第Ⅰ章 メキシコ時代

■第Ⅰ章メキシコ時代

 北川民次は、ニューヨークのアートステユーデンツ・リーグでジョン・スコーンの教室に通い、ここで美術の基礎を学んだ。彼の当時の作品が至ったく確認できないため、制作そのものの内容を明らかにすることはできない。しかし、彼はこの時代に、アメリカの美術の歴史のなかで、都市の生活者やその情景を描くという新しい絵画の領域を開拓した画家の一人であったスローンからの影響や、国吉康雄、清水登之などとの交主によって、社会や民衆を描くという画家としての基本的な姿勢を身につけていったと思われる。また、彼はこの時期にメトロポリタン美術館でセザンヌの絵画に出会ったと語ってt)るが、彼はセザンヌやゴーギャンなど最期印象派をはじめとする、19世紀末から20世紀初頭の絵画にも刺激を受けていたと考えられる

  

 1921年にキューバを経てメキシコに渡った北川は、初めの数年間をメキシコ市で給仕として働いたり、聖画商人としてメキシコ各地を放浪したりして過ごした。彼が本格的に制作活動に入るのは、国立美術学校(サン・カレロス・下図右)からチエルブスコ旧僧院「芸術家の家」で学んだ1924年から1925年にかけてであった。

 

 この時期を中心に、彼は≪チュルブスコのコンペント回廊≫に見られるような遠近法的な空間の再現と光の拡散の様子を描き出そうとした作品や、≪メキシコ風景(トラルパムへの道)≫(下図左))に見られるようなセザンヌの筆触を意識したものなど、さまざまな実験的な作品を制作している。

 そして彼は1925年トラルパム野外美術学校に助手として赴き、児童美術教育の実践に携わるようになった。1927年頃には、彼が野外美術学校で教えていた児童たちの絵に端的に見られるような〈知ったものを描く〉ともいう姿勢に自らの制作のヒントを見いだした。それは、対象(描くもの)についての画家の〈認識〉をもとに、これを絵画表現として定着させようとすることであった。ここで認識とは、単に視覚や触覚といった感覚でとらえられるものだけにとどまらず、その事物に対する描く側の感情や価値観などをも含めたもの、という意味である。この取り組みは、単純に児童画のようなプリミティプな絵画へ向かうということではなく、画家がもっている認識をもとにして描くということを、いかにして当代の新しい絵画表現として確立させるかということへの挑戦であった。≪ロバ≫は、その傾向がはっきりと示された作品で、ここに描かれたロバは、目でみて観察されただけの描くための対象ではなく、北川が日常的に接して知っている、メキシコの人々の生活や労働とともに生きている動物としてとらえられている。この1927年33歳から1928年34歳頃には、この作品をはじめとして≪本を読む労働者≫(下図左)などに、ゴーギャンを想わせる色面を重視した画面構成、また独特の厚塗りの絵肌が特徴的に見られるようになったことを指摘することができる。この頃、北川はその後を決定づける画家としての在り方を見いだしたのである。

 

 北川は1929年35歳に結婚し、翌年には長女が誕生した。彼はこれを契機に≪トラルパム霊園のお祭り≫(上図右)を制作し、この作品を生と死、あるいは人間の一生を主題とした構想画として描いて、その制作に広がりをみせるようになった。

 北川民次のトラルパム時代の制作を代表する重要な作品である。教会のある丘には人生にまつわるさまざまな場面を見ることができる。手前に大きく描かれている集団は赤ん坊を抱いた女性を囲んで、皆でこれから教会へと洗礼に向かうのであろう。それとは対称的に橋を渡って墓地へと向かう、小さな棺を頭上に掲げる男と多くの人たち。その橋の下、流れの中では水浴の娘たちが健康な生命の輝きを見せている。教会近くの家並みでは人々の日常の生活が見られる。この作品では、人間の生と死が際だったかたちで向かい合うように描かれている。そして、人間の一生を絵巻のように見ることもできるように構成されていて、北川が生と死、人生といったテーマを一つの作品に表現しようとして初めて取り組んだ、本格的な構想画ということができる。ここに描かれた風景は、そのままに現実にあるものではなく、各々のモティーフを寄せ集めて構成されたものである。

 画面に大きく描かれた赤ん坊を連れた集団には、右から二人目に妻の鉄野が描き込まれてしる。彼は1929年35歳11月に鉄野と結婚し、この作品を完成させた年には長女、多美子が誕生している。彼はこの自らの人生の記念となる幸福なできごと弓契機としてこの作品を描いたのであろう。トラルノム時代の野外美術学校の生徒であったマヌエルェチャウリ氏によれば、北川はこの作品をずいぶん時間をかけて制作したとのことである。

 また、この頃から日本の浮世絵にヒントを得たと思われる≪画家の肖像≫(下図左)≪水浴≫(下図右)に代表されるような日本的な絵画表現を試みるようになっていった。

 

 これに先立って制作された《水浴≫二点とは、また傾向の異なるものである。二人の女性は、円く描かれた水の中に立ち、背後の樹木は適当な高さに切られて一列に並び、この二人の人物を浮き立たせるように配置されている。全体は非現実的な絵画空間として設定されている。人物の目は写楽の浮世絵にみられるような特異な形に描かれて、不思議な表情をしており、右側の大きく描かれた女性の髪の毛などは、片側が剃り取られたようになっていて、この作品には画家の意図を理解しきれないものがある。そして人物の肌の白、その輪郭を描く細い線などには、この年の11月にメキシコを訪問し、12月には、45点の作品によってメキシコ市で個展を開いた藤田嗣治の影響が早くも現れている可能性を指摘することができる。

 それは、彼が日本人画家でありながら、革命後のメキシコにおける民族主義的な美術運動である野外美術学校の活動に参画しているという、その複雑な立場の反映であったのかも知れない。そのためか北川はメキシコ時代に、リベラやオロスコ、シケイロスに代表される壁画運動のような、当時のメキシコ美術界をリードしていた絵画を、主題の選択においても、表現様式のうえでもほとんど描いていない。

 

《踊る人たち≫(上図左)、≪トルティーヤを売る女たち≫(上図右)などは、肖像的な人物像や風景を除けば、彼がメキシコの風俗や民衆の要そのものを描いた数少ない作例である。

 北川は1932年38歳タスコに移り、野外美術学校の校長として1936年にメキシコを離れるまでの四年ほどをそこで過ごした。ここで彼は画家自身の人格とも深くかかわる対象への認識を中心にすえて描くという、独創的なリアリズム表現をより確かなものとしていった。

 ≪老人≫(上図左)≪聖書を読む少年≫(上図右)などの人物像では、その内的な精神性までをも描けるまでになっていった。また《子供を抱くメキシコの女(姉弟)≫(上図左)に端的に見られるように、近代化されていくメキシコ社会の矛盾、いわば伝統と近代の葛藤をテーマとした主題性の明確な絵画を描くようにもなっていった。

 そして《女≫(上図右)、≪カンディダ(無垢な女)≫(下図左)、《女の像≫(下図右)に代表されるような、画家の世界観や時代認識までもが反映された堅固な造形による人物像に到達してメキシコでの制作活動に終止符を打ったのである。