勅使河原蒼風

■嗜欲と友情と共感の輪としての蒼風コレクション

針生一郎

 草月流の創始者、いけばなの変革者として勅使河原蒼風の名は多くの人びとの記憶に灼きついていることだろう。ところで、彼が身をもってなしとげた変革とは、華道の因襲と定型をつきやぶって、いけばなを現代芸術の創造のただなかへと解放したことである。しがって、蒼風のいけばな作品の素材は植物にかぎらず、石、金属、陶器、コンクリート、廃品などを大胆にとりいれ、ほとんど彫刻やオブジェと区別がない。じじつ、彼が何度も個展をひらいたヨーロッパ諸国では、もっぱら彫刻家として評価されているようだ。そのほか、蒼風がたのしんで書いた書は、天衣無縫のうちに一家の風格をそなえ、少年時代画家を夢みただけあって、具象と非具象の絵画にもなみなみならぬ才能を示す。さらに、舞台美術、会場ディスプレイ、蒙刻などをあげれば、彼の鋭敏多欲な触手は、造形芸術のほとんどあらゆる領域におよんでいたといえる。それらをつらぬいて神話的、バロック的な饗宴の世界が蒼風のきわだった特徴をなすとみられているが、その背後に禁欲的なまでにきびしい構成への意志や、繊細優美な抒情的感覚もひそんでいたことはみのがせない。

 わたしは勅使河原蒼風の生前、何度か対座し面談する機会があって、そのたびにこのはてしなく貪欲な創造のエネルギーがどこからくるかを探索したが、結局、あらゆる材質に生命をあたえることに本能的なよろこびをおぼえる、ピカソのような自然児といったイメージしか思いうかばなかった。むろん、こうした自然児の概念は天才伝説と同様に、いわば解析の破産のしるしでしかないが、あの飄々として無心に、またユーモラスに制作のたのしみを語ってやまない蒼風にむきあうと、どうしてもそれ以上ふみこめない。だが、こんどこの展覧会のために、彼の古今東西にわたる彪大なコレクションを検分して、ようやくその秘密の一端にふれたような気がしたのである。かねてから、すぐれた美術作品がいくつかあることは知っていたが、これほど幅ひろくたくさんあるとは知らなかった。それは彼の制作と同様に多面的で、強靭な胃袋のように雑食的で、真贋の疑わしいものもまじっているが、それらをふくめてひとつひとつの作品に、まぎれもなく「勅使河原蒼風の眼」が感じられる。おそらく、伝統芸術の家系に育った彼は、どんな創造もけっして無からは生まれないことを本能的に知っており、自分の養分になるものをどんらん貪婪(どんらん・ひどく欲が深いこと)に求めて眼をこやしながら、あらゆる材質を生かすすべを体得していったのだろう。

 じっさい、蒼風コレクションはまことに幅ひろく、アフリカ、メキシコ、インカ、マヤ、エトルスク、キプロス、シシリー、インド、朝鮮などにおよび、アルカイックないしプリミティヴとよばれる芸術が、現代芸術にあたえた衝撃の大きさをしのばせる。日本の古美術では、純文、弥生の土器や埴輪から木彫の仏像を経て、伝徳川家光、白隠、仙岸、乾山らの絵、池大雅の書、あるいは常滑や古瀬戸の陶器におよぶまで、得がたい逸品が多く、ほかに中国の八大山人の書、明の青花魚藻文盤もある。

 わたしがここで解説を担当するのは、近代および現代美術のコレクションだが、そこには大別して三つの蒐集動機がふくまれているようだ。第一に、近代美術の古典とよぶべき作品で、作者への傾倒とみずからその系譜につながる自覚から購入されたもの。第二に、作者との出会いや親交をとおして、芸術運動をともにになう仲間としての共感から購入されたもの。第三に、比較的若い作家たちの作品で、その方向を奨励し鼓舞するパトロン的意識から購入されたもの。むろん、この三つの系統はみわけがたく混在しているが、そこに蒼風が徒手空拳、草月流を創始して以来、いけばなと諸芸術の垣根をうちやぶり、戦前はシュルレアリスムに接近し、戦後は抽象表現主義、アンフォルメルの運動の国際的な旗手となり、さらに草月アート・センターを設立して前衛芸術の拠点をつくりだした、歴史が反映している。

 個々の作品にふれると、レジェ、マティス、ブラック、ピカソ、ニコルスンなどは、わたしの分類では第一の系統に属する。蒼風がこれら二十世紀美術を代表する作家たちにひかれたのは、何らかの意味でプリミティーヴなものの復権がみられる点ではなかったろうか。

