ヨーゼフ・ボイスについて

ヨーゼフ・ボイスについて

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 わたしのオブジェは彫刻、あるいは美術全般についての考え方を変える刺激剤と見るペきものだ。

 わたしのオブジェは、彫刻とは何でありうるか、そしてどうすれば彫刻を作るという概念をだれもが用いる見えない素榔こまで拡げられるかについて、いろいろな考えを引き出すものでなければならない。

■思考の形式

 わたしたちはどのようにして自分の考えを形作っているか

■ことばの形式

 わたしたちはどのようにして自分の考えをことばにしているか

■社会彫刻

 わたしたちはどのようにして自分の暮らす世界を構想し、形成しているか。発展過程としての彫刻・ひとはみなアーティスト

 わたしが彫刻を仕上げて、固定した状態にしないのはそのためだ。

 ほとんどの作品は化学反応、醗酵、色の変化、腐敗、乾燥といった過程の中にある。すべてが変化しつつある。

 ボイスが自ら書いた伝記では、芸術と人生がひとつに融合して聖人伝形成の過程となっている。伝記は、当然ながら、出生の記述から始まる。「1921年クレーヴェ、絆創膏で塞がれた傷の展覧会」。1960年作「バスタブ」(no.5)はじかにこの出来事に関わつている。「出生により硬い素材でできた環境に触れて、だれもが体験する傷、あるいは精神的なショック」。バスタブはわたしたちが子供のころに使ったのと同じものである。そこに絆創膏と脂肪を染みこませたガーゼが付け加えられて、意味に拡がりが生まれる。絆創膏は傷を示唆し、脂肪はそこまで具体的ではなく、精神性の隠喩、ひとつの状態から次へと移る経過を示唆している。脂肪は温度によって、はっきりと形の定まった固形にもなれば、無秩序に流れる液体にもなる。脂肪はここで変化、変容、そして実体を示している。それは出生という行為にも似ている。

クレーヴェ

 北ヨーロッパ広しといえども、クレーヴェとその周辺の田園地帯ほど奇妙な土地は滅多にない。よそ者は住民の迷信深さと、ライン河とマース河が海に注ぐ辺りにできた砂丘と沼地を覆う雰囲気の両方を指して、この地を「恐ろしい風景」と呼ぶ。これはゲルマン的、プロテスタント的な国のなかに残されたケルト的、カトリック的な飛び地であり、人々の心の中では国境などたいした意味をもたない所なのである。名前を見ても、文化を見ても、多くはオランタ人であり、また過去にたびたびこの地方はオランク功一部となった。この土地を舞台にヨーロッパの歴史は繰り広げられたとも言える。登場したのはローマ人、バタヴィア人、フランク王国の臣民、ゲルマン人、フランス人、そしてスペイン人たちである。ナポレオンにこに戦い、勝利を収め、その遺風かこの地域には軍神マルスの英雄的精神を好ましく思う気性があり、ボイスの作品にもときおりそれが顔を出す。ボイスは作品の中でこれを鉄という金属によって間接的に表している。

 東にはユーラシアの壮大な平原がひろがっている。昔から遊牧民や、たとえば野うさぎのように現代人の考えだした国境など一顧だにしない渡り鳥生活者たちが超えてきた平原である。となれば、ボイスが自ら著した伝記に幼年期の体験を暗示する、「異教徒の子供たち」「牡鹿のリーダー」、「放射線」「ローム的な砂と砂状のロームとの違い」「ジンギス・カンの墓」、そして「ヒースと薬草」といった記述のあることも驚くにはあたらない。

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 町そのものを圧するように聳(そび)えているのはシュヴァーネンブルク、すなわち上端に巨大な黄金の白鳥を頂く堂々とした城砦である。この地方に特有な急勾配の屋根の彼方に浮かぶ白鳥ほど強烈なイメージはまずほかにはないだろう。「ブラバント公国の家系、そしてクレーヴェの伯爵たちの領地では白鳥崇拝が実際に行われていて、子供のころ城を見上げればかならず目の前にはあの白鳥があった」。後年ボイスは、白鳥、牡鹿、野うさぎにかける思いを表現する方法をしきりに探しもとめるが、そこにはローエングリンやアーサー王伝説の浪漫的、あるいは国粋的な解釈をはるかに超えるものがあった。子供にとって、白鳥ほど強烈なイメージはほかになかっただろうし、これを通して歴史の深層、そして合理的な説明のつかない意味といったものの存在を知らず知らずのうちに植えつけられることにもなった。こうしたいわくいいがたいものへの感覚は、後に素描として表現を得る。特に1950年代のシリーズ作品「白鳥の知性から」にはこれが顕著に表れている。

