日本人はどこからやってきたのか?

■中国に初の統一国家が誕生

▶︎北東アジアに人類出現

 北東アジアで現在のところ猿人の存在は確認されていない。原人については、中国で化石人骨が発見されている。古地磁気測定によって、もっとも古いとされているのは、雲南省元謀で発見された約170万年前の元謀(げんぽう)原人だ。それから約100万年後に出現したのが陝西省(せんせいしょう)で発掘された藍田(らんでん)原人で、彼らが使用した石器もみつかっている。

※元謀(げんぽう)原人  1965年雲南省北部の険しい山の中にある元謀県上那蚌村の西北にある小高い丘の上で2本の人の上顎門歯が発見された。1973年歯が見つかった近くの地層で7つの石英の石器と動物化石と炭化した火の使用の痕跡が発見された。1976年7月25日これらの化石は古磁気測定によりおよそ170万年前とされた。

 その次に現れるのが約50万年前に活動していた北京原人。北京原人をモンゴロイドの始祖とする説もあったが、現在は遺伝子学などで否定されている

 これら前期旧石器時代の原人は子孫を残すことなく絶滅した。

 朝鮮では、平壌市大?(テヒョンドン)洞遺跡で出土した化石人骨がもっとも古い力浦(ヨクポ)人という旧人で、約10万年前に存在していた。ただし、人骨は発見されていないものの、前期旧石器時代に人類が存在したことを示す遺跡がある。屈浦里(クルポリ)下層、龍谷(ヨンゴク)洞窟、コムンモル、全谷里(チョンゴンニ)、龍湖洞(ヨンホドン)、竹内里(チュンネリ)などの遺跡である。

 なかでももっとも古いのが全谷里遺跡で、ここで発見された握斧(あくふ)は、極東で最初に確認された前期旧石器時代の典型的なハンドアックスだった。従来、前期旧石器時代は打割器文化圏と握斧文化圏に分けられ、極東には握斧文化はなく、圏外と考えられていたが、その定説を覆す大発見であった。

*ハンドアックス‥前期石器時代の代表的な石器。手で握って使用した手斧

 晩達里(マングリ)遺跡(平壌市)では、後期旧石器時代の地層から化石人骨が出土し、晩達(マングル)人と名付けられた。これは新人に属している。新人が登場した後期旧石器時代には、*剥片尖頭器(はくへんせんとうき)が発明された。

*剥片尖頭器 岩や黒曜石などを加工して、木の葉状にして棒の先にくくりつけ、槍として狩猟に用いた

 新人は、その遺伝子によって黒人種、白人種、モンゴロイドなどに選別できる。モンゴロイドは、バイカル地域を中心に拡散したとみられる。

▶︎縄文人が日本へ移動 

 この時代の地理は現在と異なり、朝鮮半島は大陸の一部で、日本も北海道が樺太経由でユーラシア大陸とつながっていた。対馬は交通の中継点であったと考えられ、考古学では対馬陸橋と呼ぶ。

 人類はいくつかのルートをたどって日本に到達した。例えば、

①中国の北部・南部から朝鮮半島、対馬を経由したもの、

②中国から東シナ海を渡航、

③ジャワ島や南方諸島から口本の西南諸島に漂着して北上、

④モンゴル高原からアムール川を渡って樺太経由、などがある。

 その後、弥生時代にもロシア、モンゴル、中国東北部から朝鮮半島、対馬を経して人類が日本へ渡ってくるが、これを弥生人と呼び、既に定住していた人々を縄文人という。

▶︎後期旧石器時代の技術交流

 日本列島では、前期・中期旧石器時代の遺物は発見されていないが、後期旧石器時代の遺物は発見されている。

 剥片尖頭器に関しては、鹿児島県の上場(うわば)遺跡(出水市)、前山遺跡(鹿児島市)宮崎県の山田遺跡(延岡市)など数カ所で出土している。こうした剥片尖頭器は、2万5000年前に噴出し、朝鮮まで降灰した姶良丹沢(あいらたんざわ)火山灰の地層の上にあるのが特徴だ。

