図説・土浦市史

▶︎中世の歴史

▶︎二十五東崎の鷲神社

土浦で最も古い(鎌倉初期には既に存在したと思われる)集落の一つ東崎の産土神(うぶすながみ)で、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀る。東崎とは桜川の土砂が湖中に堆積して三角洲状につき出したみさきからの地名であろう。中城の集落と異なり農漁業を営むものがこの氏神を中心として生活し、発達したものと思われる。鷲神社は対岸の田村町にもあるところから田村と東崎、両集落の間に密接な関係があったものだろう。鷲神社付近には今も僅かに漁村の面影を残している家がある、境内には永禄七年(1564)の鷲神社再建の由来を書いた古碑がある。鷲神社に伝わっている「ジャカモコジャン」と称する祭りの風習は、民俗信仰として興味あるもので、旧正月十五日境内でオデンを食べると、風邪をひかぬというので賑わったが、今はほとんど見られなくなった。

 

▶︎鎌倉街道の遺址 

 鎌倉街道は、いわゆる『いぎ鎌倉』に備え、鎌倉幕府が鎌倉を中心として、全国に設けた道路で、各地にその名称や遺址が残っている。現在の市内にある鎌倉街道、鎌倉坂等の地名をたどってみるとおおむね下図のようになる。

 中貰(なかぬき)裏から厚生病院のところをぬけ、写真に示されている赤池地内から土浦二中わきの鎌倉坂を下り、真鍋駅の東から県立土浦二高裏にぬけ、田中八幡前から佐の子、宍塚、天川 団地付近から大聖寺裏を通り、西根から荒川本郷へと向かっていた。勿論その頃の交通機関は馬を第一としたので、道幅も狭いものであったことは、谷地内に残っている現況によって推察される(太い占仙線は鎌倉街道を示す)

▶︎鎌倉期の般若寺

 般若寺はもと禅宗として開かれたが、その後真言宗豊山派に属し今日に至った。旧鎌倉街道に近く、この頃既に有力な寺であったことは建冶元年(1275)銘の国指定重要文化財である鋼鐘建長五年(1253)銘の結界石、鎌倉後期と見られる五輪塔の存在によって想像される。この銅鐘は市内田宿町の等覚寺にある極楽寺の鐘、潮来町長勝寺の鐘とともに県内三古鐘の一つであって、かの鎌倉の大仏鋳造に当った名工丹治久友の作である。高さ1m余、径約60㎝鐘銘は

 

次の通り大日本常州信太庄般若寺 建治元年八月第大勧進源海 大工丹治久友

▶︎五輪塔

 五輪塔は般若寺墓地にあって、市内に残っている五輪塔中最古のもの。風輪は空輸に比して大きく、火輪は斬反が強く、巾の割合に高さが低く、水輪は壺形をなし、地輪の高さは巾よりも低い。基礎には逆蓮をほり出して総体に安定感がある。鎌倉後期のものと考えられる。

▶︎結界石

 結界石は僧侶の仏道修業の妨げにならないように、寺地の四境に建て、俗人の出入を制限したもので、表面に『大界外相』の文字が刻まれ、裏面に建長五年七月二十九日と刻まれている。高さ1.08㎝、巾60㎝、厚さ13㎝で、石村は雲母片岩、現在は二基だけである。

▶︎等覚寺と銅鐘


 等覚寺は田宿町にあって浄土真宗大谷派の寺である。今、あるこの鐘はもと市外藤沢城内(新治郡新治村藤沢)、極楽寺のもので、建永元年(1206)小田城主筑後入道尊念すなわち八田知家が寄進したもの。藤沢城の山洛城後、土浦城主菅谷氏に預けられ、城内本丸堤の上に移され、以後350年間城中にあったため『集古十種』にも土浦城内の鐘として記載されている。土浦城火災の後、明治十七年極楽寺にゆかりのふかい等覚寺に移され現在に至っている。般若寺の鐘と同様、国指定重要文化財で、高さ1.2m、径約60㎝、鐘銘は鋳損じとみられ次の文字だけ読みとれる。

     鋳顕極楽寺鐘 奉 大将軍 建永 筑後入道尊念  (写真 鐘銘 鋼鐘の龍頭)

 等覚寺の前身は藤沢山・極楽寺であって、八田知家の子了信(りょうしん)上人の開基。もとは真言宗。14世慶円(けいえん・小田政治の子)のとき、本願寺光寿(こうじゅ)に帰依して浄土真宗となった。

※火によって焼失した後、小田氏治の弟治算(はるかず)が今の龍泉寺付近にこれを再興。さらに慶長十年、現在の地に移り、寺号を等覚寺と改めた。徳川二代将軍秀忠が日光廟参拝の帰途土浦城に立寄られ、本寺客殿で休憩したので、葵・紋章入りの茶晩その他を寺宝としている。土浦における心学の中心であった孝準舎も当寺に置かれたものである。

