第Ⅲ章 戦後の制作

■第Ⅲ章 戦後の制作

村田真宏(元愛知県美術館学芸員)

 北川民次は敗戦を瀬戸で迎えた。彼はこの1945年51歳の12月に二点の作品を制作した。≪焼跡》(上図)では、戦争で疲弊した民衆の辛酸を痛切さをこめて描き、≪家族と画家夫婦(上図)では、現実にはこのような生活の余裕はなかったとしても、平和を取り戻した自分たちの日常を確かなものとして描いている。

◉焼跡 1945(昭和20)年 名古屋市美術館・・・敗戦の年に制作した作品である。現在のところ、この年は《家族と画家夫妻≫(上図)とともに、12月の制作が確認できるだけで、おそらく北川は戦後の混乱のなかで、ようやく12月頃になって制作を再開したのであろう。

 焼跡の廃虚となった街を、両の手で顔を覆って仔む母親、母に背負われた幼子、そして母にすがるようにしている女の子。その手には大根が2本しっかりと握られている。この作品を描いた画家の、戦争が残したものへの痛切な思いと、それを克服しようとする意志が描き込まれているようである。北川は1947年から数年の間、「VAE VICTIS(征服せられたる者は不幸なるかな)」という主題で「雑草の如く」の連作をはじめとする作品を制作する。この《焼跡≫には、戦後のしばらくの期間の制作を特徴づける「VAE VICTIS」という視点で日本社会を見つめる北川の原点を見ることができよう。

 この作品は、灰白色を基調とした限られた色彩しか剛)られていないが、それは当時、彼が手にすることができた絵具の材料の制約によるところが大きいのであろう。しかし、表現のうえでは材料の不足を感じさせないものとしている。

 彼はここで戦後の苦悩と平穏な生活の双方を、いずれも現実のものとして呈示してみせたのである。この後、1947年53歳から1949年55歳頃≪雑草の如く≫(下図左右)の連作に代表される「VAE VICTIS(征服せられたる者は不幸なるかな)」を主題とした制作を続けることになる。

先行する≪重荷(下図左)などもこの主題による制作で、戦争によって日本の民衆が背負わざるを得なかった辛苦を表現したり、あるいは社会のなかでの支配する者とされる者とがある現実を描きだすなど、時代状況を反映した制作がしばらく続いた。

 

一方でこの時期の北川は≪画家と娘≫(上図右)といった家族への愛情を込めた作品も多く描き、また瀬戸風景なども盛んに取りあをヂるなど旺盛な制作活動を展開していった。

 1950年頃から、彼の絵画には新しい傾向があらわれてくる。≪かまど≫(上図左)≪森の泉≫(上図右)≪かまどと働く人々≫(下図)など、特異な形態に措かれた人間や動物、物語が隠されているような一見不可解とも思われる場面設定など、それ以前には見られなかった絵画世界が出現する。

 これは「VAE VICTIS」の主題による制作に一区切りをつけて、主題性を重視することより、画面の構成や造形的な効果そのものに画家の気持ちが向かっていったことを示している。これらの作品にはメキシコの画家ルフィーノ・タマヨからの影響を指摘することができる。いわば北川民次のタマヨ的造形の時代ということができる。

 

 彼は1955年61歳1月からおよそ一年間、メキシコを再訪し、ここで懐かしい人々との旧交を暖めるとともに、各地の風景を盛んに描いた。この時には、風景を前にして直接カンヴァスに向かったと思われる作品もあり、自在な筆触の効果や明るい色彩がこの時期の制作の特徴ともなっている。そして彼はメキシコからアメリカ、ヨーロッパを経て帰国するが、ヨーロッパではフエルナン・レジェの作品に出会い、帰国後には太く明解な輪郭線や単純化した形態による構成を特徴とする絵画表現を確立していった。

 1950年代末から1960年代にかけては、北川様式とも呼べる絵画表現を自らのものにすると、次々に重要な作品を世に送っていった。

 

この時期には、安保闘争をテーマとした≪白と黒(上図左)、公害問題を取り上げげた≪公害のまち(上図中)≪花と煙突≫(上図右)など、日本の社会がかかえる問題に対しても作品によって発言することが目だつようになった。

 

また≪砂の工場≫(上図左)≪労働者の家族≫(上図右)といった瀬戸に取材した作品でもその構成力を遺憾なく示し、≪母子》(下図中)≪哺育>(下図右)≪愛情(下図)などの母子を題材とした作品でも、その代表作となるものを残している。

 

 この時期の作品で、北川は〈主題と表現〉という、画家であれば必然的に取り組まねばならない根本的な問題に対しての彼なりの解答を得たということができる。また日本の美術界ではあまり顧みられてこなかった美術と社会の関係という問題に対しても、一つの可能性を具体的なかたちで示したのである。