データ検索情報誌2018~2019
データ検索情報誌2018~2019
コンテンツへスキップ
ホーム
寺社仏閣
天の仏像
曹洞宗
道元の生涯
建築
アントニオ・ガウディ
スケルトン工法
■リファイニング建築[ 再生建築 ]とは
歴史
日本史
日本の前期古墳
大和の古墳を掘る
火焔土器のデザインと機能
日本遺産」Japan Heritage「なんだ、コレは!」
現代日本史
琉球の歴史
第二章・海 海上の道
第三章・花々 花開く琉球文化
第四章・人々 「シマの人々と生活」
花火の歴史
茨城における花火
朝鮮の歴史
日本と朝鮮半島・YOUTUBE
日韓で読みたい韓国史
1909-1930
第1編・文明の発生と国家登場
第2編小国から統一国家へ
第2編・第2章・統一新羅と渤海
第2部・韓国と日本の文化交流( 第1章・第2章)
第3章・統一新羅と高麗による対日外交の閉塞と民間での文化交流
4章・朝鮮から日本に向かう文化の流れ
3編・統一国家の安定と文化の発展
渤海と日本
クラスキノ城と福良港
韓国朝鮮の歴史(放送大学)
第2章・秦・漢帝国と韓国朝鮮の古代国家
第3章・古代三国の社会と政治
東アジア三国史
6-7世紀・隋から唐へ
8-9世紀・遣唐史と日本
日本人はどこからやってきたのか?
牛久市情報
景観まちづくりネットワーク
うしく景観まちづくりセミナー
みんなのミュージアム
未来志向の社会デザイン
郷土牛久の先人たち
牛久の歴史
牛久の縄紋・弥生土器
由良妙印尼の軌跡
美術
パステル画材
技法
日本近現代美術史
北川民次
第Ⅰ章 メキシコ時代
第Ⅱ章 帰国から戦中期
第Ⅲ章 戦後の制作
第Ⅳ章 晩年の制作
坂田一男
岡本唐貴とその時代
川口軌外
池田龍雄
西洋近現代史
ジャコメッティ-1
ジャコメッティ-2
画家ブブノワ、その視線
食物関連
ゲノム編集食品
つくば市
21世紀筑波の軌跡
メディア情報
サイバニクスが拓く未来
円環大全・インフォグラフィックス
円環の分類
漢字の面白さ・TED❌
高校「情報科」教員不足
土浦の歴史
図説 新治村
中世の寺社と信仰
図説・新治村史
図説・土浦市史
宍塚・般若寺の梵鐘
仏教哲学
玄奘三蔵「天竺へ」
講義動画
第3章・古代三国の社会と政治
■魏晋南北朝時代と朝鮮三国
朝鮮半島を中心に国家を形成した高句麗・百済・新羅・加耶諸国の歴史と文化を学ぶ。中国大陸では西晋以後、諸族・諸王朝が乱立し、複雑な様相を呈した、いわゆる五胡十六国・南北朝時代に突入するが、高句麗・百済・新羅・加耶諸国の国家形成過程を、中国王朝との関係をふまえつつ考察する。また、高句麗・百済・新羅の文化の特質を、共通点や差異点を意識しながら理解する。
▶︎高句麗の発展と試練
魏の攻撃によって壊滅的な被害を受けた高句麗(コグリヨ)ではあったが、国家体制の整備などを通して、発展を遂げていくことになる。その一つが官位制の再編・整備であった。
三世紀の高句麗
には
五部を前程
とした
族制的な10等の官位
が存在していたが、高句麗の国家的発展を迎える
四世紀前半頃
、国王を中心とする13等の官位制が整備された。
※高句麗五部(こうくりごぶ)は、
高句麗
において5つに編成された部族である。 高句麗は建国時より多数の部族により形成されていたが、故国川王は高句麗内の部族を
5つ(五部)
に再編することを命じた。
内部
(桂婁部、黄部とも)
北部
(絶奴部、後部とも)
東部
(順奴部、左部とも)
南部
(灌奴部、前部とも)
西部
(消奴部とも)
これは
五部
を前提としつっも、国王を頂点とする一元的な身分秩序に編成しようとしたもので、これによって