 ボイスの家族も、代々ここに暮らし、しっかりと土地に根を下ろした地元の家系だった。父親のヨーゼフ・ヤーコプはリンデルンで飼料店を営んでいた。ボイスは一人っ子ではあったが、母親のヨハンナが子だくさんの親戚の手伝いに忙しかったせいもあって、うるさく干渉されるようなことはあまりなかった。

 両親との関係は、親密とは言いにくいものだった。というよりも、とても幼い頃から、両親にはあまりかまってもらえなかった。まだ子供だったわたしにとってあの頃はとても酷しい状況だった。ときには両親にひどく脅かされたり、悲しい思いをさせられたこともある。それでも、ライン河下流地方の田園風景そしてクレーヴェに対しては、いつまでも変わることのない愛着を覚えるようになった。

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 このように過ごした幼年期の、なにより鮮やかな記憶を再構成したのが、1976年作「市電停車場」(fig.4)だろう。1930年に一家はリンデルンに引っ越した。そこはアナヒヤルシス・クローツ(フランス革命の指導者)ジョアンナ・セーブスの生誕地でもあった。セーブスは1809年のクレヴァーハム堤防決壊に際して、わが身を顧みず多くの人命を洪水から救い、ゲーテの詩にも讃えられている女性である。ここでも、堤防の上にはナポレオンの記念碑が建っていた。あっさりとした大理石の厚板に円花飾りと波の模様を施したものである。大地との密接なつながり、そして子供なりの自然科学への執着の深まりからなかなかに手のこんだゲームが考案された。

 「牡鹿のリーダー」とか「ジンギス・カンの墓」といったことばには、はっきりとした心理的な意味合いがある。原体験、その一部は子供が現実と思いこんで実際に生きる夢でもある。個々のこうした知覚における徹底的な主観性がひとつになると、それが後の生き方に客観的なパターンとして表れることもある。そうしたものはほとんどが観念やことばではなく、イメージとして表れる。何年も、自分は羊飼いで手には柄の曲がった杖があり、周りには羊の群れがいるように振る舞ったことを覚えている。それから草花や植物の生態に興味をもつようになり、この関心は生涯変わらずわたしについてまわることになった。まずは町周辺に生えているものをひとつのこさずに目録化することで、それを練習帳に書き留めた。

 ゲームはそれからもっと手の込んだものになっていった。とにかくなんでも拾い集めにでかけ、ぼろ布やあれこれの切れ端でテントを作り、収集したものを披露した。カブトムシ、ハツカネズミ、ドブネズミ、カエル、魚や蝿から、古い農機具をはじめ、とにかく機械仕掛けでもってこられるものなら、ありとあらゆるものを並べて見せた。それから地下にも部屋を作った。地下に迷宮のように穴を掘って、隠れ家や地下蔵をこしらえた。

 幼い頃のこのような自然科学への傾注ぶりは、やがてこれが昂じて家に仮掃(かりごしら)えながら実験室を作るにいたって、一段と体裁の整ったものになった。また美術に進路を定めるまで、ボイスは自然科学を専攻することになる。大学で受けた型通りの科学の授業は窮屈でがっがりさせられるばかりだったし、この点では戦後になって学校で受けた美術教育についても同じことがいえる。しかし自然のフォルム、生命の原理と成育のパターンを調べてみたいという興味は、生涯を通じてボイスの考え方の根底をなすものとなった。芸術や人生における温かさや生長のパターンを巡ってボイスの用いる隠喩の多くは、植物の観察に基づくものである。

 1933年になると、ナチスの政権奪取にともない、抑圧的、威圧的な政治的気分が蔓延する。はるか周縁の地クレーヴェでは、住民の大多数がカトリック教徒のせいもあつて、ある程度までその影響は弱められてはいた。しかしボイス自らも記しているように、「だれもが教会に行き、だれもがヒトラー・ユーゲントに入隊した」。ボイスもクレーヴェで学校に通うほかの子供たちと共に、ニュルンベルクを目指して「星の行進」に参加する。学校でも影響は見えはじめた。書物が燃やされるようになり、高校の図書館ではあちこちで書籍が焼却処分になった。

 なぜ燃やされるリストに載せられたのか、どうにも理解のできない本もたくさんあった。当然わたしは焚き火にくべられそうになった本を何冊か盗んできた。スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネの『自然の法則』などで、今でも手元に残してある。

