北川民次の受講料納付カードは二枚保管されている。第一は1918年24歳から1919年25歳にかけてのもの、第二は1919年25歳から1920年26歳にかけてのものである。これも授業内容の詳細は不明であるが、〈Life〉とは人をモデルにすることを意味しており、人体デッサンを実習しながら、絵画の構図についても教授するという絵画制作の基礎的な内容のものであったと推定できる。彼自身も「主として私が学校で教わったのは教師はジョン・スローン先生で、裸体とコンポジションをやったが、其の他、ブリッジマン氏という其の道の老大家からアナトミー(解剖学)も学んだ」と語っており、人体デッサンを主としたものであった。また、ここでブリッジマンの解剖学に触れているが、これは同受講案内書によればジョージ・カッジマン(George B. Bridgman)による美術解剖学の講義で北川が在籍した両シーズンともに開講されており、彼はこの科目を聴講していたのであろう。
作品は、確認時には枠から離されてカンヴァスが折り畳まれていたとのことで、保存状態に問題があり既に裏打を含めた修復がなされている。裏打の布を透して確認可能な作品裏面の記載は「CERRO DEL AUE.」それは「AUEの丘」ということであるが、現時点では「AUE」の意味を明らかにすることはできない。また、併せて漢字で「北川」の文字を確認することができる。
それらに一貫して流れるのは、近代と伝統文化の葛藤に対するこの画家の視線である。これらの絵画が成立する客観的な背景として、当時彼が住んでいたタスコの町に銀細工が盛んとなってアメリカ人観光客が多く訪れるようになり、急速に近代化が進んでいった時期にあたっていたという事実があった。そして、より重要なことはこの問題に北川自身がかかわっていたことである。当時の野外美術学校の生徒であるアマドール・ルーゴ氏によれば、当時の北川のもとには多くのアメリカ人観光客が訪れて、彼の家に宿泊もしていたとのことである。その状況は、二人のアメリカ人によって著わされたメキシコ旅行記『メキシカン・オチノセイ』にも詳しく紹介されている。また、伊藤高義氏が紹介しているように、1935年のアメリカで出版された観光ガイドブック『Terry,s Guide to Mexico』にも北川のことが紹介されているとのことで、結果的に彼自身がタスコに観光客を呼び寄せ、この町の近代化に加担していた。先のルーゴ氏は筆者の聞き取り調査に対して「タスコを国際的な観光地にしたのは、この町に銀細工を起こしたスプラットニングと、そして北川である」とまで語っている。これはいささか誇張した言い方であるとしても、ある程度は事実を伝えている言葉であろう。