王権を支える基盤が拡大・強化
され、その後の高句麗の発展を支えることになった。この
高句麗の官位制
は
百済や新羅、日本
に大きな影響を与えた。対外的には楽浪・帯方二郡に対する軍事的圧力を強め、三二二年、ついに楽浪郡は平巌がら遼東へ撤退し、ほどなく、帯方郡も遼東へと移転した。
約420年
に及ぶ
中国王朝の朝鮮半島支配はここに終焉
を迎えた。高句麗は楽浪・帯方地域を手に入れ、
朝鮮半島南部への進出の足場を築いた
のである。
この高句麗に立ちはだかったのが、
遼西で勢力を拡大
させつつあった
五胡十六国の雄、鮮卑族の
慕容 皝
(ぼようこう・337年 – 348年)
であった。
燕王
と称し、中原への進出を企図していた
前燕の君主・
慕容 皝
は、遼東方面に勢力を拡大する高句麗を警戒していたが、342年、五万の大軍を派遣して高句麗を攻略した。迎撃した高句麗軍を撃破した
前燕軍
は、
高句麗王都を陥落
させ、前王の
美川王(びせん
・在位、300〜31)
の墓を暴き
、
屍を奪い、王の妻と母・珍宝を掠(かす)め
、
丸都城を破壊
して宮殿に
火を放って凱旋
した。翌年、
故国原王
(ここくげん・在位、331〜371)は
前燕に臣従
し、その
冊封体制下に入り
、
父の屍を取り戻し
、この難局をしのいだ。人質となっていた
王母は一四年間
、
前燕に留め置かれた。
だが、苦況はさらに続いた。今度は高句麗の南方、
百済「ヘクチエ)
との対立であった。成長著しい百済は北上して
平壌を攻撃
したが、迎撃した
故国原王
は流れ矢にあたり
戦死を遂げた
。
西方・南方の二方面での軍事的対立の激化
によって
高句麗は試練の時を迎えた。
続く
小獣林王
(しょうじょうりん・
在位、371〜384)
は、国力の回復を図り、律令を制定し、大学を設け、次の
故国壊王(ここくじょう・在位、384〜391)
は国社・宗廟を建て礼制を整備するなど、国利の整備・充実に努め、
国難の克復
を図った。
こうしたなかで登場したのが、
広間土王(在位、391〜412)
であった。その王号の如く、
広間土(こうかいど)王
は高句麗の領域を飛躍的に拡大させ、
高句麗最盛期
を現出した。高句麗旧都である
中国吉林省の集安
に現在も
屹立 (きつりつ・高くそびえ立つこと)
する「
広間土王碑
」(414年建立)には、王が親征して百済やその同盟国である倭、任那加羅(みまなから)、安羅(あら)、さらには稗麗(ひれい・契丹の一部族)を撃退し、粛慎(しゅくしん)、東夫余(ふよ)、新羅(しらぎ・シルラ)などを勢力圏に収め、領土を拡大したことを刻記している。この王碑には伝えられていないが、広間土王は遼東の方面にも勢力を伸張させ、遼河(りょうが)以東を領有化した。
これを継承し、より発展させたのが、その息子の
長寿王(在位、413〜91)
であった。長寿王は、四二七年、国内城から南方の拠点であった
平壌へ遷都
するとともに、中国の南北王朝のいずれにも使者を派遣し、
南北王朝の対立を巧に利用して外交を展開し、国際的にも高い地位
を得た。こうして中国王朝との関係を安定させた上で、積極的に
南下政策を断行
し、
朝鮮半島南部の百済・新羅らを圧倒
した。
475年
には
百済の主都・漢山城を陥落
させ、
蓋滷王
(がいろ・在位、455〜75)を殺害して
漢江(ハンガン)
以南をも領有した。その領土は、
西は遼河、南は朝鮮半島中南部にも及び高句麗史上最大
となった。
その後の
文書明王
(在位、
492〜519
)代も
