New York Scool

■New York Scool

ドリー・アシュトン ashton_7

 ニューヨークの学校は、ニューヨーク市で1950年代と1960年代に積極的にアメリカの詩人、画家、ダンサー、ミュージシャンとの非公式グループでした。彼らはしばしばシュルレアリスムと現代の前衛芸術運動、特にアクションペインティング抽象表現主義、ジャズ、即興演劇、実験音楽、そしてニューヨーク市の芸術界の先駆者サークルにおける友人の相互作用からインスピレーションを得ました

抽象表現主義は、1940年代後半のアメリカ合衆国で起こり、世界的に注目された美術の動向である。抽象表現主義という語は、1919年にワシリー・カンディンスキーの作品に記述されたのが初めてで、その後1946年にロバート・コーツが再採用したものである。

 アメリカ合衆国の美術界に生じた地殻変動が全世界の注目を集めてから,半世紀以上が経過した。当初はさしあたりといった感じで「派」とか「運動」の名で呼ばれ,さらに作風についてはあたりさわりのない「抽象表現主義」なるあだ名を頂戴したこの現象については,突飛なものもふくめてすでに膨大な量の発言がなされ,現在も熱のこもった議論が続いている。

 世紀の変わり目から第一次世界大戦の末期にかけて生まれた画家たちの活動をひっくるめて定義しようにもとらえどころがなく,もどかしさに業を煮やしたものかロバート・マザウェルは同僚たちをニューヨーク・スクール」のメンバーと呼ぶことにした。ここまで漠としたまとめかたでも,やはりいくらかなりとも限定的になってしまうと感じたとみぇて,ニューヨーク・スクールは地理的に限られたものではないとマザウェルは強調している。当時,ニューヨーク近代美術館の館長を務めていたアルフレツドH.バー・ジュニアも,1958年の重要な巡回展「新しいアメリカ絵画」のカタログに寄せた文章のなかで,この現象に言及するに際してはできるだけおおまかなとらえ方をするように気配りを忘れていない。書き出しも慎重そのものである。

 本展に出品している17名り画家のなかにはだれひとりとして,仲間のために描いた人がないように,仲間を代弁しようとする者もいない。画家としての個性を尊重しようという気持ちには,かれらが 信奉するキルケゴールの思想と同じく妥協の余地がない。かれらにとっては,ジョン・ダンとは正反対に,人はみなそれぞれに孤立した島なのである。

ジョン・ダンは、イングランドの詩人、著作家、後半生はイングランド国教会の司祭。 カトリックの家の生まれで、イングランド国教会に改宗するまで宗教的迫害を経験した。優れた教養と詩の才能にもかかわらず、長く貧困の中で生き、富裕な友人たちに頼らざるを得なかった。 

 画家たちがどのような状況で制作に励んでいたか,もしフレツドH.バー・ジュニアがその内情に通じていたとしたら,ロワー・マンハッタンのわびしいロフトでようやく雨露をしのぐ程度の暮らしをしていた画家たちが,お互い同士のために絵を描いていたことに気づいていたはずだ。実際,絵を描いたところで,仲間の画家のほかにはだれに見てもらうあてもなかったのである。運動の萌芽期には,アメリカの社会はかれらの存在に関心がなく,なにかしらの反応を得ようとすれば,お互いに目をむけるしかないという気分が支配的だった。そればかりではない。かれらは互いに煽りたて合う必要もあった。この点では歴史上のさまざまな芸術運動に参加したアーティストと少しも違いはしない。

 現在は印象派と呼ばれている画家たちも,駆け出しのころは自分たちを「新しい絵画」の旗手と考えて,それぞれが既存の伝統からいよいよ大胆に離れてゆく様子にお互いこまやかな目配りを忘れなかった。戦時下のニューヨークに暮らし,おのおの自分なりに「先進的」と思っていた画家たちが「われわれ」ということばを使う気になったのは,自らの属する文化から受ける圧倒的な反感を意識したときに限られていた。

 アドルフ・ゴットリーブは当時を回想して,次のように記している。「1940年代には,何人かの画家はほんとうにやぶれかぶれの気分で絵を描いていた。状況は惨憺たるもので,そんなに酷(ひど)ければどんなに馬鹿げて見えようと,なにをしても構わないという気持ちになったことを覚えている。みな独りぼっちだった」

 そして,聞き手の心に残る名台詞(めいせりふ)をいつでも懐にしのばせているバーネット・ニューマンに言わせれば,「1940年には,ぼくらの仲間は朝の目覚めから絶望的な気分に陥ったものだ・・・絵なんてものは本当は存在しやしないと思わずもいられなかった・・・覚醒は革命にも似た高揚感を伴う・・・そうした剥(む)き出しの革命的な瞬間こそが,画家を真の画家につくりかえるのだ」。こうした発言は探せばほかにいくらもみつかるはずだが,これを見るかぎり,問題の現象は絵画の流派でもなければ運動でもなく,どちらかというと文化的な雰囲気に近いものだったように思われる。

 戦時中にこれらの画家が台頭すると,作品からかれらの気持ちのありようを察知するひとも現れ,その特徴をことばで表そうする試みも数多くなされた。なかでもおそらく最も眼差しが繊細で,核心を衝(つ)く評価を行ったのは,やはり画家のサイツではなかろうか。サイツはまず作品を観察し,つぎに画家たちに鋭い質問を投げかけ,1950年代に「アメリカの抽象表現主義絵画」と題する博士論文を著した。先進的な画家たちの美意識については,今でもまとめに優るものはない。

 かれらは完壁さよりも表現,仕上げよりも躍動感,休息よりも動揺,工夫よりも感覚,既知より未知,明瞭より不明瞭,社会より個人,外面より内面に・・・高い価値を認める。

 ニューヨーク・スクールの画家たちの生い立ちや生活体験がきわめて多様であることを十分にわきまえながら,それでも画家たちは確かにひとつに合流し,いくつかの明瞭な原理・・・とまではいえないまでも,ものの見方・・・を確立したことを見抜いた。