 検閲はしばしば逆効果をもたらすもボイスにとっては、読書禁止処分を受けた作家たち、たとえはシュテファン・ゲオルク、ベルトルト・ブレヒト、モーリス・メーテルリンクがそれまで以上に面白く思えるようになったし、アール・ヌーヴォーやサンボリスムといった、普段ならボイスがさほどの興味を覚えなかったはずの運動ですら、魅力あるものと映った。美術との本当の意味での触れ合いが初めて起きたのは、クレーヴェに住む彫刻家アシーレ・モールトガートを訪れた時のこと。モールトガートの作風はブリュッセル・アカデミー系1900年様式のスタイルに則ったもので、コンスタンティン・ムーニエとジョルジュ・ミンヌの影響もわずかに見えた。それよりもボイスに強い印象を与えたのは、ヴィルヘルム・レームブルック作のシンプルなトルソを撮った写真だった。「それを見て、初めて彫刻になにか心から感じるものがあった。フォルムによって、ものすごいことができる、と感じた」。

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 学校ではミケランジェロに関する映画を見た。フイルムのチラつきをかいくぐって意味を読み取る習慣がなかったこと、そしておそらくは映写に使われた機材が旧式だったことも手伝って、ボイスにはこの映画はまったくの混沌としか思われなかった。「雲の形をしたソーセージ製造機の騒々しい唸(うな)りと混沌」。それでもなお、この映画はボイスに大きな感銘を与えた。

 この頃の教育は偏ったものではあったが、ある側面・・・北方神話と民話の強調・・・については、ボイスはこれを思想教育としてではなく伝統的なヨーロッパ人道主義の対極にあって、全体を均衡させるものと感じ、肯定的に受けとめた。戦後のドイツではこの間題はナチズムと関わるものとして、一切がタブー視されてしまい、その結果、今の世代は不自然なくらい自らの歴史に通じていない。ボイスには幸いなことに、チュートン族のみならず、アイスランドの英雄伝説やスカンジナヴィアの歴史にも愛着をもつ教師との出会いがあった。

 いちばん大切なことはもちろん学校では教えてくれないのてボイスはますます深まる混乱に乗じて旅廻りのサーカスに飛び込んだ。これといって特技のない新入りのボイスには、手当たり次第なんでもやってみるほかなかったが、スタントマンとしてはまずまずの才能を発揮し、とくに袋詰めになって鎖を巻かれたところから脱出するのはなかなか巧かった。こうしてボイスは人前でなにかをしてみせる人間を尊ぶ気持ちと、旅を生業とする人々を愛しむ思いを養った。

 1940年、19歳のボイスは召集を受ける。まずは航空無線技師としてポズナンとエアフルトで後にパルドピッツに移り実戦操縦士となるべく訓練された。ボイスは5度重傷を負い、敗戦にいたる9カ月をクックスハーフェンのイギリス軍捕虜収容所で過ごす。こうした年月がボイスに与えた影響は深甚(しんじん・気持ちが深いこと)かつ複雑をきわめるもので、美術を通してのみ表現し、実践しうることがあり、また自分にはそのようにして表現し、実践すべきことがあると決心するにいたるのは、つまるところ戦争体験があってこそといえるだろう。

 ある出来事が決定的な意味をもった。1943年のこと、ボイスが操縦していたJu87機がロシア軍の対空砲火を浴び、吹雪のなかクリミアに墜落したのである。飛行機の残骸にまじって失神したボイスを発見したのはタタール人たちだった。

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 もしタタールの人々が助けてくれなかったら、わたしは今こうして生きてはいられなかったろう。タタール人はクリミア半島に暮らす遊牧民(現在16万人)で、そこは当時ロシアとドイツの間の中間地帯になっており、どちらの味方にもついていなかった。わたしは以前からタタール人とは親しく付き合うようになり、ぶらりと出かけてはおしやべりをすることもあった。彼らからはよく「ドゥ・ニックス・ニェムキー・ドゥ・タタール」と言われ、一緒に暮らそうと誘われたものだった。遊牧民の暮らしにはもちろん大いに心をそそられた。もっともそのころになると彼らの行動範囲もかなり限られたものになってはいた。ドイツ軍の救助隊が捜索を断念して去った後、墜落して雪に埋もれていたわたしを捜し出してくれたのは、このタタール人たちだった。

 わたしは気を失っていて、すっかり意識を取り戻したのは12日かそこら経ってからのことだし、気がついたときにはドイツ軍の野戦病院にいた。だからその時の記憶は、意識に浸透したイメージにすぎない。最後の記憶は、飛びだすには遅すぎる、パラシュートを開くにはもう遅すぎるというものだった。地面に衝突する2、3秒前のことにちがいない。幸いなことに、わたしは縛りつけられていなかった・・・安全ベルトを嫌って、いつでも身体を自由に動かせるようにしていたのだ。そのために罰を食らったこともある。ロシアの地図を携帯していないという理由でも罰を食らった。なぜか、そのあたりのことならどんな地図より自分のほうがよく知っているという気がしたのだ。友人は安全ベルトを締めていたので、衝突のショックで粉みじんになっていた・・・後から探してみたが、跡形もなく消え去っていた。飛行機が地面にぶつかると、風防ガラスがそれと同じ速さで跳ね返ってきて、わたしはそれを突き破って放り出されたらしい。そのお蔭で助かったが、頭と顎にひどい怪我をした。

