室町時代の美術

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■室町文化の特徴

 室町時代の美術・工芸を概観するに当って、まずこの時代の文化の特徴に注目しておきたい。

 康暦二年(一三八〇)足利義満が京都北小路室町に「花御所」を造営し、幕府磯関もここに移したところから、足利幕府の時代を室町時代とも称す。従って、政治史の上では南北朝の合一成った明徳三年(一三九二) から、足利幕府の滅びた天正元年(一五七三)までを室町時代とするが、文化史や美術史では必ずしも時代を截然(せつぜん・曖昧なところがなく、はっきりとしているさま)と劃(かく・区分)し得ないことは、改めて断るまでもない。

 足利尊氏-公  足利義満-公 足利義政-公

 室町時代の文化の特徴としてしばしば説かれていることは、武家文化と公家文化の二面性であり、その融合である。一方、義満の持つ武家・公卿・禅僧という三つの側面が、室町文化の構造と性格を知る上に大きなヒントとなるとも説かれる。即ち、彼は武家の棟梁として征夷大将軍であるとともに、従一位太政大臣という公卿(くぎょう・こうけい朝廷に仕える三位(さんみ)以上の人)の最高位に昇り、晩年は禅儀によって出家得度して天山道義と号した。このような三つの側面は、四代将軍義持にも、八代将軍義政にも見られ、時の権力者である室町将軍の持つ多面性は、確かに文化の特徴を知る上でも大きな示唆を与えている。

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 義満は明徳三年に数十年に及ぶ南北朝の対立を合一させ、守護大名の勢力を抑え、名実ともに権勢を確立した。応永八年(一四〇一)の明王に対する国書の署名には 「日本准三后」と冠し、明、朝鮮からも日本国王の称を受け、最高の実力者の地位を誇った応永四年(一三九七)に落成した北山第には、「玉をしき金をのべてつくりととのへ」た舎利殿が建立された。一層と二層は寝殿造風で、三層が禅宗風であり、金箔を押した外観は義満の絶頂期を誇示している。後世金閣と称され、北山文化の象徴的建造物として知られている。

北山第マップ金閣寺 応仁の乱の図

 しかし、義満の歿後から室町幕府の権威に翳りが見え始め、応永二十二年(一四一五) の上杉氏憲の乱、正長元年(一四二八)の土一揆、永享の乱(一四三九)、嘉吉の乱(一四四一)と騒乱が相次ぎ、応仁元年(一四六七)畠山、斯波(しばし)両氏の継嗣問題に端を発した争は、天下の勢力を二分する戦乱に拡大し、十一年に及んで為に京都は荒廃したいわゆる応仁の乱がこれであり、室町時代の末期には諸国の大名が覇を競い、遂に戦国の動乱期を迎えるに至った。

応仁の乱

 義政が将軍磯を継いだのは嘉吉四年(一四四四)九歳の年であり、その穀年の延徳二年(一四九〇)までの間は、応仁の乱をはじめ、土一揆の続発や度重なる徳政等により、社会状勢は深刻であった。こうした政情不安や現実生活から逃避し、文明五年(一四七三)には将軍職を義尚に譲って隠棲した

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 連歌・猿楽を楽しみ、唐絵・唐物を愛玩するといった彼の趣味や、文化・芸術に対する保護によって、動乱の時代にも拘らず高度な文化が育成された。文明十四年(一四八二)隠棲の地として求めた東山山荘に因み、この時代の文化を東山文化と称する。東山文化は美術・工芸・建築・芸能その他の芸術の隆昌を促し、特にこの時代に求められた幽玄枯淡の美意識は、日本文化の本質的要素として現代とも深い関りを持つ。