 合流がどのようにして起こったかについては多くの意見がこれまでに提示され,画家たちの個性の形成に寄与した出来事に注目するひと,画家たちに影響をおよぼした文化的背景を重視するひとなど様々ある。確かなのは,歴史が怒涛のように不穏な変化を遂げつつあった時期に画家たちが成長期を迎えたことの影響だろう。世界大恐慌の到来から第二次世界大戦の勃発に至る短期間には,あまりに多くの事件がつぎつぎに起きた。画家たちは大量な失業のもたらす荒廃,パンの配給を待つひとびとの行列,労働組合の闘争,ヨーロッパでのファシズムの台頭とアメリカにおけるその反響,飢餓を救おうとルーズベルト政権が着手したラディカルな政策(芸術家を対象とする施策を含む),スペイン市民戦争やナチスの胎動などヨーロッパを襲った厄災,そしてヨーロッパ、アメリカ双方での左翼の混乱した動向などを目の当たりにした。

 画家によって外の世界の出来事にたいする認識に深浅の差こそあれ,(ニューマンを除いて)だれもがニューディールの雇用創出計画VPAに参加する過程では,状況の変化に対応を迫られた。

公共事業促進局(こうきょうじぎょうそくしんきょく)または雇用促進局(こようそくしんきょく、英語:Works Progress Administration、後に Work Projects Administration と改称、略称WPA)は、ニューディール政策期にアメリカ合衆国で発足した政府機関

1935年5月6日に民主党政権のフランクリン・ルーズベルト大統領の「大統領令」により発足し、1943年までの間に数百万人の失業者を公共事業を通じて雇用し全米各地の地方経済に影響を与えた、ニューディール政策における最大かつ最も重要な機関である

 国家が支援するこの思い切った企図には矛盾が山積していたが,ヨーロッパでピカソ,マティス,ミロ,モンドリアン,レジェ等の先駆者がとりかかっていた幅広いモダニズムの一翼を担いたいと願う画家たちにとっては,これが焦点を絞るきっかけともなった

 戦時中に台頭したこれらの画家たちは,すでに何をしたくないかははっきりと心に決めていた。アメリカの愛国的,国粋的な勢力に迎合したくない。地域性に忠誠を誓いたくない。形態への関心に純化したヨーロッパの趨勢に流されたくない自分たちがどんな人間で何をするかを決める権利を,評論家や画商,美術館の手に委ねたくない。

アルフレッドハミルトンバージュニア(1902年1月28日-1981年8月15日)は、アメリカの美術史家であり、ニューヨーク市の近代美術館の初代館長でした。その立場から、彼は現代美術に対する人気のある態度の発達において最も影響力のある力の一人でした。たとえば、1935年の大ヒット作であるヴァンゴッホの展覧会の彼の編成は、作家のバーニスカートの言葉で、「今日の想像力におけるヴァンゴッホの今日のホールドの前兆」でした

 これらの画家たちはひとりの例外もなく,自分たちはヨーロッパのモダニズムの後を継いでいると考えていた。アルフレツドH.バー・ジュニアの稀にみる先見性のおかげで,かれらは当のヨーロッパ人よりも身近にこのヨーロッパのモダニズムを学ぶ機会を得た。1929年に近代美術館を創設するにあたり,バーは世紀の変わり目以降に台頭した美術運動をひとつ残らず紹介しようと心に決めていた。1930年代を通じてつぎつぎと開催された展覧会はキュビスム,フォーヴィスムからロシア構成主義,そしてダダイスムからシュルレアリスムまで,あらゆる美術運動について学ぶ機会を惜しみなく与えてくれた。

第1回展(開館したのは1929年)は「セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホ展」であった。このことは、印象派の次の世代(ポスト印象派)にあたる画家の彼らが当時の「前衛」であり、20世紀以後の「現代美術」の最初の画家たちであったことを象徴している。第1回展の展示風景の記録写真を見れば、19世紀式のサロン風の展示ではなく、昨今の美術館にみられるような、ニュートラルな白い壁面(ホワイトキューブ)に絵画が掛けられているが、これも当時としては斬新であった。

 芸術を志しながら地元では見捨てられたも同然の状況に置かれた若者たちが集い寄るニューヨークは,こうして名実ともに視覚教育の最高学府の名に恥じない機会となった。これに加えて,1930年代も暮れようとするころに,ヨーロッパから先覚者たちがつぎつぎと流入し,前衛の勃興にさらに重みを添えた。今やニューヨークにいながらにして,真似をするにしろ反抗するにしろ,ご本尊とじかに触れことができるようになったわけである。

 一方にアンドレ・ブルトン,他方にピートモンドリアンなど生身の本家が身近にいてくれたことが,現代的な表現様式の様々を融合させる呼び水になったのはまちがいない。抽象表現主義の冒険的な試みでは種々の要素の混合が大きな特徴となり,またこの放縦なまでに大胆で,懐の広いアプローチがあったからこそ,ニューヨーク・スクールは戦後,世界各地で注目を浴び,道しるべ的な役割を果たすことになったのだろう。

 しかしこれと同時に,相反する課題がニューヨークの画家たちの心を揺るがせていたのも事実である。ヨーロッパの前衛が切り開いた伝統をさらに発展させたいと思うかたわらで,独り立ちしたいと願ってもいた。芸術面での昔からのヨーロッパへの隷属状態から抜け出し,植民地的な気後れを払拭したかった。無知なアメリカの愛国主義を避けようとする一方で,これらの画家たちは,なにかしらアメリカの新しい伝統に身を寄せたいと切に願っていたのである。美術以外の分野にも,戦争の時代を経てアメリカ独自の表現を正統として受け容れることを信条とする芸術家が台頭しつつあったが,ニューヨーク・スクールの画家たちも思いは同じだった。

