芸術をめぐる闘いのなかで

■カンディンスキーとフーゴ・フォン・チューディ

山口県立美術館学芸専門監・斎藤郁夫

 「20世紀芸術の最も重要な綱領的刊行物」といわれる青騎士』年鑑は、フーゴ・フォン・チューディ(1851-1911)という日本ではあまり馴染みのない人物の想い出に捧げられている。チューディは1896年から1908年までベルリンのナツィオナール・ガレリーの館長を務め、フランス近代美術を中心に収集を行った人物だった。本国フランスに先んじ印象派およびそれ以降の作品を収集・展示するなど、当時としてはきわめて先駆的な美術館運営を展開した。しかし評価のまだ定まっていない外国の作品を「ドイツ美術のために」の金文字を正面に掲げるナツィオナール・ガレリーのコレクションとして展示することは、保守的な芸術家・美術評論家のみならずヴィルヘルム2世の不興を招き、ついに1908に辞職に追い込まれてしまう。その彼が1909年にバイエルン国立絵画コレクションの総監督に招聘され、7月1日にミュンヘンにやって来る。

 チューディはミュンヘンでもベルリン時代と同様に、フランス美術を積極的に収集するが、その活動は1911年11月23日の彼の死によりわずか2年半で終わりを告げた。 チューディのミュンヘン時代は、カンディンスキーが作風を一変させて「青騎士」結成まで一気に突き進んでゆく決定的な時期に重なっている。そしてこの時期に起こったいわゆる「芸術家論争(Kunst-erstreit)」が、二人の関係をいっそう緊密に結びつけてゆくことになる。以下、時代の先端を歩んだ芸術家と先駆的な収集を行った美術館人が、わずかな時間でどのように結びっいていったのか、当時のドイツの芸術的状況も踏まえて概観してみたい。

 著名な美術館人のチューディがミュンヘンにやって来ることは、カンディンスキーの耳にも届いていた。彼はミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンらとともに1909年1月(43歳)に「ミュンヘン新芸術家協会」を結成し初代会長に就任していたが、まだ展覧会を開催できずにいた。7月4日、カンディンスキーはミュンヘン到着後間もないチューディに同協会の設立趣意書を同封して手紙を書き、援助を願う。7月8日、チューディはカンディンスキーに手紙で、一度午前中に自分のいるピナコテークに訪ねてくるよう伝える。そして早くも7月10日、チューディはカンディンスキーと会い、ミュンヘン新芸術家協会展の会場ヨーゼフ・プラークルの画廊を紹介する。

 ミュンヘン新芸術家協会の第1回展は1909年12月1日から15日まで、チューディの最初の紹介とは別のハインリヒ・タンハウザーの画廊で開催された。カンディンスキーの≪ミュンヘン・郊外》ミュンターの ≪コッヘルの十字架墓標》のほか、少なくとも128点の作品が展示された。しかしこの展覧会はフリッツ・フォン・オスティーニによって、自然から離れてしまった「色彩の狂宴」とみなされ、このように荒れ狂うことこそが錯乱状態を治療する唯一の処方箋であると酷評された。タンハウザ一ーにとって、まだ無名のグループの展覧会を自分の画廊で開くことはいわば「英雄的な行為」だったわけだが、観客が絵に唾をはきかけて新聞雑誌が激しい批判を浴びせると、たちまちそのヒロイズムを悔いることとなった。そんなタンハウザーをチューディは訪ね、新たに勇気づけもしたという。 第2回展は1910年9月1日から14日まで、同じくタンハウザーの画廊で開催された。展覧会に先立ちチューディはカンディンスキーに、たとえ観衆があなたの未来の絵画についていくことができなくても驚くにはおよばないと書き送っている。同展には、協会のメンバーの他にアンドレ・ドラン、ジョルジュ・ルオー、モーリス・ド・ヴラマンク、ジョルジュ・ブラック、アンリ・ル・フォーコニエそしてピカソなどの作品が少なくとも115点展示され、フォーヴィスムやキュビスムなど最新の動向が紹介されていた。しかしマクシミリアン・カール・ローエによって協会のメンバーおよび招待作家はいずれも「癒しがたい精神病患者」か「恥知らずのはったり屋」とみなすほかないと紙上で断じられた。

 ところで、ミュンへン新芸術家協会第2回展がベルリンへ巡回する1911年1月、ヴォルブスヴェーデの画家カール・フィネンは、ブレーメン美術館におけるゴッホ作品の購入をきっかけに、ドイツにおけるフランス美術の不当な過剰評価を批判する「芸術協会への警告のことば」を『プレーマー・ナーハリヒテン』紙に掲載して、大きな反響を呼んでいた。フィネンのもとにはドイツ各地から数々の賛意が寄せられ、それらを集めた小冊子『ドイツ芸術家の抗議』(以下『抗議』と表記)が4月中旬にイエナのオイゲン・ディーデリクス社から出版された。

