アトリエ村の作家達

■第一章 小熊秀雄と長谷川利行−東京を見つめた二人の芸術家

 この章では池袋モンパルナスの画家たちに多大な影響を与えた2人の芸術家を紹介する。小熊秀雄と長谷川利行は各々北海道、京都から上京し、惜しまれながら1940年に亡くなった。2人は共に上京前に地元紙に詩や文を寄せ、東京の街を詩や絵画で表現し、寺田政明、麻生三郎、井上長三郎ら、アトリエ村の画家たちと親交があった。

 小熊は1929年頃から豊島区長崎町付近に暮らし、1932年にはプロレタリア詩人として弾圧を受けている。彼が寺田と知り合うのは1934年頃で、今回紹介する小熊のデッサンはこの時期、集中的に制作された。《夕陽の立教大学》(上図左)は、寺田の回想によると、彼らが池袋からアトリエ村に帰宅する近道として普段から利用していた立教大学の構内を描いた作品である。この頃から小熊は美術評論を執筆し、寺田らのグループ展を「前へ」展と名付け、「池袋美術家クラブ」の結成に参加し、池袋界隈で絵画を発表している。そして、1938年の『サンデー毎日』にエッセイと詩「池袋モンパルナス」を発表した。

 長谷川は1926年頃より東京の下町を転々と移り住み、二科展を中心に発表した。寺田らとは1930年代頃から知り合い、彼らは、はぼ独学で油絵を習得し、その日暮らしのような生活の中でも描き続けた長谷川の絵画精神や作品を高く評価した。長谷川の画業の中で繰り返し描かれた主産の一つが上野、浅草、銀座のカフェや劇場など東京の街や風俗であった。《洒祭り・花島喜世子》(上図右)は、浅草にあった劇場で、芸人のエノケンが率いる劇団のスターを描いた一枚である。また、井上によると《靉光像》(下図左)は長谷川が碧光の下宿に来た時に30分程度で描き上げた作品だという。《水泳場》(下図右)は、東京市が関東大震災の復興事業として、隅田川の水をせき止めて開いた「プール」を描いた二科展出品作である。

  

■第二章 池袋美術家クラブ・画家たちの交流の場

 池袋美術家クラブは1936年に「池袋及長崎町在住の美術家が相互の親睦を目的として結成された」会である。委員長を田中佐一郎が務め、評論家の佐波甫も委員として参加している。このクラブではモデルを使ったクロッキーの勉強会などが開催され、結成の年の9月には池袋界隈の喫茶店、食堂を使った第l回展が開かれた。小熊秀雄はこの時の目録に「(…)藝術の植民地池袋モンパルナスの書家は/薫派を越へて斯くのごとく集る/これまた毒素の進歩性の一つなり」という詩を寄せている。今回の調査で展覧会の出品作を特定することはできなかったが、この会に参加した画家の作品を紹介したい。

 田中は京都から上京し、1920年代の池袋モンパルナス界隈を描いた。《黄衣の少女》(上図)は彼が晩年まで所属した独立美術協会展出品作である。竹中三郎、中尾彰、鳥居敏文は同じく独立展出品者であるが、NOVA展などに出品していた難波田籠起、また1934年の解散まで日本プロレタリア美術家同盟に参加していた吉原義彦もまさに「党派」を越えて「池袋美術家クラブ1に参加している。この会は特高警察にマークされており、1938年11月に解散したという。

 しかし、戦後の1951年7月に再結成され、池袋駅前に「池袋美術研究所」を構えた。参加者募集のポスターによると、指導者には戦前からのメンバーに加えて、熊谷守一、野口弥太郎らの名前も並んでいる。

■第三章 アトリエ村に暮らした美術文化協会の画家たち

 美術文化協会は1939年5月、福沢一郎を中心に結成された公募団体である。その会員は独立美術協会や創紀美術協会、二科の九重会に出品していた画家が中心となった。靉光、麻生三郎、井上長三郎、入江比昌、大塚睦、柿手書三、佐田勝、寺田政明、古沢岩美、真鍋(金子)英雄、丸木位里、丸木俊、吉井忠、米倉壽などは、時期は前後するが、「池袋モンパルナス」に暮らしていた。

 この会は「広範な前衛運動」を日的としていたが、会の指導者的立場にあった福沢が日本におけるシュルレアリスム絵画、理論の紹介者であったこと、また、結成以前からダリやエルンストなどの影響を受けてシュルレアリスム風絵画を発表していた作家が多数参加していたため、シュルレアリスム絵画の団体と見なされることが多い。

 今回紹介する作品は美術文化協会結成の1939年に前後して描かれたものである。小川原傾、佐田、大塚は東京美術学校を卒業した画家で、いわゆるアカデミスム絵画を学んだ後にシュルレアリスムに関心を持ち、福沢を訪ねたことが緑となり美術文化協会に参加した。小川原の《ヴィナス》(上図左)は美術文化協会結成の年の個展での発表作である。浜松小源太は秋田から絵を学ぷ為に上京し、板橋区の小学校教諭をしながら制作を続けた。《世紀の系図》(上図右)は創紀美術協会展の出品作である。真鍋、米倉は共に本郷区動坂町で福沢一郎が開設した絵画研究所で学んだ画家である。

