▶︎高僧・鑑真の来日
仏教において僧になるためには授戒を受ける必要がある。しかし、当時の日本には授戒をおこなえるものがおらず、勝手に僧侶になるものもいた。そこで聖武天皇は、唐に栄叡(えいよう)と普照(ふしょう)の二人の僧を送って、授戒ができる憎を招碑しょうとした。
733年、第9回遣唐使船に乗った栄叡と普照が唐に入国する。そして742年、唐においても高僧と名高い大明寺の鑑真に会い、授戒のできる弟子を10人ほど日本へ遣わせて欲しいと懇願した。これを受けた鑑真は、自ら日本へ渡る意志を示し、弟子21人とともに日本をめざす。
唐の6代玄宗(げんそう)は、唐の宝である鑑真の流出を認めなかったため、渡日は密航となった。鑑真が日本の土地を踏むまでには様々な困難が待ち受ける。鑑真を日本へいかせたくない弟子の妨害、暴風雨、漂流、栄叡の病死、そして鑑真の失明など、多くの困難を乗り越え、753年12月20日、ついに九州の薩摩に到着した。
来日を果たした鑑真は、754年に東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、日本で初となる授戒をおこなう。翌年には東大寺戒壇院を建立した。その後、七五九年に唐招提寺を開き、仏教を広めた。また、鑑真は仏教以外に彫刻、建築、医学の知識ももたらした。
*授戒・10人以上の憎の前で、戒の規則を誓う儀式
▶︎唐で活躍した阿倍仲麻呂
若い頃からその学才を認められていた阿倍仲麻呂は、吉備真備(きびのまきび)らとともに第八回遣唐使に同行し、長安に留学する。仲麻呂は中国の科挙試験に合格すると、玄宗に仕え、官位を重ねていく。主に文学関係の役職に就き、李白、王維など唐の詩人たちとの親交が深かった。
第九回遣唐使が帰国する際、仲麻呂も帰国を申し出るが、仲麻呂を高くかっていた玄宗は許さなかった。この第九回遣唐使は帰路、難破し、吉備真備の乗った船は、なんとか帰国するが、第三船が林邑(ちゃんぱー)に漂着してしまう。第三船に乗っていた平群広成(へぐりひろなり)ら一行150人は、ほとんど殺害され、広成ら四人だけが唐に送られた。この時、仲麻呂の尽力により、広成らに渤海路からの帰国が許される。彼らが潮海へ着くと、渤海国使が日本へ渡航するところだったので、それに便乗し帰国した。
753年、藤原清河(ふじわらきよかわ)の率いる第10回遣唐使(副使には吉備真備がいて、仲麻呂との再会を果たした)が帰国する際、仲麻呂にも帰国許可が下りる。
遣唐使のルートと潮海路地図
帰国前、中国の友人たちとの間で惜別の宴が開かれるが、この席で仲麻呂が詠んだ詩が百人一首でも有名な「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも」である。 帰路、第一船に仲麻呂と藤原清河、第二船に鑑真、第三船に吉備真備が乗っていたが、暴風が襲い第一船は難破。第二船〜第四船も漂流するが、どうにか帰国に成功した。仲麻呂が死んだと伝え聞いた李白は詩を詠んで悼(いた)んだという。
仲麻呂と藤原清河の船は難破したが、安南(ベトナム)に漂着していた。二人は苦労して長安に戻るが、再び日本の土を踏むことはなかった。
仲麻呂は、官途に就き官位を重ね、760年からは安南節度使として総督を務めた。死後は潞州(ろしゅう)大都督を贈られている。
※都督(ととく)とは中国の官職または称号。三国時代に現れ、軍政を統轄した
この時代、唐と日本で多数の人間が行き交い、それぞれの土地で活躍した
▶︎時代ごとの遣唐使
遣唐使は、164年間にわたり合計18回、派遣された(回数は別の意見もある)。 初期の目的は、唐の法律や政治など進んだ社会制度の導入と、仏教とそれに関する学問など文化の導入にあった。
「白村江の戦い」(下図)で唐軍に惨敗した天智天皇の時代は、もっぱら唐の侵攻から国を守るための朝貢外交であった。
「壬申の乱」以降、内政に力点を置かざるを得なかった時期、遣唐使はいったん途絶える。その後、文武天皇の時代、新羅との対立関係によって、従来の航路では襲撃される危険が発生すると、薩南諸島から西南諸島を経由して渡航する南島路が開発された。
そして、894年9月、菅原道真と紀長谷雄(きのはせお)が大使に任命されていたが、道真の奏上(天子・国王などに申し上げること)により遣唐使は廃止された。
▶︎野心家・蓋蘇文の反逆