高句麗は朝鮮半島の北の大半を支配
し、
北の大国として君臨
していたが、衰微の兆しが見えてきた
。531年には安臧王
(あんぞう・在位、519〜31)が
殺害
され、次いで即位した
安原王
(在位、531〜45)の末年には、王の病を契機に
王位継承をめぐる外戚間の武力抗争が勃発
し、乱中、
王が死去
した。
八歳で王となった陽原王
(在位、545〜59)代には
丸都城で反乱
が起こるなど
王権が弱体化
した。さらに、
新羅が勢力を拡大
して、高句麗領を侵蝕し、高句麗が70年余りにわたって支配してきた
漢山城地域は新羅と百済軍によって奪取
された。こうした情勢に対応するために、
陽原王
は552年、
王都を平壌市内に移した
(長安城)。堅固な城塞都市である新都で高句麗は激動の七世紀に突入し、終焉を迎えることになる。
▶︎百済の成立・発展
この高句麗と敵対し続けたのが百済
であった。
百済は馬韓諸国の一つ
、
伯済国
から発展したと考えられ、
楽浪郡・帯方郡の朝鮮半島から遼東への撤退を画期
に、周辺諸国を糾合して四世紀中頃までには勃興し、
漢山(ソウル)に王都
を置き、国家の基礎を固めた。当時の朝鮮半島には、楽浪郡・帯方郡の遼東移転以後も朝鮮半島に滞在し
土着化した漢人
や、
中国大陸の戦乱を避けて新たに朝鮮半島に流入した漢人
などが存在していたが、彼らは百済王権に取り込まれ、百済の国家形成に大きく寄与したと考えられる。
こうして興起した百済を待ち受けていたのが、朝鮮半島北部を支配し、強力に南下政策を推し進めていた高句麗との対立であった。それは
四世紀半ば、
近肖古
(きんしょうこ)王代(在位、346〜375)頃から激化していくが、
百済は高句麗に対抗
するため、朝鮮半島南部沿岸部の安羅(あら・咸安・かんあん)・卓淳(とくじゅん・昌原・しょうげん)・金官国(きんかん・金海)らと通交した。さらにこれら
諸国を媒介にしてその南の倭にも接近
した。
石上神宮(奈良県)所蔵の七支刀
は、こうした百済の
対倭外交の過程で、369年に百済で製作
され、
372年頃、倭王に贈られた
のであった。
こうして
加耶諸国や倭と連携
を強めつつ、
高句麗と敵対した百済
は、371年、平壌城の戦闘で高句麗の
故国原王を戦死
させると、その翌年には
使者を東晋に派遣
して、はじめて
国際社会に登場
し、
東晋から鎮東将軍などの官爵号を受けた
。これ以後も百済は主に南朝諸王朝と通交し、
南朝
の
冊封体制下で国際的な地位を築いていった
。このように
百済は高句麗
に対抗するために加耶諸国や倭との連携を強め、南朝と通交したが、これはその後の百済の基本的な外交戦略となった。
だが、高句麗との対立は、
百済をたびたび苦況に陥れる
こととなった。
396年
、広間土王率いる高句麗軍によって五人城・村七百が奪取され、
阿華王
(あか・在位、三392〜405)は高句麗への忠誠を誓わされ、王弟・大臣が連行された。百済はすぐさま
倭と結んで反旗を翻し
、
高句麗との対立姿勢を強めていった
。しかし、平壌に遷都して強力に南下政策を進める高句麗の前に
百済は苦しみ続けた
。472年、ついに百済はこれまで通交のなかった
北魂に使者を派遣し窮状を訴えたが効果もなく
、その三年後の475年、高句麗の攻撃を受け、
王都は陥落し、
蓋滷王
(がいろ・在位、455〜75)
は殺害
され、百済は一時滅亡したのであった。
難を逃れ、
錦江(きんこう)上流の熊津
(ゆうしん・公州)へと
商運した百済王族・支配者層
たちは
文周王(在位、475〜77?