 会員の吉井忠の日記によると、1940年4月の第I回展の準備の段階からシュルレアリスム絵画については当局から弾圧を受けるだろうという噂が会員の間で流れ、福沢の指示のもとで作品の描き直しなどが行われている。第l回展は無事に開催できたものの、第2回展直前の4月5日に福沢と同会の協力者でもあった溝口修造治安維持法違反の嫌疑で逮捕され、同年釈放された。その後、終戦まで、会ではこれまで通りの自由な作品の発表が難しくなり、並べる作品を事前審査し、さらには戦争協力画の発表や、軍主催の展示への参加など当初の目的とは異なる活動を行うこととなった。

■第四章 新人画会−戦時下の画家たち

 新人画会は1943年に靉光麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介の8人が結成した会である。会の目的、宣言文などは発見されていないが、メンバーは彼らが画学生であった1930年代からの交友をもとに、美術文化協会、独立美術協会に参加した面々が集まっている。会員のうち麻生、井上、寺田がこの時期に池袋のアトリエ村で暮らしており、戦時中の画家の活動のひとつとして本属では特集して紹介することにした。

 戦後の彼らの回想によると、新人画会は「人間として最低限の自己主張」(麻生)でありそれは「自分の仕事」(糸園)を続ける為の手段であったという。戦争画がもてはやされる中で彼らは「自分の仕事」を貫いた。また、美術評論家の瀧口修造は、後にこの会を「戦後美術の起点」とも述べている。

 展覧会場となる画廊も次々に閉鎖される中、彼らが展覧会を開くことができたのは1943年4月、11月と翌年9月の3回であった。第1回展の目録は現存するものの、出品作の特定は困難で、さらに空襲や戦後の混乱により、その中で現存する作品は限られている。本展出品作のうち、新人画会展出品作と確認できるのは麻生《一子像》(上図左)、井上《トリオ》(上図右)、松本《りんご》(下図左)の3点である。

 

 ここでは同会会員のその前後に制作された作品も含めて紹介したい。靉光の《シシ》(上図右)は制作された1936年頃、同郷の友人で日本画家の丸木位里と共に動物園に通う日々の中で生まれた作品である。黒い背景にじっと遠くを見つめる男の姿が印象的な《自画像》(下図左)1944年に出征し、大陸で病没する前の自画像連作のうちのl点で、靉光の出征後は井上が保管していた。麻生は1938年に渡欧し、帰国後の1939年から池袋界隈で暮らし始めた。

 

 《長崎町のアトリエ》(上図右)自宅兼アトリエを描いた作品である。井上も1938年に渡欧し、絵を学んだ。《満州風景》(No.46)は彼が育った満州を描いた作品である。

 また、新人画会出品作の松本の《りんご》(上上段・上図左)は彼が名前の「俊」を「竣」に改めた最初の作品と言われている。

■第五章 吉井忠の日記から−アトリエ村の日々

 吉井忠は1926年に福島から上京し、太平洋画会研究所で井上長三郎、靉光、寺田政明、麻生三郎らと知り合った。彼は帝展出品を経て、1936年に独立美術協会展に出品した頃から「前へ」展、「エコール・ド・東京」などで寺田、麻生らと共に作品を発表し始める。1936年から1937年にかけては渡欧し、主にパリで絵を学び、帰国後、豊島区長椅東町にアトリエを構えた。吉井は1936年2月26日からほぼ毎日日記をつけている。日々の生活、家族のこと、読んだ本や自身の考えと共に書き記されているのが画友の寺田、麻生、柿手春三、安孫子眞人らとの出来事である。展覧会の準備、美術文化協会が発足した日の会合の様子、仲間との議論、パリで世話になった原勝郎夫妻の東京のアトリエを麻生と共に探した日、福沢・溝口の逮捕の日、安孫子が亡くなる日、アトリエ村が空襲に遭った日の消火活動の様子などが事細かに記されている。

 吉井の《二つの営力・生と死と》(上図左)は創紀美術協会展出品作で、彼が帰国後しばらくの間、シュルレアリスム絵画への試みを行っていた時期のものである。《戦災スケッチ》(上図中・右)は彼のアトリエ近くに阻塞気球(そさいききゅう、金属のケーブルで係留された気球で、飛行機による低空からの攻撃を防ぐために(敵機がケーブルに衝突するか、少なくとも攻撃が困難になるように)使用される)が落雪により燃え落ちた時と駅周辺の焼け跡の記録である。

