■柳宗悦と民藝運動について
尾久彰三(元日本民藝館学芸員)
柳宗悦が主唱した民藝を理解する為には、柳宗悦の精神形成、即ち人生の軌跡を知っておく必要があるだろう。何故なら、人の子である限り、柳も民藝という思想を、一朝にして生むことはあり得ないからである。そして、そこに至る迄には、多くの人から直接、あるいは間接に、様々な恵みを受けているに違いないと考えられるからである。
そこで私は、柳宗悦が一生で成した仕事を、大きく五つの章に分け、年代順に各章を解説しようと思う。しかし、御承知のとおり、柳の仕事は、筑摩書房発行の柳宗悦全集全22巻に著わされているように厖大で、かなり省略しても、とてもこの紙面で語りおおせるものではないと言える。従って、私は初めに、この解説は粗略を恐れず、私なりに選択した柳の事跡のほんの幾つかを記すもので、柳の民藝の外観を窺ううための最小限の、概説であることを断っておきたい。
■第一章 生誕から『白樺』創刊まで
柳宗悦は退役海軍少将柳楢悦(56歳)を父として、明治22年(1889)3月21日、東京で生れた。しかし、宗悦の父は貴族院議員に勅任(明治23年10月)された翌年の1月、肺炎で亡くなる。1歳10ケ月で父を失った柳宗悦は、その後、母、勝子(旧姓嘉納)の手で育てられ、やがて、華族の子弟を教育する目的で、明治10年に設けられていた学習院へ入学する。
柳家は旧華族(宮家公卿大名の出身)でも、新華族(明治維新の功臣出身)でもなかったが、父楢悦が長生きしておれば、当然華族の称号の爵位を与えられていたと考えられるので、柳が学習院へ通うことは、自然なことであった。
そして柳は、6歳で学習院の初等学科に入学して以来、中等、高等学科を非常に優秀な成績で進んだ。それは、21歳の明治43年4月2日の卒業式で、高等学科首席として、恩賜の銀時計を受け、皇太子(大正天皇)の前で、「国文学史の一節、古今和歌集の選者及其特色に就て」と遷した講演を行ったことが証明している。尚、当時の学習院には優れた教師が多く、柳は英語を神田乃武、植物学者の服部他之助、仏教学者の鈴木大拙に、漢学を小柳司気太、岡田正之に、独語を哲学者の西田幾多郎等々に学んでいる。
やがて明治43年(21歳)の9月に、柳は東京帝国大学文科大学哲学科に入学。大正2年7月、24歳で卒業するまで東京帝大へ通うが、柳にとって大学は、後に妻となる中島兼子に宛た「今丁度試験が終った処。もう二度と大学へは足を入れたくない気がしてゐる。Academy of Academyとは永遠の嫁が切りたい」(大正2年6月23日付・24歳)といった手紙で分るようなところであった。柳には、帝大で学ぶより、自身で学んだことを、実感をこめた論文で世に問うことの方が重要だったようである。
幸いなことに、当時すでに柳は、雑誌『白樺』という、自身の論文発表の場を持っていた。もちろん、ここで言う雑誌『白樺』は、学習院の同窓生が発行していた『望野』(志賀直哉・正親町公和・木下利玄・武者小路実篤)、『麦』(里見惇・園地公致・児島喜久雄・日下稔・田中両村)、『桃園』(柳宗悦・都虎彦)の三つの同人誌が合併して、新しく誌名を『白樺』とした上で、有島武郎、有島壬生馬、三浦直介、細川護立を新メンバーに加えて発足した文芸誌である。
その創刊は柳が学習院高等学科を卒業する前日の、明治43年4月1日であり、柳宗悦は最年少の同人だったが、全ての同人から最も信頼され、アートデイレクター的立場に立って、企画、編集の中心的役割を果した。
そんな雑誌『白樺』を舞台に、柳は芸術、宗教、哲学、科学の領域に及ぶ様々な論文を発表した。例えば明治43年6月の「近世に於ける基督教神学の特色」、9、10月の「新しき科学」(上)(下)、11月の「宗教家としてのロダン」。明治44年1月の「杜翁が事ども」、3月の「ルノアールと其の一派」、4月の「逝ける画家ウーデ」、臥9月の「メチニコフの科学的人生観」(上)(下)、9月の「オープレー・ビアーズレに就て 附、挿画説明」、12月の「フォーゲラーの芸術」。明治45年1月の「革命の画家」、11月の「ヴァン・ゴオホに関する著書」。大正2年1月「〔翻詳〕アンリ・マティスと後印象派」、12月の「哲学に於けるテムぺラメントに就いて」。大正3年4月(25歳)の「ヰリアム・ブレイク」等々である。