唐の太宗(李世民)は積極的な外交政策をとったが、631年、高句麗に対し、隋との戦いを記念した勝利塚「京観」を破壊することと、そこに積み重ねてある隋兵の遺骨の返還を求めた。こうした唐の干渉を警戒した栄留王(ヨンニュワン)は、長城の築造に着手する。
高句麗の長城は、東北の扶餘城から東南へ進み、渤海湾に至るもので、総延長1000余里におよぶ。城壁はおそらく土塁で、一部痕跡が確認されている。
唐は西隣の吐谷渾(とよくこん)、西域の高昌(こうしょう)を滅ぼし、いよいよ高句麗に迫る勢いをみせてきた。これに対し栄留王は、跡継ぎの桓権(ハングォン)を長安へ派遣、朝貢するからは答礼使(お礼を答える使者)と称して陳大徳(チンタイトク)が送り込まれ、高句麗領内をつぶさに調査して、太宗に報告書を提出した。
高句麗の長城は、この段階ではまだ建設中であった。
築城監督として派遣されていた淵蓋蘇文 (ヨンケムソン・高句麗末期の宰相・ 将軍)は、祖父が大臣級の莫離支(マンニジ)で、父は総理に相当する大対塵(テデロ)という名家の出身であったが、短気で粗暴な性格の野心家であるところが王侯に嫌われていたともいわれる。
長城警備をしている蓋蘇文の耳に栄留王の弱腰外交が伝わると、彼は激怒し、ついに反逆を決意する。
▶︎高句麗の長城完成
642年、王都の貴族が自分の暗殺を計画していると知った蓋蘇文は先手をうつ。敵対する貴族を残滅にかかり、およそ180人を殺害し、栄留王も殺してしまった。そして栄留王の弟(太陽)の子を高句麗王に擁立し、蓋蘇文自身は大対鹿より格下の莫離支に就いて、王を遠隔操作する。
ちょうどその頃、勢力を拡大しっつあった新羅は、高句麗と組んで百済を駆逐しようとする。しかし、蓋蘇文はその申し出を蹴り、百済と結ぶ。唐の冊封下にあった新羅は、太宗に泣きつき、援軍を要請した。太宗は高句麗を説得しようとしたが、蓋蘇文はこれも拒否する。
緊迫した情勢の中、645年、ついに高句麗の長城が完成する。
▶︎唐による高句麗遠征
太宗は高句麗遠征を決断すると、10万を超える唐軍で攻略にかかった。先陣を切った李勣軍(唐)は、遼河を渡ってよう新城を撃破すると、南下して蓋牟城(がいむじょう)を落とし、遼東城へ向かう。同時期、太宗の本陣も遼東城をめざし合流すると、五月一七日、あの隋軍も落とせなかった遼東城(りょうとうじょう)を撃破した。
一方、水軍は大連方面に上陸して卑沙城(ひさいじょう)を陥落させると、そこから北上して建安城を落とした。水陸両面からの攻撃で、官軍は10城を破った。
勢いに乗る官軍は、安市城(あんしじょう)へと進撃する これに対し蓋蘇文(ケムソン)は、ここを最後の砦として死守すべしと、高延寿(コヨンス)、高惠真(コへジン)に15万の兵を与えて救援に向かわせた。しかし、この援軍も唐軍に撃滅されてしまう。安市城は孤立したが、高句麗軍はよく防戟し、なかなか洛城しなかった。
旧暦九月中旬、初雪が舞い、やがて吹雪に変わると唐軍の兵糧(ひょうろう)は尽き、凍死する者が続出した。太宗は退却命令を出さぎるを得なくなる。吹雪の中、太宗自ら枯木を倒して火をつけ、雪を溶かし、馬をはげましながら長安へと帰還した。
その後も高句麗は、太宗による二回の遠征をすべてしのぎきったのである。
▶︎新羅の全方位外交
新羅では632年、初の女帝・善徳(ソンドク)女王が誕生していたが、その後、唐に対する外交路線をめぐつて、依存派と自立派に分かれて対立する。
唐の太宗は、女王統治を非難し、唐の王室から新王を迎える案も提案した。これを契機に、依存派は廃位を主張して政変を起こす。
647年、自立派の王族、金春秋 (キムチュンジュ)と金庚信(キムユシン)は反乱軍を鎮圧するが、戦乱の最中、善徳女王が急死したため、新たに真徳女王(チンドク)を擁立した。
金春秋は、親唐を装いながらも自立をめぎすことにする。倭国へ親善大使を送る一方、648年に長子(後の文武王・ムンムワン)と長安を表敬訪問し、冊封(称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係・宗属関係)を受けるとともに、唐の衣冠制や年号を採用する許可をとりつけ、従属の意思を強調した。
▶︎唐、新羅対高句麗、百済の様相に
百済では641年、武王(ムーアン)の後を継ぎ義慈王(ウィジャワン)が即位すると、それまでずっと仇敵関係にあった高句麗と和解した。そのうえで新羅に進撃し、大耶城(テーヤソン)など旧伽耶地域を強奪した。
