データ検索情報誌2018~2019
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1909-1930
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第2編・第2章・統一新羅と渤海
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北川民次
第Ⅰ章 メキシコ時代
第Ⅱ章 帰国から戦中期
第Ⅲ章 戦後の制作
第Ⅳ章 晩年の制作
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第Ⅱ章 帰国から戦中期
■第Ⅱ章帰国から戦中期
北川民次は1936年に帰国すると、メキシコ時代からの知り合いであった
藤田嗣治の勧め
もあって翌
1937年43歳の第24回二科展への出品
をめざして制作を始めた。
≪タスコの祭り>(上図左
)、
≪メキシコ・悲しき日>(上図右)
、
《メキシコ三童女≫(下図)
などがこの二科展に出品され、その評価によって彼は二科会会員となった。
◉タスコの祭 1937年・昭和12年・・・
「これはメキシコから帰ったばかりの作品で、壁垂をかく心持でかいた。私はすくなくともこの三倍ぐモ.⊥に引きのばす計画だったので、原画は中途半扁て構図に無理があり、きゅうくつな感じをまぬか丁二得ない。それは今になって見ると、異国趣味みて」で、恥ずかしい。」と北川自身がこの作品について1956年に記している。彼はこの作品を瀬戸で笥作したが、そこの部屋で可能な大きさ一杯に描いたという。北川は1936年に帰国すると、既にメキシコで知り合っていた藤田嗣治の勧めで二科展へJ出品をめぎして制作を始めた。この作品をはじカとして
《メキシコ・悲しき日≫(上図右)
《メキシコ三童女≫(下図)
などを1937年の第24回二科展に出品して、同会の会員となった。 日本の美術界ではニューヨークから長いメキシコでの生活を経て帰国したという異色の経歴をもつ北川は、自己の存在を強烈にアピールするためか、この作品にみられるようにメキシコの風俗などを壁画的な構成で積極的に措き始めた。
彼が最もメキシコらしい作品を制作したのはメキシコ時代ではなく、実は帰国後のこの時期であった。それは日本の美術界への自己主張である
と
ともに、一方でメキシコではこのような絵を描けなかった事情があったと思われる。リベラやシケイロスなどメキシコ革命を美術界でノードした壁画派に属した画家ではなく、野外美術学校の活動に身を投じていた日本人画家が、存分にメキシコ的な絵を描くには帰国を待たなければならなかったのである。このような事情が、作者自身が「異国趣味みたい」と後年になって回顧する作品成立の背景だったのであろう。
タスコの祭の情景を描いたこの作品では、楽隊の一群と聴衆たちに極端な大きさの対比を導入し、また聴衆たちの一群では人々の配置にリズミカルな効果を意識して、この大きな画面を構成している。
これらの作品は、彼が最も
メキシコらしい表現を試みたもの
ということができる。とりわけ
≪タスコの祭>
は、
メキシコの風俗を、壁画を意識したダイナミックな構成
によって大きな画面に描いたものである。これらの作品には、アメリカを経てメキシコから帰国した画家という、彼の異色の経歴を日本の美術界に対して明確に打ち出すことのできる作品を発表しようとする意気込みと、メキシコ時代には描けなかった壁画をメキシコ的な葛材によって存分に描いてみたいという欲求があったと思われる。
帰国後の数年間は、北川が非常に充実した制作活動を展開した時期であった。彼は油彩画やテンペラ画にとどまらず、水彩画と版画の分野で注目すべき作品を残している。この時期に盛んに制作した水彩作品では、彼がこの分野でメキシコ時代から高く評価していた
アメリカの画家ジョン・マリンの強い影響
を見ることができる。
≪落合風郭(下図)
は、建物が複雑に重なりあう都市空間を巧みな構成と透明な色彩で描いている。彼の水彩作品を代表する一連の
≪瀬戸風景≫(下図)
では、
マリンの影響
を受けながらも、瀬戸の町並みや工場の変化に富んだ情景に触発されて、陶器生産が盛んなこの街の息づかいが伝わってくるような表現を完成させ、日本の水彩画の歴史に新しい一ページを加えた。
これら東京を描いた水彩作品は、
ジョン・マリンの影響を強く感じさせる
ものである。マリンは1870年にアメリカ、ニュー・ジャージー州ラザーフォードに生まれた。今世紀の初めにはニューヨークのアート・ステユーデンツ・リーグに学んだ。その後フランスに渡り、ここでホイッスラー風の水彩画と版画を身につけてアメリカに戻った。帰国後は、スティーグリッツから刺激を受けたりしながら、しだいに都市の風景をダイナミックに捉えて表現する独自の画風をつくりあげていった。北川は彼の作風を「巴里時代に彼は主として空気や空間のようなことを研究していたようですが、ニューヨークヘ来ると忽ちそれらが恐ろしい程強い動きと圧力とで構成されている事を発見し、リズムを力学的に取りあげ、巨大なマッスと微少な物との組み合わせに力を配りました。」と述べている。そして彼のことを「アメリカ画壇で最も尊敬していた一人」であり、私はマリンの絵が非常に好きでした。」と言っている。マリンは、1929年から1930年にかけて