 この小冊子にフィネンは「いったいどこまで(Quousquet∂ndem)」という序論を付し、最近のドイツヘの「大規模なフランス美術の侵略」に警告を発している。彼は、セザンヌやゴッホ、ゴーギャン、マティスなどを積極的に評価する美術批評家およびその賛同者たちをとくに「審美主義者」と呼んで批判する。今や過大評価されたフランス美術はドイツ国内に溢れかえり、ドイツの国民性は重大な危機に直面している。ドイツ独自の芸術という建築物を建てるためには、もはや外国から素材を運び入れることを止めなければならない、なぜならば文化的向上を強く求めるドイツ国民は「わが物顔に精神を支配しようとする異物に耐えることはできない」からだと主張する。そもそも「Quousquetandem」というタイトルはキケローの『カティリーナ弾劾論』の冒頭部分をそのまま用いたものであり、フィネンは自らをキケロ一になぞらえて、ドイツにフランス美術を氾濫させた美術商や、フランス美術を積極的に評価し収集してきた美術批評家および美術館長たちを、祖国を裏切る陰謀人に見立てて、正当な意見をもつ市民の立場から弾劾するという意味合いをもたせようとしていた。

 この序論の後にはフィネンの主張に賛意を寄せる美術批評家16名と芸術家118名の名前が4頁にわたって列挙され、さらに57名分(リストに名前の載っていない美術批評家と芸術家5名を含む)の署名入りの寄稿が続く。ミュンヘン新芸術家協会に直接触れた寄稿もあり、たとえば同協会第1回展を批判していたオスティーニは「病的な現象、消耗と爛熟した文化の産物、あるいはたんに狂気じみた宣伝の結果」(p.58)にすぎないゴッホ、セザンメ、マティス、ピカソの芸術を無批判に受け入れるドイツのスノッブを批判している。北西ドイツ芸術家協会の会長ヴィルヘルム・オットーは、フランスの近代美術がドイツの若い芸術家たちの間で憂慮すべき事態を招いており、そのことは、同地の美術批評家フリッツ・シュタールによって謝肉祭の冗談と批判されたミュンヘン新芸術家協会展がよく示していると述べている(p.44)。また、ベルリンに巡回した同協会第2回展を見た同地の美術批評家ハンス・ローゼンハーゲンは、フランスの雑誌『ファンタジオ』に掲載された小論の内容を紹介しながら、厳しい批判を展開している。そのフランスの小論では、1占Ol普仏戦争が引き合いに出されて、同協会展に送られたフォーヴの作品が1870年の同志の敵を討った、つまり「彼らはドイツの芸術家たちを狂わせた」などと善かれていること、そしてそこにはカンディンスキーの作品の写真も掲載されていることが紹介されている。このような文章を読めば、ドイツの若い芸術家たちが「愚かにもフランスの馬鹿騒ぎすべてに盲従することで、いかにひどく自らを傷つけているか、それだけでなくどれほどドイツ美術の名声を定めているか」がわかるだろうとローゼンハーゲンは述べている。

 ところで、1911年にカンディンスキーと知り合ってミュンヘン新芸術家協会の会員になったばかりのフランツ・マルクは、『抗議』出版直前に『ミュンヒナー・ノイエステン・ナーハリヒテン』紙に載った同書の抜粋を読んでいた。彼は4月12日にカンディンスキーに手紙を書き、『抗議』に多くのドイツの芸術家と芸術関係者が参加しているため、同書が公式な抗議と認められてしまうことを懸念し、反対意見を表明する必要があると述べている。その際にイニシアティヴをとるべきものとして、ミュンヘン新芸術家協会やチューディ、マックス・リーバーマン等の名前が挙げられている。カンディンスキーは4月14日にマルクに手紙を書き、すぐに反対を表明しなければならないこと、美学者のヴィルヘルム・ヴォリンガーがやって来て事態について話し合い、彼が『抗議』への対抗に喜んで参加する意志を伝えてくれたこと、翌日にはチューディのところに話に行くことなどを知らせている★10)。