 それから機体の後部が逆立ちの格好で一回転し、わたしはすっかり雪に埋まった。何日かしてタタール人が見つけてくれたときも、そのままの状態だった。「ヴォーダ(水)」という声を聴いた覚えがある。それからフェルトでできたテントの感触、むっとするようなチーズと脂肪とミルクの匂いも忘れられない。タタール人たちはわたしの身体が熱をとりもどせるように、全身に脂肪を塗り、熱を逃さないように保温効果のあるフェルトでくるんでくれた。

 タタール人たちとのこうした出会いがなければ、素材に潜在する治癒力を信じ、それを儀式として実践するタタール人に接することがなかったとすれば、ボイスはたしかに彫刻の素材に脂肪やフェルトを用いはしなかったろう。だからといって、脂肪やフェルトはじかに遊牧民をさすものではないし、たんに半死半生の状態から生き返った体験を表しているわけでもない。そうした状態と素材の特質が心の奥深いところで結ばれると、素材にある意味が染みつき、またこの意味には広い解釈が可能になる。1950年代、そして60年代になって脂肪とフェルトがようやく登場したとき、これは何事かを物語る要素として、あるいは素材そのものとしてではなく、彫刻の可能性と意味合いに関わる理論の一部として提示されたのだった。

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 1946年、ボイスはクレーヴェに戻ったが、町もボイスと同じく戦争によって手ひどく痛めつけられており、シュヴァーネンブルクの塔にもはや白鳥の姿はなかった。そうこうするうちに、ボイスは彫刻家になる決心を固める。1943年を、ボイスは感じたこと、目にした出来事をスケッチやメモに記録しながら過ごした。そして戦争中の休暇を利用してポズナン大学の講義に出た析、寒けを催すような体験をしたことがきっかけとなって、自然科学の勉強から遠ざかるようになる。

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 それはアメーバに関する講義の最中に鮮烈なショックとなってわたしを襲った。教授は植物と動物の間に位置するという単細胞生物の毛羽立ったイメージをあれこれつつきまわして、一生を送ってきたわけだ。わたしはぞっとして、こう言った。「とんでもない。こんなのは科学でもなんでもない。」いまでも黒板に書かれたアメーバの絵が頭に焼きついてはなれない。

 科学を専門的、限定的なものと捉える伝統的な考え方をこうして拒絶したことは、生さる上での指針の変更を意味し、また戦時中の体験があいまって、ボイスはクレーヴェで制作に励むアーティストのグループと近づきになった。このグループは初めての展覧会が行われたのは1946年と47年のことだったが、ボイスが出品した素描と水彩は、装飾的な美術作品というよりも手探りで自然界のフォルムを捉えようとする習作だったので、メンバーの多くを狼狽(ろうばい)させることになった。

 博物学者のハインツ・ジールマンとともに動物の生態をテーマにした映画作りに取り組んだ後、1947年にボイスはデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学する。1949年にはエーヴァルト・マタレの教えるクラスに入ったマタレは彫刻家で、あらゆる創造物には調和があるとする神秘主義的な信念、美術における技巧や手業の役割を重んじる視点、そして「芸術とは砂についた足跡である」といった類の格言じみた物言いで知られていた。パワル・クレーと同じく、マタレも碩廃芸術家であるとしてナチスによって1933年に免職されたが、1946年、デュッセルドルフ芸術アカデミーにふたたび招かれたのだった。ドイツの戦後復興期にマタレは教会からいくつもの作品制作を委嘱され、ボイスが「優等生」となるにおよんで、ケルン大聖堂のブロンズの扉の制作を任せたこともあった。

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 フォルムの明快さを追求するうちに、ボイスは家具の制作を試みるようになる

 わたしにとって、それは彫刻を別の視点から理解することを意味していた。1949年から1954年にかけて手がけたスプーンや皿、棚やテーカレは機能性のぁるオブジェとして作られたものではない。見るからにありふれていながら、ありふれていないオブジェに関心があった。左右が対称でなかったり、たとえばガラスの瓶をはさんでテーブルの脚を床から浮かすことで仄めかされる意味合いなどによって、ありふれたとはいえなくなったものに興味を覚えた。

