されている。壁画は中国の影響を受けつつも独自の発展を遂げた高句麗文化を現在に伝えている。

 これら壁画には仏教的要素が認められるが、高句麗では四世紀後半に仏教が伝えられ、寺院も建立された。現在、平壌付近の数か所で定陵寺や上五里廃寺などの寺院址が発見されている(上図)が、高句麗では塔の周辺に3金堂を配置する一塔三金堂の伽藍配置の寺院が造営された。

 高句麗の僧侶のなかには厩戸皇子の師となった慧慈(えじ)をはじめ雲聡(うんそう)・曇徴(どんちょう)などのように倭に派遣されたものもあり、高句麗仏教は国際的な広がりをみせ、倭にも影響を与えた。

 儒教もまた早くから受容され、372年には大学を建て貴人の子弟を教育した。また、堂(けいどう)と呼ばれる大屋も作られ、青年の教育にあった。また、高句麗人自身によって『留記」(100巻)、それを改編した『留記』(五巻) などの歴史書も編纂されたという。

 こうした中央に対して、地方では、要害(地形がけわしく守りに有利なこと)の地に山城が築かれ、地方支配の拠点とされ、山城を中心とする防禦体制が構築された。中央からは大城に褥薩(じょくさつ・軍主)−可邏達(からたつ)、諸城には処閭近支(しょりょきんし・道使)・可邏達(からたつ・地方官職)が派遣され、体系的な統治機構が整えられた。高句麗で発達した山城は、百済・新羅・加耶諸国・倭にも影響を与えることとなった。

※7世紀には南部,北部など地方軍政区画としての五部があり,部の長官を褥薩(じよくさつ),その配下の城主を処閭近支(しよろきんし)・道使といい,高句麗の滅亡時には五部176城あったという。

▶︎百済の社会と文化 

 百済は4世紀中ごろ漢城(ソウル地方)を拠点として成長したが、最初の拠点は漢江南岸の風納洞(ふうのうどう)土城と推定される。南遷後の熊津(公州)・潤批(扶余)も同様な立地で、いずれも一方が錦江を望む丘陵に城壁をめぐらした王都であった。熊津城錦江上流南岸の公山に全長約2.5kmに及ぶ城壁をめぐらし、その周辺には山城も造営され、王都を守護した。錦江中流の扶蘇山に位置した洒批城は錦江に接する北側に山城(扶蘇山城)が築かれ、その南麓には王宮や官庁などが造営され、都城の周囲約12キロにわたって羅城が築かれた。また、王都周辺に山城が築かれ、主都防衛の拠点としての役割を担った(下図)。
 

 洒批王都内は、地域区分として上・下・中・前・後の5部に区画された。部は5(こう・むらざと。まち)からなり、王都全体は25巷で構成されていた。また、部ごとに兵員500人が動員され、5部は軍管区としても機能していた。一方、洒批時代の地方は、それ以前の王の子弟などを派遣した檐魯制(たもろ・檐魯<あらたに開かれた土地>の統治に王族の子弟を任命する制度)にかわって、北・中・南・東・西方の五つに区分された(五方)。この広域的行政区域には拠点城となる方城として、熊津城(北方)・古沙城(中方)・得安城(東方)・刀先城(西方)・久知下城(南方)があり、方領・方位が派遣された。方城のもとには6、7から10の郡が、さらにその下には城が統属し、郡には郡将、城には城守(道使)が派遣された。また、熊津城から洒批城への遷都期の国家組織の整備にあわせて、王のもとに一元的な身分制としての16等からなる官位制も整備された。官位に応じて服色・冠色が定められており、官僚制の基盤として機能した。

 

 王部局辺には支配者層の墳墓が造営された。百済では当初、積石塚が支配者層の墳墓として造営されていたが、熊津(ゆうしん・ウンジン)時代には横穴式石室墳が主流となり、さらに南朝の影響を受けて、室墳も築造された。公州宋山里(そうざんり・ソウサンニ)古墳群で発見された武寧王陵はその典型で、1971年に未盗掘の状態で発見された王陵の内部からは、「寧東大将軍の百済斯麻王(しま・武寧王(ムリョンワン、462年 – 523年))(下図)が62歳で癸卯(きぼう・523)年五月七日に屍去した」と伝える墓誌とともに、武寧王陵二土妃の冠飾り、華麗な装身具など約三〇〇点が発見され、当時の百済文化の一端をかいまみせている。四神を描いた壁画墳とともに仏教の定着にともなう火葬墓も造られた。