これ等の論文中、「新しき科学」と「メチニコフの科学的人生観」は、明治44年10月(22歳)に、『科学と人生』と題して、籾山(もみやま)書店から『白樺』同人の中で、最も早い単行本として出版された。
また、『ヰリアム・ブレイク』も、日本で最初に著わされたブレーク論であり、現在に至るまで彼の母国イギリスの、ブレーク研究に引けをとらない、最高水準を示す論文といわれている。そして、これも『ヰリアム・ブレイク 彼の生涯と製作及びその思想』と題し、大正3年12月23日(25歳)に、洛陽堂から柳宗悦の二番目の単行本として出版されたのである。尚、柳はこのブレイクの研究を通じて、柳の特質である、宗教的思想を造形と不可分の形で語るという、一種の思考様式とスタイルを確立したかのように、見受けられるのである。
さて、この頃までの論文をみると、柳の眼が西洋の近代美術や、キリスト教神学や西洋哲学に向けられていたのが良く分る。しかし、そのように西洋に向いていた柳の眼が、やがて東洋に向けられる時がくる。それは大正3年からのことであり、その縁結びをしたのが、後年“朝鮮陶磁の神様’’とまで言われた浅川伯教であった。
■第二章 朝鮮民族美術館設立に至るまで
浅川伯教(のりたか)は山梨県北巨摩郡高根町の人で、明治17年8月4日に生れている。父は浅川如作。家業は農業兼紺屋であった。そして、伯教は明治39年、山梨県立師範学校を卒業して、翌年から県内の訓導(旧制小学校の正規の教員)になったが、やがて大正2年、朝鮮へ渡り、朝鮮で訓導の任に着く。の伯数は美術や文学を好んで、大正元年には、後に帝室技芸員になる彫刻家、新海竹太郎に入門したり、柳たちの雑誌『白樺』を愛読したりしていた。そして、明治45年2月1日発行の『白樺』に寄せられた柳の「ロダン彫刻入京記」を読んだ伯教は、心酔するロダンの彫刻を見たく思い、大正3年9月に、帰省の機会をとらえて、当時ロダンの作品を預っていた柳宗悦の寓居(ぐうきょ・かりずまい)を訪ねることにした。
*4左 オーギュスト・ロダン「或る小さき影」中 オーギエスト・ロダン「ロダン夫人胸像」右 オーギュスト・ロダン「巴里ゴロツキの首」
柳はその年の2月に中島兼子と結婚し、9月初めに東京から千葉県我孫子へ転居したばかりであった。そして、その我孫子の家を訪問した伯教は、手土産として朝鮮から持ってきた李朝の古陶磁を、柳に進呈する。伯教が帰ってから、柳は伯教が置いていった朝鮮の古陶磁を、あかず眺める。そして、しばらくして『白樺』第5巻第12号(大正3年12月)の記事、「我孫子から通信一」で、「自分にとって新しく見出された喜びの他の一つを茲(ここ)に書き添えよう。それは磁器に現はされた型状美(Shape)だ。之は全く朝鮮の陶器から暗示を得た新しい驚愕だ。嘗て何等の注意をも払はず且つ些細な事と見倣(な)して寧ろ軽んじた陶器等の型状が、自分が自然を見る大きな端緒になろうとは思ひだにしなかった。
『事物の型状は無限だ』と云ふ一個の命題が明瞭に自分に意識された時此の単純な真理は自分にとって新しい神秘になった。その冷(ひややか)な土器に、人間の温み、高貴、壮厳を読み得ようとは昨日迄夢みだにしなかった。自分の知り得た範囲では此型状美に対する最も発達した感覚を持った民族は古朝鮮人だ。之に次ぐのは恐らく支那人だ。」と、感動をもって書く。
この頃から、柳の芸術的関心は東洋、特に朝鮮の工芸へ向けられていく。そして、1916年・大正5年8月(27歳)、いよいよ柳宗悦は、思いもしなかった真理の神秘を探るため、最初の朝鮮旅行に旅立つ。
その折、柳を釜山まで出迎え、京城に導いたのは浅川伯教で、朝鮮の「型状美」に魅せられた柳は、11日釜山着。13日晋州。19日海印寺等訪問。9月1日、2日、慶州の石窟庵を訪ね、調査。といった日程で京城へ赴く。
京城についた柳は、大正4年12月に我孫子で伯教(のりたか)と共たくみに面会したことのある伯教の弟、浅川巧宅に滞在し、夏の炎天下を浅川兄弟の案内で、京城観光をしたり、骨董屋漁りをしたりする。
浅川巧は伯教と七つ違いで、明治24年1月の誕生時には父が亡くなっていたこともあり、兄伯教を父のように慕っていた。そして、明治42年3月、山梨県立農林学校を卒業して、秋田県大館営林署小林区署に赴任した。
■参考資料 韓国京畿道抱川市と北杜市の友好親善
