■天の仏像のすべて
▶︎梵天立像
梵天(ぼんてん)は四面四臂(しめんたひ)、各面三目彫眼で、左手の一手に蓮華を持ち、右の一手は軽く拳をつくり、蓮華座の上に立つ。
卓越した形態把握、適度な緊張感と充実感を持つ体躰、目尻のやや切れ上がった張りのある力強い顔立ちから、運慶または慶派正統の仏師によるものとみられる
▶︎深沙大将像(じんじゃだいしょうぞう)
「南無阿弥陀仏作善集」所載の高野新別所に重源が安置した像にあたるとみられる一対の像で、快慶作の四天王像に通じる造形を示す。執金剛神像内に「ア(梵字)阿弥陀仏」の銘記と経巻二巻が存在することが判明した。なぜ執金剛神と深沙大将を組み合わせたのだろうか。高野山金剛峯寺には、四天王像(広目天像に快慶の銘がある。東大寺大仏殿の再興四天王像のひな形ともいわれる)とセットになった執金剛神像と深沙大将像が伝来する。これらをつくらせたのは南都復興の総帥をつとめた重源であり、両像の組み合わせは重源の考えであることがわかる。しかし、同じ快慶の作であるのだが、金剛峰寺像はキレのある雰囲気であるのに対して、金剛院の像はどちらかというとずんぐりしていて、印象は不思議なほど異なる。
▶︎四天王像
四躯 平安時代。明治37年、国宝指定。現在、重要文化財指定。本尊薬師如来と共に一具像として造像され、本堂須弥壇上本尊厨子両脇に二躯ずつお祀りされている。1000年を経てもなお、彩色文様が大変良く残っている。
▶︎八臂弁財天(はっぴべんざいてん)
鎌倉時代初期の作。源頼朝が鎌倉に幕府を開くとき、奥州の藤原秀衡調伏祈願のため、 文覚上人に命じて造らせ、二十一日間祈願させたことが、『吾妻鏡』に記されています。 江戸時代には、八臂弁財天は勝運守護の神様として武家から庶民にいたるまで広く信仰を集めていました。※奉安殿にて公開 神奈川県の江ノ島神社は日本三大弁財天の一つであり、当然ながら弁財天(弁天様)を祀っている。その弁財天には、妙音弁財天と八臂弁財天が祀られている。手が八本あるさまを映し出す八臂弁財天は、まさに八の数理を示しており、光の放射(八光=発光=白光)を表してるようです。八臂(はっぴ)とは、手が八本なる意味がある。弁財天の弁(べん)は、分けるとか、わきまえる、などの意味がある
▶︎兜跋毘沙門天立像(とばつとびしゃもんてんりゅうぞう)
兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)は仏教の護法善神である天部の一つ。四天王の中の北方の護法神である多聞天は、独尊では毘沙門天と呼ばれて信仰されるが、このうち地天女の両手に支えられて立ち、二鬼を従える姿で表された特殊な像の名称である。
兜跋毘沙門天像は一般に、金鎖甲(きんさこう)という鎖を編んで作った鎧を着し、腕には海老籠手(えびごて)と呼ぶ防具を着け筒状の宝冠を被る。持物は左手に宝塔、右手に宝棒または戟で、見るからに異国風の像である。また、邪鬼ではなく地天女及び二鬼(尼藍婆、毘藍婆)の上に立つ姿である。
「兜跋」とは西域兜跋国、即ち現在のトゥルファンとする説が一般的で、ここに毘沙門天がこの姿で現れたという伝説に基づく。また「刀抜」「屠半」などの字を宛てることもある。 像容は、東寺像を忠実に模刻したもの(奈良国立博物館像、京都・清凉寺像など)と、地天女の両手の上に立つ以外は通例の毘沙門天像と変わらないもの(下述岩手・成島毘沙門堂像など)とがある。
■四天王
四天王(してんのう)は、仏教の世界観における須弥山の中腹にある四天王天の四方に住んで、仏教を守護する四つの神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)のこと。四大王(しだいおう)ともいう。
六欲天の第1天、四大王衆天(四王天)の主。須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で伴に仏法を守護する。
須弥の四洲(東勝身洲=とうしょうしんしゅう、南贍部洲=なんせんぶしゅう、西牛貨洲=さいごけしゅう、北倶盧洲=ほっくるしゅう)を守護し、忉利天主・帝釈天の外臣である。この天に住む者の身長は半由旬、寿命は500歳で、その一昼夜は人間界の50年に相当する。
- 持国天 – 東勝身洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
- 増長天 – 南贍部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多を眷属とする。
- 広目天 – 西牛貨洲を守護する。龍神、富単那を眷属とする。