 ノルマンディの農民の子であるフエルナン・レジェは、第一次大戦に出征して機械の迫力に感動して以来、形態と色彩のリズムにみちたモニュメンタルな画面で、都市空間を変革しようとくわだてる。ここに展示された陶板もタピスリーも、明快でダイナミックな力にあふれた佳品である。フォーヴィスムの中心人物であったアンリ・マティスは、晩年の数年間に集中した切り紙絵で、色彩の純粋さと空間の自在な構成の頂点に達した。家具塗装職人の子であったジョルジュ・ブラックは、ピカソとともにキュビスムの実験を推進したのち、光と色彩とマテイエール(材質感)の関係に関心を集中しながら、霊感七技巧、知性と感性、表現のゆたかさと職人のつつましさを調和させた。パブロ・ピカソのここに展示された≪女の顔≫りようじよくと、裸女を凌辱する牛頭人身のミノトールを描いたデッサンは、いずれも1930年代の作品である。祖国スペインの内戦が彼の心をはげしくゆすぶり、シュルレアリスムに接近するとともに、闘牛に由来する午と馬と人間の争闘のモチーフがさまざまに変容して、スペインの野性が力づよく噴出した時期であった。一方、静詮な幾何学的形態のうちに、イギリスの水彩画に通ずる甘美でつつましやかな行情をひめた、ベン・ニコルスンの佳作がコレクションにふくまれていることは、さきにのべた風の構成的な意志を思いあわせると興味深い。

 なおこの系列では、近代日本美術を代表する村上華岳の水墨画と熊谷守一の書があることもみのがせない0幕末から明治初年にかけて、伝統画法と洋風画法はしばしば同一作家のうちにすら共存していたが、明治20年代のフェノロサ、岡倉天心らの運動以来、「日本画」と「洋画」という概念が生まれて、両者は仇敵(きゅうてき)のように対立する二つの派閥となった。そして近代日本画は、大正期の異才たちにょって求心的にその可能性が極限まで聞いつめられたのち、昭和期の技術主義的なデカダンスにおちいつた、というのがわたしの持論である。極論すれば、近代日本画はとりわけ村上華岳にとどめをさすということもでき、この水墨山水も華岳らしい内観性と抒情をたたえた作品である。熊谷守一は大正期以来、二科展の異色画家として注目されながら、その孤高独往の姿勢のために久しく不遇で、晩年ようやくその諷逸至醇の風格が市場にブームをよぶにいたった。ここに展示されるのは親鸞の歌を書いた守一の軽妙枯淡の書だが、明治以後の専門書壇もまた俗臭と派閥根性にまみれ、守一や蒼風をふくめて文人の書の方にはるかにみるべきものが多い

 戦争末期まで、麹町三番町にあった草月講堂には、馬に乗る人物を描いた海老原喜之助の大作がかけてあったというが、1945年5月の東京大空襲で建物とともに焼失したらしい。蒼風が福沢一郎と知りあってシュルレアリスムに接近し、福沢もまた草月展評などを書いたのは、1935年ごろだろう。福沢の風景画は、そういう交流の記念物でもある。戦後は、復員以来前衛芸術の運動の推進力となった岡本太郎と、さまざまの機会に交友し、心臓を思わせる肉塊の上に旗がならんで風にはためく、その≪憂愁≫がコレクションに収められている。瀧口修造との交際はおそらく戦前にさかのぼるだろうが、瀧口がヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表として渡欧し、ブルトン、デュシャン、ダリ、ミショオらと会見して帰ったのち、職業的な美術批評に深い懐疑をいだいて、インクやペンによる自動的なデッサンをこころみはじめた、初期の作品が購入されている。

 したがって、購入は戦後のことに属するとしても、ダリ、タンギ ミロなどの作品は、こういう交友の延長としての意味をもっている。サルヴァドール・ダリでは良質なデッサンと豪華な版画集があって、エロティシズムと宇宙的な想念の交錯する、晩年の作風の魅力を十二分につたえている。イヴ・タンギーの海底の動植物を思わせる、純粋精妙な幻覚の世界も珍重すべきものである。ミロの墨で紙に描いたデッサンと、鉄でつくった犀(さい)の小品彫刻は、生命力の原形のような記号の饗宴をくりひろげる彼の世界を、両面から堪能させてくれる。

