ハンナ・ヘッヒ

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エバハルト・ロータス・ベルリン芸術院

次のような古いドイツのわらぺ唄がある。

・・・多少の変更ほあるが・・・

こないだ あたしがいった家

それは ふしぎの家でした

家の前には お庭があり

それは ふしぎの庭でした

木々の梢の枝々は

それは ふしぎの枝でした

枝の先には

小枝がありそれは

ふしぎの小枝でした

小枝のついた 葉がたくさん

それは ふしぎのはっばでした

その葉の中に 巣がひとつ

それは ふしぎの巣でした

その巣の中に たまごがいくつか

それは ふしぎのたまごでした

たまごがかえって 小鳥たち

それは ふしぎの小鳥でした

小鳥たちには 羽がいっぱい

それは ふしぎの羽でした

その羽をつめた ふとんが一枚

それは ふしぎのふとんでした

ベッドの前に 机がひとつ

それは ふしぎの机でした

机の上には 本が一冊

それは ふしぎの本でした

本には 書いてありました

「汝 汝の友を愛すべし!」

 この唄を引用することによって,私は,ハンナ・へッヒの油絵,水彩画 スケッチ,コラージュ,ミニアチュアに見事にくりひろげられている彼女の芸術の内面世界を論じようなどというのではない。そうではなくて,この素朴な唄の中に様々に含まれている詩情がその生活と仕事から生み出されたハンナ・へッヒの人柄に始めて接する人に与える第一印象を,そのままいい現わしているからである。とはいえ、もし最後の行の一語,「汝すべし」がじゃまをしなければ,である。

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 そうすれば,このわらべ唄はまさしく彼女の感じをそのまま出したものであったろう。ところがこの「汝すべし」が,この唄の詩情を逆のものに変えてしまっているのである。「汝すべし」というこの要求は,われわれの文化における命令や禁止を構成するところのものである。聖書の「殺すなかれ」に始まり,「芝生に立入るべからず」という立札に至るまで,みなこの,「すべし,すべからず」から成り立っている。このわらべ唄の詩情,そしてそれと結びついて,ハンナ・へッヒの人柄と芸術からにじみ出て働きかけてくるものの意味に忠実であるためには,一人一人の人間がそれぞれ違った態度をとる理由のすべてを否定し,そして無視し去ってしまう,「すべて」ということを,それに先立つ倫理的認識の根源的部分にもどすのが,ほんとうではなかろうか。「すべし」という固定型は,その根源的な意味をゆがめてしまっているのである根源的なもの,それは「する必要がある」と,その結果である「せざるを得ない」である。汝は友を愛する必要がある。なぜならば,友を愛することにおいて,汝の運命の幸せが成就するからである。従って,汝は友を愛せざるを得なくなる。なぜならば,汝は愛することによって,外から強いられた命令に従うのではなくて,内なる必然の欲求に従うからである。殺す必要はない。なぜならば,殺さなければならない理由はないのだから。うそをいう必要はない。なぜならば,うそをいう必要はないのだから。汝が殺したりうそをいったりするならば,その時汝は,内なる必然の欲求に従っているのではなくて,外から汝をそれへと強制する命令に従っているのだ。もし汝が,内なる必然の欲求よりも,汝を外から強制しようとする命令の万に従ってそれを行なうならば,汝はその行為によって,共に人間である他の人々の尊厳を傷つけ,また,自分自身の尊厳をも破壊するのである。

 ところで以上のべたことば,芸術に何のかかわりがあるのだろうか? 実は,大ありなのだ。

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 ハンナ・へッヒは現在ベルリン北西,ハイリゲンゼーにある一軒家に住んでいる。森や野原や丘陵や湖に囲まれた,ベルリンがまだ田園調の風景を保っているところである。その家の型破りな構造は,内部の各室がそれぞれ変った思いがけない眺めを見せながら一室から次の一室へとつながり,一種独特のシンポジウムを造りあげている。それほかつて飛行場の歩哨所(ほしょうじょ・見張り場所)だった小さい木造の小屋を核にして造り変えたものである。かつて飛行場だったその場所は住宅地となり,今はハンナ・へッヒの一軒屋を遠巻きに家が建っている。