 一方、朝鮮では垂陽介(スヤンゲ)遺跡(忠清北道・チュンチャンプクト)から40点ほどの剥片尖頭器が出土し、それは日本のものと酷似していた。ほかに古礼里(コレリ)遺跡慶尚南道・キョンサンナムド)からも10点、出土しているが、これは朝鮮の姶良丹沢火山炊層よりも下層で発見されたため、製造年代は日本のものよりも古いと分かった。

 このことから、2万5000年前朝鮮から剥片尖頭器の製作技術をもったモンゴロイドが、九州から本州西部に渡り、その技術を伝え、在来の集団と接触、交流したと推察される日朝人類史上初の技術交流であった その後、約1万5000年、気候温暖化により、海進現象(下図 -7mとして計算された地図)で朝鮮半島と日本列島が形成された。

▶︎商族の契が商王朝を建国

 新石器時代、極東では土器の使用がはじまる。黄河下流域では、紀元前3000年頃、現在の陶器と同じ製法が既に開発されていた。すなわち、こねた土をろくろで成形、高温で焼成するものだ。できあがった陶器の色から、黒陶文化と呼ばれる。

 黒陶文化をもつ氏族はそれぞれ村(邑・ゆう)を形成していたが、そうした族邑はおりにふれ対立、抗争した。戦いに勝った族邑は、負けた部族を属邑として隷属させ、版図を拡大してゆく。

 なかでも「商」と名乗る氏族は、黄河流域の氏族を支配下に収めつつ、上流へさかのぼり、勢力を拡大していった。

 伝説によれば商族の首長・契が中国を統一、商王朝を建てたという(「史記」ではこれを王朝とし、中国の史書には殷商と表記する例もある)。

 河南省安陽市は、商の最後の首都(『史記』でいう殷墟)と目されていたが、確証はなかった。1899年、甲骨文字の刻まれた亀甲獣骨が発見されると、1928年から本格的な発掘調査がおこなわれ、1976年には完全な状態で保存されていた王妃の墓が発見された(22代王・武丁(ぶてい)の妃、婦好(ふこう)の墓)。そこに埋蔵されていた甲骨文字の解読が進むにつれ、この時代の政治、祭祀、農耕、狩猟などの実態が、『史記「上の内容と一致することが確認された。

▶︎新石器時代の日朝交流

 新石器時代、朝鮮半島では、櫛目文土器といって、櫛の歯のような模様のある土器が登場する。この土器を食糧の保存に用い、人々は漁労と狩猟を生活の基盤とした定着生活をはじめる。同時期、日本列島では縄文土器が生まれ、定着生活がはじまった。

 この頃、朝鮮と日本との間に漁労面での交流があった。それを証明する遺物が結合式釣針である。朝鮮で使われた「山里型(おさんにがた)」という結合式釣針が熊本県天草の遺跡から出土しており、一方日本で使われた「西北九州型」という結合式釣針が上老大島(サンノテド・慶尚南道)の遺跡から発見されている。

釣針の直線部分(軸)と曲線部分(針)とを別々につくり、二つを糸などで結合させ漁具にしたもの。日本と朝鮮でその様式が違う

 縄文時代、物々交換や技術交流がおこなわれていた証拠である

▶︎武王が商を滅ぼし周を建国

 商の紂王(ちゅうおう)妲己(だっき)という稀代の美女を寵妃(ちょうひ・特にかわいがっているきさきや婦人)とし、彼女の気をひくために豪華な宴にふけった。「酒池肉林(しゅちゅにくりん・豪奢(ごうしゃ)な酒宴)」である。

 前11世紀頃渭水(いすい)流域で勢力を拡大していた周族の武王は、紳士と坦己を殺し、商王朝を滅ぼす。

 武王鎬京こうけい・陝西(せんせい)省西安市の南西)を都と定め、周王朝を建てる。周は諸国を治める諸侯を血縁(宗族)で固めようとした。ところが、政権が長期化するにつれ、血縁による維持が難しくなり、求心力を失ってゆく