▶︎浄真寺と阿弥陀如来 

 

 浄真寺は浄土宗に属し、関ケ原の戦の直後慶長六年(1601)土浦城主となった松平信一(のぶかつ)が菩提寺として土地を寄進、真誉一諾(しんよいちだく)上人を中興の開山としたもので、それ以前はどこにあったか不明である。本寺の阿弥陀如来立像県指定文化財で弘長元年(1261)すなわち鎌倉中期の作像のうしろに次のような刻銘があり、金石文としても重要なものである

  大檀越平朝臣平常益  巧匠大江末清  弘長元年七月 日  

 像の高さは49㎝、銅造で両手首、両足先を別鋳して柄挿にしている。墓地には土屋家の家老早川、彬村両家、藩の学者大野竹軒の墓がある。『戊戊夢物語』を著わした蘭学者高野長英も神崎屋の墓地に眠っている。

▶︎小田城を中心とした南北朝時代形成図 

 

 建武二年の確気の原戦、延元元年瓜連城の攻防戦を先駆として、常陸における南北朝の対立は、延元三年九月(1338)南朝の北畠親房が常陸東条浦に到着したことによって、にわかに激化し、神宮寺城阿波崎城足利方の佐竹勢力に破られると、親房は土浦入りから、小田治久のまつ小田城に入った。ここにおいて宮方の気勢上り、真壁・伊佐・大玉・関の各城を初めとして図に示したように、大小数多くの城が小田城を中心に結束した。

 

 尊氏は大いに驚き、高師冬(こうのもろふゆ)を総帥として派遣し、小田山城を攻撃するにおよんで、興国二年十一月小田治久(はるひさ)が師冬に通ずると城は遂に陥落し、親房は関宗祐のよる関城に走った。しかし、師冬は小田氏を支援する諸城をおとしいれ、最後に関城が陥落すると、親房は吉野に逃れ、常陸における宮方の勢力は急激に衰えた。実に興国四年(1343)十一月であった。親房は常陸にあること六カ年、その間名高い神皇正統記、職原抄を著わしている。その後元中四年・治久の孫小田冶朝(はるとも)、弟五郎藤綱と、岩間難台山に拠り、最後の抵抗を試みたが、翌年九月小野崎通郷(みちさと)ら佐竹勢に攻められ、常陸における宮方の奮戦も遂に空しくおわった。治朝は沖宿町海蔵寺の開基である。

※備考 本図は主として現在の県南、県西地域を中心に作成した。なお、中世の郡、庄、保によらないで現在の郡市境界を用いた。▶︎南北朝時代の高井城祉

 
 高井城址は古館ともよばれる。六騎塚という塚があり、その上に宝篋印塔がたてられてある。

 濠のあとも残っていたが、最近ゴルフ練習場を作るためほとんど削りとられ (写真の左の部分)てしまったが八坂神社が祀られていたため、僅かに一部が残っている。六騎塚は全くあとかたもなく、宝篋印塔だけ神社裏に移されている。集古文書二十四の別府幸実 (よしざね)の目安状によると、南北朝時代小田城にあった北畠親房に応じて戦った信太庄高井城が暦応四年九月二十三日(1341南朝の興国2年)「屋代信経(やしろのぶつね)ら武家方の為めに焼払われ落城した」とあるのは、すなわちこの城であろう。阿波崎城に敗れた親房が、土浦入から小田城に入ったのも、おそらく高井城主の導きがあったものと思われるが、残念ながら城主が誰れであったかは不明である。

▶︎今泉氏の墓所と油免付近の桜川

 土浦城の歴史は、永享年間今泉三郎が、築城したときから、いくらかはっきりしてくる。今泉三郎は、今泉城主の子で、おそらく支城として築いたものであろう。現在今泉町吹上に今泉氏の墓所がある。写真は今泉五郎左衛門の墓と伝えられているもの。五郎左衛門は今泉三郎の孫である。

 

 油免(あぶらめん)は現在の火葬場付近。桜川はもとここから大きくカーブして、田中八幡宮の前から土浦城北側を、淵を作って流れ、城を自然の要害として、さらに、現亀城通りから祇園町を流れ、川口に注いでいたが、約五百年前、長禄寛正(1457~1465)の頃、今泉三郎が土浦を洪水禍から救うため、油免付近から、いまの河道を掘ったと伝えられている。

▶︎菅谷氏と神龍寺

 神龍寺は曹洞宗。土浦城主菅谷左衛門(すげのやさえもん)入道全久(ぜんきゅう・勝貞)菩提寺として天文元年(1532)11月に創建された。本尊は白衣観世音菩薩である。

