民芸運動と巨匠達

000■柳宗悦と民藝運動について

尾久彰三(元日本民藝館学芸員)

 柳宗悦が主唱した民藝を理解する為には、柳宗悦の精神形成、即ち人生の軌跡を知っておく必要があるだろう。何故なら、人の子である限り、柳も民藝という思想を、一朝にして生むことはあり得ないからである。そして、そこに至る迄には、多くの人から直接、あるいは間接に、様々な恵みを受けているに違いないと考えられるからである。

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 そこで私は、柳宗悦が一生で成した仕事を、大きく五つの章に分け、年代順に各章を解説しようと思う。しかし、御承知のとおり、柳の仕事は、筑摩書房発行の柳宗悦全集全22巻に著わされているように厖大で、かなり省略しても、とてもこの紙面で語りおおせるものではないと言える。従って、私は初めに、この解説は粗略を恐れず、私なりに選択した柳の事跡のほんの幾つかを記すもので、柳の民藝の外観を窺ううための最小限の、概説であることを断っておきたい。

■第一章 生誕から『白樺』創刊まで

 柳宗悦は退役海軍少将柳楢悦(56歳)を父として、明治22年(1889)3月21日、東京で生れた。しかし、宗悦の父は貴族院議員に勅任(明治23年10月)された翌年の1月、肺炎で亡くなる。1歳10ケ月で父を失った柳宗悦は、その後、母、勝子(旧姓嘉納)の手で育てられ、やがて、華族の子弟を教育する目的で、明治10年に設けられていた学習院へ入学する。

 柳家は旧華族(宮家公卿大名の出身)でも、新華族(明治維新の功臣出身)でもなかったが、父楢悦が長生きしておれば、当然華族の称号の爵位を与えられていたと考えられるので、柳が学習院へ通うことは、自然なことであった。

 そして柳は、6歳で学習院の初等学科に入学して以来、中等、高等学科を非常に優秀な成績で進んだ。それは、21歳の明治43年4月2日の卒業式で、高等学科首席として、恩賜の銀時計を受け、皇太子(大正天皇)の前で、「国文学史の一節、古今和歌集の選者及其特色に就て」と遷した講演を行ったことが証明している。尚、当時の学習院には優れた教師が多く、柳は英語を神田乃武、植物学者の服部他之助、仏教学者の鈴木大拙に、漢学を小柳司気太、岡田正之に、独語を哲学者の西田幾多郎等々に学んでいる。

 やがて明治43年(21歳)の9月に、柳は東京帝国大学文科大学哲学科に入学。大正2年7月、24歳で卒業するまで東京帝大へ通うが、柳にとって大学は、後に妻となる中島兼子に宛た「今丁度試験が終った処。もう二度と大学へは足を入れたくない気がしてゐる。Academy of Academyとは永遠の嫁が切りたい」(大正2年6月23日付・24歳)といった手紙で分るようなところであった。柳には、帝大で学ぶより、自身で学んだことを、実感をこめた論文で世に問うことの方が重要だったようである。

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 幸いなことに、当時すでに柳は、雑誌『白樺』という、自身の論文発表の場を持っていた。もちろん、ここで言う雑誌『白樺』は、学習院の同窓生が発行していた『望野』(志賀直哉・正親町公和・木下利玄・武者小路実篤)、『麦』(里見惇・園地公致・児島喜久雄・日下稔・田中両村)、『桃園』(柳宗悦・都虎彦)の三つの同人誌が合併して、新しく誌名を『白樺』とした上で、有島武郎、有島壬生馬、三浦直介、細川護立を新メンバーに加えて発足した文芸誌である。

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 その創刊は柳が学習院高等学科を卒業する前日の、明治43年4月1日であり、柳宗悦は最年少の同人だったが、全ての同人から最も信頼され、アートデイレクター的立場に立って、企画、編集の中心的役割を果した。

 そんな雑誌『白樺』を舞台に、柳は芸術、宗教、哲学、科学の領域に及ぶ様々な論文を発表した。例えば明治43年6月の「近世に於ける基督教神学の特色」、9、10月の「新しき科学」(上)(下)、11月の「宗教家としてのロダン」。明治44年1月の「杜翁が事ども」、3月の「ルノアールと其の一派」、4月の「逝ける画家ウーデ」、臥9月の「メチニコフの科学的人生観」(上)(下)、9月の「オープレー・ビアーズレに就て 附、挿画説明」、12月の「フォーゲラーの芸術」。明治45年1月の「革命の画家」、11月の「ヴァン・ゴオホに関する著書」。大正2年1月「〔翻詳〕アンリ・マティスと後印象派」、12月の「哲学に於けるテムぺラメントに就いて」。大正3年4月(25歳)の「ヰリアム・ブレイク」等々である。

 これ等の論文中、「新しき科学」と「メチニコフの科学的人生観」は、明治44年10月(22歳)に、『科学と人生』と題して、籾山(もみやま)書店から『白樺』同人の中で、最も早い単行本として出版された。