 前770年、西方からの異民族の侵入に悩まされていた周の平王は、鎬京から東の洛邑(河南省洛陽付近)へ遷都する。周王朝の権威は衰えていたが、諸侯はこの王室を権力の象徴として擁護する代わりに政権を握り、異民族の春秋五覇と戦国の七雄侵入を防ごうと考えた。その覇権をめぐつて諸侯が争うようになる。春秋時代のはじまりである。

 まず、斉の桓公(かんこう)が名宰相・管仲(かんちゅう)の政策を用いて覇者となった。その後、文公(晋)、荘王(楚)、勾践(越)、夫差(呉)と続く。これを「春秋の五覇」という。

 春秋時代初期、中国には群雄(ぐんゆう・多くの英雄)が割拠し、140余りの小国下克上の戦いを展開していた。諸侯の抗争は覇者をもってしても収拾不能であった。

 前403年晋から分裂した韓、魂、趨が諸侯として地盤を固め、戦国時代へ。この三国を中心として外周を囲む北の荘川東の斉南の楚西の秦「戦国の七雄」と呼ばれた。

▶︎秦の始皇帝・政の国家体制

 戦国の七雄から抜きん出たのは、もっとも西方に位置していたであった。

 では孝公(こうこう・初代王)の時代に仕えた商鞅(しょうおう)が法整備と大規模な国政改革をおこない、いちはやく中央集権化と富国強兵策をとる。

 戦国時代の中国では、まだ封建制度が根強く残っていて、王侯貴族による血族支配一般的だった。ところが秦にあっては、たとえ庶民でも戦争で手柄をたてれば爵位が与えられ、逆に無能な貴族は権利を剥奪された。それを法律で定めたのである。

 紀元前247年荘嚢王(そうじょうおう)の死により、太子だった政(せい)が即位する。政には、不韋(りょふい)李斯(りし)など有能な側近が控えていて、その進言により国家統一に向け東進を開始する。

 前221年、秦は戦国に終止符をうち、天下を統一した。秦王政(せい)は王の称号を皇帝と改め、自ら始皇帝を名乗った。自称する場合は「」を使い、この語を皇帝以外が使用することを禁じた。この慣例は以後も受け継がれ、中国の歴代皇帝は朕と自称した後に日本にも導入され天皇だけに許された自称となる

 奏では郡県制がしかれ、その統治を諸侯(地方豪族)ではなく、王から任命された官吏に託す中央集権的官僚体制をとっていた。統一後もこれにならい全国を三六郡(後に四八郡)に分割、各郡の下に県を配置した。

 中央政府には、行政担当の大臣格にじ上うてチつたい.丞相、軍事に大尉、司法に御史大夫を置き、郡には長官格として、守(行政)、尉(軍事)、監(警察)、県には令、長をそれぞれ置いた。これは現代にも通じる三権分立制による政治機構といえる。始皇帝は革新的な統治者であった。

▶︎丞相李斯の統一政策

 秦の政策、制度には、丞相として重用された李斯(りし)が深く関わっている。『史記』の伝えるところによると、李斯は広範囲にわたって、数々の統一政策を浸透させた。

 まず、度(長さ)量(容積)衡(重さ)の単位や貨幣を統一。貨幣に関しては半両銭を鋳造、流通させた。半両銭の名は一両(約一六グラム)の半分(約八グラム)の重さにちなんでいる。

 また、馳道を建設して主要都市間を結び、車幅を統一して交通の円滑化をはかった。暦も統一し、それまでばらばらだった国内の日時が標準化された。

 文字は家書に統一した。これは甲骨文字から発展したもので、後の隷書や楷書など漢字のもとになる。始皇帝の玉璽(ぎょくじ)にならって、中国の歴代皇帝は家書による玉璽を用いた。