 『抗議』が出版されると、5月4日、ヴァイマールのハリー・ケスラー伯はフィネンの主張に反対する内容の「ドイツと外国美術」を『ベルリナー・ターゲブラット』紙に送り、5月5日、ドイツ芸術家組合の幹部であるリーバーマン、レオボルトフォン・カルクロイト、マックス・クリンガーが『抗議』に反対する声明を全国の各新聞に発表した★11)。5月7日、マルクはミュンヘンの出版者ラインハルト・ピ」パーに手紙を書き、チューディが『抗議』に対する返答を出すこと強く望んでおり、ビーバー社の援助を期待していることを知らせる。5月28日、ブレーメン美術館の館長グスタフ・パウリも『抗議』への反論「カール・フィネンとドイツ芸術家の抗議」を『プレーマー・ナーハリヒテン』紙に発表。6月、『ズユートドイチエン・モナーツヘフテン』誌にリーバーマンやクリンガーらの寄稿とともにミュンヘン新芸術家協会からの寄稿が掲載された。そこでは、芸術の領域での影響関係を遮るのは不自然であり、展覧会や美術館活動には、愛国主義的・政治的な配慮から離れている自由が求められると述べられている★12)。

 そして7月、『抗議』への反論として『芸術をめぐる闘いのなかで ドイツ芸術家の抗議に対する回答粁13)(以下『回答』と表記)がミュンへンのビーバー社から出版された。『回答』には『抗議』と異なり整然と目次が付けられていて、そこにはパウリを含む美術館長9名、ベルリン分離派の有力者リーバーマン、マックス・スレフオークト、ロヴィス・コリントをはじめとする芸術家48名、前述の「ドイツと外国美術」を再掲載したケスラー伯や「近代絵画の発展史について」を寄稿したヴォリンガーを含む文筆家15名、ビーバーとともに編集者を務めたアルフレートヴァルター・ヘイメルを含む美術商およびコレクター3名の計75人の名前が記されていた。こうして「芸術家論争」はドイツ美術界を大きく『抗議』派と『回答』派に二分することとなった。この論争に関しては、1911年1月から翌年4月までの間に、ドレスデン、フランクフルト、ハンブルク、ライブツイヒ、シュトゥットガルトなどドイツ各地のみなら犬ウィーン、パリ、ニューヨークでも新聞で報道された★14)。

 巻頭にはパウリがすでに新聞に発表したテキストが再掲載されている0そのなかで彼は、ドイツの美術を収集するよりも多額の金額をフランスの印象派の絵画につぎ込んでいるというフィネンの主張は「アトリエ内で触れ回られるうわさ」(p.5)にすぎず事実と異なっていると主張し、批判の対象が明確に示されていないと指摘している○もっとも、4月15日にはすでに『抗議』を手にしていたハンブルク美術館の館長アルフレートリヒトヴアークは、フィネンの批判の対象がセザンメやマティスの作品まで収集するチューディであることをすでに読み取っていた★15)。『回答』に寄稿しなかったチューディが自分に代わって発言することを望んでいたというカール・フォル★16)は、美術史の主要法則として国際的発展性と「近親交配の有害性」(p・145)の二つを挙げて、過去のいくつかの文化が滅んだ後者の過ちを繰り返すべきではないと厳しく戒めている。ベルリン分離派の画家マックス・アルトウール・シュトレーメルは、ミュンヘン新芸術家協会第2回展でエドゥアール・マネ、ポール・ゴーギャン、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーなどの主要作品を数多く見ることができたことに感謝の言葉を記している(p・69)0ミュンヘン新芸術家協会関係者からはカンディンスキー、マルク、マッケが寄稿した。とくにマルクは、外国のものに手を出すことは愛国心に欠けた行いであるとみなす『抗議』派の意見を近視眼的な批判であるとし、真筆に比較すれば、セザンメ、ゴッホ、マティス、ピカソなどの「フランス人は比較にならぬほど芸術的で内面的なので、すぐさがイツの絵が空虚で外面的なみせかけのように見えてくる」(p.77)と述べている。マッケは自分たち画家が最大級の感謝を捧げなければならない人物として、美術商のパウル・カッシーラーとチューディの名前を挙げている。これに対しカンディンスキーの寄稿は芸術の本質を説く抽象的・哲学的な内容となっている0彼は、内面的要素と外面的要素の調和を説き、外面的要素が強調された19世紀に対して内面的要素の時代である20世紀に生まれる「新しし」芸術は、失われていた内面的なものと外面的なものの均衡をもたらすものだと述べる0そしてその均衡と調和は「いっものように、最初は不調和(鮒と呼ばれる」(p・75)と主張する。