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 また、『ヰリアム・ブレイク』も、日本で最初に著わされたブレーク論であり、現在に至るまで彼の母国イギリスの、ブレーク研究に引けをとらない、最高水準を示す論文といわれている。そして、これも『ヰリアム・ブレイク 彼の生涯と製作及びその思想』と題し、大正3年12月23日(25歳)に、洛陽堂から柳宗悦の二番目の単行本として出版されたのである。尚、柳はこのブレイクの研究を通じて、柳の特質である、宗教的思想を造形と不可分の形で語るという、一種の思考様式とスタイルを確立したかのように、見受けられるのである。

 さて、この頃までの論文をみると、柳の眼が西洋の近代美術や、キリスト教神学や西洋哲学に向けられていたのが良く分る。しかし、そのように西洋に向いていた柳の眼が、やがて東洋に向けられる時がくる。それは大正3年からのことであり、その縁結びをしたのが、後年“朝鮮陶磁の神様’’とまで言われた浅川伯教であった。

■第二章 朝鮮民族美術館設立に至るまで

伯教1909(M42)頃-2

 浅川伯教(のりたか)は山梨県北巨摩郡高根町の人で、明治17年8月4日に生れている。父は浅川如作。家業は農業兼紺屋であった。そして、伯教は明治39年、山梨県立師範学校を卒業して、翌年から県内の訓導(旧制小学校の正規の教員)になったが、やがて大正2年、朝鮮へ渡り、朝鮮で訓導の任に着く。の伯数は美術や文学を好んで、大正元年には、後に帝室技芸員になる彫刻家、新海竹太郎に入門したり、柳たちの雑誌『白樺』を愛読したりしていた。そして、明治45年2月1日発行の『白樺』に寄せられた柳の「ロダン彫刻入京記」を読んだ伯教は、心酔するロダンの彫刻を見たく思い、大正3年9月に、帰省の機会をとらえて、当時ロダンの作品を預っていた柳宗悦の寓居(ぐうきょ・かりずまい)を訪ねることにした。7

*4左 オーギュスト・ロダン「或る小さき影」中 オーギエスト・ロダン「ロダン夫人胸像」右 オーギュスト・ロダン「巴里ゴロツキの首」

 柳はその年の2月に中島兼子と結婚し、9月初めに東京から千葉県我孫子へ転居したばかりであった。そして、その我孫子の家を訪問した伯教は、手土産として朝鮮から持ってきた李朝の古陶磁を、柳に進呈する。伯教が帰ってから、柳は伯教が置いていった朝鮮の古陶磁を、あかず眺める。そして、しばらくして『白樺』第5巻第12号(大正3年12月)の記事、「我孫子から通信一」で、「自分にとって新しく見出された喜びの他の一つを茲(ここ)に書き添えよう。それは磁器に現はされた型状美(Shape)だ。之は全く朝鮮の陶器から暗示を得た新しい驚愕だ。嘗て何等の注意をも払はず且つ些細な事と見倣(な)して寧ろ軽んじた陶器等の型状が、自分が自然を見る大きな端緒になろうとは思ひだにしなかった。

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 『事物の型状は無限だ』と云ふ一個の命題が明瞭に自分に意識された時此の単純な真理は自分にとって新しい神秘になった。その冷(ひややか)な土器に、人間の温み、高貴、壮厳を読み得ようとは昨日迄夢みだにしなかった。自分の知り得た範囲では此型状美に対する最も発達した感覚を持った民族は古朝鮮人だ。之に次ぐのは恐らく支那人だ。」と、感動をもって書く。

 この頃から、柳の芸術的関心は東洋、特に朝鮮の工芸へ向けられていく。そして、1916年・大正5年8月(27歳)、いよいよ柳宗悦は、思いもしなかった真理の神秘を探るため、最初の朝鮮旅行に旅立つ。

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 その折、柳を釜山まで出迎え、京城に導いたのは浅川伯教で、朝鮮の「型状美」に魅せられた柳は、11日釜山着。13日晋州。19日海印寺等訪問。9月1日、2日、慶州の石窟庵を訪ね、調査。といった日程で京城へ赴く。

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 京城についた柳は、大正4年12月に我孫子で伯教(のりたか)と共たくみに面会したことのある伯教の弟、浅川巧宅に滞在し、夏の炎天下を浅川兄弟の案内で、京城観光をしたり、骨董屋漁りをしたりする。

 浅川巧は伯教と七つ違いで、明治24年1月の誕生時には父が亡くなっていたこともあり、兄伯教を父のように慕っていた。そして、明治42年3月、山梨県立農林学校を卒業して、秋田県大館営林署小林区署に赴任した。