 彫刻におけるこのような実験的な試みと並行して、何千という素描が制作された。長年にわたり、素描はボイスにとって物事を考えるひとつの方法であった。すなわち「思考という形式」である。植物のフォルム、動物、岩石の構造、神話や目には見えないエネルギーといったあらゆるものが、世界に生じる現象や、個人によるその体験のなかにぁるパターンを見いだそうとして直観と理性の働きを結びつけ思考をさらに凝縮し発展させる過程で、素描に描かれた。

 それは体験に向かう体験のプロセスだった。考えるというとき、わたしはそれをフォルムと考えている。思想は、アーチストにとっての彫刻と同じものと見なすべきだろう。つまり思考によって作られるフォルムを探し求めるということだ。違いは柔らかくて有機的なフォルムと、硬くて結晶化したフォルムにある。探究はしたがってこれらふたつの極の間にある解決法に向けられる。

 素描の多くには、それが描かれたときの感受性の研ぎ澄まされた状態を伝える、あたかも宙を舞うかのような、霊媒的な質が備わっている。とくにテーマが死、自然や地質の構造、骨格、あるいは苦から超能力が備わっているとされる動物に関わるときには、これがとくに強く表れる。

 馬や牡鹿、白鳥、野うさぎなどの姿はしじゆう表れては消えてゆく。 存在のあるレベルからまた次のレベルヘと自由に行き来できるこれらのものたちは、魂の顕現であり、他の様々な領域にいつでも移ることのできる霊的存在が現世的形態を得たものだ。

 1949年になると、悩みが昂じて正真正銘の病となる。これは創造的な人格であれば、より深層にある知覚を獲得するためにかならず一度は通過しなければならない、いわば地獄の季節なのだった。

 これの好ましいところは、新しい人生が始まることだ。すべてが治療の過程といってもよい。わた.しはこの期間に、時代の精神的な傷痕の在り処を示し、治癒の過程を開始するのにアーティストはどのような役割を果たしえるかを理解した。そこから医学、あるいは錬金術とよばれるもの、シャーマニズムとの関わりが生じる。ただしこのことを強調しすぎないほうがいい。わたしにとって、それはリンデルンでわたしを科学や生物学の実験に導いた生涯を貫く一本の糸がまだつながっていることを意味した。


■ 彫刻理論

 彫刻の素材としてはボイス独特のものであり、最も代表的な素材は脂肪とフェルトである。これは1943年の戦争中の飛行機事故で重傷を負った際に助けられたことが基となっている。それはボイスが操縦していたユンカー87戦闘機がロシアの高射砲に撃たれ、クリミア半島の吹雪の中に墜落し、タタール人によって事故機の中で意識不明のところを発見されたというものである。ボイスはその時の体験を次のように語っている。「私は『Voda(水)』という声を覚えています。それから彼らのテントのフェルトと鼻を刺激する濃厚なチーズと脂肪とミルクの匂いを覚えています。彼らは暖かさを取り戻すように脂肪で私の体を覆い、暖かさを保つための断熱材としてフェルトで私を包みました。」この話はその真偽に関わらず、死と再生をテーマとしたボイスの作品の象徴となる話と言えるだろう。そしてこの暖かさの理論はシュタイナーの理論にも影響されてボイス芸術を形づくっていくことになる。

 ボイスは1963年のフェルト作品「gの薬」について、伝達の手段としての芸術と語っている。そして私の彫刻的な試みの過程で、私はいつも『死』という概念によって取り巻かれていた何かに対立して現れる何かに気が付きました。複雑な特徴を持つ暖かさの形態に対比して、極めて萎縮した小さな形態の中で永遠の伴侶のように発展させた 死の冷たさに対して暖かさという特徴を持って表現された何かです。私はその暖かさと冷たさは空間より上のレベルでの彫刻の原理であるということを認識しました。それは拡張と短縮、不定形の形態と結晶のような形態、混沌とした形態と確固とした形態に相当する彫刻の原理です。同時に時間、運動、空間の明らかな知覚を得ました。」というようなボイス独特の暖かさの変遷という彫刻理論は、蜜蜂の巣作りを基礎としている。蜜蜂への関心は1923年にシュタイナーが行なった「蜜蜂について」という講演によっている。シュタイナーはそこで流れる蜂蜜や六角形の蜜蝋の穴や花粉集めの神秘や自然における穴の構造の類似や蜜蝋や骨や血液の変遷について述べた。ボイスは蜂蜜や蜜蝋の流動性と蜜蝋によって巣穴を作る原理から自身の彫刻理論を発展させた。熱に反応する蜜や蝋は不定型の混沌とした素材であり、一方で幾何学的な巣穴のような 冷却化されて結晶化の原理を持っていることはボイスにとって基本的な彫刻的な形式であった。「蜜蜂社会の熱性の有機組織は、疑いなく、私が蝋と脂肪を蜜蜂に関連づけるに至った本質的な要因である。蜜蜂、というよりむしろ彼らの生活形態で私の関心をひいたのは、こうした有機体全体に渡る熱性の組織であり、こうした熱性の組織の内にこそまさに彫刻的な形体が存在している。蜜蜂は一方では極めて流動的な要素であるこうした熱性の要素を持ち、他方では彼らは結晶質の彫刻を形成する。彼らはまさに理にかなった完全に幾何学的な建築を形成するのである。そこにはすでに、たとえば一定の条件をみたすと、幾何学的な形体となって現れてくる脂肪性の多角形(=巣室)から、彫刻理論のなにがしかを見ることができるのである。しかしながら蜜蜂の本来の放熱性の性格とは、流動的な流出の要素であり、その際脂肪は熱にとかされ、やがて流れ去ってきえてしまうのである。こうした不確定の運動の要素から出発して、やや動きの少ない要素をへて、ひとつの形体が、幾何学的な全体像となって現われるひとつの形体が生れてくる。蜜蜂はこれを規則正しくしているのである。」これらを基礎としてボイス独特の素材である脂肪が使われているのである。 