 日本においても代々の天皇が業苦による御璽(印鑑)を使用している。

李斯(りし)による文字の統一(例:罵) 斉 楚 燕 韓 越畠プ蒸至旦\ぷ叢書易冶

▶︎始皇帝の実像

 李斯は焚書・坑儒(ふんしょ・こうじゅ・書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする))を提案したことでも知られている‥すなわち、民間に流布された詩経、書経など、春秋戦国時代に諸子百家が著した書物を強制的に没収して焼き払い、儒者460人を坑殺(生き埋め)にした。これを非道な思想弾圧政策とみて、始皇帝を冷酷な独裁者とする史家も少なくない

 もっとも、焚書では医薬、占卜(せんぼく)、農業は除外されたし、四書五経も官吏や学士が所有するものについては免除された坑殺された儒者は、不死の薬を献上するといって始皇帝から巨額の資金を騙し取っていた神仙道を信奉する一派で、純粋な儒教信者はいなかったとする説も為る。

 始皇帝は成陽(挟西省西安市の西北)を都に定め、阿房宮を造営したが、宮殿に留まることは少なく、ひんぱんに諸国を巡幸して人心の統一をはかろうとした。

 前210年、始皇帝は会稽山(かいけいざん)に登り、北上する途中で病を得、邯鄲(かんたん)の東北にある沙丘(さきゅう・河北省平郷県)で崩御した

 

 始皇帝陵は、成陽の東にある驪山(りざん)に築かれた。底辺は東西485m、南北515m、高さ47m。地下宮殿の広さは、長さ約460m、幅約400mという大墳墓である。陵の東方約1.5㎞の地下には兵馬俑(へいばよう)が並べられた。埋納された近衛兵士7000体はすべて実在人物を忠実に模写した陶製で、副葬の戦車、武具は実戦用であった。

▶︎蒙古の長城修復と連緒

 万里の長城は、戦国時代から建設がはじまった。

 『史記によると、戦国時代に中国最東にあった燕(えん)襄平(じょうへい)から造陽(ぞうよう)に至るまで長城を築き、次に趙(ちょう)代(だい)から高闕(こうけつ)までの砦をつくつた。も昭王の時代から断片的な建設をしていた。

 こうした長城を連結させようと考えたのが始皇帝であった。建設を命じられたのは、斉との戦争で大勝し、内史(都の長官)に就任していた蒙恬(もうてん)であった。蒙恬は、30万の兵を率いて河北(黄河の北)へ遠征、東胡(とうこ)山戎(さんじょう)、林胡(りんこ)、楼煩(ろうはん)といった異民族を、かつて燕が築いた長城の外へと撃退した。

 蒙恬は嚢平から造陽までの長城を修復し、流刑の罪人を守備兵にあてた

 その後、蒙恬は造陽と高闕の間を連結させ、高闕から南下して銀川、蘭州を経て臨挑(りんとう)に至るまでの長城を完成させている。

 当時の長城は、黄河の泥と河原に生えている葦をこね合わせてつくつたク土壁〟のようなものだった。高さはせいぜい2mである。敵対する遊牧民族の乗る馬は、小型種で体高も人の背丈と変わらない。要するに、騎馬で飛び越えられない高ささえ確保できていれば事足りたのである。

▶︎長城の外の異民族

 長城の外には、戎(じゅう)・狄(てき)と呼ばれる異民族が住み、その外周には匈奴(きょうど)がいた。それらの民族名は、中華思想にもとづく蔑称(べつしょう・さげすんで言う呼び名)である。『史記』は匈奴について、「馬、午、羊などの家畜を放牧しっつ各地を移動し、その過程で鳥や獣をとって糧とした。酋長以下、家畜や鳥獣の肉を食べ、その皮革を着て、毛織の上着をまとっている。姓と字はなく、実名で呼び合うことを恥としない。文書をもたず、礼儀や道義を知らない。危機がくると弓矢、刀矛を取り、侵入と略奪に出る。形勢が有利とみると進撃し、不利とみるや平気で退却する」などと述べている。