■参考資料 韓国京畿道抱川市と北杜市の友好親善

 大韓民国京畿道抱川市(キョンギドゥ・ポチョン市)と北杜市の交流の始まりは、1995(平成7)年にさかのぼります。浅川兄弟の生誕地である高根町五町田(ごちょうだ)地区の代表が浅川巧の墓参ために韓国を訪問した際に、当時の高根町長が「親書」を託して、浅川巧の偉業を保存し継承するための協力を韓国林業研究院の院長である趙在明先生に依頼しました。これを機会に韓国洪林会(退職者の会)に、「浅川巧先生記念事業委員会」が創設されました。一方、高根町では、浅川兄弟の功績を後世に語り継ぎ、日韓の友好親善の輪を広げるために「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」が設立されました。
 日韓の心をつなぐ懸け橋となった浅川兄弟の思いが花開いたかのように、交流の輪は次第に広がり、浅川巧が訪れていた林業試験場の出張所があった京畿道抱川郡(現在「抱川市」)が交流先の候補にあがりました。1998(平成10)年には高根町長が初めて抱川郡を訪問、翌1999年には高根町議会議員が抱川郡を訪問し、また同年には抱川郡の訪問団が高根町を訪れました。  
 そして、2001(平成13)年に、「浅川巧先生七十周忌日韓合同追慕祭」がソウルで行われた際、高根町長が抱川郡を表敬訪問し正式に姉妹縁組の申し入れがされ、平成15年(2003)3月21日には姉妹結縁盟約書の調印式が挙行され、両町郡の本格的な交流がスタートし、その後北杜市に引き継がれました。 現在では、中学生のホームステイ事業や文化交流事業が活発に行われ、友好の輪がますます広がっています。

しかし、伯教一家が母を伴い、朝鮮へ移住した翌年、即ち大正3年に、巧も京城へ行き朝鮮稔督府農商工部山林課の林業 試験場に、雇員として就職する。

 兄と同様に敬慶なクリスチャンだった巧は、自分を宣教師になぞらえて、朝鮮の民衆に同化することを理想に、必死な思いで朝鮮語を学び、日々の暮らしを朝鮮風にしていた。

 柳はそんな巧の家に逗留したのだが、その年の2月に結婚したばかりの巧の家では、生活全般に朝鮮の大衆が使用する工芸品が使われており、柳は巧夫婦が使用するそれ等の工芸品を見て、兄伯教の土産に驚惜した時と同じ驚きを感じる。そして、柳が、「何より朝鮮のものを知る機会を得たのは、浅川伯教、功両兄弟を知ってからだった。京城の阿岨里(アヒョンリ)にあった巧さんの家に泊めてもらった時から朝鮮の民藝の美へ大きく眼を開いた」(『親和』昭和29年3月)と、後に言うように、この折の経験が、柳宗悦の工芸、更に言うなら、民藝の開眼をもたらしたのであった。

 やがてこの最初の朝鮮の旅で、朝鮮民族固有の造形美が普遍性を持つことを確信した柳は、1919年大正8年3月1日(30歳)に朝鮮で起った独立運動を機に、その確信を世界に披瀝(ひれき・心の中の考えをつつみかくさず、打ち明けること)していく。

 それは、「誰も不幸な朝鮮の人々を公に弁護する人がないのを見て、急ぎ書いたのである。之は私が朝鮮に就いて書いた最初のものであった。」と、後に柳自身が著作解題を付けた「朝鮮人を想ふ」を、読売新聞に連載したり(大正8年5月20日から24日)、大正9年4月10日に、『改造』6月号掲載の「朝鮮の友に贈る書」を脱稿したり、5月には、朝鮮に対する親愛の情をあらわすため、声楽家の兼子夫人及び帰国を前にした英人陶工バーナード・リーチと、約4年ぶり2度目の朝鮮旅行を行ない、朝鮮各地で朝鮮民族激励を目的にした、夫人の音楽会と自身の講演会を開催するといった行為から始動した。

 一方、浅川兄弟についていうなら、兄伯教は、大正8年の三・一独立運動が起った直後に教職を捨てて、単身東京に出る。そして、4月から大正11年3月まで、新海竹太郎の内弟子として彫刻に専念する。弟巧は、兄の留守を守って、その間、柳と共に朝鮮民族激励の仕事を行ない、大正9年の年末に我孫子へ行き、柳とかねて話し合っていた朝鮮民族激励のための美術館設立を決める。そして、巧の同意を得た柳は、1921年大正10年(32歳)の『白樺』1月号に、「朝鮮民族美術館の設立に就て」を発表する。そこで柳は次のように書いている。

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 「扱、こゝに集めようとするものは主として李朝期の作品となるであろう。之は新羅及高麗の作が今日既に得難いと云ふ消極的理由によるのではない。忘れられた李朝期の作を、価値の世界に齎らそうとする積極的理由に基いている。いな李朝の作に美を否(いな)むが如きは、洞察に乏しい偏見に過ぎぬと私は考へてゐる。一朝の勃興は又蛮術的文化に、新たな方向と刺激とを輿へる。李朝期の作に於て特に吾々は別個の風韻に觸れる事が出来る。それ等のものは此五百年の間、日々その民族の生活に交ってゐたものである。吾々はそれ等日常の器具に、その民族の特質や又は温い血の流れをぢかに感じる事が出来る。実に是等のものはごくま近く迄続いて作られ用ゐられてゐたのである。今日の朝鮮を解さうと思ふならば、その近い時代の藝術に対して正当な理解を持つと云ふ事が、まちがひなく必要であらう。こゝに集められる作品によって今後李朝の実は必ずや人々の前に是定せられるにちがひないと考へてゐる。」と。