東山文化-1 東山文化-2 東山文化-3 東山文化-4

 次に、前代に請来された禅宗は歴代将軍の庇護を受けて大いに盛んになり、文化に寄与した面は多大なものがある。室町幕府が禅宗の中で特に臨済禅を厚く遺したのは尊氏以来であり南宋の官寺の制に倣って五山十利の格付を行い、経済的に援助をし、同時に統制を加えようと計った鎌倉五山に対して義満は京都五山を定めたが、京都五山とその系列の禅宗が、室町文化の形成に果した役割は極めて大きい。禅僧は当時の最も進歩的な文化の担い手であり、大陸の事情にも精通していた。対中国関係に於ては、国書の案文、起草、染筆や明国書の解読、明使の接待や交渉等に禅僧は最適の存在であった。また、彼等の請来した文物を飾ることは、将軍や武将にとっては、伝統文化を継承した公家に対する優越感でもあった室町幕府と五山派の禅僧は以上のように深い関りを持ち、その生活はむしろ派手なものであった。

 専ら仏事・法会を事とし庭園を伴う方丈には書院造を取入れ、押板・床・達棚には唐絵・唐物器物を飾り、襖には当代一流の絵師の手で唐様の水墨画や彩色画が描かれるといった風であった。五山派の禅林の生活は、次にあげる唐物の受容と影響に見られるように、室町文化の一基調を育成する場ともなった。

観阿弥;世阿弥 竹窓智巌

 禅本来の精神性を反映した枯淡幽玄の美は、むしろ五山以外の禅僧達によって形成されたとの指摘は、注目すべきである。能楽では世阿弥と曹洞宗の竹窓智巌、金春禅竹と大徳寺派の一休宗純の関りが見られ、茶の湯の村田珠光と一休、十四屋宗悟と古岳宗亘、武野紹鴎と大林宗套等、いずれも大徳寺派の禅僧であり、絵画でほ曽我蛇足と墨斎は一休の会下であった。また、龍安寺や大仙院の枯山水の庭は禅的精神を象徴する造型として知られているが、ともに五山以外の妙心寺派と大徳寺派である。以上のように、枯淡幽玄という美の理念を具象化するに与って力のあったのは、禅宗の中でも在野派であった。これに対して、五山派の禅林はいわゆる唐物の摂取・受容に於て、大いに貢献した。

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一休宗純像

 「唐物」の呼称は平安時代から見られるが、本稿では鎌倉・室町時代に大陸から舶載された美術工芸品を主として指すことにする。請来された唐物は夥(おびただ)しい数量であったことは、『仏日庵公物目録』の記載品目からも推察される。この記録は鎌倉円覚寺の塔頭仏日庵の蔵品目禄で、元応二年(一三二○)の目録をもとに、貞治二年(一三六三)以降数次にわたって校合加筆されており、若干の和物も含まれているが、大部分は唐物である

仏日庵公物目録---玲児の蔵書日明貿易 勘合の割符

 絵画は密庵・虚堂・圓悟等の頂相以下羅漢図・山水・花鳥等五十幅近い数があり、密庵・北欄・無準等の墨跡、仏具・袈裟、文房具・茶道具・調度類等各種の唐物がある。工芸品の主なるものは、青磁の花瓶や香炉・儀州湯瓶・曜変湯銭等の陶磁器、銅製燭台・白銀茶桶・古銅筆架・鏡石毯炉等の金工品、堆朱印籠・犀皮円盆・花梨木台等の木漆工品、馬場・瑠璃・椚瑠等、技法的にも多彩である。以上が一塔頭が歳する品目であり、これから推して、鎌倉や京都の五山十利だけでも唐物の数量は想像を遥かに越えた彪大なものであったろう。また、『大明別幅井両国勘合』によれば、永楽元年(一四〇三)に明王より将軍義持夫妻に贈られた品目は、紆林・紗・絹・紅漆器・盤・香疂・花瓶・卓器・碗等であり、紅離漆器即ち彫漆類は五十八件、卓器は卓器・酒器・托子等の揃で二組あり、その数量は眼を見張るものがある。この記録には宣徳年間まで数次にわたって、明王室より室町将軍に贈った品目が記載されており、彫漆類だけを取上げてみても彪大な数量である。しかもこれらの品は、格技を凍らした中国の代表的工芸品であったと見倣される。