 いまや芸術によって、それをより高度なレベルで適用できるようになった。そこから「彫刻理論」がでてきた。それがなにを意味するかといえば、身をもって体験した混沌と、それが彫刻として表れたものとの間に共通点を見いだしたということだ。混沌はエネルギーの温もりを秩序と形態に注ぎこむ自在な動きを伴うとき、治癒効果を発揮する。クリスタル等のオブジェはこの理論以前に作られたものだが、その頃になるとあらゆる生命、作用と関連する構造をどうすれば作れるか、それが段々わかってきた。

 ここで、当時の特異な時代背景を見ておくペきだろう。1950年代の初期、ドイツはまだナチス時代の経験と罪悪感という精神的なショックから立ち直れずにいた。過去は呪われたものとなり、それが昂じて大地や歴史との接触さえ、ナチスのファナティズム(熱狂的心酔。狂信。)とナショナリスト的な心情によって汚されてしまったがために、タブー視されていた。その一方で、共産圏との緩衝地帯にしようと、ドルに後押しされた国家が生まれつつあった。精神的なタブーを多く背負いこんでいたせいで、こうして形成された社会は戦後西欧世界の他の地域と比べて、いっそう物質主義への傾斜を強めていく。

 ボイスの見方によれば、こうした事態は傷という観念によって表現される。このテーマはあらゆるメディアを通じて、ボイスの作品を貫く糸となった。公にされた作品のなかで、もっとも早い時期にこのことを表現していたのは、1958年に国際アウシュヴィッツ委員会が主催したコンクールに出品したモデルと素描である。ちなみにコンクールの一等はユダヤ人の彫刻家のデザインに与えられた。ボイスのデザインは犠牲者をアワシュヴィッツに運びこむ鉄道線路が、門を通過し、キヤンプの敷地を越えて、火葬場の外側で行き止まりとなる経路に注目したものだった。そしてその奥行きの深さに伴う凄まじい苦悶を強調するように、形は左右非対称、二本の脚に載せた赤い「信号」の彫刻を、道筋の重点に配置した。キャンプの外にひとつ、いくらか小さめのを中に、そしてとても小さなものを火葬場にひとつという具合である。

 後になって、ボイスは長年の間に手がけたアウシュヴィッツに関連するオブジェや素描をひとまとめにして、クルムシュクットのヘッセン州立美術館シュトレーアー・コレクションのひとつの陳列ケースに収めている。表現はけっして説明的ではない。効果の有無は素材に蓄積された意味にかかっている。身体に障害をもち、飢えた少女の素描、焼け焦げた遺骸、野ネズミの死体と様式化された描き方をした稲妻、紫外線よけのゴーグル、長々とした黒プディン久毒入りの小瓶、脂肪の塊を載せたホットプレート。ここでは炉と脂肪から連想されるものが曖昧である。歴史的に見れば、それは人間が人間に対して犯したものとしては、最も恐ろしい罪のひとつを意味することになる。ところがボイスの語法からすると、脂肪には温もりという肯定的な意味あいもあり、生命と継続性を象徴する魚とも結びついている。

 これらの作品はカタストロフィ(大きな破滅)を表現するものとして作られたとは思わない。カタストロフィの体験が自覚を深めるのに役立ったのはもちろんだとしても。

 ただ、タイトルをエッセン強制収容所としたときでも、その内容を作品によって明らかに示すことには関心がなかった。

 これは収容所でおきた出来事の説明ではなく、カタストロフィの内容と意味を表している。それは出発点・・・ある実体・・・エッセン強制収容所を克服する手だてとなるものだろう。似たものを使って治す、これが同種療法(健康体に大量に与えるとその病気に似た症状を起こす薬品を患者に少量与える治療法)による治癒のあり方だ。