 これは、朝鮮王朝時代(李朝)の工芸品の持つ高い美的価値を、世界で初めて承認し、その価値を他ならぬ朝鮮民族、そして日本人、ひいては全人類に喧伝していくことを表明した、類い稀な革命的宣言文と言えよう…。そして、柳と浅川兄弟はこの発表の後、更に積極的に、朝鮮民族固有の美を示す李朝工芸を賛嘆することによって、植民地政策に苦しめられていた朝鮮の人達を激励していく。

 その主な行動に、柳が大正10年5月7日から11日迄の5日間、東京市神田区小川町の流逸荘で開いた「朝鮮民族美術展覧会」や、大正11年10月5日から7日迄京城の朝鮮貴族会館で、朝鮮民族美術館の第一回企画展として催した「李朝陶磁器展覧会」名がある。前者は、李朝期に造られた工芸全般の美を示す、世界で最初の展覧会であり、後者は李朝陶磁器だけの、世界初の展覧会であった。8

 ちなみに、流逸荘で開かれた「朝鮮民族美術展覧会」について、大正10年5月9、10日の両日付読売新開に記した柳の文に「これは私及私の二三の友の個人的に蒐集した作品である故、量に於てもまた価に於ても僅かなものに過ぎない。併し集めかたに方向があるといふ意味で、また集められたものに必ず特殊な美があると云ふ意に於て、質までが小さなわけではない。私達は今まで人々から注意されずに過ぎたと思ふ李朝期の作品を主として蒐集した。多くはその民族によって日々親しまれてゐた器具や家具である。それ等はもの珍しいものではなからうが、それだけにその民族の心がぢかに現はれてゐる。展覧される品の主要なものは僅かな新羅及高麗の作を除いて、皆李朝の陶磁器である。その他、民族美術として注意すべき絵画、刺繍も添えた。また驚嘆すべき金属の工芸品やまた朝鮮に於て特に発達したと思ふ木工品の数種を列べた。」と、ある。

 二三の友とは浅川兄弟等を指すと思われるが、とにかく、このような展覧会を通じ、柳達は世間一般に「朝鮮民族美術館」開設の理解を求め、やがて大正13年4月9日に、京城の景福宮綺敬堂に、念願のそれを開館させるのである。

 さて、このような大正3年から同13年まで、即ち柳25歳から35歳までの10年間に成された、朝鮮に係わる仕事は、その後の柳の仕事の指標になったと言える。

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 それは、例えば誰も美しいなどと思いもしなかった李朝の工芸品が、日本の台所用品のような、無名の民藝品に変わり、「朝鮮民族美術館の設立に就て」が、「日本民藝美術館設立趣意書」の発行に変り神田の流逸荘や京城の朝鮮貴族会館で行われた展覧会が、東京鳩居堂での日本民藝品展(昭和2年6月)を皮切りにした各地会場における民藝品展示即売会や、御大礼記念博(昭和3年3月)への「民藝館」出品等々の行動に変り、論文発表の場が、『白樺』から『工藝』に変ることなどから、窺い知ることが出来るのだが、この後、その辺りのことを記すことにしよう。

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■第三草 木喰仏との出会いから、「日本民華美術館設立趣意書」の発表まで

 「私は此頃殆ど朝鮮の事にのみ心を奪はれている。何故かくなったかは私には説き得ない。どこに情を説き得る充分な言葉があろう。」と、柳が「朝鮮の友に送る書」(大正9年『改造』6月号)で書いたように、情、即ち愛、さらに言うなら人間愛といった、人間の精神の深みから湧き上がる高邁な感情が成した仕事は、やがて柳の眼を日本に向けさせ、新らたな仕事の展開へと導く。そのきっかけは、1924年大正13年1月(35歳)に浅川巧と訪ねた甲府の小宮山清三宅の、蔵の前に置いてあった木喰仏がもたらした。

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 柳はその木喰仏を一目みて、まだ公に認められてない木彫仏の美が、那辺から持たらされるのか探求したく思った。そして、その年の4月に、念願の「朝鮮民族美術館」が開館したこともあって、木喰仏の研究に没頭することにした。

 浅川兄弟の畏友といって良い山梨県池田村の村長小宮山の家に安置されていた木喰仏は、元はといえば、木喰上人の故郷、甲斐国古関村丸畑(現山梨県下部村丸畑)の、四国堂にあった八十人体仏中の三体である。それ等が何かの理由で、大正8年に全て売却され、廻りまわって甲府の骨董店に並んだのである。それをたまたま浅川伯教が日にして、素封家の小宮山に購入をすすめ、古美術蒐集家でもあった小宮山が求めたというわけである。

