6-7世紀・隋から唐へ

■短命の統一国家・隋の優れた治世

▶︎楊堅(ようけん)の隋建国

 河北を統治していた北岡には軍を統率する一二大将軍がいた。そのひとり楊忠の子として生まれたのが楊堅である。将軍家という家柄を背景に、16歳驃騎(ひょうき・漢以降の官職名。軍を率いる将軍位の一つ)大将軍となり、三代目の皇帝武帝が即位した時には、随州(ずいしゅう・地名)刺史(しし・中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名)に任官され、大将軍に出世した。

 楊堅は、武帝の太子(宣帝・せんてい・武帝の曾孫を指す)に長女の麗華を嫁がせ外戚(がいせき・母方の親戚)となる。580年、宣帝が急死すると、六歳だった宣帝の子・静帝が即位。楊堅は左大丞相(さだいじょうしょう・君主を補佐した最高位の官吏を指す)となり、その後、大丞相になる。581年、楊堅は静帝から禅譲(ぜんじょう・帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること)を装って帝位を奪うと(文帝・中国における皇帝の諡号<おくり名>の一つ)、国号を隋とした。

▶︎科拳と新制度の導入 

 589年、暢堅は次男の楊広(ようこう)に南征させ、陳を滅ぼす。こうして約300年ぶりに中国は統一された。

 

 楊堅は従来の郡県制を廃止し、州とその下部に県だけを置いた。これによって官僚を減らすとともに、地方官にあった属官任命権も朝廷に帰属させ、中央集権の強化をはかった。

 さらに徹底した人口動態調査を実施し、このデータをもとに均田制、租庸調制などの税制を課し、府兵制、律令制にも利用した。

 南北朝時代以来、北周でも採用されていた官吏登用制度の九品官人法(きゅうひんかんじんほう・中国魏晋南北朝時代に行われた官吏登用法)を改め、新規に科挙制度(家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験で、才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新)を導入する。これは、その後1300年間にわたって中国に定着し、朝鮮の王朝も採用した。

▶︎大建河の交通網建設

 楊堅は交通網の整備に、大運河を建設する構想をもっていた。

 584年、王都の凍る大輿城(長安)から西へ開削し、渭水(いすい)と黄河を結ぶ広通渠(こうつうきょ)が開通した。これで都への物資輸送力が一段と向上した。続いて、淮水(わいすい)山陽から南へ延長して、長江の江都京口を結ぶ山陽瀆(さんようとく・邗溝・かんこう)を建設。これは、を征圧する戦争での物資輸送に役立った。

 楊堅の死を受けて即位した楊広(煬帝)も、大運河の建設を続行する。黄河と准水を結ぶ通済渠(つうさいきょ)605年に開通。黄河と涿郡(たくぐん・北京)をつなぐ永済渠を608年に、長江の京口と余杭(杭州)をつなぐ江南河を610年に開通させた。これにより涿郡から洛陽長安、開封、杭州を結ぶ一大ネットワークが完備されたのである。大運河の幅は30〜40メートル、総延長は2500㎞にもおよんでいる。

  

 もっとも、その建設には膨大な民間人が徴発され重労働を強いられた。煬帝が開通祝いに数千隻からなる大船団を組んで、江南を視察した時には、群集から恨みの声があがった。

▶︎薩水の戦いで大敗

 煬帝永済渠を開削した背景には、高句麗遠征がある。

 高句麗への最初の出兵は楊堅の時代であった。598年、高句麗の嬰陽王(よんわんやん)に遼西を侵攻されると、楊堅はこれを撃退するために30万の兵を送った。ところが、その兵は飢えと病気で倒れ、壊滅状態となって惨敗したのである。

 煬帝は運河を利用して食糧を補給し、進軍させようと考えたのだ。612年1月、113万もの大軍で高句麗を攻めるが、高句麗は、名将・乙支文徳(うるちむんどく)がゲリラ戦を仕掛けて数的劣勢をしのぎ、隋は敗退する