▶︎中国から朝鮮に尊顔麓丈北が流入

 朝鮮半島で定住生活をはじめた人々は、紀元前1000年頃から北方文化(中国東北地域)の影響を受けて無文土器を製作し、並行して流入してきた青銅器を使うようになる。

※無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

 青銅器は当初、装身具として用いられ、新岩里遺跡(平安北道龍川郡)などから銅釦(どうこう・ボタン)が出土している。中国の商(股)か周時代につくられたものが、流れ流れて朝鮮半島に伝わったようだ。その価値は宝石に等しく、勾玉や管玉と同じ扱いで棺におさめられた。

 前人世紀から前四世紀には、銅剣が登場する。楽器の琵琶に似ているところから琵琶形銅剣といわれるが、同形では遼寧省南山根101号墓から出土した銅剣がもっとも古く(前9〜前8世紀初頭)、遼寧式銅剣とも呼ばれている。

 

 松菊里遺跡(忠清南道扶余郡)の石棺には、琵琶形銅剣といっしょに磨製石剣、てきそ石鉄などの石器も埋納されていた。この時期には、まだまだ石器や無文土器が生活用具で、青銅器は一部富裕層のものか、祭祀用に使われていた

 前四世紀から前一世紀にかけて、銅の精錬所が各地に現れた。葛洞(カルトン)遺跡(全羅北道完州郡・チョルラプクトワンジュ)、全羅南道霊石(チョルラナムドヨンアム)、京畿道龍仁(キョンギドヨンイン)などでは、石製鋳型が発見されている。

 こうした精錬所では、主に剣身が細長く直線的な銅剣が鋳造された。形状から細形銅剣と呼ばれ、これは朝鮮半島独自のものである。

 実戦に用いられたのか、祭祀など儀式用であったのか、はっきりしないが、前三世紀初頭には燕から鉄器文化が入ってくる。海峡に隔てられた日本には、この時点ではまだ銅器も鉄器も持ち込まれていなかった。

▶︎地中海で発見された鉄とその影響

 古代人の道具は長い年月の間に、木や石、獣骨を用いたものから、熱を加えて加工した土器、陶器、青銅器へと発展し、鉄にたどりつく。

 最初に鉄を発見したのは、地中海のクレタ島の島民だった。紀元前1500年頃山火事の熱で溶けた鉄鉱石から鉄ができたのをみつけ、つくりはじめた。同時期、アナトリア高原(トルコ)で勢力を拡大しっつあったヒッタイト王国は、クレタ文明を参考にして製鉄方法をあみだし、刀や槍、鋲に鉄を用いた鉄で武装した兵団は向かうところ敵なしで、古代オリエントの覇者となる。まさに、鉄が世界を制したのである。

 また、鉄製品は農業、狩猟などでも飛躍的な成果をあげる。製鉄は古代における偉大な発明であった。

 ヒッタイト王国は鉄鉱石を求めて、極東へ版図を広げようとした。彼らはタタール人と呼ばれ、日本語の「たたら」(製鉄に用いるふいご、溶鉱炉)はそこに語源があるとする説もある。

▶︎中国で普及する鉄器 

 鉄の製錬技術は、インド、中国を経由して朝鮮半島に伝わり、弥生時代中期頃、日本に持ち込まれた。

 中国では最初に長江上流の四川盆地、成都平原で製鉄がはじまった。本格的な遺跡調査は2000年代になってからだが、既に100カ所を超える製鉄遺跡が確認されている。この地域では前2000年頃から銅の精錬技術が最高水準に達していた。ふいごで酸素を供給し、高熱で鉱石を溶かす冶金技術を確立させていたのである。

 製鉄技術は長江を下り、北上して黄河流域にもたらされた。黄河文明も商(股)時代に青銅器文化が開花し、製錬技術を備えていた。周の時代になると銅の製錬技術鉄にも応用したようだ。ところが、秦は鉄よりも銅を尊重したため、さほど鉄製品は発達しなかった。