 このことは、浅川伯教の眼が、再び柳の新らたな仕事のきっかけを作ったことを意味し、二人の不思議な縁に驚かされる。しかし、木喰仏はこの後もう一つ、柳に重要な縁も持たらした。

 それは柳の新らたな仕事の、民藝運動推進にあたって、両輪の役を荷なうことになる陶芸家の濱田庄司と、河井寛次郎との邂逅(かいこう思いがけなく会うこと。めぐりあい)の縁である。そして、この三人が出会うことによって「民藝」という言葉が生れ、民藝運動も生じたのである。従って、私はこの後、柳と二人との出会の縁から話を進めていくことにする。

 濱田庄司は、1913年・大正2年に東京高等工業学校(現東京工大)窯業科に入学する。先輩に河井寛次郎がいた。そして、大正5年に卒業した濱田は、河井が待つ京都陶磁器試験所に就職する。

 濱田はその頃、すでにバーナード・リーチや富本憲吉の個展に通って、それぞれの作品に感心していたが、1916年・大正5年に大和安堵村の吉本の工房を訪ね、彼と親しく交わり、更に大正7年に東京神田の流逸荘で個展を開いていた富本の親友のリーチと話す機会を得る。そして、大正8年5月(30歳)、我孫子の柳邸に窯を築いたリーチを訪ね、濱田(25歳)はそこで、リーチ(32歳)のみならず、柳(30歳)や志賀直哉とも知己の間柄になる。

 また、濱田は河井(27歳)と共に大正6年夏、沖縄へ渡り、壷屋の様子に感動する。そして大正8年には、やはり河井と一緒に朝鮮、満州への旅もする。

 大正9年6月、リーチ(33歳)は11年間に及ぶ日本での生活を切り上げ英国へ帰ることにした。濱田はこの年、初めて益子を訪ね、ばく然と仕事場をこの地にと思ったりもしたが、リーチに英国行きを強く誘われたこともあって英国へ渡り、セントアイヴスという寂しい漁村で、リーチと共に窯を開き、3年間一緒に仕事をする大正12年、関東大震災の報を受けた濱田は、大正13年3月末(30歳)に日本に帰る。日本の地を踏むと濱田は、親友河井寛次郎(34歳)の京都の家に直行し、毎日寝食を忘れて仕事や美について語り合う。そして、京都の河井家に滞在している間に、リーチや富本の親友で、濱田と旧知の仲であった柳が、同年4月に京都へ転居してくることを知り、濱田は機会をとらえて、河井と柳を会わせようと考える。

 しかし、柳はかつて、河井のデビュー時の作品を酷評したことを気に病んで会いたがらない。そこで濱田の計らいで、何度か会わずに互いの家を行き来した後、ようやく柳の家で三人が揃って会うことになる河井と柳が正式に名のり合うことになった場に、木喰仏があった。河井はそれを見て、異常な感銘を受けた。そして、柳と河井の間にあったわだかまりは、その木喰仏を介して嘘のように氷解し、それ以後、柳、河井、濱田は終生の友になる。

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 その後、柳は河井の案内で、東寺の弘法市や北野天満宮の天神市などに出かけては、当時誰も美しいなどと思いもしなかった民衆の生活用品を、無類に美しい最高の品と感じて、懸命に蒐集する。

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 また、濱田を伴い、三人打ち揃って、木喰仏調査の旅に出かけたりもする。そして、その調査で紀州方面を旅した折、津へ向う汽車の中でかわした三人の会話が、「民藝」という言葉を誕生させる。

 それは1925年・大正14年の12月28日(36歳)のことであった。三人の車中での会話は、昭和29年の柳の著書、『日本民藝館』に書かれている次の文章が、我々の想像を良くかき立ててくれると思うので紹介しておく。

 『「民」はもとより民衆の民で、「藝」は私共の意味では「工藝」の藝を指したのであります。それ故「民衆的工藝」の略称として「民藝」の二字を選んだわけであります。「民衆藝術」の意味でもよいわけでありますが、藝術と申しますと、とかく高級な個人的美術などを連想致しますので、もっと名もない工人達が作る実用的工藝品である意味を示唆したく、

 そんな車中での語らいから「民藝」という言葉が誕生したすぐ後、大正15年1月10日に再び紀州を旅した柳、河井、濱田の三名は、高野山に登って西禅院に宿泊する。そして、宿で「民藝」について論議を重ねる。その結果、議論は高揚し、ついに民藝品のための美術館を設立しようということになる。

 柳はすぐに設立の趣意書を草し(原稿を書く・下書きを書く)、親しい他の知友にも図って、1926年・大正15年4月1日付(37歳)で、『日本民藝美術館設立趣意書』を発表する。