)を擁立し、
百済は復興を果たした
。遷都後しばらくは
文周王の殺害や権臣の反乱
などがあり王権は安定せず、王権の伸張を図った
東城王(在位、479〜501)
も
501年、臣下によって殺害
されたが、
武寧(ぶねい)王(在位、501〜23)は反乱を鎮圧
し、政治不安を克復していった。この間、東城王は対南朝外交を展開し、王や臣僚への官爵授与を要求し、外交を媒介にして王権の強化に務めるともに、
新羅と婚姻を結び高句麗に対抗した
。さらに
朝鮮半島西南部に本格的に進出
し、
耽羅(たんら)
とも通交した。
武寧王
もこうした南進政策を加速させ、
朝鮮半島南西部へ領域を拡大
させた。こうした百済領域内には
櫓魯(たんろ)
と称される22の拠点が置かれ、
王の宗族が派遣
された。
※櫓魯制度・・・王家の親族が、地方の有力都市や新たに獲得した土地に領主として派遣される。そして、それらの領主は王族だけに、王位継承権をも持つ。
続く
聖王
(在位、
523〜54
)は、さらに南の
泗沘城(しひ・扶余)
に
遷都
して、国号を
南扶余
とし、王都と地方をそれぞれ
五つに分割して統治する支配制度
(五部・五万制)を導入した。さらに
佐平(さへい)を長官
とする
中央官僚制
度(
6
佐平・
22
部司制
)や佐平以下、
十六等
からなる
個人的身分制である官位制
もこの頃、完備し、国家体制の基盤が整備された(上図左右)。こうして
泗沘
に
遷都
して国力を充実させた
聖王
はさらなる
加耶地域への勢力拡大を図った
が、同地域への軍事的侵攻を強める
新羅に阻まれ
、
不首尾(
よい結果が得られない
)に終わった
。また、
北進して新羅と連合
して高句麗を撃破し、
漢城を奪取
したものの、新羅によって
同地を奪取
され、
聖王の外交戦略は失敗に帰し
、
聖王自身も新羅との戦闘の過程で戦死
した。
▶︎新羅の台頭
新羅は
辰韓12国の一つ
、慶州(けいしゅう・キョンジュ)の
斯慮(しろ)国
を基盤に国家を形成した。
377年
には北朝の
前奏に朝貢
して、はじめて国際舞台に登場した。だが、これは高句麗に伴われてものであり、独力で中国王朝と通交するにはまだ時間を要した。むしろ、
「広開土王碑
」に、
百済と同盟
して
高句麗に対抗する倭
からの侵略に苦しむ
新羅
が
高句麗に援助を要請
した、と伝えられているように、
新羅
は北方の
高句麗
と海を隔てた
倭の軍事的圧力に苦しみ
、
高句麗へ従属
しながら、国家的成長をとげていった。
だが、
五世紀中ごろ
以後、
新羅は高句麗の従属下からの離脱に転じ
、
高句麗と敵対
する
百済に救援軍を派遣
するなど、
百済と同盟して高句麗との対立姿勢を強
め、
六世紀には高句麗領を侵蝕
するようになっていった。一方、国内でも六世紀以後、王権が強化され、諸制度が整備され、その後の
新羅伸張の基盤が形成
されていった。
上古・中古・下古
からなる独自の時代区分法によって新羅の歴史を区分する「
三国遺事
(さんごくいじ)」(13世紀)は、この
6世紀初めからの約150年
を、「
中古」
とし、それ以前の
「上古」
と区分する。
法興王(ほうこう・在位、514〜40)
は、
王都六部の人
を対象とした
17等の官位
である「
京位(けいい)
」と、
地方人を対象
とした
11等の官位
である「
外位
」を確立し
(上表)
、こうした官位制とそれにともなう衣冠制の制定を中心として、政治運営の基本を定めた
法規定
である「
律令
」を頒布した。また、軍制も整備し、独自の年号を創始した。外交では百済に導かれながらも、
約140年ぶり
に中国王朝と通交するとともに、
加耶諸国への進出を強め、金官国を滅ぼした
。
続く
真興王代
(しんこう・在位、五四〇〜七六)も積極的な対外拡張政策を断行し、
552年
には
百済が約70年ぶりに高句麗から奪回したソウル地方を奪取す
る
とともに、
朝鮮半島北東部の高句麗領を侵奪
していった。さらに、
562年には大加耶を滅ぼし、加耶諸国を掌中におさめた。
こうして
新羅は飛躍的に領土を拡大
させ、その領域は高句麗・百済の間に割って入り、
西海岸に到達
した。これによって
新羅は独力で対中国王朝外交
を行うことが可能となり