- 多聞天 – 北倶盧洲を守護する。毘沙門天とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天[3]。夜叉、羅刹を眷属とする。
▶︎持国天立像
持国天は四天王の一体、東方を護る守護神として造像される場合が多く、仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。
▶︎梵天立像 瀧山寺
梵天(ぼんてん)は四面四臂、各面三目彫眼で、左手の一手に蓮華を持ち、右の一手は軽く拳をつくり、蓮華座の上に立つ。
卓越した形態把握、適度な緊張感と充実感を持つ体躰、目尻のやや切れ上がった張りのある力強い顔立ちから、鎌倉時代・運慶 湛慶仏師 によるものとみられる。
▶︎鎌倉幕府の恩恵で最盛期に
源頼朝の従兄弟にあたる寛伝上人は瀧山寺僧侶となり、縁故から頼朝公の厚い信仰を得ました。頼朝公没後には、菩提のため正治三年(1201年)頼朝公の3回忌にあたるこの年に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩・梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子が造立しました。
その後は承久の乱後に三河守護足利氏が壇越となり最盛期を迎えます。貞応ニ年(1223年)には足利義氏が本堂立替を援助し、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進、瀧山寺は足利氏の準菩提寺となっていきました。また、室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営されたが、戦乱によって次第に寺盛は衰退していきます。
▶︎阿修羅立像・興福寺
梵語(ぼんご)(古代インド語)のアスラ(Asura)の音写で「生命(asu)を与える(ra)者」とされ、また「非(a)天(sura)」にも解釈され、まったく性格の異なる神になります。ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになります。
像は三面六臂(さんめんろっぴ)、上半身裸で条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りと臂釧(ひせん)や腕釧(わんせん)をつけ、裳(も)をまとい、板金剛(いたこんごう)をはいています。
▶︎執金剛神立像(しゅこんごうしん、しゅうこんごうしん、しつこんごうしん)
執金剛神は「金剛杵を執るもの」の意味で、釈迦の守護神としてインドの仏伝図でよく登場する。その起源はギリシア神話のヘラクレスであるという。
これがのちに仏法の守護神として阿吽2形に分れたのが仁王(金剛力士)である。仁王像の作例は非常に多いが、執金剛神像は日本では珍しく、東大寺三月堂の秘仏が有名である。金剛院の執金剛神像は三月堂像とよく似ており、快慶が三月堂の像を学んでつくったものと推測される。インドではヴァジュラパーニ(Vajrapāṇi)と呼ばれ、造形的には半裸形で表現されている。中国・日本では、忿怒相で身体を甲冑で固めた武神として表される。
ただし材質は三月堂の像が塑造であるのに対して金剛院の像は寄木造であり、像高も約85センチと小振りにつくられている。また、全体に生硬な印象であることは否めない。若き快慶が試行錯誤をした結果であろうか。
▶︎金剛力士像・善水寺・滋賀県・平安時代
二躯 平安時代。明治37年、国宝指定。現在、重要文化財指定。
本尊薬師如来と同時期に造像された。旧仁王門に奉安された仁王像である。平安期の仁王像は全国で五例が国指定の文化財であり県内では唯一である。仁王門は昭和28年の大雨により流失したが、仁王像はそれ以前に本堂に移されていたため無事難を逃れた。当初の仁王門は、二階立の楼門形式と思われ、仁王像が天衣を含めると3メートルを超える姿であるので、巨大な仁王門であったと思われる。
▶︎毘沙門天立像・鞍馬寺・京都府
国宝の毘沙門天は、それまでは、鞍馬式でしたが、1126年の鞍馬焼亡の際の補修で、三叉戟(さんさげき)を持っていた左手が額に手を当てることになり、本来腰に手を当てていた右手が、三叉戟を持つことになったとのことです(*)。補修の際に、なぜこのような改修を行ったのかはわかりません。元の形に改修しようとしたが、技術的な理由で、この形にしか改修できなかったと考える方が自然です。しかし、今の形での違和感は全くありませんし、鞍馬寺が王城守護のファンクションを持つことのシンボル的像容として大成功と思います。