 たとえば新進の詩人ロバート・ロウエルは,だれよりも熱心にアメリカの暮しから作品のイメージを汲みあげようと努めた20世紀アメリカの詩人ウイリアム・カーロス・ウィリアムズに賛辞を惜しまなかった。1948年にロウエルはウィリアムズの詩『パタソン』に触れた文章のなかで,「善し悪しは別として,アメリカは広大にして粗野,そして古代ローマ的なところを具えている。我々は,自らの地理,歴史,文明,習慣,そして未来にわが身を置くほかない・・・」と記した。

 やはりロウエルと同じ趣旨の発言をしたひとに,詩人のハロルド・ローゼンバーグがいる。ニューヨーク・スクールの画家たちは洗練されすぎたヨーロッパ文化に対抗して,アメリカの粗削りな伝統に支えを見いだそうとしていると考えたローゼンバーグは,戦後になってニューヨーク・スクールに関する文章を書きはじめた。

 一時はローゼンバーグと親交のあったクレメント・グリンバーグも,当時の有力画廊であったペギー・グッゲンハイムのギャラリーでジャクソン・ポロック1943年に開いた初の個展を評する文章を著し,アメリカならではの現代絵画の特質とは何かを明らかにする試みの一翼を担う。アメリカ絵画の特徴である色彩の濁りを逆手にとり,初めて利点に変えたのがポロックだとグリンバーグは論じた。

 「たとえ消極的で,やむを得ずそうしたにせよ,これはメルヴィル,ホーソン,そしてボーの作品を支配し,ブレイクロックとライダーによって絵画にも移しかえられたアメリカ的キアロスクーロに匹敵する」。アメリカの伝統としては現代絵画を志す若手の画家に唯一の手がかりとなるもの,すなわち下賎な実利主義と精神的な孤立に対する反物質主義的な思想闘争に焦点をしぼることによって,運動の本質であるロマンティックで理想主義的な性質を浮き彫りにする論者がしだいに数を増してゆく

 第二次世界大戦が終わったころには,ニューヨーク・スクールの画家の大半はベテランの境地に達しており,経歴には大変なばらつきがあったとはいえ,いくつかの共通する指針を採り入れていた。なかでも最も重要なのは,画家はいくらでも変身して構わないとする考え方だろう自らの欲する表現に相応しければ,過去のいかなる伝統を援用してもさしつかえないし,自らの感覚に呼応するのであれば,いかなる形式であれ,遠近法のシステムであれ,自由に利用できると考えた。とくに意義深い問題が何点かある。

ジョン・デューイは、アメリカ合衆国の哲学者。チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズとならんでプラグマティズムを代表する思想家である。また米国では機能主義心理学に貢献したことでも知られている。20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者だった。

 かれらはアメリカの思想家ジョン・デューイが1930年代に下した託宣(たくせん・神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げること。そのお告げ。神託。)にならって,「芸術を体験とみなす」よう強く主張した。美術学校で十分な教育を受けていないひとが多いなか,めずらしく祖国オランダで十二分な素養を積んできたウイレム・デ・クーニングでさえ,1951年に次のような趣旨の発言をおこなっている。

 画家のなかには、わたしも含めて,自分がどんな椅子に座っていようが気にしないひとがいる。別に座り心地がよくなくてもかまわない。かれらは座るべき位置を探すことに,すっかり気をとられているのである。恰好よく座り(sitinstyle)たいなどとは考えもしない。それより,かれらは絵画とは,どんな種類であれ,どんなスタイルで描かれたものであれ,とにかくなんでもいいから今日この日の生き方,いわば生き方のスタイルだということに気づいた絵画の形式はそこにある。絵画はまさに無益だからこそ,何物にもとらわれないのである。そうした画家たちは妥協を嫌う。ただ発想への刺激を得たいと望むばかりである

 このことば,そして時期を同じくして発せられたこの他の多くの発言の陰には,自由を追求したいという思いが脈打っている。自由ということばは今でこそ何の屈託もなく用いられるようになったけれども,ニューヨーク・スクールの画家たちにとってはいくつかの具体的な意味と結びついていた。かれらは1930年代の政治的な動揺を体験した末に,私生活を集団生活に埋没させるように求める社会の要請からわが身をふりほどいてきたのだった。芸術的な側面では,先行する現代の諸運動のなにかにつけてマニフェストを発表したがる性癖,そして約束ごとを作るのが好きなくせにその決まりに縛られ,ついには腐敗し,やがてはアカデミスムに堕してゆく傾向を見つめてきた。そしてじかにではなかったものの,戦後沸き起こった実存主義,とりわけ個人の責任と芸術活動における「真理」の重要性を執拗に主張するジャン=ボール・サルトルに感銘を受けてもいた。

 ニューヨーク・スクールの画家のほとんどにとって,真実とは制作過程で,主として直観にしたがって姿を現すものであった。サルトルがアンドレ・ジッドを巡る論考で指摘したように,「真実はすべて,真実になったのだとヘーゲルは言う」。何かであるのではなく,何かになること,それはデ・クーニングのことばにも暗示されていたように,日々制作に励む画家たちにとってかけがえのない思想だったのである。

 画家が自己のあり方として,制作過程に完全に没入する道を選ぶとすれば,描き,生きる場には十分な広さがしばしば必要となる。初めてニューヨーク・スクールの作品がヨーロッパに紹介されたとき,最はく聞かれたのはカンヴァスの大きさに対する驚嘆の声だった。それは呼吸する壮大な迷路のようなポロックの作品であれ,複雑ながら具象的要素と純粋に抽象的な表現手投を見事に統合したデ・クーニングであれ,少しも変わりはしない。これらの巨大なカンヴァスから受けた衝撃があまり大きかったせいか,ヨーロッパ人たちは絵画の大きさが作品の重要性を意味するのは自らの文化的伝統でもあることを,すっかり失念してしまったらしい(ティツィアーノやティントレツトを思い起こしてほしい)。