 いまの人間がおかれている状況はアウシュヴィッツそのままだ。科学や政治制度に対するわたしたちの理解のしかたや、専門家のカレープに責任を譲り渡していること、知識人やアーティストが沈黙を守っていることなどは、アウシュヴッツの原理そのままといえる。わたしはこうした状況と、その原因を相手どって果てし無い戦いをつづけている。

 たとえば、わたしたちは今、現代版のアウシュヴィッツを体験しているのだと思う。今回は肉体は抹殺されず、外からみる限り無事(ミイラ化したものに化粧を施して)だが、ほかに抹殺されたものがある。能力や創造性は焼き尽くされた。精神的な死刑執行の一種であり、恐怖の支配する風潮を創りだしたもので、じつに巧妙をきわめるがゆえに、危険性はアワシュヴィッツ以上に高い。


 

 精神的外傷、治癒、実体、そして変容といった用語は、1950年代、60年代のアクションや振る舞いによる作品、たとえばフェルトにくるまって9時間を過ごした「ボス」や、頭に蜂蜜をかけ、金箔を貼りつけて「死んだうさぎに絵を説明するには」どうすればよいかを示した作品にとくに顕著に表れてくるシヤーマニズムへの傾斜を示唆するものだろう。こうしたイベントは、素描「シャーマンの家で」(1954年)や、脂肪、フェルト、骨、血、金属、あるいは死との触れ合いの中でボイス自身の存在に超自然的な特性を賦与した彫刻作品のすべてに表現された関心を、文字通り演じてみせたものだった。今日の西欧世界において、シャーマニズムは商業化による宗教界の混乱や、ノスタルジックな逃避志向に結びつくものと考えられている。しかし、真面目な見方をする人々にとって、シャーマニズムは人間に常につきまとうあるもの、それ抜きにはわたしたちの存在は一気に貧しいものにならざるをえないあるものを思い起こさせる縁なのである。つまりシャーマニズムは、ひとは常に肉体的にも心理的にも物質界と緊密に交わる必要があり、体験の表層をざっと通過して済ませるのではなく、エネルギーの充溢したその実体を感知し、理解する必要があることを思い出させてくれる。これぬきの人生は危ういまでに抽象化されたものとなり、もうひとつの疎外過程の完結をみる。したがって、ボイスにとってシャーマニズムの原理は中和剤の一種であり、物質界で危機に瀕した豊穣さを表すものであった。

 わたしは古代からつづくこの行為を、人生、自然、歴史の具体的な過程を通じた質的変化と捉える。わたしの意図するところは、当然ながらそうした古代の文化に立ち戻ろうとするものではなく、質的変化と実体という観念を強調することにある。シャーマンが変化と進化をもたらすために行うのはまさにそれである。シャーマンの本貨は治癒作用にある。

 もちろんシャーマンが本来の機能を十分に発揮できるのは、発展初期の段階にあって、無欠の状態にある社会に限られる。わたしたちの社会は無欠とはほど遠いけれども、これも必要な段階には違いない。

 歴史のあらゆる段階で危機は生じるし、わたしたちには過去のそうした危機をふり返ってみることもできる。

 無欠性がひとたび失われると、ある種の変容が始まる。したがってシャーマニズムは過去に属しながら、歴史の発展の可能性を示もシャーマニズムを精神的な営みという観念のもっとも深いルーツと説くことも可能だろう。たとえば、発展の段階としては、後のギリシスエジプト文明の神話のレベルよりもさらに深い。しかしギリシア人やバビロニア人たちでさえ、シャーマニズム的な、あるいは魔術的な振る舞いとの繋がりを断ち切ってはいなかった。世界の神話的な見方、特定の場所を聖地と定めること、あるいはアクロポリスのような建物を造ることはすぺて後の段階に属する。それは目に見える、見えないを問わず実体との関わりのなかで精神性の操作が行われるようになったことの徴(しるし)であり、わたしたちもそうした習慣を受け継いでいる。

 物質主義の浸透した現段階について、そして現代の危機状況のなかでわたしたちが否定的に受けとめるあらゆる体験について考えてみると、これも歴史的必然であると認めざるをえなくなる。

 戦争中わたしはそうした体験をしたし、今でも毎日そう感じている。この堕落した状況は、物質主義を一面的に理解したがために生じたものだ。シャーマニズムの実践など先祖返りにすぎず、非合理的だというひとがあれば、今日の科学者の態度はそれと同じように旧式で、先祖返りそのものだと答えよう。なぜなら、わたしたちはもうそろそろ素材との関係において、新しい段階にはいっていなければいけないはずなのだから。