日本民藝美術館設立趣意書

 そこには、『時充ちて、志を同じくする者集り、玄に「日本民藝美術館」の設立を計る。

 自然から産みなされた健康な素朴な清々した美を求めるなら、民藝・Folk Artの世界に来ねばならぬ。私達は長らく美の本流がそこを貫いてゐるのを見守って来た。併し不思議にも此世界は余りに日常の生活に交る為、却て普通なもの貧しいものとして、顧みを受けないでいる誰も今日迄その美を歴史に刻もうとは試みない

 私達は埋もれたそれ等のものに対する私達の蓋きない情愛を記念する為に玄に此美術館を建設する。(中略)民藝の美には自然の美が活き国民の生命が映る而も工藝の美は親しさの美であり潤ひの美である。凡てが作為に傷つき病弱に流れ情愛が渦死して来た今日、吾々は再び是等の正しい美を味ふ事に、感激を覚えないであらうか。美が自然から発する時、美が民衆に交る時、そうしてそれが日常の友となる時、それを正しい時代であると誰か云ひ得ないであらう。私達は過去に於てそれがあった事を示し、未来に於てもあり得べき事を示す為に、此「日本民藝美術館」の仕事を出発させる。』と、書かれた「趣旨」と、『此蒐集は只に過去の作品にのみ止めるのではない。現に作られつゝあるものからも選択する。それは個人的作品たると工業的作品たるとを問はない。私達は匿(かく)れたる個所に於て今尚健実なもの、よく伝統を守れるものゝ数々を発見する。私達は之によってよき工藝がありし事を示し、あることを示し、あり得べき事を示すであらう。私達の仕事は過去への賛美であると共に、現代への是認であり、将来への準備でなければならぬ。云々』と、書かれた「仕事」と、「募金」、「口絵説明」の四章が記されている。そして、「趣旨」には、富本憲吉を筆頭に、河井、濱田、柳の記名がある。

 表紙には、蒐集品選択の任に当り、かつ諸般事務を担当すると記された青山二郎が所蔵する、伊万里染付羊歯文湯呑の印刷写真が貼られ、その下に、黒田辰秋が版を刻んだ、柳の手になる表題が摺られている。そのような『日本民蛮美術館設立趣意書』は、わずかな部数が頒たれた小さな冊子であったが、“時充ちで’自づから開始されたとしか言いようがない、民藝運動の記念すべき発足宣言の書になっているのである。

 さて、この宣言書発行の後、日本民藝美術館を設立するということを目的に行われた日本の民藝運動は、柳宗悦の眼と頭が作る神輿(しんよ・みこし)のようなものを、優れた個人作家、及び個人プロデューサー達の手が担ぐといった形をとって、進められていく。

 それ等のことは、次の第四章で概説をすることにしたい。

■第四章 日本民藝館設立と民藝運動

 民藝運動の指導者であった柳宗悦は、敗戦後の昭和21年12月10日に発行された雑誌『工藝』115号に、「民藝運動は何を寄興したか」という一文を寄せている。この文はその後、『民と美(下)』(靖文社・昭和23年9月20日刊)に収録する際、柳の手で大きく補訂を加えたが、その靖文社版の「民藝運動は何を寄興したか」の第一章(全文)に、次のようなことが書かれている。

 『派生的なものは色々あろうが、思想的には根本的なものが三つあると考へられる。根本的というのは、価値転倒を伴うほどの革新を要求したものを指すのである。同時に之は民藝運動が示した最も独創的な面を示すであろう。独創的というのは、全く日本自身が生んだ新しい運動たることを指すのである。三つのものとは何々であろうか。

 第一は、今日まで等閑にされて来た民藝品の美的価値に関する新認識である。

 第二は、如何なる性質が、美の最も妥当な標準となるか、この確定である。

 第三は、「工藝的」なる新概念の創立である。之によって美批判の基礎を樹立するにある。 以上は思想的な面に於ける開拓であったが、具体的な仕事としては、主として四つのことが成された。

 第一は、日本民藝館の設立とその公開とである。誰も知る通り、今も我国に於けるこの種の唯一の施設である。

 第二は、日本に於ける地方的な伝統工藝の現状に関する調査と、実物の蒐集とである。今日まで全般に亙ってこの仕事を試みた者は他にいない。

 第三は、現存する地方民藝の振興と発展とに対する援助である。併びに個人作家と工人達との協作である。是等は何れも生産面に於ける活動である。

 第四は、言論の面であって、機関誌を通じ単行本を通じ、この運動の意義を説いた。而もそれ等の冊子書籍をも一つの工藝品として提供することに努めた。

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 以上掲げた諸項目に就いて、逐次にその意味を述べよう。出来るだけ簡潔に又明白に。』と記して、柳はこの後、二から八草迄の7つの章で、その仕事の意味を説いていく。