 しかし,アメリカ人たちの狙いが別のところもこあったのも事実である。画家の多くはWPAの事業が活況を呈し,巨大な壁画の制作が奨励された時代の洗礼を受け,メキシコ人の壁画作家に深い感銘を受けていた。これに加えて,大きな身振りは気分の高揚を伴うことに気づいた者もあったが,こうなるとヨーロッパから輸入された黒布の毛製の小振りな筆では用が足りない。しかしそれよりも,新しい試みに対する興味の方が大きかったのはいうまでもない。視覚の旅をしない限り大胆な創造性を感得できないような巨大なカンヴァスにもし鑑賞者がとりかこまれ,その一部となったとしたら,なにが起こるだろうか。

 ロスコとニューマンはともに,感知すべきひとと感知されるべき物の間の心理的な距離を取り除こうと苦心したし,とくにロスコは作品と,作品に没入した状態の鑑賞者の両方をひとつのものとする考え方に強い興味を抱いていた。

 戦後の新しい世界にすべては可能,あるいは可能であって当然という気分が広まったのはごく自然のなりゆきだった。さいわい国土が戦場とならず荒廃を免れたアメリカ合衆国では,繁栄の基調が美術界にもおよびはじめた。アメリカ人にとっては芸術や文化もふくむ,いわゆる「贅沢産業」がめざましい発展を遂げる。1940年にはニューヨークに40軒しかなかった画廊が,1946年には150軒に増え,しかも新しい店の開業がつづいた。大衆向けの新聞,雑誌さえもが「文化」の地位が向上したことに日をつけ,定期連載のコラムに美術評論を加えた。また大学も初めて美術教育に手を初め,アトリエ実習を開講した。アメリカ生まれの美術運動が登場する機がこうして熟し,ニューヨーク・スクールの画家たちも新しい可能性が存在することに気づいた。

 しかしかれらが社会一般の繁栄の分け前に与(あず)かるまでには長い時間を待たねばならなかったこと,そして新しい状況を迎えて持ち前の高邁な理想主義をいっそう頑(かたく)なに維持しようとしたせいもあって,生前はついに少数派の立場を抜けでられなかったことは銘記しておくべきだろう。

 思想の学派であれ美術の主義であれ,新しい運動が何の前触れもなく台頭してくると,歴史家はその経緯を説き明かそうとするけれども,説明のつけようのない側面もあって,そうしたもののひとつに強烈な個性を具えた人物の登場があるのではないかとわたしは考える。1850年代半ばのパリの美術界には,とりたててクールベの登場を促すような状況はなかったけれども,いきなり現れたクールベは年長のドラクロワと共に,後の印象派に深い影響をおよぼした。

 これと同じように,アルメニア移民のアーシル・ゴーキーがニューヨークにやってきたこと,そしてかれの登場がウイレム・デ・クーニングをはじめとする画家仲間にほぼ瞬時のうちに与えた衝撃が,あの神秘的な触媒効果をひきおこしたのだった。

 堂々たる体躯に恵まれていたこと,華やかでロマンティックな振る舞いの多かったことを別にしても,ゴーキーは絵画に対する徹底した研究熱心さでアメリカ人の仲間たちに感銘を与えた。ゴーキーの関心は現代絵画の先駆者たちのみならず,あらゆる時代,あらゆる地域の絵画におよんだ。そして,美術館巡りやアトリエに独りこもってのさまざまな試みを通じて,画家に開かれたあらゆる手投を真剣に調べぬこうとするゴーキーの姿は,アメリカに育ち,反知性主義に傾きがちなアメリカ文化の洗礼を受けた画家たちもはかりしれない影響をおよぼした。

 ゴーキーはなかでも現代美術の始祖たち,とりわけピカソに最も深い関心を抱いていた。パリがピカソの「イデオグラム」,すなわち1920年代後半の作品に現れた具象に近い要素を話題にすれば,ゴーキーも早速それを自作の油彩画のなかで「試みた」。ピカソがアングルにすりよれば,ゴーキー,そして友人のデ・クーニングも後を追う。1930年代にふたりが描いた着衣の人物像を見れば,その様子がよくわかる。ミロの姿が視野に現れると,面影を描いた夢幻的な空間に照応し,そこにカンディンスキーから学んだ事柄を二,三つけたした。生来の混合主義者だったゴーキーは1940年代半ばについに独自の文字を見いだし,独創性に溢れる作品を産みだして,アンドレ・ブルトンの熱烈な支持を受ける。「バイオモルフィツク(生命形態的)」な変容を高らかに打ち出したブルトンの主張を,ゴーキ-の作品は現実化したようにも思われた。

 夢の非合理性が育む創造力の至高性を強く訴えることによって,ブルトンがアメリカの画家たちの解放に一役かったことはまちがいない。人間の魂の最深部に到達することをめざす「オートマティスム」の手法を盛んに喧伝したブルトンは,形態にとらわれていたアメリカ人に自由をもたらす手助けをしたのだった。気質からすればジャクソン・ポロックとマーク・ロスコ,ロバートマザウェルとクリフォード・ステイルはおよそ正反対ながら,みな揃ってフロイトやユングに刺激されて,おのおの自分なりにそれを活用した。

 偶然性・・・画家が絵筆を振るう間に生じる予測不能のあらゆるできごと・・・をとくに重視するようになったのは,たしかにシュルレアリスムに促されてのことだろう。理性の介在しない行為という考え方そのものも,幾分かはシュルレアリスムに負っているはずだ。そして必然的に,画材に対する態度も従来とは明らかに変化した。絵具そのものにも,理性的な心の介入を許さずにすらすらと描くなら,固有の表現力が具わっているとみなされるようになった。絵具をカンヴァスに滴らせたポロックの思い切った描法も,ステイルの最初の一塗りに分厚く盛られた絵具も,ともに素材そのものに対する新しい考え方に裏づけられている。また戦後に芽生えた東洋の伝統への好奇心,とくに「解脱」を重んじる古代の書家たちの抱いた禅の観念(あるいは,1940年代後半からニューヨークの芸術家たちの注目を浴びつつあった鈴木大拙の教え)への興味がこうした傾向に拍車をかけた面もあるだろう。