 秦に滅ぼされた燕は製鉄に力を入れ鉄で武装していたが、鉄の質が粗末であった。秦の銅製武器のほうが優れていたとみられている。

▶︎朝鮮半島に分布する鉄鉱山

 朝鮮半島には、紀元前三世紀初頭、燕から鉄器文化が流人した。

 もっとも古い鉄器は、清川江以北に集中していて、代表的なものが龍淵洞遺跡(童心江道潤原郡)である。ここでは、鉄の流入元を示す耗仙の銅貨「明刀銭」がくわすき発見され、鎌、斧、鍬、鋤などの農具や、槍、矛、鍍などの武具、半月形包丁といっや11がんなた調理用具から槍飽(長い柄のついた飽)のような工具まで出土している。

 ほかに細竹里遺跡(平安北道寧辺郡)では明刀銭と鉄器が出土、梨花洞や松ユ/一 ハ了ノンこ山里、合松里などでは中国の戦国時代に使用されたものと同形の鋳鉄製斧が出土している。

 素素里、南陽里では鉄斧や整とともに多紐袖丈鏡(中国で使用されていた古鏡)が出土している。

 また朝鮮半島では、各地に鉄鉱石を産出する鉱山が点在した。特に後の新羅、百済となる南部には、鉄鉱山が分布し、製鉄が盛んにおこなわれていた。

▶︎鉄がもたらした繁栄と戦争

 日本で発掘された鉄器としては、石崎曲り田遺跡(福岡県糸島郡)から出土した鉄斧がもっとも古く、前四〜前三世紀頃(縄文時代晩期)だ。

 ほかにも九州北部から山口県にかけて、弥生時代初期の遺跡から、農具や武具(剣、文、刀子、鉄)などが発見されているが、これらはいずれも、朝鮮半島からやってきた渡来系弥生人によって持ち込まれたものだ。

 鉄の生産と鍛冶加工に関しては、弥生時代中期頃には確立されていたのではないかとみられるが、証拠となる遺跡、遺物がまだ発見されていない。

 2009年1月、弥生時代後期(100〜230年)の垣内遺跡(兵庫県淡路市)で人力所の炉跡と四五点の鉄器類が確認された。いまのところ、これが日本最+口の製鉄工房とされている。

 朝鮮、日本ともに鉄や製鉄所を所有していたのはその地域の豪族だった。

 鉄が日本へもたらしたものは、農具などにおける農耕の発展と、国家形成のための戦争である。

 後にヤマト朝廷が近畿に拠点を置くと、九州・中国地方の豪族を支配するため進撃、大乱に発展する。刀剣、鉄に使用される鉄の原料は、朝鮮半島南部の伽耶から輸入していた。

 出雲では、豪族の額田部氏が新羅から鉄を輸入し、ヤマト朝廷と覇を争ったが敗戦し、かれた。六世紀にはその支配下に置かれた。

▶︎極東における満仲の起源は長江流域

中国古代史は遺跡、文献などの豊富うさから、どうしても黄河流域の関中(鏑京、成陽、長安)、中原(洛陽)を軸に展開してしまう。だが、もうひとつの文化もみすごしてはならない。長江文明である。

一九八〇年代以降、長江流域の発掘調査が進み、その文明と文化が明らかになるにつれ、江南(准河以南、主として長江中・下流域)の存在がみなおされてきている。

二〇〇四年十一月、玉塘岩遺跡(湖南省道県)から炭化した米粒六個が出土し、分析の結果、一万二〇〇〇年前のもので、野生ではなく、栽培された稲であると発表された。極東ではもっとも古い米の遺物の発見である。

それ以前にも、江西省万年県にあるせんにんとう   ちょうとうかん仙人洞遺跡と呂桶環遺跡で稲のプラント・オパール(植物に含まれる非結晶含水珪酸体)が発見され、一万年前のものと分析されているが、栽培稲かどうかは判別されていない。

