浜田知明銅版

浜田知明銅版

浜田知明銅版の「鋭い線」と「深も明暗」

 杉野秀樹

 浜田知明の版画芸術を語る場合、通常、戦争の悲惨さとその不条理を静かに告発しつづけた《初年兵哀歌≫シリーズのテーマにまず触れるのが常套である。また、戦争のテーマから離れて、視点を社会全般に移しつつ諷刺をこめた銅版画に至っても、浜田の版画芸術を論じる際には、時代に即してそのテーマ性を問題にするのが常である。

 描かれたテーマを論じることのできる美術・・・浜田の場合、戦争によって引き起こされた諸相をストレートにテーマとしたがゆえに、戦後の芸術を論じる側にとって、いかに刺激に満ちた性格を内にもっていたかは、菊畑茂久馬が以下のように鋭く指摘している。「浜田のそのような芸術と戦争という関係は、芸術が芸術の聖域の中で成熟する近代芸術の概念を突き破って、もう一度芸術と社会という問題をひきずり出してくる」。

 浜田知明の銅版画は、彼の個人的な記憶と芸術にとどまらず、同世代に共通する記憶と芸術、さらには社会と芸術という、ますます拡大するテーマを提供しつづける。そのために銅版画のテーマに触れることが、浜田芸術の本質部分を照らしだす方法であることに異を唱えることなどできない。しかし、本稿では、あえてテーマ性から離れ、浜田知明が選択した版画技法や版の素材の面から、彼の版画芸術の一側面を見てみることにする。 版画は、版の上に図柄を作り、それを紙に刷って作品となる。原版の素材は様々で、「図柄を作る」手法も版材の違いによって異なったり、同じ版材でも目的とする表現効果によって、使う道具さえもが別となる。

 ヨーロッパでは長年にわたり版画が複製手段としての社会的役割を果たしてきた。複製手段ということで、「同じ面積でなら、できるだけ細かい部分まで再現する正確な複製像の方が必ず勝ち抜く」という原則から、様々な技術革新がなされてきた。特に細密描写に優れた銅版で大量に複製版画が生産され、時代の要求に応えるかのように、油彩や水彩や鉛筆・ペンなどの表現を銅版で再現する手法・道具が開発された。

 19世紀後半の写真の実用時代の到来によって、版画は複製の分野での役割から退かざるをえなくなったが、木版や、様々な表現を再現してしまう種々の銅版技法、18世紀末に考案された石版などの版画手法が芸術家の前にでそろうことになった。

 再現の精密さや経済効率に縛られる必要のない芸術家は、望む表現を獲得するために版材と技法を選択することになるが、多様な版材・技法から幾つかを選んで作品を作る。その選択こそが、作品の表現と作家の思考を探ることのできる決定的な瞬間である。版画工房の制度がさほど発達していない日本の状況において、様々な技法に近づきがたい作家は、出合った版材・技法のひとつかふたつで作画期をまっとうしてしまう傾向が強い。よってこの選択は、作家の歩みゆく遺そのものの分岐点となるほどに、決定的な意味をもっているのだ。

 浜田知明は東京美術学校で油絵を学んだ。その頃は工芸科の真の木造の建物が版画研究室となっており、本科3年の1938年(昭和13)にそこで3点のエッチングを制作したという。そのうちの1点<聖馬〉が現存しており、今回の展覧会の最初の壁面を飾ることになる。その後、日中戦争・太平洋戦争で兵役につくなどのブランクを経て、再び銅版に着手するのが1950年(昭和25)である。