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 唐物珍重の風ほ南北朝時代から大いに盛んになり『喫茶往来』によれば、「喫茶亭」には彩色や墨絵の釈迦その他の仏画を掛け、その前に卓を据えて金欄を敷き、胡銅の花瓶を飾り、机には金欄を敷いて楡石の香匙・火箸を立て、香台に堆朱・堆紅の香箱を置き、所々の障子には道釈画・龍虎・鷺鴛等の図を掛ける。

喫茶往来

 また、応永年間の補註のある『禅林小歌』にも、唐様に室を飾って衆を集めて宴を催して唐物を飾ったとある。その様子はおよそ次の通りで、客殿には釈迦三尊・仏画・山水等を掛け、その前に卓を置いて金補を敷き、燭台・香炉・花瓶の三具足を据える。会所には書棚・机を置いて硯その他の文房具を飾り、軒に風鈴を吊り、曲豪・椅子・寄掛等を据え、柱杖・払子・扇子等を置き、花髭・豹虎の皮その他を敷く。また、点心には菖で作った水晶包子以下の各種羹、饅頭・素麺等、各種菓子(果物・木の実)が出て、油滴・天目・建盞等で栂尾以下の名茶三十種程を興し、本座では蒸飯・各種汁・山菜・野菜・海藻等が饗され、さらに茶を喫している。その間伽羅・沈等の名香十余種を往き、これには桂昌・金枝・金枝花・堆朱・堆紅・九蓮林・黄九・紅花疑菓・銀緑二犀皮・堆漆等の彫漆類香合が用いられている。以上の記録は、当時の唐物に対する慣例の一端を語るものとして興味深い。

『北山殿行幸記』

 唐絵・唐物をもって室内を飾ることは、室町時代になるとより本格化している。その主なる例としては『北山殿行幸記』『室町殿行幸御鱗記』『小河御所井東山殿御鱗図』等をあげることができる。このうち『室町殿行幸御鱗記』は永享九年十月二十一日から二十六日まで、後花園天皇が六代将軍義教の邸「室町殿」に行幸された際の室内の飾を記したものである。享禄三年(一五三〇)の書写本によれば、室町殿の建物のうち「橋立之御間」から「御十二間」の新造御会所と「御泉殿」より「東向御縁」までの二棟が用いられ、二十六部屋毎にさらに各部屋の床・棚・書院・違棚に全て唐絵・唐物を飾っている。「橋立之御間」の例を見ると、牧彩筆布袋・船主・漁夫の三幅、三具足、象牙卓、菱蘭の香合、床には李辿筆犬図二幅対、象牙棚に七宝花瓶・七宝鶴頸・七宝薬器を劇紅等の盆にのせ、書院には硯・筆乗・象牙筆・墨挟・刀子・珊瑚鋏・牛の水入・翰盤・劇紅硯屏・夏圭軸物・七宝方盆・印籠・七宝盆・七宝花瓶一対・盆を飾り、喚鐘・柱飾の鏡を懸け、胡銅・堆紅の卓を置く。達棚には台に油滴をのせて堆紅の盆に置き、壷や七宝の隻花瓶を盆に据え、劇紅の食籠を飾っている。

 唐物は初め婆裟羅大名と呼ばれた人々によってもてはやされ、室内を飾るだけではなく、贈物の品目やはては賭物の対象とさえなった。茶寄合等で唐絵・唐物が飾られ、将軍家の北山殿や室町殿に時の天皇を迎える室内を飾るようになり、数量を誇示する憤向から次第に飾りの方式が整えられるようになった。これに伴い、唐物の鑑識や取扱を専門とする人々が必要とされ、阿弥を名のる同朋衆がこれに当った。阿弥と称するのは、時宗によって法体となった人々で、卑賎な身分が多かったが、出家することによって将軍や守護大名に近侍した。幕府の唐物の管理に当ったのは、能阿弥・芸阿弥・相阿弥のいわゆる三阿弥であり、他に能の世阿弥・観阿弥、作庭の善阿弥、千利休の祖父で唐物奉行を勤めた千阿弥等が知られている

