茨城における花火
■ 茨城における花火技術
▶︎技術の進展
茨城県下の花火技術の始まりについては、明らかにされていません。しかしながら、旧家には江戸時代後期に記された花火の火薬調合帳 (秘伝書) が残されています。火薬の調合は秘技とされ、配合薬の表記には簡略した符丁を用いるなど、その取り扱いは秘伝そのものでした。
火薬調合帳の研究によると、一七〇〇年前後から記され、一七九〇年頃を境に多く残されるようになります。調合帳が盛んに記されたのは、幕末から明治十年代といわれます。このような傾向は茨城県内においても同様です。
県内に残る火薬調合帳の伝来から、花火技術が初めに武家に伝わり、後に農民へも普及した様子が分かります。幕末から明治時代初期には、県内各所に花火技術が浸透したものと思われます。
明治十年代以降の火薬調合帳の記載には、西洋からもたらされた新たな花火原料が登場し、和火から洋火への変化が読み取れ、木製筒で花火玉を打ち上げる打上花火の技術も普及した様子がうかがえます。この技術の普及によって、各地で神社祭礼にともなう花火の奉納が盛んに行われました。
幕末から明治時代初期に定着した花火は、簡が打ち上がる龍勢と花火玉を上げる打上花火でした。このような花火の普及には、江戸時代の砲術師やその流派が重要な役割を担っていたことが分かつてきました。
花火秘書 明和3(1766)年 茨城県立歴史館所蔵
結城藩の上級藩士であり、砲術師であった酒井家に伝わった火薬調合帳です。県 内では初期のものです。「エンショウ」は焔硝(硝石)、「ユヲウ」は硫黄、「ハイ」は 灰(炭)、「テツ」は鉄を示します。
花火調合帳 寛政4(1792)年 茨城県立歴史館所蔵
下総国結城郡矢畑村(結城市)の村役人を務めた広江家に伝えられました。火薬を詰めた簡から火花が噴き出す「三国一」「石竹」、筒が綱を伝う「綱火」、簡が上空に打ち上がる「龍情(龍勢)」などがありました。
(3)玉火(5)流星(龍勢) (2)石竹(4)縄火(綱火) (1)三国一
花火秘伝集 文化14(1817)年 すみだ郷土文化資料館所蔵・写真提供
大坂で刊行された秘伝書で、江戸時代後期の花火が描かれています。当時の花火の特徴を的確に表現しています。いずれも筒から火花が噴き出すものですが、(3)は簡から火薬粒(星)が上がり、(4)・(5)は簡自体が移動しました。
花火御願 明治9(1876)年 個人所蔵
下谷貝村(桜川市)では、寒さ除けの行事として花火を打ち上げるため、茨城県知事あてに届を提出しました。「上火」という径7cmほどの花火玉や、火薬を詰めた筒を竿に取り付けた長さ3m近い龍勢を打ち上げるとあります。
秘伝裏伝授 大正〜昭和時代初期 個人所蔵
本書記載の花火は打上花火が多く、大正から昭和時代初期に完成された「八重芯菊」もあります。花火原料は硝石・硫黄・炭に加え、海外から導入されたエンサンカリ(塩素酸カリウム)やアンチモンなどがあります。
花火興行願 明治16(1883)年 個人所蔵
下谷貝村では、10月の神社の祭典で花火を上げる届を出しました。この年の1月19日、茨城県が事故の多い龍勢を禁止したため、届には花火玉を簡で打ち上げる打上花火だけが記載されました。
▶︎ 砲術師の系譜
茨城県内の花火技術には、およそ二つの系統があります。ひとつは、江戸時代に起源を持ち、地域の共同体で継承される仕掛花火を主とする「祭礼花火」です。その伝来は不明瞭ながら、東海・中部地方の花火技術との類似性がうかがえます。もうひとつは、荻野流や武衛流などの砲術(火術)を起源とし、砲術師が伝授して地域に広がつた花火で、ここでは「砲術花火」と呼ぶことにします。「砲術花火」は龍勢や打上花火という狼煙や相図から発展した技術の延長にあり、幕末から明治時代初期に各地で打ち上げられるようになりました。
茨城県西地域の結城市から筑西市付近、および水戸市には、花火技術を地域の人々に伝授した江戸時代の砲術師や砲術流派の顕彰碑が残されています。いずれも明治時代に建立され、砲術師の業績や流派のいわれが記され、砲術から火術として花火技術が進展したことを強調していユます。
石碑裏面には、発起人や建立に協力した多数の門人の名前が刻まれています。これらは、花火技術が砲術師から師弟関係を通じて伝授され、門人のいる地域に普及・伝播したことを雄弁に物語っています。なかには、県外遠隔地の門人もおり、その花火技術の普及・伝播には地域の枠を超えた多くの人々のつながりが読み取れます。
これらの石碑が示す「砲術花火」の普及は、県内各所で神社祭礼での打上花火の奉納を活性化させ、「祭礼花火」の中にも打上花火が取り込まれていきました。そして、その後の花火師の誕生をも促しました。
火薬調合用具 明治〜大正時代 個人所蔵
瀬出井家に伝えられた火薬を調合するための竿秤と薬さじです。七郎が花火づくりに使用したと伝えられます。秤の皿や分銅、薬さじは銅製、収納箱には計測できる重さの基準が墨書されています。
瀬出井翁伝技碑(拓本) 明治34(1901)年 当館所蔵
碑は人手山観音堂(結城市)境内にあります。萩野流砲術師であった瀬出井七郎(柑40頃〜1922)を花火技術の師として仰ぐ門人が、この年に建てました。石碑裏面には多数の門人の名があります。
鶴島先生碑[拓本]