 現在の本堂は天保十二年(1841)大寅(だいいん)和尚再建大寅は中興の名僧で勤王志士佐久良東雄(さくらあずまお)、町人学者色川三中(いろかわみなか)と親交あった。

 

 またその「一筆龍(いっぴつりゅう)」は火伏龍として知られている。寺宝としての県指定文化財絹本普賢菩薩像は室町時代の仏画として貴重なものである。勝貞・政貞及び勝貞によって誘殺された木田余城主信太範宗の位牌がある。もと田宿町正安寺墓地で発見された「かくれキリシタン』の像も当寺に置かれている。如意輪観音の胸に十字架が浮彫になっており「結衆七拾一人、元禄戌午七月拾九日」とある。墓地には色川三中、色川三郎兵衛の墓がある。

▶︎戦国時代古城趾分布図

 応仁の乱後、群雄割拠の戦国時代に入ったが、その初期においては、大小名乱立の有様、これが次第に地方 かつさ上 的に統言れ、最後に織卑豊臣によって、全国的に統一きれ、戦国の争乱が治まる。市内においても、左図のように、いくつかの城址が残されているeしかも、当地方は北の佐竹氏に対し、小田氏の勢力が支配的で、 いずれもがその幕下に属していた。従って、小田原北条氏と通じた小田氏、越後上彬氏と通じた佐竹氏の両勢 力の角遂の渦中に巻きこまれたが、〜同氏の没落につれてそのいずれも衰運の運命をたどるにいたった。

古城址表示番号 1.今泉城 2.手野城 3.木田余城 4.土 浦城 5.岩H城 6.常名城

▶︎土浦城

 起原は明かでないが永享年中(1429~1440)今泉城主信太能登守の三子今泉三郎が現地に築いたものといわれる。勿論それ以前少なくとも平安後期頃から豪族が居を構えて居たことは中城(或は中條)という集落の名称からも想像されるが、何者が拠って居たかは判らない。今泉氏は小田氏の幕下であるが、そのあと信太氏および菅谷氏に至り、菅谷範政は小田原北条氏と通じて居た小田氏治とともに秀吉の命により徳川家康の部下本多忠勝らに攻められ、氏冶、範政は出奔して土浦城は落城し家康の二男で秀吉の養子となった結城秀康釆邑(さいゆう・領地)となり関ケ原の戦い後松平信一が封ぜられ更に西尾氏、朽木氏、土屋氏を経て明治維新におよんでいる。

▶︎木田余城

 木田余町にあった。平城(ひらじょう)で今は水田と化し、僅かに本丸址、即ち宝積寺本堂址の一部が畑地となって残っている。信太輔範(しだすけのり)の子伊勢守範宗が築いたもの。範宗は天文二十三年八月十五日(1554)土浦城主菅谷勝貞誘殺され、妻及び嫡子も自殺、城他の一部に葬った(写真参照)。小田城を奪われた小田氏冶は一時この城に入ったが、天正六年(1578)佐竹方の梶原政景に攻め落された。その後、土浦城主菅谷範政氏冶を援(たす)け、一時木田余城を回復したが、間もなく失い、その年九月佐竹義重の命により城濠を埋め廃城とした。慶安中・土浦城主朽木氏宝積寺を城址に移して本丸址に本堂を立てたが、その宝積寺も明治36年汽車の飛び火による火災で焼失、木田余台に再建現在に至る。

▶︎今泉城

 今泉町本田坪にあった。信太氏の族今泉氏が築いたもので略図に示されているように今なお、城壕の址がある。

▶︎宇野城

 手野町館にあっ徳りい…延慶(1306~1311)の頃小田知重(ともしげ)の三子知継(ともつぐ)が築いたもので子孫代々ここに居り、大正中佐竹氏のため滅ぼされた

▶︎常名城

 常名町谷原にあって平城である。信太氏の支族菅谷氏の居城。天正十八年(1950)菅谷弾治貞(だんはるさだ)のときその主小田氏冶の没落と共に落城した。

▶︎岩田城

 所在はたしかでないが、小田氏治の旗本岩田彦六(いわたひころく)の奮戦は土浦落城哀史の中に見える。

常名城址(常名町)前景の水田のあたりがそれ

▶︎旧土浦町の鎮守八坂神社

 

 真鍋町字天王前にある。もと郷杜。社伝によると応永三年(1396)丙子三月桜川から霞ケ浦に流れ着いた牛頭天皇神体入の箱を漁夫嘉左衛門弥次兵衛らが拾い上げ湖畔の松樹の下に勧進したと伝えられる。今の市営グランド付近で今でも天王松とよんでいる。後応永18年(1411)真鍋台安達太郎明神傍らの現在地に奉還したものである。その後土浦城の鎮守となり土屋氏の崇敬があつかった。