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 唐絵・唐物の鑑識とその飾次第を記した記録としては、『君台観左右帳記』、『御飾記』の類がある。『君台観左右帳記』は類本・異本が多いが、文明八年三月十二日付の能阿弥奥書本と永正八年十月十六日付の相阿弥奥書本の二系統が見られる。細部に於てはかなりの相異があるが、いずれも前後二編に分かれ、前編には宋・元を中心とする中国の画人名と主な画題を列挙し、後編には 「飾次第」と記して唐物鑑賞の基準と飾りの方式を示している。能阿弥本では画人一五九名を、上中下の品等に分けているのに対して、相阿弥本では上の部を上上上・上上・上中と三分し、中と下も中上や下上を加へて細分し、画人も一七五名となっている。飾次第には押板・違棚‥茶湯道具等の飾り方を記し、図を添えている。

『君台観左右帳記』 『君台観左右帳記』作図

 これらによって、義政の時代頃には、将軍家の会所の客間や書院の唐物の飾り方も、ほぼ定形化したものと見られる。唐物の飾りの定形化は、絵画や工芸品を鑑賞の対象とする新たな方式を生み出し、茶の湯の発達に伴って名品の愛玩・鑑賞へと発展して行くことにな

 特殊な技能を持った阿弥達が当代の文化に寄与した面は多大であり、やがてその文化の担い手として登場するのが町衆である。室町時代の社会に於て、大きな変化が見られるのは貨幣経済の成立である銭貨を主に取扱う商人・手工業者の擡頭は、この時代の特色ある社会現象の一つである彼等によって市から町、町から都市へと発展が促進され、京都にも彼等が構える店舗によって町が構成されて行く。町人の中の富裕階層がやがて町の支配的地位を占め、彼等の営む酒屋・土倉が中核的存在となり、集団組織が形成された。下級武士や没落公家等もその地域の中に取込み、経済力を持った町衆が新たな文化の担い手となって急成長した。能楽に於ける式果から猿楽と呼ばれる素人芸への変化、茶の湯に於ける殿中茶湯から村田珠光等の侘び数奇の茶への展開は、その好例といえる。また、手工業者の活躍は、工芸の各分野に新局面を拓き、日常生活用の漆器や陶器の生産普及に顕著に反映している。

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〔荒川浩和〕

■室町画壇の諸相

 室町時代の絵画を概観すると、墨と色の世界 − 水墨を中心とした漢画と著色主体のやまと絵の二つが対立、共存する様が展望される。鎌倉時代に中国・宋からもたらされた水墨画は、この時代に様式的に完成を遂げて全盛期を迎え、一方平安時代にすでに興隆を果たしたやまと絵もその伝統を根強く存続させて、二つの潮流が画壇の根底を支配した。和漢二様の併存は平安以後の絵画史の通例となったが、例えば平安時代に、唐絵から日本的なやまと絵が分化、成立し、ともに宮廷貴族社会の中で発展したのに対し、室町時代の画壇の構造はいささか複雑といえる。やまと絵は実権を失いつつもなお文化の伝統を担う宮廷貴族や社寺を中心に質的変貌を果し一方水墨画は主に禅宗の世界を基盤に繁栄を遂げもともと異質の両絵画が別々の世界に育まれながら、むしろ次第に接近、和合へと向う展開にこの時代の特色がうかがえる。そして時の最高権力者で室町文化の軸ともいうべき足利将軍家が、教養的拠を求めて公卿との接近をはかる一方で、禅宗を厚く重んじたため当然ながら水墨画は禅林を中心に一大発展を遂げることとなった。

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 義満の子、四代将軍義持は深く禅宗に帰依し、また自ら水墨画を描く(10・11)など、その世界に強い理解を示し、率先したため、水墨画はこの時期に飛躍的発展を遂げた。如拙はそうした庇護のもとに育った画僧である。代表作である「瓢鮎図」(下図右)はもと将軍(義持とされる)の座右に置かれた衝立(座屏)で、五山の禅僧三十人の詩賛をもつ。瓢箪で鮭を押えるという禅の公案を画題としたもので、絵は当時としては新様の南宋、馬遠あたりの画風を学んだと考えられる。如拙は将軍家と関係深い相国寺の画僧で、彼の門から周文が出、さらに雪舟、宗湛らが現れわて室町水墨の中心的画系をなすのであるから、その存在はきわめて重要であり、この時代の水墨画が将軍家と深く係りながら発展したことを象徴的に示すものである。