 同年七月、煬帝は別働隊を組織し山東半島の東莱(とうらい)から海路で攻撃にあたらせた。隋の水軍は狽水(はいすい・大同江・てどんがん)から上陸し、平壌城を攻めるが、高句麗軍は伏兵を発し、これを破った。一方、陸軍と戦った乙支文徳薩水(さっすい・清川江・ちょんちょんがん)まで後退したが、それは誘導作戦であった。民と食糧を後方の城に匿(かくま)い、井戸を埋めつつ後退した。糧断作戦(りょうだん・食料を断つ)である。

 飢餓で疲弊した隋軍薩水を渡ろうとしたその時、包囲した高句麗軍が総攻撃にかかる。30万を数えた隋軍だが、この戦いで生き残ったのは、わずか2700人にすぎなかった。

▶︎隋の終焉と高句麗遠征の影響

 613年、煬帝第二次高句麗遠征を決行するが、洛陽で反乱が勃発した。反乱の首謀者は楊玄感であった。楊玄感は、かつて煬帝の腹心であった楊素の息子である。楊素も楊玄感も暢帝に疑念を抱かれ、閑職に追われた経歴をもつ。楊玄感の反乱は三カ月で鎮圧されたが、これがもとで第二次高句麗遠征は頓挫した。

 高句麗遠征は兵力と国庫に多大な損失を与えた。民衆の不満は爆発し、各地で暴動、反乱が続いた。争乱を避けて江南に避難した煬帝だが、近衛兵の謀叛によって殺害され、隋の短い国家生命も断たれてしまった。

■唐の誕生と律令制度の確立

▶︎李淵の唐建国

 李淵は、北岡の八軒国の一員である争虎を祖父とし、楊堅(文帝)の紗孤皇ごう后を叔母とする名家に生まれた。楊玄感の反乱の時には、鎮圧に動き、その後は突欧の侵攻をおさえるため北辺の警備についていた。 

 617年六月、次男の李世民(後の太宗)にそそのかされ、煬帝を倒すべく挙兵。南下しっつ兵を集め、11月には大興城(後の長安)に至り、陥落させた。李淵は、12歳の楊侑を隋の皇帝に擁立した(恭帝)。李淵は尚書令、大丞相に任じられたが、実際には、楊侑は李淵の傀儡(かいらい・あやつり人形)であった。

 618年、煬帝が殺害されると、楊侑は帝位を禅譲し、李淵が皇帝となる(高祖)。李淵は即位すると国号をとし、主都を置いた大輿城の名前を長安と改めた

▶︎奉世民、兄を殺して皇帝へ

 李淵の次男・李世民は武勇を重んじ、戦争を好んだ。隋の主都を陥落させたのも、世民の軍功によるものだった‥

 李淵が皇帝に即位した頃、洛陽では て王世充が鄭を建国、江南では梁が再興されるなど、再び小国家分立状態におちいっていたが、世民はこれを次から次へ倒し、皆の版図を拡大していった

 その過程で、世民は功績をあげても地位に限界があることに不満を抱くようになる。李淵は、世民に天策上.将という大将軍よりも上の階位を与え、豪勢な弘義宮を新設して住まわせたが、世民はそれに満足などしていなかった

 李淵の長男である建成は、李淵が即位すると同時に皇太子となった。温厚な建成であったが、家臣たちや弟の元吉(李淵の四男)から、世民への注意をうながされ、討伐を決断する。

 626年夏に起こつた突厥の北辺侵犯の際、建成は元吉に軍を編成させるよう父帝に進言する。その兵をもって世民を叩こうと企むが、この動きが漏れて世民に知られてしまう。

 世民は建成と元吉の暗殺を決断するが、これに参画したのが「房杜(ぼうと)」こと房玄齢(ぼうげんれい)、杜如晦(とじょかい)、長孫無忌(ちょうそんむき)など、その後、世民を支える賢臣たちであった。

 626年六月四日、建成と元吉はそろって宮殿に参内した。玄武門(北門)から入ったところを世民率いる精兵に襲撃される。世民は自ら弓を引き、建成を射殺。元吉も惨殺された。