 銅版画家としての実質的なスタートを、彼の出世作《初年兵哀歌≫のシリーズに求めるのは間違いでないが、銅版画への愛着はデューラーやレンブラント、特にゴヤの作品の複製を介して美術学校時代にすでに芽生え、かつ実際に制作してもいる。最初の銅版画制作について作者自身が語った以下の言葉から、《初年兵哀歌≫のシリーズのテーマ性と技法の共通点でしばしば比肩(匹敵する、相当する)して語られるゴヤの存在が、早くから浜田の心をとらえていたことが分かる。「版画は必須科目ではなく、確か一定の学生だけが実技指導を受けることが許されていた。私はゴヤの銅版画が好きで版画をやりたかったので、受講届を出さずにモグリで教室に通って三点作った。しかし、ブランクを経て再び銅版に向かった経緯は、以前に銅版に親しんでいたからという単純な動機によるものではなかった。「モチーフは決定していた。問題は表現の方法だけであった。」という、戦争を体験した後の作者がどのようにしてひとつの「表現の方法」−銅版にたどりついたかを彼自身の言葉をもとにして構成してみよう。

 戦時中に結婚、長女が生まれ、戦後間もなく郷里の熊本で教師の職をえるという具合に、戦後の混乱期にしては、浜田の境遇は比較的恵まれたものであった。しかし、絵を描きたい、絵の勉強をしたいという抗しがたい欲求に駆られた彼は、妻子を熊本に残し、単身、焼け野原となった東京にでて、下宿生活をはじめた。下宿先の6畳の部屋は絵を描くには狭いし、採光の調子も油絵にはよくない。さらに「油絵の具で描くと、べったりした感じになる。鋭い線が出ない。深い感情が表せない。」表現の方法で模索していた1950年、その年の春陽会展に初出品した駒井哲郎の銅版画が岡鹿之助に激賞されたことを知った浜田は「銅版だと鋭い線が出せそうだ。深い明暗も作れるかもしれない。版画は部屋が狭くとも描ける。問題がすべて解決しそうな気がした。」という。

 銅版画制作へ向けて、東京美術学校の後輩(3歳下)にあたる駒井のもとや、彼から紹介された関野準一郎宅を訪ね、制作の助言を受けた。その辺の経緯は別の稿に譲るとして、銅版画は浜田の描きたかったテーマにぴったりだったようだ。「銅版画に取り組んでみて、そのすべてが気に入った。金属的な鋭い線とひやりとした感触は、銅版画だけが表現できるものだ。同じ版画でも木版や石版では、温かい感じになってしまう。冷静に物事を見つめたい私には、冷たい感じを持つ銅版画はぴったりに思えた。それに銅版画が作り出す深い明暗は、見る人の心の内部に、静かに語りかける。」 引用したこの言葉から、浜田が銅版で求めようとしたふたつの表現を抽出することができる。それは「鋭い線」であり、「深い明暗」であった。結果として、浜田知明は「鋭い線」をエッチングに、「深い明暗」をアクワチントに求めた。「鋭い線」を得るために浜田がエッチングを採用したのは当然であった。美術学校時代に浜田が試作したものもエッチングであったから、本格的な銅版画制作にあたり、この技法に「鋭い線」を求めたのもうなずける。

 エッチングは古くから画家の間で使われてきた技法であるが、それには確かな理由がある。銅版で線をえる手法というと、エッチングの他にドライポイントやエングレーヴィングがあり、どちらもエッチングよりも長い歴史をもっている。しかし、ドライポイントとエングレーヴィングのどちらも銅版に直接に陰刻してゆく手法であって、道具は容易にそろうが、描刻は決して簡単ではない。というのも、金属に直に針や刃(ビュラン)で線を彫るとなると、金属の抵抗がかかり、なかなか思いどおりの線にはならないからだ。それにたいして、エッチングは酸が金属を腐蝕する作用を利用して、線となる溝・・凹部を作る。腐蝕液に金属が触れないようにするための皮膜-グランドを銅版の全面に施し、それを細い針-ニードルでひっかきはぐって描画するだけでよい。銅版技法の線を表現する手法のうちで、デッサンに最も近い調子で作ることのできるのがエッチングである。だから苦から画家が版画を作る場合、まずエッチングを手がけた。エッチングが「画家の手法」と称される所以である。 もう一方の「深い明暗」への指向も、戦争体験を表現しようとしたことにのみかかわっているわけではない。やはり画学生時代に制作した作品の内に、すでに「深い明暗」への固執が見受けられる。銅版画第1作目の〈聖馬〉を見てみよう。 戦争体験前の<聖馬〉では、頭に光輪をいただき、神の光に照らしだされたかのように光に満ちた馬が、暗い室内に据えられた十字架上で静かに死を迎えようとしている。その背後には、ひとつしかない外への出口で男が処刑の道具のようなものをもって室内をうかがっているが、強い逆光のせいで彼の表情や姿を識別することはできない。何とも不思議な情景を浜田は版画にした。当時の日本は日中戦争を激化させ、太平洋戦争への突入に向かってつき進んでいた。そうした暗い時勢の雰囲気の中で制作された〈聖馬〉は、やはりテーマの観点から論じたくなるのも無理はないが、ここでは技法にまつわる表現に話を限定しよう。