《寒山図》足利義持 『瓢鮎図(ひょうねんず)』如拙

 如拙の弟子周文も相国寺の画僧であるが、その一方で将軍家から俸禄をうけ、御用絵師をつとめた。その地位は後の絵師によって継承されたから、水墨画における一種のアカデミズムの流れが形成されたわけである。彼は実務的な面にも長け、寺では都管と称する要職に携り、また彫刻を手がけるなど、造形面でも多芸多才であった。しかし最も肝腎な水墨画は画業の実情が不明瞭な上、遺品に周文筆と伝称される作品は多数伝存するものの確証ある作品を欠き、周文画の真筆を定めるのは不可能に近い。ただこれら一連の伝称作品は一様に垂直に切り立った高峻な岩山や厳しく屈折する樹木の表現、さらに極度に縦にのびる構図などに共通する独得の特徴を持ち、周文様式の概念のもとに把捉することは可能で、この時期(十五世紀前半)を代表する完成度の高い山水画様式の成立を認めることができるのである。

重要美術品 周茂叔愛蓮図 伝小栗宗湛筆 室町時代 15-16世紀 幅紙本墨画伝周文筆

 周文のあと将軍家の御用絵師の職を継いだのは小栗宗湛である彼は大徳寺系の僧であるが、小栗の姓が示すように半ば俗人の立場にあったと思われる。数々の作画の記録がのこり、東山時代の中央画壇を支える中心的存在をなしたが、これも確かな遺品がのこらず、子の宗継の大徳寺養徳院襖絵(現京都国立博物館)から間接的にその画風が偲ばれる。

狩野正信「紙本淡彩布袋図」(文化庁の発表資料より 禅宗祖師図のうち石鞏張弓・三平開胸図(東京国立博物館蔵)

 移入以来、殆ど禅僧の手によって倍われてきた水墨画は、室町後期に至って禅宗とは無縁の専門画家、狩野派の手がけるところとなって、新たな展開を迎える。狩野派は正信が文明十五年(一四八三)に、義政の東山殿の障壁画制作に従事し、恐らく二年前に没した宗湛の後を襲って将軍家の御用絵師の職を手に入れたと思われる正信の仕事は子の元信に世襲され、狩野派は画派としての確固たる地位を確立する。彼は将軍家の御用のほか、社寺や宮廷など諸層の画事に関与し、ことに大画面の障屏画を主体に多数の制作に携った。おのずと拡大された支持層の求めに応じて表現も平明なものとなり、また彪大な作画に対応すべく共同制作が行われ、組織的な画系が形成される内容的にも宗教性、精神性といった要素よりも直接視覚に訴える造形的な美しさが強く追求され、ことにやまと絵の彩色法を摂取した装飾的憤向は水墨画の本質を大きく変えるものであった。こうした狩野派による水墨画の世俗化が、むしろ日本における近世絵画史の門を開く結果となるわけである

 以上のような御用絵師の流れとは別に、将軍家の側近にあって、唐物・唐絵の蒐集、管理や鑑識のほか絵画の制作にも従事した同朋衆がおり、ことに能阿弥、芸阿弥、相阿弥三代は水墨画に長じた。相阿弥の大仙院山水図襖絵のような牧渓風の柔かく湿潤な墨調がこの阿弥派の画風の一典型である。芸阿弥の門から祥啓が、また相阿弥の弟子に単庵が出てその画風を広めた。

 能阿弥の撰になる『御物御画目録』や、彼と相阿弥が編集した『君台観左右帳記』は、東山殿にある中国絵画、工芸品の収蔵の実態を伝えているが、義満以来の諸代将軍の身辺には宋元の名画が多数存在していたことがわかる。それらの宋元画を研究することによって彼らは自らの作画に反映させ、また当時の画壇に強い影響を及ぼした。こうした将軍家を中心に繁栄を誇った室町水墨画壇にあって、在野的、地方的画家の活躍も見逃せない。