 世民は、建成と元吉の息子で諸王に就いていた10人すべてを殺し、さらに父の李淵を軟禁、禅譲を迫った。

 626年8月、世民は即位し(太宗)、父帝の李淵は幽閉されていたが、八年後、
ひつそりと息をひきとった。

▶︎貞観の治、律令体制の強化

 627年、世民は「貞観」と改元する房玄齢、杜如晦らを起用して、隋から受け継いだ三省六部制を充実させた。

※三省六部(さんしょうりくぶ)は中国の隋唐王朝で行われた政治制度。また中国におけるその後の政治制度にも大きく影響を及ぼしている。

 地方には新たに道を設置した貞観二年、山南道、関内道など全10通が置かれ、その下には約300の州、これに県が付随した。各道には折衝府(せっしょうふ)を二設置して按察使(あんさつふ)を派遣、各州には刺史(しし・国守の中国風の名。もと中国で、州の長官)、各県には令をそれぞれ任官させた。

 「貞観律令」がつくられると、法律制度と官僚制度が体系化され、社会が運営されることになる。隋で生まれた律令体制は唐の時代に完備されたのである。李世民の治世は、「貞観の治」と評され、日本でも清和天皇が参考にした。太宗が、臣下との間で交わした政治論議を分類、編集した「貞観政要」は、中国はもとより日本の為政者からも愛読されている。

▶︎都護府と冊封

 世民は、628年に中国を統一するとすぐに北伐を開始し、630年、突厥を征圧した。

 唐政府は、中央から遠く離れた辺境地域に都護府を設置した。640年、西州の安西都護府の設置を手はじめに、燕然(えんぜん)都護府後の潮海、さらに安北)、雲中都護府(後の単于・ぜんう)と続き、最終的には六都護府を置いた

 都護府では、突厥やウイグルなどの族長、族将を長官に任命し、自治権を与えた。その種の地域を羈縻(きび)州と呼び、羈縻政策と称される、ゆるやかな支配体制をしいた。

※領域化(内地化)・羈縻・冊封(さっぽう・さくほう・称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種)などの形態を取った。まず、領域化とは、支配地に内地と同じ州県を設置し、中央から官僚を送り込んで、そこの住民を中国の国法下に置いて直接支配すること

 また、新羅、渤海、南詔(なんしょう)など周辺国のうち、朝貢するものには、官号や爵位を与える冊封政策を用いた。日本や林邑(ちゃんぱ・北ベトナム)、クメール王国のように使節を派遣し、交易だけを目的とした国には、朝貢を求め、それに倍する返礼品を下賜(かし・身分の高い人からくださること)して友好関係を結んだ。

 長安を中心とした唐の大帝国支配は、シルクロードと大運河、海路などの交通網により、世界経済を活発化させた。世界の物資が長安へと流れ込んだのである。

 長安城は隋代につくられ当時は大興城、唐の三代高宗の代に大明吾が新たにつくられた(写真 田中倭明)

▶︎科挙制度とは

 科挙は隋の時代から実施され、唐でも採用された。当初は六科(りくか・進士、秀才、明経、明法、明算、明書)を対象とし、試験が実施されていたが、末代に進士科以外は廃止された。

 受験資格は、男性一般であったが、商工関係者や芸能関係者の子弟、前科者の子弟などには受験資格がなかった。

 隋唐時代の科挙は、郷試と省試の二段階であったが、宋代には解試、省試、殿試三段階となり、明清代は、それが郷試、会試、殿試となる。実際は、それ以外にあるいくつかの試験をパスする必要があった。

 清代を例にとれば、まず童試である。15歳以下を対象とした学力試験で、県、府、院の三段階のレベルがあり、院試に合格すると秀才の称号を与えられる。これにパスしてはじめて、郷試を受ける資格を得ることができる。

▶︎科挙の実像

 郷試に合格すると、省試(明清代では会読)を受験する。

 省試は貢挙 (こうきょ)とも呼ばれ、省試の試験官は知貢挙(ちこうきょ)と称された。試験前に知貢挙に賄賂を贈ったり、朝廷の高官に〝天の声〟をお願いするなど、受験者とその親は関係各方面に根回しをしなくてはならず、かなりの資金を要した

 省試に合格した受験者は、知頁挙と師弟関係を結ぶ。知頁挙は座主、合格者は門生といい、学閥を形成した。

 省議に合格しても、配属先を決める吏部試(りぶし)があった。これは(身なり、容貌)、(正確で威厳ある発言)、書(筆遣い)判(判例の知識と処断能力)の四分野で審査された。