百済と高句麗が和解したことを知らなかった新羅の金春秋(キムチュンジュ)は、のこのこと高句麗に出向き、淵蓋蘇文(ヨンケムソン・高句麗末期の宰相・ 将軍)に会って援助を申し込もうとするが、逆に監禁されてしまう。隙をみて逃げ帰った金春秋は、百済と高句麗をまとめて討伐しようと心に誓う。654年、金春秋は新羅主に即位した(武烈王・ムヨルワン)。
唐の従属下に入った新羅に対し、高句麗と百済が連合する。また高句麗は中央アジアのサマルカンド地域にあった康国などに同盟を模索し、百済は日本との関係強化につとめた。この時期、朝鮮半島の周りで、各国が同盟関係を軸に対立した
▶︎百済、高句農、滅亡す
唐では、太宗の息子たちの間に後継者争いが起こつた後、九男の李治(りじ)が即位していた(高宗)。 高句麗遠征に連敗し続けてきた唐草であるが、新羅を従属下に加えたことで、高句麗を挟み撃ちできる体制が整った。そこへ新羅から百済を征伐して欲しいと要請がくる
660年、唐は蘇定方(そていほう)に水陸13万の兵を率いさせ、百済に向かわせた。これに呼応して新羅も武烈王と全痩信が5万の兵を指揮して、百済の洒批城(サビソン)をめざし進軍した。
唐水軍が白江(ペッカン・白村江)を湖上し、洒批城を攻略すると、百済の義慈王と隆太子(ユンテジャ)ら王族13人、官僚700人は、熊津城(ウンジンソン)へ逃走した。残された宮人たちの多くは白江に身を投げたという。その後、義慈王は唐・新羅軍に投降すると長安に送られた。ここに百済は滅亡した。
次に、唐と新羅の連合軍は高句麗を攻めたが、なかなか攻略できない。
ところが666年、蓋蘇文(ケソムン)が死に、三人の息子の間で後継をめぐる抗争が発生する。長男の男生(ナムセン)は唐に降り、その手引きによって唐軍は遼東を征圧。668年、王都の平壌城を陥落させ、高句麗を滅ぼした。700年も続いた強国は内部から瓦解してしまったのである。
▶︎倭の国・乙已(いっし)の変の背景とは
645年、古代日本史上長大の政変が起こる。いわゆる「大化の改新」(乙巳の変)だ。当時、倭国の政権を握っていたのは、豪族の蘇我氏である。その蘇我入鹿(そがのいるか)が天皇に取って代わろうとしているとし、天皇を中心とした中央集権国家をめざす中大兄皇子と中臣鎌足によって斬殺された。
こうした内政の対立も乙巳の変の原因であろう。しかし、近年、外交上の理由も指摘されている。
▶︎百済派と唐、新羅派の争い
蘇我氏は百済派の豪族として有名である。蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法輿寺)は、百済からきた工人により建てられたものだ。
また、蘇我氏の主導のもとに建設された飛鳥の都・飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の北には甘樫丘(あまかしのおか)があり、そこには蘇我入鹿の邸宅があった。この邸宅の土台は石垣で固められており、さながら要塞のようであったといわれる。 百済の王都があった泗沘城(サビソン・扶餘)の王宮の後ろにも、王宮を守る扶蘇山城(プソサンソン)があり、その配置が飛鳥と似ているところから、蘇我氏が扶餘の主都を参考にしたとも推察され、百済と蘇我氏の間の密接な関係を推測させる。
一方で、反百済の人物も現れた。当時の朝鮮半島情勢は、大帝国・唐の出現により激動していた。新羅の武烈王(ムヨルワン)は、高句麗と百済が連携して新羅領を脅かすようになると、唐に支援を求めるとともに倭にも接近してくる。
もともと百済を経由して派遣していた遣隋使が、唐代になると新羅を通り帰国するようになる。派遣されていた留学僧たちは、唐では既に律令制度、つまり刑法(律)と行政法(令)が整っているので、これに習うべきであると朝廷に報告する。
この動きから反百済の親唐・親新羅派が出現するのだが、その代表が軽皇子(かるのみこ・後の孝徳天皇)である。
軽皇子は、百済に傾倒した外交に疑問をもつ甥の中大兄皇子と連携、蘇我入鹿を殺害したとも解釈できる。ともかく、蘇我氏の支配は終焉を迎える。
▶︎親唐・親新羅政策に不安の声
乙巳の変の後、軽皇子は孝徳天皇に即位。長安をモデルにした難波宮(なにわのみや)に遷都した。ここは難波津の港がある交通の要所であり、唐や朝鮮半島との外交に都合が良かった。