 ニューヨーク・スクールの主力を担う画家のなかには,シュルレアリスムの別の側面に関心を抱き,これを追求しつづけたひとびともいる。たとえばロスコ,ニューマン,ゴットリーブは,古代文明や魂に宿る部族的意識の残浮を探るシュルレアリストの試みに深く影響されたゴットリーブ西半球の土俗文化にヒントを得て「絵文字」絵画を展開した。またロスコとゴットリーブには古代ギリシア,ローマ神話を探究した時期もある。

 ウイリアム・バジオテス,そして芸術的な志を同じくするロバートマザウェルはこれとはまた別に,エキゾチックな主題を求めて文学-ブルトンと仲間たちが称揚したのと同じ作家たち,すなわち反逆児アルテエール・ランボー,かれが至上の手本と仰いだシャルル・ボードレール,19世紀末期を彩る天才ステファヌ・マラルメに日を向けた。

 バジオテスがボードレールの夢想の色掛一作品に漂う黄昏に似た,茫洋とした雰囲気に夢中になったのに対して,マザウェルは象飯主義をめざすマラルメを讃美し,物事は説明するのではなく,詩の展開に従い暗示の積み重ねによって察知さぎるべきだとするマラルメの信念に傾倒した。

 ウイリアム・カーロス・ウィリアムズが1948年に書いた詩のタイトル『行為の場としての詩』に倣い,絵画が行為の場になった(ハロルド・ローゼンバーグは数年後の1952年,名高い評論『アメリカのアクション・ペインターズ』を発表して,見事にその概要を明らかにする)としても,そうした「行為」の性質はひとそれぞれの所作ほどにも多様であった。ローゼンバーグの実存主義的な発想は,後にこれに注釈を加えたひとびとによって,大きく歪曲されることになる。かれらはローゼンバーグがニューヨーク・スクールの画家たち,なかでもポロック,クライン,デ・クーニングなど,とわりけ大きな身振りで絵具を扱った画家たちについて語ったものと勘違いしたのである。

 ところがローゼンバーグはただアトリエで目の当たりにした事柄,つまり画家たちはいわゆる倫理的探究,すなわち二つの困難な思想的課題である真実と自由の追求にますます傾倒しつつあるということを,ことばによってなるべく正確に伝えようとした・・・これは常に危険を伴う・・・だけなのである。そして,この真実と自由は,ローゼンバークと,ローゼンバーグの知る画家の多くにとって,個々人がそれぞれに体験すべきものなのだった。しかしかれらのこうした真摯さこそが,次世代の画家たちを堪えがたいまでに苛立たせ,ふだんから慣れ親しんだイメージの方へ向かわせることになる。

 抽象表現主義,あるいはニューヨーク・スクールの物の考え方には,作風など好きなときに変えて構わないという暗黙の了解が含まれている。心理面であれ,具体的に作品に現れるものであれ,柔軟性が高く評価された。したがってデ・クーニングにとってみれば,初の個展で発表した本質的には抽象的な絵画から,女たちを主題にした1950年代初期のあからさまな具象画に乗り換えるのなど造作もないことだった。

 同じようにフィリップ・ガストンも,1950年代の初めに絵具を塗り重ねた抽象のなかに神秘性を求める試みを様々に展開した後,1960年代には今にも形の見分けのつきそうな曖昧模糊としたイメージを描く作風に転じた末に,1970年代のパロディのようでもあれば悲劇性も感じさせる風変わりな図柄に落ちついた。

 画家同士の交流もあり,短期間に緊密な問わりをもった後,それぞれの道を歩んだことが,計り知れない影響をおよぼした例も見受けられる。たとえばブラッドリー・ウオーカー・トムリン1940年代後半にマザクェルとガストンのふたり・・・どちらも頭の回転が早かった・・・と交際をはじめると,線描の表意文字を元来キュビスム的な作品に大胆に採り入れる作品構成の改造に独自に着手した。

 ジャック・トウオルコフも仲間と付き合うようになってから,ゆるやかな筆遣いで曖昧な形状を描く気になり,後には,幾何学的な原則を本人のことばを借りれば「自発的かつ脈動する筆遣い」と結びつけることによって,「あらかじめ見通しを立でながら,直観的で,ときには気ままな描き方もできる」作品に到達する。

 画家同士が短期間ながら交流したことが後に影響をおよぼした例としては,このほかにも,1930年代に強烈な具象の壁画を描いていたジェイムズ・ブルックスジャクソン・ポロックの1949年夏の出会いがある。絵具を滴らせるポロックの絵画を無意識の紛れもない表出として尊んだブルックスは,フォルムを描くよりも染みをつくる試みにとりくみ,ときにはカンヴァスの裏側に絵具を塗り,表にしみ出たフォルムの名残りに着目したりもした。

 第二次世界大戦後の10年ほどは,世界各地で多くの画家たちがあらかじめ定められた技法の手順から逃れたいと願ったけれども,ブルックスにとっては友人のポロックがふたりの出会いの後まもなく,初期の作品にみられた具象性の暗示を最晩年の作品で再び取り戻したときに,その願いは十分なかたちで実現したといえるだろう。

 具象性はニューヨーク・スクールの画家の多くにとって決して無視できない問題であり,カンヴァスを舞台に展開したこれをめぐる議論は,T.S.エリオットが現代精神の決断と翻意と呼んだものの鮮やかな軌跡ともなっている。これに対してニューマンラインハート,そしてロスコは人物像をあつかうことを断固として拒み,情感のありようを図示するよりもその表象であるような,抽象画の理想像を追求することにより,ニューヨーク・スクールの特徴のひとつである即興性の重視からは距離をとった。とはいえ,ニューヨーク・スクールに属する画家はだれもが,ローゼンバーグマザウェルが『ポシビリテイーズ』誌の名高い序文に記したように,自らの体験を「アカデミックであったり,集団的,あるいは政治的な方式に祭り上げることなく」積み重ねれば,そこには「エネルギーの転換」が起こり,「当初強いられた状況にどれほどの差があっても,なにかしら価値あるものが生まれる」はずという信念を分かちあっていた。