 柿手は1928年に上京し、吉井と同じく太平洋画会研究所で学んだ。1932年から故郷の広島に戻る1940年までの間、豊島区長崎東町に暮らした《滝野川中里雪》(上図)は独立美術協会展出品作である。安孫子は1931年に太平洋画会研究所に入学した。彼は吉井が帰国した直後の1937年から1938年にかけて渡欧し、パリでは原勝郎夫妻、井上と交流を持ち、麻生とはイタリア旅行をしている。帰国後も吉井、麻生らと交友し、美術文化協会に参加したが、1941年に病気のため亡くなった。今回は紹介する安孫子の作品は「エコール・ド・東京」出品作で、彼の没後、形見として吉井が所蔵していた。

第六章 寺田政明と古沢岩美-池袋モンパルナスの二人の画家

 ここでは、2人の画家を紹介したい。寺田、古沢は共に1912年に生まれ、九州から上京し、1930年代前半に池袋界隈で知り合い、その後、独立美術協会展、創紀美術協会展、美術文化協会展に出品し、戦後は板橋に転居し、亡くなるまでそこで暮らした。

 寺田は1933年頃から豊島区長埼町に住み始めた。《海辺の花束》(上図左)は独立美術協会展出品作で、鮮やかな色彩と大胆な筆致が当時の独立美術協会の特徴的な傾向であった日本的フォービスムを思わせる作品である。1940年の美術文化協会結成の頃からは茶色や黒を基調に植物や具や動物が印象的な、マックス・エルンストの影響を受けたシュルレアリスム風の作品を制作している。戦中、彼は幼少時に負った足の怪我のため兵士として召集されることはなかったが、1944年に志願して絵画による慰問を行う為に中国に渡った。今回はその当時の記録も紹介する。

 古沢は上京後、東京美術学校西洋画科主任であった岡田三郎助宅に寄宿しながら絵を学んでいたが、1934年に岡田宅を出て池袋のアトリエ村周辺に現れるようになる。《地表の生理》(上図右)は1938年の独立美術協会出品作を再制作したもので、同年の創紀美術協会展出品作《誘惑》(下図左)と同様に植物と女性がからみあう、シュルレアリスム風の作品である。また、大田洋子の『棲の国』の挿絵は、古沢が1939年に東京朝日新聞の挿絵コンクールに当選した後に手がけたもので、その賞金を画材に換えて寺田や吉井ら、画友に配ったというエピソードが残っている。古沢は1943年に応召し、中国大陸を転戦した。戦地から妻子や友人に送ったハガキを、戦後古沢自らがまとめたものが今回紹介する《軍事郵便》(下図右)のスクラップである。家族や寺田ら画友を気遣う文に加えて画材や美術雑誌の購入を日本にいる妻に依頼する文面もあり、それらには現地の様子のスケッチが添えられている。

 

■第七章 池袋モンパルナスの多彩な芸術家−様々な地域、関心

 ここでは、アトリエ村界隈に多彩な顔ぶれが集まったことを紹介したい。北川民次の《ランチエロの唄》(下図左)は1938年の二科展出品作で、「第二次世界大戦前の世相を皮肉って」描いたという。彼は20代の頃からアメリカ、メキシコで暮らし、特にメキシコでは1920年代を中心に興った壁画運動や美術教育に携わった。1936年に帰国し、1937年から1943年に愛知県の瀬戸に疎開するまでの間、豊島区長崎町付近で暮らしている。野田英夫はアメリカ生まれの日系人で《婦人像》(下図右)は亡くなる2年前の1937年、彼が日本に帰国した頃に描かれた作品である。野田もアメリカでメキシコの画家、ディエゴ・リベラの壁画制作の助手をしている。野田もまた短い期間ではあるが、池袋モンパルナスに暮らしている。彼らをはじめとして、この地域にはアメリカ、フランスなど海外から戻って来た画家が暮らしていた。

 また、海外からのみならず、文学など様々な芸術に携わる者がこの地域に集まり、画家たちに刺激を与えていた。山之口貘は沖縄出身の詩人で、同じく沖縄出身の画家、南風原朝光と共に池袋駅付近の「でいご」「珊瑚」などの沖縄料理屋を賑わせた。南風原は1934年頃から池袋周辺に暮らした画家で「池袋美術家クラブ」にも参加した。《静物》(下図左)は彼の兄が医院を開いていた台湾で行われた第l回台日文化賞受賞作である。

 『ダダイスト新吉の詩』で知られる高橋新吉は1930年代より長谷川利行や寺田政明、吉井忠らと交流を持った。高橋は頻繁に画家のアトリエを訪ね、芸術や思想について語り合った。吉井忠旧蔵の直筆詩と似顔絵がその交流の証である。

 また、美術評論家で編集者の菊地芳一郎は1933年頃に上京し、靉光も暮らした豊島区長崎町の培風寮に住んだ。1934年頃からは長崎仲町に事務所を構え、『美術展望』『美術林』などの美術雑誌を出版し、戦後は『美術グラフ』や靉光、井上長三郎らの画集を刊行した。菊地は1944年に寺田と共に中国にいる陸軍への絵画慰問を行っている。