 唐代には、科挙とは別に恩蔭(おんいん・蔭位)、任子(にんし)の制度も併用されていた。これは高官や功臣の子弟に適用されるもので、父親の官位に準じて無試験で登用される。こうした門閥貴族の特権が幅をきかせていたため、科挙から高官をめぎすのは、ほとんど不可能であった。

 科挙が有効に機能するのは末代からである。既に貴族や門閥が姿を消し、官僚への道は科挙しかなかった。しかも最終段階の殿試は、時の皇帝との面接試験である。君主と官僚の結びつきは必然的に強まり、実力次第で出世ができる体制となつた。

▶︎国定教科書・五経正義 

 科挙の試験は「四書五経」から出題されていたが、五経に関してはテキスト(原典)が二種類存在し、また、経典に対しの義疏(きしょ・意義と解釈)をめぐつて、様々な学説が展開された。

 五経を論じる場合、どの説をとるかによって解答が異なつた。そこで唐の二代太宗(李世民)は、孔頴達(くようだつ)らにテキストを定め、五経の義疏を撰述し、統一するよう命じた。いわば政府公認の検定教科書を編纂したのである。この教科書を「五経正義」といい、正義とは正しい解釈という意味である。

※『五経正義』(ごきょうせいぎ)は、中国・唐の太宗の勅を奉じて、孔穎達等が太宗の貞観年間より高宗の永徽年間にかけて撰した『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の五経の疏である。180巻。宋代には経注と合刻されて『十三経注疏』に収められた。

 科挙の受験生は、経典の研究などに興味はなく、「教科書」五経正義の丸暗記にひたすら精を出した。

▶︎朝鮮に定着した科拳

 958年、朝鮮では高麗王朝が後周出身の「そうき」に命じて科挙制度を導入、実施に踏み切った。当初、科挙の受験資格は良人(やんいん)と呼ばれる男子であったが、五品以上の高官の子弟には蔭叙(いんじょ)という試験免除制度を残していた。楽工、雑類、賤人(ぜんにん)と呼ばれる下層階級は受験できなかった。

 科挙が定着すると、両班と称される門閥貴族が生まれた。両班とは本来、東班(文班、文官)と西班(武班、武官)の総称であり、現役文武官僚をさしていたが、徐々に貴族階級となった。中国で九品官人法によって門閥貴族が形成されたのと同様である。朝鮮では、1894年に廃止されるまで、500年間にもわたって科挙が実施された。

▶︎日本における科拳

 日本でも科挙に模した貢挙(くご)が導入された時期がある。平安時代の「大宝律令」にその詳細が定めてある。しかし、この時代の貴族は蔭位(おんい・日本の律令制体制のなかで、高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度である)によって官職が配されていた。これは中国の恩蔭、朝鮮の蔭叙と同じ制度で、五位以上の家系(殿上人)の子弟は自動的に官職を得ることができる。

 日本の場合、中国や韓国と違って、六位以下の子弟には貢挙を受ける資格がなかった殿上人にしても、たとえ貢挙に合格しようが、家柄よりも高官(昇位)に任じられることはなかった 採用試験の意味をなさない貢挙の受験者はほとんどなく、鎌倉時代には完全に消滅した。

▶︎謎の第一回遣隋船

 推古8年(600年)、倭王が遣使を隋に送った「隋書(中国史の中における隋代を扱った歴史書)」などは伝えている。その倭王の姓は「阿毎(あま)」で名は「多利思比狐(たりしひこ)」とあるが、おそらく天足彦(あまのたりしひこ)を聞き間違えたのであろう。また、その号は「阿輩鶏禰」とあるが、これも大君の誤転と考えられる。

※俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、用明天皇が多利思比孤であるとしている

 その天皇が推古なのかどうか、意見は分かれている。日本の史書にこの記述はない。大和朝廷が派遣した正規の使節ではないとみる向きもある

 隋の史書には、倭国から使いがあって、朝貢したことしか伝えていない。

 600年といえば、女帝・推古天皇を補佐すべく、聖徳太子が摂政となり、八年目を迎えていた‥

 百済はしきりに倭国への朝頁を繰返し新羅や高句麗に対抗しょうとしていた。倭国も、朝鮮南部の伽耶諸国が新羅に滅ぼされた後、新羅とは緊張関係が続き、この頃、新羅に向け征新羅将軍を派遣しょうとしたと日本書紀には書かれている。この征新羅将軍は最初に任命された来目皇子(くめのみこ)が筑紫で病死し、その次に任命された当麻皇子(とうまのみこ)も道中で妻が亡くなり頓挫した