 そうした画家は,「純然たる可能性に絶対的な信念」を持たねばならない。純然たる可能性に対するこのような信念こそが,ニューヨーク・スクールの特質である。画家は興にまかせて新たな試みにとりくみ,反抗的で,不遥でさえあっても,なお自らの職業に固有な可能性に対する信念を失わない。画家であることをやめず,絵具によって人間のおかれた状況を象徴的に表現する道を求め,現実とこしらえものを混同することは決してないのである。

 ニューヨーク・スクールの画家たちが探究した多様な表現形式を手がかりに選んだ後続世代は,基本的な前提として,まずなによりも,パウル・クレーが提起したように,自らの鼓動に従えば何かしらの真実がカンヴァス上に現れると考えた。1950年代後半に行われた巡回展を目の当たりにしたヨーロッパ人の多くは,ニューヨーク・スクールの画家もロマンティックで叙情的な感情が濃厚であることに気づく。なかでもとくに鋭い理解を示したひとりに数えられる当時のバーゼル・クンストハレの館長アーノルド・リュトリンガーは,自ら序文をものし,その前段にウォルトホイットマンの引用を配した。

 これらのものたちを,ぼくの声は予告する ぼくは今ここにまどろみから醒めて立ち上がる, 君たちぼくの内部で静まりかえっていた広大な海原よ,ぼくは今はっきり感じている,底知れぬ深 淵の中で,君たちが空前の波と嵐をはらんで,しきりに轟いているのを。

 リュトリンガーにとっては,当然ながらウォルトホイットマンの詩にみなぎる叙情性を引き合いに出すのがポロックを解釈する最良の方法だったのであり,ポロックの作品は「鑑賞者をカンヴァス上の運動にひきいれ,自らのリズムを鑑賞者の心:植えつけ,それを通じて絵画と鑑賞者の調和のとれた,感動に満ちた関係をつくりあげるような,叙情的メタファー」だと記す。

 叙情的なメタファーはたしかにニューヨーク・スクールの画家の作品に潜在していて,自然のリズムとその予期せぬ逸脱を暗示する大振りな筆遣いや,絵筆が通過しようとする空間の筆の動きに見合った広大さなど,様々なかたちで表現されている。画家としてはおよそ性質を異にするステイルとマザクェルでも,空間は外に向かって押し出され,虚構としての額縁がおしつける制約を越えて流れるように見える。ニューヨーク・スクールの画家には共通して,従来と較べてはるかに漠然とした空間領域を新たに確立するため,空間にまつわる既知のしきたりを捨てる用意ができていた。

 後続世代には1950年代の初めにニューヨークにやってきた者も多く,なかには才能にまかせてただちに反旗をひるがえす新参者もあったが,先行世代の本質を理解し,そこに自らの気質と通じるものを見いだした画家もいないわけではない。1926年生まれのジョーン・ミッチェルはフアン・ゴッホの風景画,そして自然を再構成するセザンヌのリズム感に富んだ作風を好み聡明で学習意欲に溢れた画家である。

 1940年代後半から1950年代初めにかけてのニューヨークで,ミッチェルはクライン,デ・クーニング,ガストンといった画家たちのアトリエに自然と出入りするようになり,やがて故アーシル・ゴーキーの油彩画と出会い最も強い感銘を受けた。ミッチェルにとっては筆遣いの自在さ,大胆さが自然から受ける深い叙情に満ちた感興を表す手段となった。ゴーキーのカンヴァスに光が射し,そこに筆がまるで太鼓を鳴らすようにリズムを奏でるのをミッチェルは見ることができたし,風景に深く食い入るようなゴーキーの眼差しも理解できた。ゴーキーは自然を暗号のように扱い,「心の内に蓄えた印象を暗号表代わりに,自然を解読し生命の律動そのものを露にすることができた」と言ったのはブルトンである。

 ミッチェルも風景から受けて心に蓄えたさまざまな印象をひとつに溶け合わせ,喚起する独自の筆遣いを産みだした。ゴーキーとおなじく,ミッチェルも詩に深く心を動かされ,自然のなかにそうした詩を見いだした。1950年代半ばに著した文章のなかで,ミッチェルは次のように述べてもいる。「わたしは心にとどめた風景の記憶をもとに絵を描き全風景から受けた感覚の記憶も手がかりになりますが,それが制作過程で形を変えることはいうまでもありません。」この時期の作品には,ゴーキーの細長く優雅にたわんだ線,デ・クーニングの平面を繋ぎとめる直線的な要素の強調,ポロックのアラベスクなどがそこかしこに見受けられる。

 その後のミッチェルは,果てしない空間に絵具を濃密に塗りこめた部分を密集させ,薄塗りの下地,あるいは純白のままに残したカンヴァスとの対比を浮き彫りにして,ブルトンが称賛したゴーキー晩年の作の「融通無碍な戯れ」にも通じる風景との類似性を創りだす試みをつづけている。

 変容した自然の記憶に依然として可能性が秘められていることは,ニューヨーク・スクールの画家たちも否定したことはなかったが,後続世代のなかでも強固な意志の持ち主たちは,目新しさを求める美術界の強い拒否反応をときには押し切るかたちで,この可能性を追求することになる。こうした画家たちは,ニューヨーク・スクールの画家たちがまさに各々成熟した表現形式を見いだそうとしていた第二次世界大戦勃発前夜に生まれ運動の創始者たちに対する反抗が賑やかにとりざたされた時期に教育を受けた。多くは若気の至りと新傾向にも影響され回り道をした後に,自ら選択を下したことを明確に意識したうえで,ニューヨーク・スクールの先行世代の信条なり実践に倣う遣に回帰したのである。

 1939年生まれのポール・ロッテルダムは,1950年代後半にオーストリアから移住しアメリカ国籍をとったひとで,当初はカンヴァスを木枠から引きちぎったり鮮血のような赤や黒を多用して鑑賞者の空間にまではみだしそうな絵を描くなど,粗っぽい因習打破に精力をそそいでいた。しかし瞑想好きな天分がしだいに優勢になり,穏やかな,灰色がかった色調で骨組みだけの対称性を描きはじめ,精神的な価値としか呼びようのないものを探究する姿勢を明確にした。