そのほか彰東山遺跡(湖南省常徳市澄県)から出土した籾殻は、九〇〇〇かけけと年前のものと判明しており、河栂渡遺跡(漸江省余挑市)で発見された大量の稲籾は、七〇〇〇年前のものと判明している。ここでは、獣骨製の肇や米を保存するための高床式木造住宅も発見されている。稲籾を米に換算すると、なんと一二〇トンにもおよび、この事実は、既に大規模な稲作がおこなわれていたことを示している。

これらの遺跡はすべて長江流域にある。極東の稲作は長江からはじまったのである。

▶︎長江から直接伝来した日本の稲作

日本の米はどこからきたのだろうか。弥生時代の池上・曽根遺跡(大阪府)とか▲ワニ唐古・鍵遺跡(奈良県)から出土した二二〇〇〜二三〇〇年前の炭化した米のDNAを分析したところ、塩基配列が長江下流域の水稲と一致した。一方、この塩基配列をもつ米は朝鮮半島には存在しない。

従来、日本の稲作は渡来系弥生人とともに持ち込まれたとされてきたが、長江から直接伝わった可能性が高くなってきたのである。また、DNAの分析によって、ジャポニカイネ(日本米)の起源は、東南アジアの「熱帯ジャポニカイネ」で、それが長江流域で栽培され「温帯ジャポニカイネ」となり、日本に渡ったというルートが明らかになった。

▶︎朝鮮への稲作伝来は大陸経由

 朝鮮では、欣岩里遺跡(京畿道麓州都)で炭化した米がみつかっていて、これがもっとも古く、紀元前一〇〇〇年頃。ほかにも同時期の炭化米が、南京遺跡、ノンケン二枚菊里遺跡などから出土している。

 欣山石里遺跡からは、ほかに大麦、粟、き「一黍なども出土した。これは畑作もおこなわれていたことを示している。

 さらに、石製穂摘具(半月形石刀)などの石器農耕具が伴出した。これは遼東半島の秒豪商墜*女郎敷から出土したものと同形で、稲作が伝わったルートを物語っている。欣岩里遺跡の石器構成は、山東半島の黒陶文化遺物とほぼ一致する。稲(陸稲、水稲)も、大陸を経由して朝鮮半島に伝わったのである。

 麻田里(忠清南道論山市)、無去洞玉キョ.こ睨、琴川里などでは水田遺構が確認されている‥麻田里では農業用水路、井戸、潅漑施設までみつかった。前人〜前四世紀、人々は移動の必要な狩猟・採取から稲作を中心とした定住生活へと転換したのである。

▶︎中国の神話 三皇五帝

 中国では三皇五帝がよく知られている。三皇とは於義、女姻、神農、もしくは天皇、地皇、人皇。五帝は黄帝、ヰん宙項、馨、尭、舜とするのが一般的だが、太旦大、少芙や炎帝、して「缶円、揚などを入れる場合もある。

 三皇は神であり、伏義(天皇)は宇宙を支配、管理し、女姻(地皇)は人間をはじめとする地上の万物を創造し、神農(人皇)は人間に農耕、商業、医薬をもたらしたとされる。

 五帝は聖人君主を代表している。黄帝は黄河流域を治め、平和で豊かな国家を建設した英雄で、漢民族の祖先とされる。

 秦の始皇帝は、三皇五帝よりも′目分のほうが優れて尊い存在であるとアピールするために「皇」と「帝」を抜き出し、皇帝という造語を発案したともいわれている。

 『山海経』は戦国時代の紀元前五世紀から三世紀頃に編纂された〝地誌(神話集とも)〟だが、五帝が周辺各国を治め、その子孫が辺境の民族となっていることを記している。

 三皇五帝の選定だけでも諸説あるうえに、中国各地には様々な黄帝伝説が残されている。『史記』の著者である司馬遷は、「各地の黄帝伝説には、特有の民俗が反映されている。多少の史実も含まれているのでは」と完全否定はしていない。