全集

 誠に不親切で恐縮だが、詳しく知りたい方は、柳宗悦全集第10巻(筑摩書房刊)に当っていただくことをお願いして、私はここで“具体的に成された四つの主たる仕事”について、簡単な註のようなものを添えることにしよう。

 第一に関しては、大正15年(昭和元年)『日本民藝美術館設立趣意書』を発行して、募金を募ったりした柳達の努力が、昭和10年5月に、倉敷紡績社長大原孫三郎の10万円の寄附申し出にようやく結びついて、日本民藝館の名で昭和11年10月24日、現在の東京都目黒区駒場の地に開館したことを指す。

日本民芸館工事中日本民芸館現在 民芸館玄関

 第二の伝統工藝の現状に関する調査といったことは、昭和3年3月の御大礼博に「民藝館」を出品するに当り、柳、河井、濱田が行なった東北、山陰、九州の調査旅行や、昭和5年の末頃から、雑誌『工藝』(昭和6年1月創刊)の取材や、百貨店での新作民藝展準備のため、各地に出向いて行なった調査の旅をさす。又、山陰で鳥取の吉田璋也や、島根の太田直行が行なった新作民藝運動のための調査研究や、青森の相馬貞三の、こぎんや菱刺の調査研究等々もある。そして、昭和13年12月から翌年の1月にかけての、沖縄県学務部の招きで、河井、濱田と共にした、柳の第一回沖縄旅行での調査や、昭和14年3月、12月の、第二回及び第三回の沖縄旅行で、民藝運動同志の濱田、外村吉之介、柳悦孝、田中俊雄、河井夫妻、芹沢錠介、岡村吉右衛門そして柳夫人(第二回)。濱田、田中、式場隆三郎、棟方志功、浅野長量、船木道息、鈴木繁男、佐久間藤太郎、相馬貞三、鈴木訓治、土門拳、坂本万七、細谷辰雄、猪飼助太郎、越寿雄、佐々倉健三、保田与重郎、水沢澄夫、井上昇三等26名(第三回)と共にした調査。並びに昭和15年7月の、柳の第四回沖縄旅行での調査等々を指す。

 第三の生産面に於ける活動とは、柳の同志であった河井、濱田、リーチ、芹沢、黒田、後に袂を分ったが、宮本憲吉などの優れた個人作家や、柳、吉田璋也、式場隆三郎等の優れたプロデューサー達が、地方工人のために、直接、間接の助言を惜しまなかったことを云う。

 第四は、柳によって著わされた多数の書籍が、優れた工藝品たらんと欲して、意識して造られたことや、民藝に志を持った人達が寄って立った雑誌『工藝』(昭和6年より昭和23年迄発行)が、今日再び造り得ない程、和紙や染布や漆などの自然素材を使って、美事に造られたこと等々を指すのである。

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 はなはだ簡単な民藝運動の紹介で申し訳なく思うが、与えられた紙数も残り少ないので、民藝派個人作家の巨匠たち、即ち、陶芸のバーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司、染色の芹沢錠介、木漆工の黒田辰秋、板画の棟方志功及び民蛮運動初期の同志であった富本意吉の名前が出揃ったここらで、と言っても本当に名前だけで遺憾だが、急いで次に柳思想の帰結を書いて、私はこの稿を終ることにしよう。

■第五章柳の思想の帰結

 再度柳の「民藝運動は何を寄興したか」の引用で恐縮だが、昭和21年12月10日(57歳)の雑誌『工藝』第115号版の、「験」(あとがき)に、柳は次の文を書く。

 『私達のこの運動は、工芸の分野に最も多く閲興するものであるが、併し私達の欲する所は、単なる工芸の一運動ではなく、一つの明かな精神運動たらんとするものである。倫理性や宗教性なくして、民藝運動はない。私達の眼から見ると今日までの日本の工芸界にはかゝる基礎が極めて乏しい。何も工芸家は道徳家であり宗教家である要はないかもしれぬ又各々専門を異にするものとも考へられよう。併し工芸家は先づ人でなければならない。人としての工芸家は須(すべか)らく彼等の生活に、精神的基礎がなければならない。特に美の領域に於て最も多く社会面と接触を持つ工芸の仕事は、かゝる基礎を要求する。実際工芸の歴史を顧みそれが偉大であった時代を見直す時、如何に倫理性や宗教性が、その偉大さを樹立させた基礎であったかを想ひみないわけにはゆかぬ。現に地方的に優れたものを作り続ける場合を見ても、如何にかゝる性質が強靭に働いてゐるかゞ分る。美の問題は単に美の問題だけではない。そこに眞や美や聖の問題を含まないなら、眞の美の問題はない。このことを熟慮し、私達は精神運動でない民藝運動の存在を容許することが出来ない。この意味で民藝運動は眞の文化運動たらんとするものである。昭和19年正月静岡市大谷にて柳宗悦』と。そして、この後、昭和23年8月(59歳)『美の法門』の稿を著す。これは、昭和23年臚月(12月)の記を持つ「後記」で『民藝文化がどこまでも精神文化たり得る所以は、それが宗教に根ざす限りに於てである。この根底なくしてどこに正しい民藝論が成り立つであらう』と記されて、昭和24年3月21日に私家本として上梓された著作であり、柳が59年間にわたって、美の問題を探究した末に至りえた、前人未到の境地を示す論である。そして、この論述が世に示されて初めて、柳の民藝運動は、紛れもない優れた精神運動であったことを、我々に明かすことになったとも言えるものである。