 百済へ仏教が伝えられたのは四世紀後半であるが、熊津遷都以後、大通寺が建立され、潤批遷都後は、中国に 「僧尼・寺塔甚だ多し」と伝えられるほど仏教が盛行し、林(じょうりん)寺・王輿(おうこう)寺、軍守里(ぐんしゅり)寺址など二十余の寺址が建立された。また、百済からは新羅や倭へ工人が派遣され、それら諸国の仏教文化形成に大きな影響を及ぼした。

 四世紀後半、高興(こうこう)が歴史書『書紀」一を編み、王仁(わに)「論語』・「千字文」を倭に伝えたと記録されていることから、百済人たちは早くから漢文や古典に習熟していたと考えられるが、聖王梁に使者を派遣して「毛詩(もうし・詩経)博士」などを求めるなど、儒教の古典の習得にも力を注いだ。また、陰陽五行暦学、天文地理、医薬、占卜などにも通じ、熊津時代には五経博士が倭に派遣され、日本にも伝授された。近年、旧百済地域からは多数の木簡が出土しているが、それによって古代日本における文書が百済の影響のもと作成されたことなども判明してきている。

▶︎新羅の社会と文化

 新羅は高句麗・百済とは異なり、建国から滅亡まで一貫して慶州(けいしゅう)を都とした。南川に臨む丘陵に築かれた片城(半月城)を王宮とし、その北に官庁が造営された。王京の周辺には明活山城、南山城などいくつかの山城が築かれ、羅城をもたない王郡の守護を担った。(下図)

 王都の豪州盆地には部(たくぶ)・沙啄部(さたく)牟梁部(むりょう)・本彼部(ほんぴ)習比部・漢岐部(かんきぶ)と称する六つの地域(6部)があり、そこに居住した人々は政治的集団として自立的性格を持ちながら、外部に対しては王京人として結束しつつ、支配者層を形成していった。これら六部人たちは六世紀初めに成立した17等の官位である「京位」を授けられた。それに対して地方民(服属民)には11等からなる「外位」が授与され新羅の身分制に再編された。新羅は京と外を区別する二重構造身分制を作り上げたが、外位の①嶽干(がくかん)は京位の⑦一吉湌(いちきつさん)に相当するなど(下表)、王京人は地方人に対して優位性を保ち続けた。

 また、新四椎の領域拡張にともなう服属民の王京移住増加の過程で王京人のみを対象とする族制的身分制である骨品制が創出されたが、これは官位制とも連動し、階層による就任官位を規制した。統一後、外位は廃止され、官位は一本化されたが、骨品制は整備されて新羅滅亡まで存続し、王京人の特権は保持され、王京人は優遇され続けた。

 王都である豪州では多数の古墳が造営された。新羅の古墳は地下や地上に木槨(もっかく)を組み、そのなかに棺と副葬品を内葬し、その周囲に石を積み上げ封土を盛った構造で、積石木槨と呼ばれ、四〜六世紀前半まで造られた。これら墳墓からは金冠をはじめ華麗な金銀装飾品・ガラス類などが多数出土している。

 新羅の仏教は高句麗・百済より遅れて受容されたが、法興王代に仏教が公認され興輪寺創建されて以後、永興寺・皇龍寺・霊廟寺など次々と寺院が建立された。このなかでも新羅仏教の中心となつた皇龍寺は553年に着工され、17年を費やして完成した巨刹(きょさつ)で、646年には九層木塔が完成し、護国寺院の象徴とされた。

 真興王は積極的に仏教の受容に務め、551年には高句麗から恵亮(えりょう)を迎えて僧統とし、八関会(はつかんえ)などの仏教行事を行った。また、巡幸の際に、仏僧を随行させるなど、僧侶の登用や統制に留意するとともに、自身も晩年剃髪(ていはつ)し、法雲と号した。

 こうした仏教の広がりのなかで多くの留学僧が現れた。そのなかでも円光にわたり、涅槃などの仏教を治め、帰国後は隋へ高句麗討伐を要請する乞師表(きつしひょう)などを作成した。慈蔵(じぞう)もまた求法僧として唐に渡ったが、新羅の危機に際して帰国し、国政に参加して唐の衣冠制・年号の導入などに努力するとともに、大国統となり、僧尼の統制、戒律を整備した。円光や慈戒は内憂外患のなか、積極的に政務に参与し、大きく貢献したのであった。


参考ビデオ (大和の国と古代朝鮮半島との関わり)