、564年には北斉
へ、
568年には陳
へ使者を派遣し、南北両王朝との通交を果たし、その後も積極的な
対中国外交を展開
するようになった。
新羅はこれら領域に
上州・下川・新州
を設置し、軍主を派遣した。また、在地首長を村主に任命し、
州−郡−城・村の軍政と民政が一体となった統治体制
を整えていった。
▶︎加耶諸国
朝鮮半島南部の
洛東江流域
を中心とする地域には、弁韓以来の伝統を持つ諸小国が併存していた。これら
小国家群を加耶諸国
という‥加耶諸国は楽浪・帯方郡以来の東アジア海上航路における幹線ネットワークの要衝に位置し、早くから
海上交易
などで栄えたが、政治的結合を果たすことはなかった。ただし、それら諸国のいくつかは連盟体を形成して大国に対抗することもあり、
三世紀の狗邪国(くや)を前身
とし、古来、日本列島との通交の中↓的役割を果たした
金官国(金海
)は、
豊かな鉄資源
と生産技術を背景にいち早く頭角をあらわして、四世紀には洛東江下流域を中心に盟主的な地位を築き、
百済・倭と結び、高句麗とも抗争した
。
五世紀後半
になると、金官国に代わって
大加耶(高霊・こうれい
)が台頭
した。大加耶は四七九年には
南斉に朝貢
し、「
輔国将軍・加羅国王」に冊封
され、
盟主的存在
として君臨した。だが、
熊津への遷都以後
、積極的に
加耶地域へ進出を図る百済
は、六世紀初頭に
蟾津江
(せんしんこう・ソムジンガン)流域
を奪取するなど、加耶諸国に対する
軍事的圧力
を強めた。大加耶は
新羅との
婚姻関係を結び
、
百済に対抗
しょうとしたが、新羅はこれに乗じて
加耶諸国への侵攻を強め
、
532年には金官国を滅ぼし
た
。その後、危機感を募らせた加耶諸国は
百済や倭と連携して新羅の侵攻
に対処しようとしたが、
562年
、
新羅軍の攻勢の前に大加耶も滅亡
し、
新羅に編入
された。
■朝鮮三国の政治と社会
▶︎高句麗の社会と文化
漢の郡県への服属・抵抗の過程
でいち早く国家形成を遂げた
高句麗
では、居住地である平地での拠点に加え、逃げ城としての山城を築き、王都は平地の王城と背後の山城が一体となって形成されいた。建国初期の王都であった
桓仁(かんじん)
では
五女山(ごじょざん)城
とその東の
蝲
蛤(らっこう)城
が、その後、三世紀初めから王都となった
集安
では
丸都山城(山城子山城)
と
国内城
が、
427年の平壌遷都以後
では
大城(だいじょう)山城と清岩里(せすがんり)土城
がそれぞれセットとなり、王都を構成した。
六世紀後半以後
、王都となった
長安城
平壌市内に造営されたものであったが、大同江北岸の丘陵を利用した
総長約23キロの
平山城(ひらやまじろ)
で、それまで分離していた平城と山城を一体化させて、
北城・内城・中城・外城に区画
し、防禦力を高めた都城であり、高句麗伝統の王都のあり方を踏襲し、発展させたものであった。こうした平城と山城のあり方は
新羅などにも影響
を与えた。
王都には支配者集団である五部が集任していたが、平壌遷都を契機として、それまでの
族制的なものから王都の行政区分(内部・東部・西部・南部・北部)
として改編され、
五部には長官として
褥薩
(じょくさつ・
地方官
)
が置かれた。
王都の周辺の
鴨緑江中流域
や
大同江流域
には墳墓が造営された。高句麗の噴墓は
積石塚(つみいしづか)
と石室を作って土で覆った
封土墳(ほうどふん)
に区分される。積石塚のなかには、整形した割石をピラミッド状に積み上げた一辺約50m以上の巨大墳もあり、古都集安には現在でも、王陵と考えられる
将軍塚、太王陵、千秋塚
などが残っている(
下
図
)。平壌遷都以後、積石塚は次第に衰退していき、それにかわって石室封土墳が平壌を中心に多数造営された。これら墳墓のなかには壮麗な壁画を描いた壁画墳もあり、
集安に20基、平壌地域に60基ほどが確認
されている。壁画は中国の影響を受けつつも独自の発展を遂げた
高句麗文化を現在
に伝えている。
これら壁画には仏教的要素が認められるが、高句麗では四世紀後半に仏教が伝えられ、寺院も建立された。現在、平壌付近の数か所で
定陵寺や上五里廃寺
などの寺院址が発見されている
(上図)