 1980年代の半ばまでには,ロッテルダムは大地の神秘的な生態に焦点を絞り,晩年のゴーキーを駆り立てたのとよく似た考え方に基づいて,自然の運動や変容をつぶさに観察するようになった。

 木々や生い茂る菓,丘陵,嵐,水,野原を描いた無数の習作からロッテルダムは雰囲気を純化し,普遍的な法則を抽出する。つねに何物かになろうとする生成過程としての世界に対する,独自のロマンティックな想念を投影する。ロッテルダムの細かいが勢いのある筆遣い,瀧に揺れ動く光,知的な再構成や組み立て(トウオルコフ最晩年の作品やラインハートが最後に到達した黒い光による図案にも通ずるところがある)は,ニューヨーク・スクールの精神的伝統を受け継ぐものといえるだろう。

  パットステイアが学生時代を過ごした1960年代初期には,抽象表現主義に反駁する必要性がいっそう強く感じられるようになっていた。人間性を重視する抽象表現主義のためらいや曖昧さ,類推作用への執着などは,ステイアに言わせると「混乱」していて,「内的ではなく,外的な世界に属するもの」のように思われた。ステイア自身の反抗はまず鳥や動物を精緻に描くかたちをとり,ついで先達の果てしない空間への異議申立てとして「ミニマリスト」の多くが採用した格子のなかにとりどりのイメージを収める手法に発展する。しかし1980年代に入ると,抽象表現主義の画家たちとほぼ同じく筆痕に意味を見いだし,表現手段を最優先するようになった。

 「洞窟に住んでいたころの人間が初めて壁につけた痕は,意志を伝えたいという欲求の現れだと思う。欲求を描いた絵ではなく,その物自体が自立していかないと。」絵画制作を念頭において予め計画を立てずに,生のダイナミスムに流れる感情を捉えようと思い立ったとき,ステイアは抽象表現主義の第一世代が宣言した自由に立ち戻っていたのである。ジョン・ケージの唱道する禅仏教につかのま魅了された抽象表現主義の画家の何人かに倣って,ステイアも自分の表現手段一大きなカンヴァスに従来の油絵具一による過激なまでの実験を通じて「我を忘れる」体験を得る

 1990年になるとステイアの絵が風景を示唆しているのは明らかになり,自然の要素・・・とりわけ風と水・・・を,今世紀初めにシェルレアリストが偶然を利用しながら確立した手法にも助けられ,漠としたフォルムに現す手法は独自の語法として完成の域に達した。薄暗がりのような背景に,薄めの絵具でさっと描いた流れるような線は,技法面からマッソンミロ,ゴーキー,ポロックを連想させる。しかしイメージそのものは,疑いようもなくステイアならではのものである。

 ステイアより10歳若く,1950年にイギリスで生まれたヒュー・オドネルはありあまる情熱のせいで,同世代のアーティストを捉えた時の趨勢には反発することになった。仲間の多くがミニマリズムの厳格で冷静な幾何学性と取り組むか,あるいは視覚表現よりことばに傾斜するなかで,鋸で切り抜いた炸裂するようなフォルムを華々しく彩った。京都に浄在した2年の問に,書と絵の問わ姥深く理解すると同時に,シュルレアリスムの無意識状態での創造にきわめて近い「無心」あるいは「虚心」の境地とも親しむ。がネルはこうして次第にニューヨーク・スクールの画家たちを夢中にした根源的な問題に近づいてゆく。

 絵具という素材そのものを通じて,感情のありようと,へラクレイトス哲学の説く流動的な体験を,ふたつながら作品に結びつけようとする闘いに身を委ねたのである。人体の内的作用・・・呼吸・空間への反応,水泳などにおける適応のしかた-の観察を通じ線と色彩,濃密な素材を用いて・それらと類似性のある作品をつくりあげた。脈動する表面,あるいは呼吸のリズムは生命体としてオドネルの身体の存在そのものと相似関係にあり(これはゆるやかに脈打つロスコの作品の表面と無縁とは言えないだろう),また表面を支配下に置こうとして奮闘し,その過程で神秘的な変容を遂げる形態の描写は,マザウェルの探求とも関わっている。

 オドネルは自分自身を後継者と考えていて,それは「抽象表現主義の創始者について考えるときには,個性をむきだしにした生々しい感覚を表に出す危険を冒したこと・・…・そしてかれらの揺るぎない信念を想い浮かべる」からだという。オドネルの信念は,自らの「生々しい動的感覚」を不断に発展させ,自然界をも視野にいれた変化と成長を中心に据えた有機的表現の伝統に忠実に従うことにある

 やはりイギリス人ながらアメリカで制作活動をつづける1939年生まれジョン・ウォーカーは,ニューヨーク・スクールのなんでも自由にとりいれようという混合主義的な気ままさに基づいて,自らの美意識を形成した。創始者の例に倣い,ウオーカーも間口を広くとっている。

 まだ学生だった1959年にジャクソン・ポロックの≪ナンバー12≫(1952年)と出会ったことが,ウォーカーにとっては制作を志す最大のはずみとなった。この作品は,鮮やかな黄色と音で染めた地のうえに,中心から外に向かって、形や線を叩きつけるように描いたものである。ウォーカーに無数の衝動・・・過去の大家たちの仕事を詳しく調べ,モダニズムの原理を再構築し,個人的体験の寓意性をいっそう拡大し,そして最終的には自然,文化と自らの相互作用を厳しく見つめ直したいという衝動・・・に自由に従わせたのは,ポロックの高揚さ,豪胆さであったようだ。絵を描くという行為と体験した事柄の間には摩擦のあることをつねに意識しているウォーカーは,ニューヨーク・スクールによって提起され,未解決のままに残された諸問題を深く掘り下げて考えてきた。