 アメリカ国籍の日系二世の彫刻家イサム・ノグチは、1950年にはじめて来日して以来、「あかり」と名づけた木と紙の照明器具のデザインなどで、蒼風のいけばなとしばしば協同している。ここには小品ながら独特な造形的迫力をもつ、鉄と陶器のオブジェが二点えらばれた。ジャン・アトランはアルジェリア生まれで、戦前は岡本太郎などとともにジョルジュ・バタイユの「社会学研究所」に属した哲学者だったが、大戦後画家に転じて呪術的な生命力にみちた抽象作品を制作した。

 1957年秋、ミシェル・タピエ、ジョルジュ・マチウ、サム・フランシス今井俊満ら、ヨーロッパでアンフォルメル(非定形)の運動をつづける芸術家一行が来日したことは、日本の美術界にとっても、また勅使河原蒼風にとっても大きな出来事だったマテウ、サム、今井の三人は草月会館で制作を実演したほか、会館ホールの壁画を依頼されて描き、また同会館で四人をかこむレセプションがひらかれた。このときをきつかけに、頻繁に来日するようになった批評家タピエは、蒼風と吉原治良以下「具体」グループをアンフォルメルの中心メンバーに加えて、積極的に海外に紹介しつづけた。蒼風の海外での個展やグループ展出品が清瀬になるのは、これからでぁる。わたしたち批評家の数人も美術家たちとともに、三田の草月流教場などによばれて、タピエのスライドをまじえたレクチャーを聞いて討論したことを思いだす。 

 この展覧会では、旧草月会館のマチウ、サム、今井の壁画は、傷みがはげしいので出品されない。そのかわり、マチウ、サムの「行為の絵画」とよばれた特色を示すタブローがえらばれている。アンフォルメルの源流をなしたのは、戦前フランスの表現主義運動にふれ、大戦中ほとんど絵画をはみだして沈黙し、解放直後のパリでひらかれた個展で大きなセンセイションをまきおこしたジャン・フォートリエとジャン・デュビュッフェだが、この二人のすぐれた水彩作品もみることができる。フォートリエの微妙な下塗りの上に、果肉のような絵具の層をつくり、その上からパステルの粉を水で溶いた液で線描した独特なマテイエール、デュビュッフェのこどものらくがきのような、奔放自在な削った線描は、いずれも人間を解体する悪意と狂気にみちた状況への抵抗の意志につらぬかれている。

 戦後イタリアでアンフォルメルの運動に対応する空間派を組織したルチオ・フォンタナは、単純な行為の痕跡によって無限空間の表象をつくりだす。出品された水彩作品では、一色の点や線の集積が空間をするどく緊張させて、いまみても新鮮さを失わない。スペインの戦後を代表する画家アントニオ・タピエの水彩作品も、方解石を思わせる小さな結晶が無限に連続し重層するような画面に、強靭な実在感を現出した秀作である。

 アメリカの抽象表現主義からポップ・アートヘの分岐点を代表するジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグも、1960年代初頭にはじめて来日したときから、草月会館とはさまざまのかかわりをもっている。彼らは複製の原理を絵画に導入することによって、行為の一回性と直接性をめざす抽象表現主義もまた、行為の複製にすぎないことをアイロニカルに証明するとともに、コラージュやモンタージュの原理を導入することによって、絵画の要素を複雑にしたといえる。展示作品はどちらも、二人の力量を十二分に展開した初期の大作である。

 やはりアメリカの女流彫刻家ルイス・ネヴュルスンは、街頭の廃品置場などで拾いあつめた古い家具やガラクタを、黒や白の−一色で塗りつぶし、アッサンブラージュ(寄せあっめ)のままに聖なる祭壇のようなモニュメントにつくりあげる

 スイス生まれのジャン・ティングリーは、ボンコツ自動車や自転車の部品を組みあわせて、運動し、音をたて、絵を描き、はては自己破壊するユーモラスなオブジェをつくり、ネオ・ダダやキネテイク・アートの代表作家となったが、ここには3点の作品が出品される。さらにポップ・アートの代表作家の一人で、マリリン・モンロ ̄、ジャクリーヌ・ケネディ、エルヴイス・プレスリー、毛沢東など、大衆社会の偶像ともよぶべき人びとの肖像を、シルクスクリーンで少しずつ色を変えながら連続させ、神のない時代の新しい神話をつくりだすアンデイ・ウオーホールが、来日のさいに勅使河原蒼風と霞の二人の肖像にとりくんだリキテックスの連作は、まさにこの展覧会の圧巻といえるだろう。

 これら本展出占ん作品をはじめ、やむなく割愛された作家と作品をふくめて、このコレクションは勅使河原蒼風という巨人の、広大な関心と友情と共感とを形づくつていると思うのである。

(評論家)