 雪舟ははじめ相国寺に入って一時期を過し、恐らく周文に学んだと思われるが、やがて、山口の大内氏の庇護を仰ぎ、日明貿易の遣明船に乗じて中国に渡る。応仁元年(一四六七)から足かけ三年水墨画発祥の地の風土を体験し、大自然の仕阻みを悟ったわけである。のちに自ら述懐しているように(「破墨山水図」自賛)、中国に渡って最も偉大な師は大陸の自然そのものであった。帰国後の彼は大分、山口など西国を舞台に活躍し画跡をのこした。

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 雪舟の門をたたいた画家に秋月がおり、薩摩から山口へ出て画を学び、雪舟(七十一歳)の自画像を付与されて郷里に戻るが、その後師と同じく明に渡って修業した。また宗淵も弟子の一人でやはり山口の雪舟のもとに学び、あの「破墨山水図」 (m30)は明応四年(一四九五)、相模へ帰国する際に雪舟が与えたものである。

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 こうした地方における画僧の活躍は、応仁の乱を契機に広まる文化の地方伝播現象の一つとみられ、ことに前出の祥啓や宗淵、さらに雪村らのいわゆる関東水墨画壇の存在は目ざましい。

 雪村は常陸・太田に生まれ、関東、東北を舞台に活躍、数多くの作品をのこした。雪舟に私淑し、宋の牧鈴、玉潤らを学んだが、戦国時代の世相に適合した気性の激しい画風を確立している。この他、啓孫、式部らも中央画壇には見られない個性的な作風を展開させている。また武士の身でありながら絵をよくする武人画家が現れたのもこの時期の特色で、ことに美濃の土岐氏は一族の中から鷹の絵を得意とする洞文、富景らのすぐれた画人を輩出し、大和・筒井氏の一族である山田道安も武人画家らしい現爽とした作品をのこす。

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 室町時代の水墨画を顧て特筆すべきは山水画の盛行である。水墨画のもつ特性、濃淡、診み、ぼかしなどの手法は、山水の表現に最も適い、中国では宋代における水墨画の発達が同時に山水画の黄金期を招く。わが国では鎌倉・南北朝の受容、形成期には禅僧の余技的な簡素な道釈画や花鳥画が栄え、山水画の作例は乏しい。水墨画の本質を理解する態度が稀薄で、また技術的にも機が熟さなかったことが理由に挙げられよう。

 室町時代の山水画の発達は、水墨画が禅的余技、教養の域から脱し、鑑賞芸術の世界へと性格を強めたことを意味する。初期の応永年間(一三九四〜一四二七)頃には五山の詩僧と書画一体の境地を交歓する詩画軸が流行し、山水画の隆盛期を迎える。しかしその中心をなす書斎図が示すよをに、描かれる山水の規模は小さく、彼らの身近かな理想的世界を描いた私的空間としての傾向が強く、宋代山水画の巨視的な大空間とは異質の世界といわねばならない。その意味で雪舟の出現は大きい。大陸の風土に接した彼は、すでに在明中の「四季山水図」(東京国立博物館)において、骨太の達しい描線と濃密な空間構成を現出させているその後の「秋冬山水図」(下図左右)や「山水長巻」なども、強靭な筆致と構築性に富む山水構成をもって他の追随を許さぬ偉容を誇る。雪舟に傾倒する画家も相次ぐが、画風、筆技の格差が甚しく、ひたすら彼の孤高な存在を極立たせている。

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 雪舟にはこの他、彼の画風を伝える一連の花鳥国屏風がのこる。花鳥画は図様も明確で、また色彩と結合し易く、装飾画の格好の題材となるため、やがて狩野派の着目するところとなり、元信によって障屏画面に多用され、桃山の花鳥画時代を誕生させる。

