ジャクソン・ポロック

■ジャクソン・ポロック(1912 −1956)

 ポロックは,ワイオミング州コデイに生まれ,カリフォルニア州,アリゾナ州を転々として成長した。1927年(15歳)にロサンゼルス近郊の高校に入学。翌年高等工芸学校に移りフィリップ・ガストンと知り合った。1930年9月(18歳),既に兄が学んでいたニューヨークのアートステューデンツ・リーグに入学。アメリカの地方固有の情景を描くアメリカン・シーンの代表的な画家,トーマス・ハートベントンのもとで学ぶ。1935年(23歳)以降WPA(公共事業促進局)の連邦美術計画に参加して生活を支える。1936年にはメキシコの壁画家シケイロスがニューヨークのユニオン・スクエアに開いた「実験工房」に加わり,様々な新手法を学んでいる。

 1938年(26歳)アルコール中毒の治療のために入院し,翌年からユング派の医師がポロックの描いた素描を用いて精神分析の治療を行った。これらは後に「精神分析用ドローイング」として知られるようになる。1940年(28歳)前後にはアメリカン・シーンやメキシコ壁画よりも,ピカソやシュルレアリスムの彩管が明らかになる。

 1941年,批評家のジョン・グレアムを通じて画家のリー・クラズナーと知り合う。42年(30歳)にはマザウェルと知り合い,彼やバジオテスらの画家たちとオートマティスムヘの関心を共有した

 1943年11月にべギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊で初個展。翌年ニューヨーク近代美術館が初めて彼の作品を購入した。1945年(33歳)の第2回個展の際に公開されたグッゲンハイム邸のための壁画には,形態の連続によるオール・オーヴァーの要素が現れた。この年クラズナーと結婚してイーストハンプトンのスプリングスに転居する。

 1948年,49年(37歳)にべテイ・パーソンズ画廊でボーリング(ドリッピング)による作品を発表。1950年ハンス・ネイムスがポロックの制作現場を撮影する。このとき再び飲酒を始め,1954年以降特に不調が続いて制作点数が減少する1956年8月(44歳),イーストハンプトンで交通事故のために死去した。

 1940年代終わりの,床に広げたカンヴァスに向けて棒や筆で塗料を注ぎかけた網の目のようなボード(ドリップ)絵画は,純粋に視覚的で画面全体にほぼ均質に広がるものとして,近代絵画の画期的な空間表現に数えられた

  一方そこに至るまでの作品は,シュルレアリスムとも問わる部族美術のトーテムやユングの精神分析におけるシンボルを手掛かりに分析されてきた。

 この間,1944年の≪水の姿≫(上図右)ではまだ,像が抽象的なパターンに埋もれてしまうことはないが,オール・オーヴァーと称される絵画のなかには下にあるイメージを覆うように筆触が繰り返されているものがある。その後ボーリングの大作を経て,1950年代初めのブラック・ペインテルグといわれる一連の作品には人間像が回帰してきた。そこでは抽象の作品で形象の生成に問わらない自律的な線と見えた滴る線条が,イメージの形成に参加している。ネイムスの映画が明らかにした運動性から想像されるのと裏腹に,ポロック自身はポーリングによる制作を高度にコントロールされたものと見なし,むしろ無意識は具体的なイメージによって表象されると考えていたことを,無視することはできないだろう。

■追加資料(Wikipedia)

■生い立ち

 1912年、ワイオミング州コーディに生まれた。1928年、ロサンゼルスのマニュアル・アーツ・ハイスクールに学び、1930年からニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでも学んだ。ここで当時全盛だったアメリカン・シーン派(地方主義)の画家トーマス・ハート・ベンソンの指導を受けた。

 1935年から1942年にかけて、WPA(公共事業促進局)の連邦美術計画の仕事をした。これは、ニューディール政策の一環として、新進の画家に公共建築の壁画や作品設置などを委嘱したもので、マーク・ロスコ、ウィレム・デ・クーニングなど、のちに有名になる若い画家たちが参加した。ポロックも壁画で参加することになり、かねてから尊敬していたメキシコ壁画運動の作家ダビッド・アルファロ・シケイロスらの助手を務めた。巨大な壁という広い空間に、絵筆ならぬスプレーガンやエアブラシで描く現場に衝撃を受けたという。

 またこの頃からアルコール依存症が始まり、ユング派の医師による精神分析の治療を受けた(のちにこの医院で医療行為として描かれたとされるポロックのデッサン等が売りに出され、遺族によって訴訟が起こされている)。

■アクション・ペインティング

 第二次世界大戦中に戦禍を避けてアメリカに避難していたシュルレアリスト達との交流や、かねてから尊敬していたパブロ・ピカソやジョアン・ミロらの影響により、しだいに無意識的なイメージを重視するスタイルになった1943年頃から、キャンバスを床に広げ、刷毛やコテで空中から塗料を滴らせる「ドリッピング」や、線を描く「ポーリング」という技法を使いはじめる。はじめは遠慮がちに使っていたが、1947年から全面的に展開する。このころ、批評家のクレメント・グリーンバーグが「いくら称えようとしても称えるための言葉が存在しない」と最大級の賛辞を贈る一方、雑誌や新聞によってからかい半分の取り上げられ方をしている。床に置いて描くことはインディアンの砂絵の影響などによると言われる。

 彼は単にキャンバスに絵具を叩きつけているように見えるが、意識的に絵具のたれる位置や量をコントロールしている。「地」と「図」が均質となったその絵画は「オール・オーヴァー」と呼ばれ、他の抽象表現主義の画家たち(ニューマン、ロスコら)とも共通している。批評家のハロルド・ローゼンバーグは絵画は作品というより描画行為の軌跡になっていると評し、デ・クーニングらとともに「アクション・ペインティング」の代表的な画家であるとした。

■最期

 アメリカを代表する画家と呼ばれるようになったプレッシャーや、アルコール依存症の再発、新たな画境が開けないなどの理由で、1951年ごろから混迷期に入った。黒いエナメル一色の作品を描いたり、具象的な絵を描いたり、色彩豊かな抽象に戻るなどの模索を繰り返した。そして1956年8月11日、若い愛人とその友人を巻き添えに自動車事故を起こし、44歳で死亡した。

 ポロックの生涯は、『ポロック 2人だけのアトリエ』(2000年)として映画化されている。原作はピュリッツァー賞を受賞した小説で、エド・ハリスが監督、主演、制作の三役を務めた。