 ミュンヘン新芸術家協会をめぐる『抗議』の批判と『回答』での擁護を読む限り、フランス美術を対立軸とする「芸術家論争」の構図は明確であるよぅに見える。しかし意外にも同協会は、『抗議』派からはもちろん『回答』派からも認めがたい異質な存在とみなされていた0そのことはたとえばベルリン分離派会員だったマックス・ペックマンが、『回答』のなかでマティスな どの「知的亜流の才能の過剰評価」(p.37)への反対を直接表明しているこ とからも伝わってくるし、『回答』派の代表の「人でありチューディの親しい友人でもあったリーバーマンが、フランス美術に関わっていながら最新の傾向 にはまったく理解を示さなかったことからも推測できる0彼は1908/09年 のベルリン分離派展で一度は展示されたマティスの絵を会場から外させた し★17)、後年、チューディの後任者ルートヴィヒ・ユステイがゴッホの作品を購 入する際には頑矧こ−このときのフィネン以上に一反対している★18)0そ してなによりも、対立する両陣営の主役であるフィネンとパウリの間ですら、フォーヴィスムの画家に関する意見では互いに共感する部分があったという事実が、この「論争」の対立構造の複雑さ★19)を浮かび上がらせている01911年2月23日、フィネンは『抗議』の棒組ゲラをパウリに送り、それに対してパウリは多くの点で賛意を表し、「もしあなたが、デュッセルドルフなどで見られた最新のフランス人のもののばかげた模倣を愚かしく思うのであれば、熱心な芸術愛好者のかなり多くが賛同するでしょう」とフィネンに手紙を書く。フィネンはこれを読んで、二人が「同じ基盤に立っている」ことと、自分の抗議がパウリに向けたものではないことを示すために、この手紙を『抗議』に掲載したいとパウリ本人に頼んでいる。

 「芸術家論争における一方の極に勢力を集結させるために尽力したカンディンスキーとマルクを中心とするミュンヘン新芸術家協会は、その実、論争の構図そのものからはみ出てしまい、結果として当時のドイツ美術界全体のなかでの異端的性格が浮き彫りにされることになった。こうした成り行きをカンディンスキーとマルクはある程度予期していたのだろうか。自分たちの見解をより広範囲に表明できる好機としてこの論争を歓迎していたといわれる彼らは、『回答』への寄稿に続いてさらに自らの思想を発表する計画を進める。すでに協会内の穏健派との対立を深めながらも、より前衛的な方向に進もうとしていた二人の間で『青騎士』年鑑の制作が話題になるのは、『回答』出版以前の6月19日であった。この日カンディンスキーはマルクに対して「ところで新しい計画がありまもビーバーが出版を手配し、われわれ二人が‥‥・・編集人です」と書き送る★22)。9月14日、カンディンスキ ̄の芸術論を読んだビーバーは出版する旨をマルクに伝え、それは年末に『芸術における精神的なもの』として刊行されることになる★23)。10月、カンディンスキーは、ミュンター、マルク夫妻、マッケ夫妻とともにムルナウの「ロシア人の家」で『青騎士』の編集会議を開き、議論を進めながら原稿を作成する0そして10月24日、マルクは『青騎士』の暫定稿を誰よりも先にチューディに送った。彼の助言と助力を期待してのことだった0カンディンスキーとマルクにとって、自分たちの先駆的な芸術観と実践を理解してくれる人物はチューディ以外に考えられなかった。

 このころチューディは宿痢に苦しみシュトゥットガルト近郊のサナトリウムに入院していた。そして署名だけが彼の手による11月16日付けの手紙とともに『青騎士』の暫定稿がマルクに送り返されてくる。この手紙には、「芸術家論判を通じて同じく自分もドイツ美術界における異端的存在であることを自覚したであろうチューディの思いが込められているように思える0

 私がどれほど関心をもってあなた方のグルーープの芸術的な努力に共感  しているか、おわかりだと思いまもだから私が今ひどい気管支炎で  意気阻喪しており、あなた方の新しい計画に応じられなくても許して下  さるものと思いまも遠からず再びミュンヘンに戻って、計画に応じる   ことができればと願っています。

 しかし暫定稿が戻ってきた数日後、カンディンスキーとマルクはチューディの言卜報を手にする。カンディンスキーは11月24日にマルクに宛て、「チューディ が亡くなりました。ほんとうにショックでれ……彼は最期を予感したのでしょうか?あなた宛の最後の手紙は希望に満ちていました。・…=とても悲しい♪25)と書く。そしてマルクは自分の原稿「精神的財宝」の最後に、以下のように付け加えなけれぼならなかった。

 ここまでの文をすでに書き終えていたとき、チューディの痛切な訃報が  入ってきた。したがって私たちは、チューディの気高い想い出に、この 最初の巻を捧げようと思う。この本のために、かれはその死の数日前もなお、いつもながらの積極的な支援を約束してくれていたのだ。私 たちが燃える魂とともに望むのは、国民を芸術の源泉に導くという、か れの死とともに孤立してしまった巨大な使命に、微力ながらさらに取り組みつづけることである。

 チューディの使命を引き継ぐ『青騎士』がビーバー社から出版されてカンディンスキーとマルクの手に届いたのは、あの第1回青騎士編集部展が急遽開催されてからさらに後の、1912年5月11日のことだった。