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 もし柳に、『美の法門』で『民藝美論の基礎を彿の大悲に求めようと志すのである。』と説くような、仏教美学の仕事が無く、民藝運動の展開の中で行なった、工費的なる品物が持つ美醜の簡択(けんじゃく)くらいのことで、その仕事を終えていたら、言い過ぎかとも思うが、柳の業績は、幸運に恵まれた美術批評家の一人が時代の庇護を得て成した仕事程度の評価にとどまり、やがて歴史の中に埋没する運命を持ったと思われるのである。しかし、白樺時代から、真、善、美といった真理の一つとしての美に、心を誘われていた柳は、『美の法門』を機会に、再び真理の世界へ、円を描くように回帰した。そして、ようやく我々にも、柳の全仕事が、神や仏を美に置き換える、宗教にも似た真理の仕事であったことを知らせたのである。

 このことから私は、最終的に柳の民藝運動の仕事は、民衆的工芸の持つ健康で平常な美を媒介に、聖なるものの世界へ立ち至る通が、間違いなく現世に用意されていることを知らしめた稀有な仕事であり、その道の自確が柳の身に結果としてあったが故に、多数の賛同者を得た民藝運動も、永遠の光を浴びて、今後も人類の重要な研究課題の一つとして、洋の東西を問はずに研究され続けるだろうと、断言したく思うのである。

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 さて、章をもうけることをしなかったが、柳には自身に似た仕事を、すでに500年も前に果たした先達として、村田珠光、武野紹鴎等の初期茶人の名をあげ、彼等の仕事を讃美する形で行なった侘茶(わびちゃ)の再評価と、千利休以降(利休を含む)の茶道の堕落を批判し、現今の茶の改革を提唱した、ユニークな茶の道に関する仕事もあるので、最後に付記の形で紹介しておく。

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 それは、柳を工芸に開眼させた李朝の柴野を、茶の湯に取り入れた初期茶人達を敬慕する、柳の念が育んだ仕事といって良いものだが、その先駆けは、昭和6年5月発行の『工藝』5号で発表された『「喜左衛門井戸」を見る』という論稿にみることが出来る。柳はその文の中で、『「いい茶碗だ−だが何という平凡極まるものだ、」私は即座にそう心に叫んだ。平凡というのは「あたり前なもの」という意味である。』

「大井戸茶碗-喜左衛門」

 『私は天下の大名物を親しく手に抱いてもろもろの想いにふける。そうしてこの一個と私が今日まで集め探してきたものとを思い比べる。

 「進め、進め、お前の道を進め、」そう大名物は私に囁(ささや)いてくれる。私は私の歩いた道が、そうして歩こうとする通が、間違っていないということを省みる。』と書いて、自身の「民藝」論の正しさを再確認し、その正しさが、朝鮮の民衆の使った粗末な飯器にすぎない喜左衛門井戸によって証明された喜びを語っている。

 そして柳はこれ以後、『茶道を想ふ』(私家本・昭和11年3月刊)『茶と美』(牧野書店・昭和16年7月刊)、『茶と美・改訂増補版』(乾元社・昭和27年6月刊)、『茶私の見方』に『「茶」の病ひ』を収録(春秋社・昭和28年5月刊)、『続茶私の見方』に「利休と私」を収録(春秋社・昭和28年12月刊)、『柳宗悦選集第六巻・茶と美』(春秋社・昭和30年3月刊)、『茶の改革』(春秋社・昭和33年10月刊)、『心偈(しんげ・こころうた)』に「茶偈(ちゃげ)」を収録(日本民藝館・昭和34年5月刊)といった著作本で、多くの茶道に関する論文を発表し、「茶が禅茶へと深まる時、それは既に美の法門に転じて来たのである。茶道は畢竟(ひっきょう)美の宗教だといえよう。茶が禅と結ばれるに及んでいよいよこの性格を明らかにして来た。渋さといい侘(わび)といい数奇という、凡て禅意を離れてはない。茶を習うのは仏法を習うことである。茶三昧と禅三昧とは、二であって二ではない。」と、「『禅茶録』を読んで」(『大法輪』第21巻第2,3号・昭和29年2,3月発行)に書くように、柳思想を、茶の世界にも展開し、茶道美学を彼の前代未聞の仏教美学に取り込んだのである。

 では、茶道に関する柳の仕事も、かろうじて付記できたここらで私は、全てに舌足らずになったことをお詫びして、柳宗悦と民藝運動の概説文を終わることにする。