 室町時代の水墨画が将軍家を中心に発展を遂げた意味は大きい。もともと禅僧たちの教養の一環として、また詩僧との交歓の場として、文人的性格をもつ水墨画が、むしろ宋代の画院に育成されたアカデミックな北宗画(院体画)の様式を重用し、文人的南宗画を拒んだ所以はそこにあろう。そして狩野派の手によって進められた水墨画の和様化、近世化、世俗化の僚向、それは次第に貴族的志向に煩く将軍家に密着した室町水墨画の辿るべき当然の帰結でもあったのである。

室町時代がやまと絵の衰退期と称されてきた理由は二つある

 一つはこの時代のやまと絵自体が、最盛期の平安・鎌倉時代のそれに比べ、客観的にみて質的に低下したことで、何よりやまと絵の最大の育成基盤であった公卿社会が権力、財力を失ったことが大きく関係していると思われる。もう一つは受けとる側の価値判断の基準が狭く国定し、積極的に室町やまと絵の新しい魅力を探り出す努力を怠り、かつ作品の発見にも意まれなかったことで、自他両面に要因がある。

 絵巻は鎌倉後期における新様の「一遍聖絵」や復古的な「春日験記」などをピークに、次第に画風が固く、形式化して新鮮味を失ってゆくが、室町時代はまさにその傾向の延長線上にある。社寺縁起、高僧伝の類はますます制作が増加する反面、前代の先行作品の伝写、或は構想を借りたものが多く、創意に乏しいのが画風にまで反映されている。ただこうした画風の「形式化」の中にも近世的装飾性につながる新しい一面のあることは留意せねばならない。例えば南北朝時代の清涼寺本「融通念仏縁起」と室町期の禅林寺本(下図)では後者の方が描写にも硬化が進んでいるものの、より表現は明快で、背地の金泥刷きも強調されている。

融通念仏縁起絵巻-1 融通念仏縁起絵巻-2 融通念仏縁起絵巻

 また「慕帰絵」も室町期の補作になる第一(仙川)、七巻では、南北朝期の他巻にくらべ、対象の把握は明確で平明な彩色とともに装飾的憤向を強めており、この時代の絵巻の画風の新しい特徴として評価することができる。

福富草紙絵巻-1 福富草紙絵巻

 この時代の絵巻で注目されるのは、お伽草子などの通俗的な文学を題材とするもので、例えば「福富草紙」(上図)があげられる。平俗な滑椿話に画家も自ら楽しみながら自由な発想で主人公たちの姿態を創り出し、この新しい説話的題材を積極的に描き綴る。暢達な筆線を駆使した人物表現の新鮮さはこの時代の所産ともいえる。お伽草紙と言えば、室町時代の公家の日記に散見される小絵と称する絵巻が、宮中や将軍家などの低年齢層の子女たちに享受されており、今日のこる一連の小型の絵巻がそれに相当するものであるが、その正統的な作風から宮廷絵所の絵師の筆になると考えられている。

鶴草子

 「硯破草子」、「狐草子」、「鶴草子」(上図)など、土佐光信の画風の特色を強く示すものが多く、彼の画業の一面がうかがえる。お伽草子は初めこうした社会の上層部を支持層とした画値高い絵巻として出発し、次第に享受層の拡大とともに奈良絵的な、いわゆる下手な画風のものが大量に作られていったと推定される。そしてむしろその稚味あふれる奈良絵的なお伽草子絵にこそ、これまでの絵画にない型にとらわれぬ素朴で新鮮な造形表現が認められ、室町絵画の特色ある一面として関心を呼んでいるのである。ところで古典的な物語の世界ではやはり源氏絵の鑑賞、制作が盛んであったが、絵巻のほかに扇面や画帖に描かれるものが多く登場し、画面形式も拡大される。