が、高句麗では塔の周辺に
3金堂を配置
する
一塔三金堂
の伽藍配置の寺院が造営された。
高句麗の僧侶のなかには
厩戸皇子の師
となった
慧慈(えじ)
をはじめ
雲聡(うんそう)・曇徴(どんちょう)
などのように
倭に派遣
されたものもあり、高句麗仏教は国際的な広がりをみせ、
倭にも影響
を与えた。
儒教もまた早くから受容され、
372年には大学を建て貴人の子弟を教育
した。また、
扃
堂(けいどう)
と呼ばれる大屋も作られ、青年の教育にあった。また、高句麗人自身によって『
留記」
(100巻)、それを改編した『留記』(五巻) などの歴史書も編纂されたという。
こうした中央に対して、地方では、
要害(地形がけわしく守りに有利なこと)
の地に山城が築かれ、地方支配の拠点とされ、山城を中心とする防禦体制が構築された。中央からは大城に
褥薩(じょくさつ・軍主
)−可邏達(からたつ)、諸城には
処閭近支
(しょりょきんし・道使)・
可邏達
(からたつ・
地方官職
)が派遣され、体系的な統治機構が整えられた。高句麗で発達した山城は、百済・新羅・加耶諸国・倭にも影響を与えることとなった。
※7世紀には南部,北部など地方軍政区画としての五部があり,部の長官を褥薩(じよくさつ),その配下の城主を処閭近支(しよろきんし)・道使といい,高句麗の滅亡時には五部176城あったという。
▶︎百済の社会と文化
百済は4世紀中ごろ
、
漢城(ソウル地方
)を拠点として成長したが、最初の拠点は漢江南岸の
風納洞(ふうのうどう)土城
と推定される。南遷後の
熊津(公州)・潤批(扶余)も同様な立地
で、いずれも一方が
錦江
を望む丘陵に城壁をめぐらした王都であった。
熊津城
は
錦江上流南岸
の公山に全長約2.5kmに及ぶ城壁をめぐらし、その周辺には山城も造営され、王都を守護した。
錦江中流の扶蘇山
に位置した
洒批城
は錦江に接する北側に山城(
扶蘇山城
)が築かれ、その南麓には王宮や官庁などが造営され、
都城の周囲約12キロにわたって羅城
が築かれた。また、王都周辺に山城が築かれ、主都防衛の拠点としての役割を担った(下図)。
洒批王都内
は、地域区分として上・下・中・前・後の
5
部に区画
された。部は5
巷
(こう・むらざと。まち)からなり、王都全体は
25巷
で構成されていた。また、部ごとに兵員500人が動員され、
5部は軍管区としても機能
していた。一方、
洒批時代
の地方は、それ以前の王の子弟などを派遣した
檐魯制(たもろ・檐魯<あらたに開かれた土地>の統治に王族の子弟を任命する制度)
にかわって、北・中・南・東・西方の五つに区分された(
五方
)。この広域的行政区域には拠点城となる
方城
として、熊津城(北方)・古沙城(中方)・得安城(東方)・刀先城(西方)・久知下城(南方)があり、
方領・方位が派遣
された。
方城
のもとには6、7から10の郡が、さらにその下には城が統属し、
郡には郡将、城には城守(道使)が派遣
された。また、熊津城から
洒批城
への遷都期の国家組織の整備にあわせて、王のもとに
一元的な身分制
としての
16等からなる官位制も整備
された。官位に応じて
服色・冠色
が定められており、
官僚制の基盤
として機能した。
王部局辺には支配者層の
墳墓が造営
された。百済では当初、
積石塚
が支配者層の墳墓として造営されていたが、
熊津(ゆうしん・ウンジン)時代
には
横穴式石室墳が主流
となり、さらに南朝の影響を受けて、
磚
室墳も築造
された。
公州宋山里(そうざんり・ソウサンニ)古墳群
で発見された
武寧王陵
はその典型で、
1971年に未盗掘の状態で発見された王陵
の内部からは、「
寧東大将軍の百済斯麻王(しま・武寧王(ムリョンワン、462年 – 523年)
)(
下図)
が62歳で癸卯(きぼう・523)年五月七日に屍去した」と伝える墓誌とともに、
武寧王陵二土妃の冠飾り、華麗な装身具など約三〇〇点が発見され、当時の百済文化の一端をかいまみせている。
四神を描いた壁画墳
とともに
仏教の定着にともなう火葬墓
も造られた。
百済へ仏教が伝えられたのは四世紀後半であるが、熊津遷都以後、大通寺が建立され、潤批遷都後は、中国に 「
僧尼・寺塔甚だ多し