 まずウォーカーは巨大なカンヴァスと濃密で多様な絵具の用い方(砂や,彩色を施したコラージュなど性質の異なる素材も併用して効果を高めている)に内在する「純然たる可能性」に没頭した。後には,デ・クーニングやガストンに倣って何を描いたか見分けられる形の断片を,見慣れぬ背景に配することも試み,さらにはこれまたデ・クーニングと同じく,解読はできてもやはり神秘的な記号を作品に書きこむようになった。つねに前進を続けるウオーカーは,最近になってやはりニューヨーク・スクールが初めて取り組んだ,もうひとつの方策も手がけはじめている。1990年代に入ってからの横長の大きなカンヴァスには,謎めいた形態が空間のなかの様々な位置に浮かんでいる。それらはぼんやりと,シェルレアリストの好みそうなあいまいさで何かをほのめかしながら,多様な筆致と無限の創造性を秘めた素材,すなわち油絵具の不透明さが醸しだす不思議な生気を感じさせる雰囲気のなかに存在している。

 ニューヨーク・スクールの画家の多くは,絵を描くという過程に没頭したいと切に願ったが,1939年生まれのジェイク・バートホにとってもこの体験は不可欠のものとなった。ニューヨーク・スクールのあいまいさを歓迎せず,生成過程を重んじる思想を軽視するようになった時代に成年に達したバートホは,同世代のアーティストの多くと同じように,構図をどうするかをあらかじめ考えぬいてグラフ用紙に書きとめ,これをもとに制作にとりかかるという手順をふんでいた。

 ところが,自らが「静寂の詩情」と呼ぶものへの深い共感が,やがて生来の叙情的気質に素直に従うように迫るときがくる。そしてとうとう自らの生に対する最も深い気持ちの動きに接するには,ゆっくりと時間をかけて描くしかないと気づく。こうした変化によって,逆説的にバートホの描く絵はますます小さくなってゆき,そこでは光のちらつきが,19世紀後半の象徴主義の絵の一種のように,中心に置かれ光彩を放つイメージと溶け合うことも珍しくない。長い時間をかけて自らを省みることによって,バートホは絵具には多様な性質のあることを知り,そうした絵具をゆっくりと塗りながら,心の最深部にある感情との響き合いが起きるのを待つのである

 バートホにとっては,ニューヨーク・スクールの創始者たちと同じように,あらかじめ予測された結果はなく,無条件で従うべき慣行もない。それにもかかわらず,ひとたび姿を現したかたちは,ピカソが1923年に語ったように,独自の生命をもち,その生を活きる。1980年代にバートホの描いたフォルムは,奥行きの掴みがたい空間に浮かぶ長方形のように単純なものもあり,今にも消え失せそうに思われた。1990年代に入ると,それが複雑さ,存在としての手応え,ときには空虚に,ときには際だった具体性をもちながら,きわめて私的,直観的,しかも成熟した想像力の産物である完結した世界を暗示するに至る。

 1941年生まれのテレンス・ラ・ニューは,イメージにだす過程に決定的な重要性を認め,歴史の隠れた側面と生の体験の現象的世界の両方にまつわる直観,観察,意見を一文字通り一鋳造するというユニークな技法を開発した。鋳型に,そこに顔料をもらせるラ・ニューの手法は,ニューヨーク・スクールが切り開いた方策にヒントを得たものである。ラ・ニューはニューヨーク・スクールの創始者たちのことばをくりかのように,「絵画は,たんに探即証左であるにすぎず,その目的ではない」と言う。ラ・ニューの制作法に伴う時間と手間のかかる儀式にも似た行為は,豊富な旅行体験,とくに伝統文化が無傷のまま残されている地方への旅の記憶に焦点をあてる

 集団が潜在意識を共有するユングの提起はかつての想像力を解き放つきっかけともなったが,ラ・ニューの信念を享受している。螺旋,迷路,梯子など,神話と共に生きる多くの民族の暮らしに見られる数々の象徴は,ラ・ニューの作品にもひんぱんに顔をだし、ラ・ニューの作品では大地がしばしば白紙状態として扱われそこに時間が刻印される。ラニューの知覚にあって,視線は様々な方向にむかう。ときには地図視るように下に,ときにはオールドマスターの絵のように内側に沈みこみ,またときには微妙なディテールから限りなく拡がる領界へと移ってゆく。

 ラ・ニューはデ・クーニングや作品がそうであったように、脈絡のない出来事が満ちあふれていて,鑑賞者は作品の表面にそって視線に綻(ほころば)せながら,たえず意識の抑制の必要に迫られる。古い時代の梱包のように,ラ・ニューの作品が壁に垂れ下がっていても,形もしばしば不規則であることは,存在のあいまいさから鮮烈な知覚の瞬間をとりたいというラ・ニューの意図を感じさせる。ニューヨーク・スクールの画家の多くと同じように、ラ・ニューも人間的な眼差しに信頼する。人間の想像力は,様々に質の異なる絵画的要素に触れることによって,多様なレベルで活性化されうると信じているのである。

 ニュ-ヨーク・スクールの伝統を継ぐ者たちは,技法面でどれほどの相違があったとしても,いくつかの確信とした信念を固守している。かれらがおのおの敵意にさらされながら,あるいはさらに有害な無関心で迎えられながらも,意識的な選択してきたことは認めておくべきだろう。後継者たちにとっても,創始者と同じく,イリュージョンの創出は私的な体験を象徴的にまとめがるために欠かせない活動なのである。

 抽象表現主義の第一世代に,これらのアーティストたちに期待しているように,工夫よりも感覚,既知のものよりも未知のもの,社会よりも個人,外面よりも内面に多くの価値を認める。画面への接し方を通して,絵画はただの物を超える何かであり視覚的な道しるべ以上のもの,あらかじめ頭で考えた要素の総和以上のものであるとかれらは言い切る。一筆ごとにイメージが形作られてゆく過程で,存在の根底をなす本質の一端が提示される。言い換えれば,客観的な説明はつけようがないけれども,そこにあって神秘感を抱かせるもの,相応しい呼び方がないのでやはり形而上学的と呼ぶしかないものが伝わってくるのである。

(翻訳:木下哲夫)