明治44(1911)年 当館所蔵 妙西寺(筑西市)境内にあり、砲術師の鶴島影之(1825〜1892)を顕彰したものです。影之は下館藩主の命により忍藩で武衛流砲術を修め、帰藩して藩士等に教授しました。影之の伝えた砲術から、花火技術が次第に広がりました。
花火配合帳 大正時代末期 筑北火工堀米煙火店所蔵
火薬の調合は家伝のものに加え、「瀬出井古伝」「青木式」などの他家から伝えられた技術も含まれています。花火づくりを始めた初代喜宗治は絹村(栃木県小山市〉出身で、「瀬出井翁伝技碑」の門人に名を連ねました。
川合先生燵技之碑[拓本] 明治15(1882)年 当館所蔵
碑は、かつて結城藩領であった中河原(栃木県小山市)にあり、荻野流を修めた川合秀精(1759〜1817)を顕彰したものです。秀精は笠間藩士を辞して諸国を遍歴し、結城藩に仕え、中河原で門人たちに花火技術を伝えました。
伝万世碑
明治20(1887)年 平成29(2017)年12月撮影碑は常磐神社(水戸市)境内にあり、水戸藩で誕生した唯心流火術の由緒を記したものです。水戸に住む末流の橋本儀重とその子、信寿が発起人となり建てられました。「伝万世」の題字は徳川慶喜の四男厚が書きました。
煙火有志門輩台簿 明治27(1894)年 笹沼隆史氏所蔵
橋本家に伝えられた、唯心流火術から生まれた花火技術の門人帳です。天保14(1843)年から明治43(1910)年まで、秘伝を伝授した門人437名が記されます。門人は県内が中心ですが、他県にも及んでいます。
証文券雛形(裏面) 明治20(1887)年頃 笹沼隆史氏所蔵
免許煙火製造人である橋本信寿との師弟契約を明記した水戸唯心流火術・煙火法伝授者証の耕形です。裏面には、伝授を受けた者が守るべき7箇条が示され、火薬調合法は「親子兄弟タリト雄モ決テ他言致間敷事」とあります。
■花火師の近代
これまで、茨城県における明治時代の花火師の具体的な活動は明らかになつていませんでした。農業のかたわら花火の製造を行っていたのではないかと考えられてきましたが、花火の製造や販売などを本格的に行っていた花火師の姿がわずかに分かつてきました。
岡田啓太郎(一八六八〜没年不詳)は、「瀬出井翁伝技碑」 建立に名を連ねた一人でした。水運でにぎわう境河岸 (境町)で薬種業と花火の製造販売を行い、明治三十五(一九〇二)年に自ら改良した花火の宣伝パンフレットを作成しました。花火は役場庁舎の竣工や会社の開業、学校の開校などで打ち上げられています。近代化の広がりのなかで、花火の需要が高まりをみせました。 水戸の橋本家は水戸藩唯心流の末裔で、「伝万世碑」建立の発起人を務めました。初代橋本儀重(一八一三〜一八九〇)は、明治八(一八七五)年に火薬類取り扱い営業願を提出し、県内初の許可を得ました。続く二代目信寿(一八四四〜一九二五)、三代目・信義(一八九九〜一九六八)は花火工場の施設を整え、花火を製造しました。
明治時代は茨城の地に本格的に花火製造業を生業とする人々が誕生した時代でした。大正八(一九一九)年には県内の花火製造業者や販売業者などにより茨城県煙火製造販売業組合が組織され、初代の組合長に橋本信義が選ばれました。組合名薄からは、県内全体に花火製造販売業者が広がつたことがうかがえます。製造業者は県西地域と水戸付近に多い傾向があり、「砲術花火」の伝統が反映しているものと思われます。
改良煙火報告書 明治35(1902)年 個人所蔵
境町の岡田啓太郎が発行した花火販売用パンフレットです。花火打上の業績や改良を加えた花火玉などが掲載され、後半部分は英文で書かれています。啓太郎は「瀬出井翁伝技碑」(024〉の裏面に名を連ねました。
作業場及び倉庫建設許可書 昭和11(1936)年 笹沼隆史氏所蔵
この年、橋本家3代目の信義は、大正5(1916)年に造られた橋本花火工場を、水戸駅に近い東柵町(柳町)から元吉田町に移しました。元の花火工場周辺の市街化などが移転の理由と思われます。
花火営業顧 明治8(1875)年 笹沼隆史氏所蔵
明治5年、太政官布告により鉄砲取締規則が交付されました。唯心流火術を受け継いだ儀重が、花火製造業を営む目的で茨城県知事あてに提出した営業願の写です。県内で初めての許可は、儀重であったといわれます。
作業場及び倉庫図面 昭和11(1936)年 笹沼隆史氏所蔵
元吉田町に新築された花火工場の建物図面です。原料 の火薬や花火を貯蔵する倉庫は土蔵造りの建物でした。屋根は瓦葺で、分厚い土壁で部屋が囲われ、火薬 の爆発などに対応できる構造でした。
茨城県煙火製造販売業組合規約 昭和4(1929)年 個人所蔵
大正8(1919)年10月12日に創立された茨城県煙火製造販売業組合は、昭和4(1929)年に、73名の製造販売業者が加入していました。組合の設立は、価格を一定にして競争を避けることが目的でした。
煙火値段書 昭和時代初期 笠間稲荷神社所蔵
花火の種類と価格が記されています。単発の花火は昼物、夜物、大割物に分かれていました。この他に、仕掛花火や信号弾として「流星(能勢)」もありました。水戸市で花火製造販売を行う野村煙火舗が作成しました。
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