 〈聖馬〉では、ニードルの素早い動きの平行線やクロスハッチングによってえられた暗部と、グランドによって保護された明部との鋭い対比から図像が生まれている。その対比は、構図を浮かびあがらせているだけでなく、馬の明〝と男の暗という対立する表現で、作品のドラマ性・・・何かしら訴えてくる心理的な効果をも生みだしている。

St.Horse1938

 この銅版画の制作にあたっては、ゴヤの《戦争の惨禍≫のイメージが多少は想起されたかもしれないが、それを指摘する以上に重要なことは当時の浜田の美術にたいする姿勢である。抽象が主流となりつつある美術の潮流そのものに疑問を感じていた浜田は後に、当時どのような美術の傾向に関心を抱き、影響を受けたのかを以下のように語っている。「たしか美術学校卒業の前年だったと思うが、学校の図書館でサルバドール・ダリの「内乱の予兆」の複製を見た。/そのころの私は、モンドリアンやアルプに関心が移りかけており、その単純化された純粋抽象の作品は新鮮な感覚で心地よく私を包んだが、ダリの「内乱の予兆」は、卓抜な技術で人間内面の不安定な状態を的確に描破して、強烈に私を捉えた。しだいに平面的に装飾化していく現代絵画にどこか不満を感じていた自分にとって、(中略)立体派以後の絵画が棄て去った明暗法や遠近法、自然物の形などが新しい意味をもって復活し、実際には目に見えないものを、見えるものとすることに成功しているように思われた。

 ダリを一言で表すと「スペインを代表するシュルレアリスムの画家」ということになろうが、彼の絵画の特徴は現実世界にあるものをデフォルメしながら綿密に描き、また場面設定を変えることで、視覚によってとらえられる私たちの像とのズレを利用して、見る側の心理を揺さぶる。ダリは正確な明暗と誇張した遠近でそれを獲得したわけだが、浜田の関心も、モダニズムが歴史を乗り越えるために遺棄した古典的な表現法を活用しようとしている点にあり、それが彼自身のこの言葉で分かる。<聖馬〉の表現では、クロスハッチングと平行線という銅版の古典的な明暗処理の手法に依拠しながら「深い明暗」を求め、「自然物の形」を「新しい意味をもって復活」させようとしている。

 再度、銅版に着手した1950年には浜田の銅版技法のレパートリーに新しい明暗の手法が加わった。アクワチントである。アクワテントの表現の特徴は、〈聖馬〉のエッチングの例で見たような線の集まり具合によってでなく、酸の腐蝕によって細かい粒状の凹部を作ること−インクのたまる部分を作り、面で明暗の効果を生みだすのである[挿図2]。現在、用いられているアクワチントの技法の簡単な手順は以 ̄Fのとおりである。

 まず、銅版に微細な松脂の粉を散布する。次に、銅版の裏面から熱を加えて、松脂を半ば溶かしたところで冷すと、松脂は版にしっかりと固着する。この時点で銅版面はどうなっているだろうか。松脂の粉で銅版面が覆われたところと、松脂の粉と粉との間の銅版面があらわになったところとに二分されている[挿図3]。この銅版を酸性の腐蝕液に浸すと、松脂の粉は防蝕剤の役目を果し、銅版面があらわになっているところだけが腐蝕され、窪みとなる。桧脂を除去すれば、インクの溜まる窪みの部分とインクがきれいに拭き取られる平らな面とができる。松脂の粒子の大きさや散布の密度、あるいは腐蝕時間の長短によって、様々な明暗の調整が可能となる。もちろん、線描表現は無理であるから、エッチングやドライポイントなどとの併用が一般的である。