 伽耶諸国なき後の朝鮮半島は、名実ともに三国がしのぎを削る時代となっており、そこで倭としても高句麗、百済、新羅より優位な立場にたち、うまく立ち振る舞おうと隋に近づいたとも考えられる。

▶︎聖徳太子の遺隋使派遣

 607年7月、聖徳太子は小野妹子を大礼(正使)に任命し、通事(通訳)に鞍作蘇利(くらつくりふくり)、随員(ずいいん・高官につき従って行き、その仕事を助ける人)として僧数十人からなる遣使を隋に派遣した。600年の遣隋使を認めないならば、これが最初の正式な遣隋使となる。

 遣隋使は、百済の遣使団に先導されていったと考えられることもあり、およそ朝鮮半島西岸に沿って北上遼東半島の東岸から山東半島に着岸したと思われる。妹子一行は上陸後、洛陽をめざす。

 608年、隋の煬帝に謁見した妹子は、国書献じた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」

 これを目にした煬帝は、「蛮夷の無礼者の国書など、二度と取次ぐな」と鴻櫨卿(こうろけい*鴻櫨寺を司る外務大臣)を叱りとばした。東海の小国王が「天子」を名乗り、対等な関係を結ぼうとする態度に怒りをおぼえたのである。

 聖徳太子の国書は、挑発とも受け取れる高圧的な内容であったこ場帝の苛烈な性格からすれば、小野大使以下全員、処刑されても不思議ではなかった。

 「新唐書」日本伝には、倭が「日本」と国号を改めるにあたっては、この「日出処天子」から決定されたとしている

▶︎返書盗難事件

 意外にも煬帝は、妹子ら一行を手厚くもてなし、学僧らを受け入れた〈遠方の蛮夷が朝貢するのは、皇帝の仁徳によるものだからとの理由であった。さらに、返礼使として文林郎(ぶんりんろう)の裴世清(はいせいせい)ら13人を派遣した。

※「文林郎」は隋帝国の官名ですが「散官」と言って、何も仕事が無い低い地位の文官に与える称号です

 隋使一行は、608年6月、難波に到着した。当時の倭の外交施設は、難波館など「館」と呼ばれていたが、そのひとつ高麗館の近くに新館を建設して一行を迎えた。八月、裴世清入朝して聖徳太子に謁見国書を手渡し、宝物の数々を貢納した

 「日本書紀」によれば、妹子と裴世清が到着してからこの二カ月の間に、ひと騒動あったという。妹子が預かった煬帝からの返書が、帰路の百済で盗まれたというのである

▶︎妹子の工作と聖徳太子の意図 

 裴世清の献上した国書には「倭皇」の文字がみられるが、ここには改変の疑いがある。煬帝の返書、国書には、おそらく「倭王」の無礼をたしなめる厳しい文言があったのだろう。それによって二国間の関係が険悪となるのは、得策ではないと妹子はみた。そこで難波に到着してからの二カ月間で、裴世清を説得し、工作活動をおこなつたのではないかとも考えられる。

※冊封(さくほう、さっぽう)又册封とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種

 また、聖徳太子は隋の冊封下に入ると、百済と同格扱いにされるのではないかと危惧していた。冊封外の独立国という立場を主張し、それを容認して欲しかったのである。そこで、隋に帰る裴世清には「東の天皇、西の皇帝に敬白(つつしんでもうし)ます」とへりくだった国書を手渡した。妹子は隋まで裴世清を送ったとあるが「隋書」には見えない話であり、確かなことではない。

 この頃は航海術が未熟なうえ、船のつくりも不安定であった。後に派遣される遣唐使船ですら、4隻編成で、「1隻でも中国に渡れれば」というものであった。遣隋便の旅が非常に危険だったことは容易に推測される