 史書編纂は国家事業であり、漢民族政権下では中華思想にのっとった歴史観で構成された。当然、皇帝側による検閲もある。そうした政治的意図を差し引いて、内容を吟味すれば、考古学の対象ともなり得る。

▶︎朝鮮の建国神話

 朝鮮には、檀君の建国神話が伝わっている。もっとも古い記述は、一然の編纂による『三国遺草』(一二八〇年)である。

 これによると、中国の尭(五帝)の時  ファヌン代に、天帝の子桓雄が下界を治めたい テ ペグサンしんだん.しゅと望み、太伯山に建つ神檀樹へ降下、人々を教化しはじめた。そこへ能州と虎がやってきて、人間にして欲しいと望んだ。望みをかなえてやろうと、桓雄は*物忌みをさせた。すると虎は忌むことができず、熊だけが人間の女になった。その女は子を欲しがったので、桓雄が男に姿を変えて結婚し、生まれたのがワンゴムソン檀君である。檀君は、平壌に土険城を築いて都とし、国を朝鮮と名付けた。ベガクサン アサデルその後、檀君は自岳山の阿斯達へ遷都し、一五〇〇年間治めたが、箕子が周の武王より朝鮮に封じられたのを機に山神となつたという。

 同じ内容の記述は、韻記』 (一二八〇年)は、檀君がP羅(新羅)南北沃阻、東北扶鎗、  李承休の『帝王にもあり、同書高札(高句麗)、穣、緬なども統治した君主であると記している。

 檀君の後、駿の紺王の親戚筋にあたる箕子が朝鮮を治めたとされ、箕子の名は=】史記lコや『漢書』に登場する。

 ただし、檀君、箕子の統治した古朝鮮と呼ばれる時代は、いまのところ考古橿君稜 北朝鮮にある檀君の墓と称される場所の近くにつくられた橿君陵。墓から出土した人骨を測定した結果、約5011年前のものとされたが真偽のほどは不明(写真 田中倭明)学的に確実な遺物は発見されていない。

▶︎日本の建国神話

 日本では、『古事記」『日本書紀主の袖についての記述が建国神話に相当するだろう。

 『古事記』では独神隠身七神(別天神五柱と二神)と、男女五対の神が登場した時代を「神代」としている。『日本書紀』は独神が三神、男女神が四対の時代を神代としている() いずれも日本を生み出したのは、最後の男女神「イザナキ」と「イザナミ」で一致をみている。

 『日本書串コは国の正史として編纂されたが、『古事記』は天皇家の私文書的な性格がある。内容は共通している部分が多く、ともに日本建国までの歴史がストーリー仕立てで語られる。脚色されている箇所もあるが、古代の歴史を研究する際の基本書ともいえる。

▶︎神話の模倣性と相違点

 中国では、呉の時代(三世紀)に成立した『三五歴紀』に、盤古が登場する神話がある。盤古は天地創造以前、混沌とした宇宙のような状態にあった時、卵から生まれたとされている。また、高句麗や百済の建国神話に登場する栄二∴ノ豪も卵から生まれたとされている。

 こうした卵生神話は、中国や朝鮮のほか、東南アジアでみられるが、日本においては存在しない。

一方で、アマテラスの子孫・ヒノホニニギが降臨して、豊葦原瑞穂国(日向)を治めたという神話が日本にある。これは天孫降臨神話に属する。檀君神話においても、桓雄が神檀樹に降下する天孫降臨神話があるので、この部分では共通する(天孫降臨神話は、単独で降臨するかどうかなどの違いで、さらに細分化されている)。

 このように、神話によって類似性と相違点があるのは、その神話の発生地の違い、伝わったルートの違いなどもあるが、各国が形成されていく過程の違いも大きい。神話の類似性と相違点を考えることは、その国を理解するひとつの方法といえる。