メキシコを訪問
しており、ニューヨーク時代からその存在を知っていただけに、北川は一層彼のことを意識するようになったのであろう。北川は既にメキシコ時代からマリンに影響を受けた水彩画を残している。
《池袋風景≫《落合風景》
ともに、
都市の見せる建物が重なり合う複雑な情景を、律動的で活気のある画面構成と透明な色彩表現によって描いている。
版画では≪
瀬戸十景≫(下図
)で、自と果の強いコントラストを効果的に活かしたリノカットによる表現をみせるとともに、
《メキシコの浴み≫
などでは、木口木版によつて、木の断面がもつ独特の形状を活かして画面構成を試み、これも日本の版画界に、題材とその表現において新鮮でかつ独創的なものをもたらした。
窯業の街、瀬戸の情景を、表紙を含めて11点のリノカット(リノリウム版)による版画とした制作した作品である。浅川幸男氏によれば「この版画集は、瀬戸市から〈瀬戸〉を題材とした絵はがきの原画制作を委嘱されたことによって制作したもので、北川は一般の絵はがきにはないものをと考えて版画とした。しかし、その白と黒の強い対比をいかした表現が受け入れられず、絵はがきとしては採用されなかった」と後に作者自身が語ったとのことである。
《煙突のある風景≫(上図中)
のような、瀬戸の街の情景を描いたものには、一連の水彩による
《瀬戸風景≫
と共通するジョン・マリンの水彩を想わせるような構成を見ることができる。
また
《ろくろを廻す男≫(上図)
のように働く人々の姿を描いた作品では、後年の絵画作品
《赤津陶工の家》
を予見させるもので、壁画的な画面構成を版画という小さな画面にも巧みに取り入れている。この11点の版画作品は、自と果の明確な対比と、刀の切れ味の良さを引きだした表現を特徴としている。北川は、メキシコ時代に野外美術学校派が組織したグループに所属し、このグループによる展覧会に出品をしていた。その展覧会は版画によるものがほとんどで、北川も木版やステンシルによるものを多く出品していた。そして彼が属した野外美術学校派で中心的役割をはたしたフランシスコ・ディアス・デ・レオン、ガブリエル・フェルナンデス・レデスマたちは、革命後のメキシコ
に
版画の技法をもたらしたジャン・シャルローに学び、非常に熱心に版画の制作を行ったことで知られている。北川はそのような環境の中で、版画についても研究と制作を行っていて、それが帰国後間もなも)この時期に優れた版画作品を制作する背景となっていた。そして、この
《瀬戸十景≫(上図)
に代表されるこの時期の北川の版画は、日本の近代版画の展開の上でも、新しい一ページを加えたものとして高く評価することができる。
北川が帰国した当時の日本は、国家権力が強大となって国民の生活を圧迫しはじめ、やがて戦争へと向かっていくという、
美術家にとっても自由な表現が制約を受ける不幸な時代であった。
北川は一人の画家として、このような時代状況に対して作品による発言を試みていった。
1938年44歳
の
≪ランチエロの唄≫(上図左)、
1939年の≪大地>(上図右)
で「実はひそかに第二次大戦前の日本の世相を皮肉ってかいた」と自身が語るように、戦争へと向かっていく日本社会への批判と抵抗を、風刺的あるいは比喩的なもので表現するようになった。
≪鉛の兵隊(銃後の少女)≫(上図左
)
では、画家からの時代に対する抵抗のメッセージが、ある程度は具体的なかたちをとって示されている。しかし1940年の《
岩山に茂る≫(上図右)、≪南国の花≫(下図左)
などになると、画面から感じられるある種の不安といった漠然としたものに、そのメッセージが暗示されるようになっていった。
そして1942年頃からは
≪海への道≫(上図右)
といった風景画に、セザンヌの筆触などを意識した、彼にとっての出発点の一つに立ち戻ったような制作を試みるようになった。
《海への道≫
は三重県の大土崎付近に取材して描いた作品である。この時期の北川の作品には時代状況への抵抗や比喩の意味を込めて制作されたものが多いが、ここではアメリカ時代に出会い、メキシコ時代のはじめに、その影響が見られたセザンヌを意識しながら、豊かな色彩とリズミかレな筆触を効果的に剛1て、自分なりの風景画を描こうとしている。これは二年後の制作の
《風景≫
にも共通して見られる傾向である。これらの作品では、この時期に多く制作した戦争への抵抗の姿勢を表現しようとしたものから離れて、風景画そのものを描くことに専念している画家の姿をみることができる。1942年頃からは、北川の作品にはしだいに色彩の豊かさと明るさ、リズミカルな筆触による効果が目だつようになっていった。
また「戦争か労働の姿しか描けなくなった」という状況のもとで
≪赤津陶工の翻(上図左)、≪鉱士の図≫(上図中)、≪農漁の図≫(上図右)
に見られるような、労働の姿を描いて、そこに画家としての卓抜な構成力を示すことに意義を見いだすような作品が制作された。この時期は、作品に色彩の豊かさが加わったことも特徴で、当時の深刻な社会状況のなかで、
一貫して戦争に対して批判的な態度をとりつづけようとした北川ではあった
が、表向きは絵画の世界そのものに入っていかざるを得なかったのかも知れない。
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