 アクワチントは、そもそも18世紀フランスのロココの時代に、水彩の透明感のある明暗を表現するために考案された技法である0当初は複製版画の一枝法に過ぎなかったアクワチントを芸術作品の表現にまで高めたのがスペインのフランシスコ・デ・ゴヤであった。

 ゴヤのアクワテント使用の最大の特徴は、アクワチントの表現が主題の描出に決して専念しているわけでもないのに、作品の内容に積極的に加わっていることにある[挿図4]。それは背景処理などの点でそれが主題のもつ雰囲気を強調したり、凄みを加えたり、暗示したりといった役割を果たしているからだ。確かに、18世紀のファッショナブルなフランス銅版画のアクワチントの作例では、アクワチントが施された面はあくまでも作品を豪華に装飾するにとどまっていたが、ゴヤの銅版画では作品内容の不気味さや凄みをさらに増幅して、テーマの意味を深化させている。

 さて、浜田のアクワチントの最初の作例〈Marikoに〉を見てみることにしよう。浜田がアクワチントの実験に取りかかったころは、銅版画の制作の道具類が手もとになく、まずは美術学校の後輩にあたる駒井哲郎や披から紹介された関野準一郎のもとで銅版の道具を借りて制作した。1950年に浜田は銅版画3点を制作したが、そのうちの2点〈聖馬〉とく初年兵哀歌(芋虫の兵隊)〉は駒井のプレス機を借りて刷った。しかし、くMarikoに〉については、次女麻理子の誕生の後に、下宿で製版までを行い、製作を注文したプレス機の到着を待って刷りをおこなったという。最初の実験的な作品らしく、アクワチントの施された背景の調子は均一になっていない。作品下部は、彼の浜田作品がそうであるように、目の粗い効果をいかしたアクワチントの表現になっているが、上部の背景は水墨画の塁のにじみのような微妙な濃淡を見せている。よって、アクワチントがもたらす安定した面効果を発揮しているとはいいがたい。そうした上部と下部の表現の差そのものが、アクワチントを試みた第1作目であることを如実に物語っている。その原因は、上部に散布した松脂の粉が十分に銅版面に固着しなかったことによるが、アクワチント第1作目での技術的な熟達度がここで問題なのではなく、浜田のアクワチントの使用目的に着目したい。

 全面にアクワチントが施されているから見えにくいが、主題の輪郭はエッチングで枠どりされている。それをガイドラインとしてアクワチントの面表現が明暗の濃度を一定にして背景を埋めつくそうとしている。それによって、愛娘の赤児が浮がびあがる。この作品でのアクワチントの使用は、図像を形成するためのものであって、それ以上の意図は感じられない。

 ところで浜田はどうしてアクワテントの表現を自己の作品の中に取りこもうとしたのであろうか。作者自身の説明をここに要約すると、こうである。自分の作品の成り立ちは、舞台の設定に似ている。役者がいて、それを際立たせるために大道具・小道具を配置する。そして、舞台全体を統合する雰囲気が最後に必要となる。その雰囲気、舞台全体の効果を高めるための表現として、面の明暗を段階的に表現できるアクワチントを採用した。 くMarikoに〉ではすでに述べたように、アクワチントの表現は図像を浮かびあがらせるためにのみ働いている。しかし、銅版画制作が本格化する翌年の1951年(昭和26)になると、<姥>を介して、<壁>や〈首〉へと進むにつれて、アクワチントの使用が図像の形成の役割から、作家自身のいう「雰囲気」作りのためへと移っていることが分かる。それはまたテーマの内容を強めるための表現効果といい換えることができよう。