 したがって、わたしがシャーマニズムを体現するかのように見えたり、それを仄(ほの)めかしているように見えるとすれば、ほかにもっと大切なものがあり、実体にじかに働きかける、これまでとはまったく質を異にした手法を編み出さなければならないという信念を強調したいがためにそうしているのだ。たとえば、だれもが実に合理的な喋り方をする大学のようなところでは、呪術師のような存在の登場が待たれる。

 現代生活の貧しさ、そして過去何十年かに世界が経験した精神的なショックは、集団的な傷の様相を呈している。社会という肉体の傷を癒そうとするのなら、まず個人の負った傷、そして集団としての傷の在り処をみつけなければいけない。傷を質的変化の過程における肯定的な段階として提示するというテーマは、1960年作の「バスタブにおいて彫刻の形をとって表れ、そこでは生誕との関わりを示している。1956年作の「牡鹿の骸骨に乗った死人」といった素描、その後のエンヴァイロンメント作品やアクションにもこれが姿を変えて登場しており、そこでは作品のつくりだす雰囲気がしばしばなんらかのかたちで深い傷を思わせるように作用する。しかし傷が否定的な現象として放置されることは決してない。痛みの後には喜びや啓発がやってくるのと同じように、怪我はその後につづいて起こる治癒や快復過程といった肯定的な事態を示唆する。ボイスがコヨーテと一週間をともに過ごし、「対話」をしようとして1974年にニューヨークを訪れたとき、ボイスを載せて運んできた担架は人類の現況が傷ついたものであることを示唆し、その後につづく種を異にする動物との意思疎通を図ろうとする穏やかでうららかな目論見との際立うた対照をなした。これと同じく、重い病が癒えて辛がけた1976年作のエンヴァイロンメント作品「汝の傷を見せよ」(fig.14)では、埋葬に用いられる道具が、ボイスのレパートリーである脂肪、電池、フィルターを通じて浮上する治癒や蘇生の灰めかしによって、二重の機能を与えられている。

 ボイスの象徴となった品々のなかでも、いつ見ても抜きんでて挑発的なのは帽子だろう。ボイスが無帽で人前に姿を現すことは決してなかったし、帽子は作品に負けないくらい有名になった。帽子はフェルトでできていたので、寒さから身を守る実用性もあったにちがいない。これはだれのどの帽子でも同じことである。

 この帽子はもうひとつ別の頭を意味し、もうひとりの人格として機能する。多くのひとが奇妙な関わりかたをするもので、帽子は年中無休の芝居小屋のように働き、人々の目の前にあるのに、すぐにそれがなにを意味するのかはだれにも見抜けない。あれはトレードマークだと言うのは、なにを意味するのかわからないからだ。シャーマンについて話したとき、わたしが意味しようとしたのはまさにこれだった。シャーマンがどのように機能するのか、その謎をすっかり解くのは不可能だ。単純にいってしまえば、帽子はそれだけで十分に任務を果たすことができ、また伝達の手段にもなる、ということだろう。そうなれば、わたし自身はさほど重要ではなくなる。

 ユーモアや謎かけ・・・帽子、ナイフ、そしてある意味では彫刻に脂肪やフェルトを使うこともふくめて−といったボイスのシンボルともなった手法は、人々に疑問を抱かせるし、理性の勝ちすぎたこの世界ではそれもよい辛ががノになるのだから、効力は大きいといえるだろう。ユーモアはナイフのように意識にくいこんでくる。

 これは優雅、陽気さと同じくらい優雅な解決法だし、もし人生には個人的な問題を超える拡がりのあることがわからず、また人生や自然の力の総体としての仕組みにはいわばホメロス時代的な笑いが充溢していると感じ取ることができないようだと、これを見過ごしてしまう。こればかりは教えたり、育てたりできるようなものではないし、いわゆる理性的なものばがノを強調する現代の教育はつとめてこれを避けようとする。いずれにしろ、たんなる個人的なレベルを超えて生きるには、かなりの自己鍛練が必要だ。

 挑発したり、議論の分かれる問題をもちだしたり、相手を苛立たせたり・・・さらにはアリストテレスにまでさかのぽる合理性の伝統に則って育まれた精神からすれば荒唐無稽としか思われない手段に訴えるといったことは、どれも20世紀のアーティストたちが現状に対して挑んだ文化的な闘いに用いた手段である。ボイスの試みは、文化としては認められたこうした破格の行為を生のまま、そのようなものをまったく受け入れてはいない政治や経済の分野にまでおしひろめようとしたものといえるだろう。(翻訳:木下哲夫)