孝徳天皇は遣唐使も再開する。630年に第一回遣唐使が派遣されてから二十五年経っていたが、孝徳天皇は653年、654年と、たて続けに遣唐使を送った。
第二回の遣唐使は二組に分け、航路も別々にするという大掛かりなものであった。これは、なんとしても唐の制度を迅速かつ確実に輸入しなければならないという心情を反映してのことだろう。また、孝徳天皇は遣唐使から戻った留学僧を国博士として重用した。
ところが651年、新羅の使者が倭にやってくると、親唐政策に疑問の声があがる。その新羅の使者が唐の衣装を身にまとっていたからだ。
新羅のように唐の属国となるのを懸念した中大兄皇子は、653年、再び飛鳥に遷都するよう申し出る。孝徳天皇は反対するが、それを無視し、中大兄皇子は官僚を引き連れ飛鳥に戻ってしまう。
翌年、孝徳天皇が没すると、飛鳥で中大兄皇子の母である斉明(さいめい)天皇が即位する。斉明天皇は、蝦夷、隼人など先住民を服属させ、大和朝廷の勢力を拡大する
▶︎古代の大海戦・白村江の戦い
660年、唐・新羅の連合軍は百済を滅亡させると、次に高句麗に進撃する。一方、百済の残存勢力は、滅亡後すぐに唐・新羅軍が手薄になつた半島南部で百済復興運動を開始。各地に山城を建設し、倭に使者を送った。倭に百済王子・豊璋(ブンジャン)が滞在しており、百済の残存勢力は豊璋を百済王として迎え入れようとしていた。
斉明天皇は、百済が滅亡し、唐・新羅の勢力が目の前に近づくと、この脅威に対抗するには百済が必要と考え、支援を決意。中大兄皇子とともに自ら九州に赴くと、朝倉宮で陣頭指揮をとった。ところが、二カ月後、斉明天皇は病没してしまう。
悲痛の中、中大兄皇子が代わりに陣頭にたち、661年、扶余豊璋 (ふよ ほうしょう)に倭国最高の官位「織冠(しょくかん)」を与え、半島に送り出す。これは、豊璋が百済主になった暁には、百済と冊封関係を結ぼうとしたとも考えられる。
その頃、朝鮮半島では百済復興運動に対し、唐・新羅軍が反攻に転じていた。復興軍は、忠清南道(チュンチョンナムド)にあった周留城(チュリュソン)を拠点として、倭の援軍を待つ。
663年八月、倭は、復興軍と合流すべく周留城へ兵を送る。周留城へは朝鮮半島南西部沿岸を通り、白村江から内地へ入るルートがとられたが、その白村江の入口に、唐の水軍170艘「が待ち受けていた。「白村江の戦い」である。倭は突撃を繰り返すが、統制のとれた唐水軍の前に敗れた。
その後、扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)は高句麗へ逃亡。百済復興軍は壊滅した。
▶︎敗戦から日本国誕生
白村江の敗因のひとつに、それぞれの軍隊構成がある。倭の援軍は、地方豪族、中央豪族の軍隊を急遽編成したもので、全体を指揮するものがいなかった。それに比べ、唐・新羅連合軍は、非常に組織的で統一のとれた軍隊であった。これは、唐・新羅では律令制度が浸透していたが、一方の倭では、まだ整備されていなかったことに起因する。
中大兄皇子は、この時、律令制度と中央集権体制の重要性を目の当たりにしたのである。
敗戦後、中大兄皇子は天智天皇に即位すると、直ちに国土防衛強化を進める。眼前に唐・新羅の脅威が迫っていたからだ。九州の拠点である大宰府の侵入に水城(みずき)を建築。これは幅60メートルの堀に水を張り、さらに高さ10メートルの土塁を備えた太宰府防衛施設である。その後ろには、山城(大野城)も築いた。
※水城(みずき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた、日本の古代の城である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている
このような山城は九州北部から瀬戸内海沿岸、近畿の各地に建てられた。その建築には、亡命してきた百済の技術者が指導にあたった。
また、天智天皇は、強国をつくるには律令制度が必要と考え、その制定を推し進める。この律令制度についても亡命百済人の役人などが手伝うことになる。
671年、天智天皇が没すると、弟の天武天皇が即位する。天武天皇は天智天皇の律令制度と中央集権体制の促進を継承し、701年、「大宝律令」を制定する。同年、30年ぶりに遣唐使を送ると、そこで国号を日本としたことを伝える。ここに日本が誕生したのである。
▶︎百済、羈縻(きび)政策に反発