 多分、浜田がアクワチントによってテーマの内容に深みを与える表現を獲得できたのは、広い面に均一の明るさ(暗さ)を与えるという、この技法の表現の特徴を単に求めたからではなく、明暗に加えて粒状の大小に変化をもたせたことによるニュアンスの違う様々な面で作品を組み立てたからであろう。「私の場合は広いスペースに均等に粉末を撒布するということは殆どない。(中略)私は私なりに考えた末、粉末を布に包んでタンポ状にし、その頭を指で叩いて振りかけていくことを思いついた。(中略)私共が銅版画を初めた頃には、このような簡単なことさえ、自分で苦労して考え出さなければならなかった。明るい調子を作りたい部分には多く、暗くしたいところには少なく、粉末の大きさを変えることにより、また布の目の大きさを変えることによって、自分の好みの効果を作り出すことができる。」アクワチントの手法の知識と材料が十分に入手できなかった分、戦後間もなくの頃の銅版画家たちは創意工夫で難局を切り抜け、かえって豊かな表現の領域を発見することができた。浜田もそのひとりであり、アクワチント・ボックスが彼に必要ないのもうなずける。

 さらに浜田のアクワチントが、彼のテーマを静かにだが、力強く訴えてくる雰囲気を生みだすのは、腐蝕の仕方にも秘密がありそうだ。「アクワチントによる場合、通常明暗の段階を作るためには、一度腐蝕を終ってから松脂を落し、もう一度松脂を撒布して更に腐蝕を繰返すというやら方が普通だと思うが、二度目から松脂を撒布する時、粉末は必ずしも最初に落下した地点に落ちるわけではないから、腐蝕の繰返しによって効果は柔らかい感じにもなるし考えようによっては鈍くもなる。私はこの鈍さがあまり好きではないので、できるだけ一回の松脂の撒布で腐蝕を終えるように心がけている」。

 面の明暗表現であるアクワチントを、松脂の粉末の散布を変化させることと、その粒の大小によって、さらに一度の腐蝕で浜田自身が語った「鈍さ」を避けることで、作品の表面は濁りのない清澄なマチエールを獲得した。

 造形の観点から銅版画を論じる際に、しばしばうたい文句のようにでてくる「強固なマチエール」は、浜田のアクワチントを評する言葉とは足りえないような気がする。確かにそうした一面を強くもつ作品もあるが、それをもって浜田のアクワチントの魅力といい切ってしまうのはむつかしい。多分、様々な表情を鮮明に見せるアクワテントの諸面が面としての存在感を主張しながらも、単に造形の一要素に終始せず、それぞれが桔抗・対立したり、調和したりしながら、テーマに即した雰囲気を醸しだしているためではなかろうか。それが作品全体を包みこみ、作品にこめた浜田の思想がさらに深く見る側の心の中にへと浸透する。

           (富山県立近代美術館学芸員)

1)菊畑茂久馬←一兵卒の戦後‥浜田知明論」、『みずゑNo・904』1980年7月号44頁。
2)ウイリアム・アイヴインス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』(白石和也訳)晶文社1984年137頁。
3)浜田知明「聞き書きシリーズ:人と時代を見つめて(21)」、『西日本新軌1995年7月3日。
4)浜田知明「特集・私の戦後美術」、『現代の眼No・207』1972年2月号5頁。
5)浜田知明「聞き書きシリーズ‥人と時代を見つめて(44)」、咽日本新聞』1995年7月28日。

6)同上。
7)浜田知明「聞き書きシリーズ‥人と時代を見つめて(45)」、『西日本新聞』1995年7月29日。
8)「[特集]誰が最も影響を与えたか」、『美術手帖』1978年3月号100頁
9)銅版画制作が本格化する1951年には、アクワチントと同じく面による明暗
を表現できるメゾチントを使い、2点の作品く初年兵哀歌(便所の伝説)とく初年兵哀歌(戦いのあと)を作るが、この技法の名画のような効果が気にいげ、以後は用いていない(町田市立国際版画美術館『戦争一国家は見た』図録1991年52頁)。
10)1995年11月14日の電話でのインタビューによる。
11)同上。
12)同上。
13)浜田知明「私のテクニック:腐蝕の失敗の歴史一私の≠古典的な技法〝についての釈明」、『版画芸術』1978年20号180頁。
14)同上180~81頁。