」と伝えられるほど仏教が盛行し、
定
林(じょうりん)寺・王輿(おうこう)寺、軍守里(ぐんしゅり)寺
址など二十余の寺址が建立された。また、百済からは新羅や倭へ工人が派遣され、それら諸国の仏教文化形成に大きな影響を及ぼした。
四世紀後半、
高興(こうこう)
が歴史書『書紀」一を編み、
王仁(わに)
が
「論語』・「千字文」を倭に伝えたと記録
されていることから、
百済人たち
は早くから
漢文や古典に習熟
していたと考えられるが、
聖王
は
梁に使者を派遣
して「
毛詩(もうし・詩経)博士
」などを求めるなど、
儒教の古典の習得
にも力を注いだ。また、
陰陽五行
、
暦学、天文地理、医薬、占卜
などにも通じ、
熊津時代には五経博士が倭に派遣
され、日本にも伝授された。近年、旧百済地域からは多数の
木簡が出土
しているが、それによって
古代日本における文書が百済の影響のもと作成された
ことなども判明してきている。
▶︎新羅の社会と文化
新羅は高句麗・百済とは異なり
、建国から滅亡まで一貫して
慶州(けいしゅう)
を都とした。南川に臨む丘陵に築かれた
片城(半月城)
を王宮とし、その北に官庁が造営された。王京の周辺には
明活山城、南山城
などいくつかの山城が築かれ、
羅城
をもたない王郡の守護を担った。
(下図)
王都の豪州盆地には
啄
部(たくぶ)・
沙啄部(さたく)
・
牟梁部(むりょう
)・
本彼部(ほ
んぴ)
・
習比部・漢岐部(かんきぶ)と
称する六つの
地域(6部)
があり、そこに居住した人々は政治的集団として自立的性格を持ちながら、外部に対しては
王京人
として結束しつつ、支配者層を形成していった。これら
六部人
たちは六世紀初めに成立した
17等
の官位である「京位」を授けられた。それに対して
地方民(服属民)
には11等からなる
「外位
」が授与され
新羅の身分制に再編
された。
新羅は京と外を区別する二重構造
の
身分制
を作り上げたが、外位の
①嶽干(がくかん
)は京位の
⑦一吉湌(いちきつさん)
に相当するなど
(下表)
、王京人は地方人に対して優位性を保ち続けた。
また、新四椎の領域拡張にともなう服属民の王京移住増加の過程で
王京人
のみを対象とする
族制的身分制である骨品制が創出
されたが、これは官位制とも連動し、階層による就任官位を規制した。統一後、外位は廃止され、
官位は一本化
されたが、骨品制は整備されて
新羅滅亡まで存続
し、王京人の特権は保持され、王京人は優遇され続けた。
王都である豪州では多数の古墳が造営された。新羅の古墳は地下や地上に
木槨
(もっかく)を組み、そのなかに棺と副葬品を内葬し、その周囲に石を積み上げ
封土
を盛った構造で、
積石
木槨
墳
と呼ばれ、
四〜六世紀前半
まで造られた。これら墳墓からは
金冠をはじめ華麗な金銀装飾品・ガラス類
などが多数出土している。
新羅の仏教は高句麗・百済より遅れて受容
されたが、
法興王代に仏教が公認
され
興輪寺
が
創建
されて以後、
永興寺・皇龍寺・霊廟寺
など次々と寺院が建立された。このなかでも
新羅仏教の中心となつた皇龍寺
は553年に着工され、17年を費やして完成した
巨刹(きょさつ)
で、
646年には九層木塔が完成し、護国寺院の象徴
とされた。
真興王
は積極的に仏教の受容に務め、
551年
には高句麗から
恵亮(えりょう)
を迎えて
僧統
とし、
八関会(はつかんえ
)などの仏教行事を行った。また、
巡幸
の際に、仏僧を随行させるなど、僧侶の登用や統制に留意するとともに、
自身も晩年剃髪(ていはつ)
し、
法雲
と号した。
こうした仏教の広がりのなかで多くの
留学僧
が現れた。そのなかでも
円光
は
陳
にわたり、
涅槃
などの仏教を治め、帰国後は
隋へ高句麗討伐を要請する
乞師表(きつしひょう)
などを作成した。
慈蔵(じぞう)も
また
求法僧
として唐に渡ったが、新羅の危機に際して帰国し、国政に参加して
唐の衣冠制・年号の導入などに努力する
とともに、
大国統
となり、
僧尼の統制、戒律を整備
した。
円光や慈戒は内憂外患
のなか、
積極的に政務に参与
し、大きく貢献したのであった。
参考ビデオ (大和の国と古代朝鮮半島との関わり)
Top