室町の屏風絵

 室町時代のやまと絵屏風は近年作品の新出や関心の急激な高まりとともに、評価も大きく変わりつつある。その実態は本年春に行われた特別展「室町時代の屏風絵」(東京国立博物館・上図)で大々的に紹介され、今回の展観には実作品の展示は省かれる。平安時代の景物画の伝統は鎌倉後期以後、次第に題材の単一化、拡大化が進められ、明快な画面が求められる傾向が絵巻の画中画などを通して見うけられる。実際の作例をのこす室町時代には、こうした明快さに加えて、雲や霞の表現に金銀の箔や砂子、泥などを多用して画面を美しく加飾し、装飾画的性格を顕著に示す。その装飾傾向はもちろん近世の障屏画につながってゆくのであるが、桃山以後のドライな明噺さとは違った、繊細さを伴う一種の抒情的雰囲気を画面にたたえ、これが室町時代やまと絵特有の画値として評価できるのである。

豊臣秀吉像画稿光信筆 石山寺縁起絵巻-1

 この時代のやまと絵の制作の中心的存在は土佐派であった。土佐派は十五世紀初めごろの行広が初めて土佐の家号を称し、また画系的には十四世紀中ごろの藤原行光に遡るとされるが、確かな作品が通らず不明な面が多い。同派が絵画史上に歴然たる存在を示すのは光信の出現によってである。光信は大永二年(一五二二)、九十二歳の高齢で没したと伝わるが、その間宮廷絵所預に補せられ、また幕府の絵師の最高の地位を獲得した。その背景には三条西実隆ら当時の公卿たちとの積極的な親交が大きく働いていたと思われる。彼は実隆の日記『実隆公記』にしばしば名を登場させ、画事の記録をのこすが、現存作品の中にも光信の筆に擬せられるものが多く、長期間にわたる幅広い活躍がうかがえる。「北野天神縁起」や 「清水寺縁起」などの典型様式のほか、先述の一連の小絵では淡雅な作風を見せ、「石山寺縁起」巻四(上図右)の補作では漢画的な手法の導入をうかがわせ、肖像画には精妙な筆技を展開させるなど、画風も多様である。ただ今日のこる屏風や絵巻などに光信筆の極めや伝称をもつものがかなり多く、室町期のやまと絵系の作品を単純に光信ないし土佐派に結びつける風潮が古くから強くあったことは否めない。室町時代やまと絵の指導的立場にあった土佐派の実態解明は今後大いに進められねばならない。

 鎌倉時代に似絵(にせえ・鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行した大和絵系の肖像画を指す絵画用語)や頂相を生んだ写実的肖像画の歴史は、室町時代にも優品をのこし伝えている。禅僧の肖像画である頂相は、さすがに夢想国師像や大燈国師像を揃える十四世紀前半の黄金期には及ばないが、禅の修行に打ちこむ気塊と人格の彦み出た頂相特有の実人的画像が見られる春屋妙葩(しゅんおくみょう)(下図左)や岐陽方秀像(下図右)などがそれで、また数多く伝わる一休宗純像のうち、墨斎筆の一幅は素描風の素朴な筆技の中に、一休の皮肉で天衣無縫な人柄が鋭く表わされている

春屋妙葩-応長元年 岐陽方秀(きよう-ほうしゅう)

 禅僧以外の肖像画としては、武将や公卿の画像が多く、そのうち肖像画家の名声が高かった土佐光信の筆になる後円融院像(下図左)は、院の没後百年の遺像であるが、貴族的なゆったりとした風貌をやまと絵正統の画法で描出している。また同じ光信筆と思われる作品・幸若舞の祖と仰がれる桃井直詮の像(下図右)や八代将軍足利義政像も、穏やかな顔貌表現の中に像主たちの人柄が偲ばれる。

後円融院像 重要文化財-桃井直詮像-伝土佐光信筆--

 室町時代の後期はまた民衆の社会における擡頭が目ざましく、これをうけて諸層の風俗に対する関心が高められ、絵画の題材にも多く登場するところとなった。京都の市民の生活ぶりや遊楽の有様を総合的におさめた洛中洛外図が出現したのもこの時期である。屏風や絵巻に現れる諸氏の姿にも活趣があり、こうした盛り上がりがやがて近世初期の風俗画の成立へとつながってゆくのである。

村重 寧(むらしげ やすし、1937年11月10日 – )〕