 1939年50歳,ナチスの権力者たちがドイツ全土に命令や禁令を発し,その種の制令によって芸術家たちからも良心の自由を奪おうとしたとき,ハンナ・へッヒは隠れ家を探した。そうしてその木造の家を手に入れた。その家は世の中から隔離されていたので,彼女は,様様な政治的事件の中心地ベルリンにいながら,それから距離をとっていることができた。町はずれの目立たないこの家は,人の注意を引くこともなかった。ハンナ・へッヒのこのハイリゲンゼーへの移住は,あたかも魔法の絵におけるが如く,確かにそこにいながら,ナチスの人たちの目にはその存在が映らなかった。

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 それ以来ハンナ・へッヒはこの家の中に自分自身の世界を築きあげ,そこから,自己の世界の外にある周囲の世界との活発な対話を始めた。その経験の証しは次第に年輪の如く真の自己の世界の中心に向って深まっていった。彼女の家は,その庭の母なる芸術家ハンナ・へッヒのやさしく行き届いた手入れのおかげで豊かに生い茂った,たくさんの果樹や活き活きと花の咲き乱れる広い庭の真申に,すっぽりと隠れてしまっている。

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 家の内部は彼女自身の作品,即ち,油絵や,水彩画スケッチ,コラージュなどでいっぱいの戸棚や,本,カタログ類,友人の芸術家たちの作品,友情の出会いや出来事の大小様々の思い出の品,そして,どっしりと色濃いサボテンの山で埋まっている。そのサボテンは,サボテンの例にもれず,思いがけず見事な花をつけて彼女を喜ばせたり,天井にとどくほど伸びて剪定されたりしている。

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 ハンナ・へッヒの愛ほ彼女をとり巻く人間,植物,動物のすぺてに向けられている。愛猫「ニン」の追憶に,彼女ほ幾枚かの絵を描いている。彼女の友情は,彼女が評価する人,自ら識った人,自分の生き方と同質であると認めた人に向けられている。愛と友情は,自分自身の経験から生まれるものである。識らない人を愛することばできない。

 ハンナ・へッヒの生涯は,定められた運命に従いつつ,異った相を持つ二つの大きい段階を経過してきた自分をとり巻く社会的生活への熱心な参加の時期の次に,周囲の社会からの極端なまでの隠遁,疎遠の時期がくる。彼女の態度のこの二つの様相は,同じ一つの動機に基づいている。即ち,自分の倫理的政治的理性の直覚に,徹底して従うということである。

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 1916年27歳、まだベルリン工芸学校の学生だった時ラウル・ハウスマンと識りあった。彼との交友がきっかけとなり,彼女は,ベルリンにおけるダダイズム運動を起した芸術家たちの仲間に入ったダダイズムとは野蛮な殺戮,戦争の無意味さに対する芸術家たちの革命であり,戦争を阻止できなかった社会に対する理性の抗議である。それはファンタジー,即ち,理性の芸術的形式の反乱であり,必然的にまた,状況に応じた新しい造形素材の発見をもひきおこした。

1921年にハウスマンとプラハ 015-hannah-hoch-theredlist

 戦争に反抗して精神と理性を擁護するハンナ・へッヒは,戦後の不安な出来事を克服するために自己の創作活動を通して,ベルリンのダダイズム運動に,押しつけがましくない,しかし正にその故に一層効果のある昧を与えた。ラウル・ハウスマンと協同で,彼女は一つの新しい芸術的テクニックを発明した。

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 即ちフォトモンタージュである。更に,ハンス・アルプ,リヒアルト・ヒュルゼンべック,ヨハネス・バーダー,その他多勢の人たちと識りあった。そうして1919年ベルリンのⅠ・B・ノイマンにおけるダダイズムの始めての展覧会,及び,1920年ベルリンのオットー・ブルヒァルト博士のダダ見本市に参加している。

ラウル・ハウスマン-1 ラウル・ハウスマン

 1920年31歳,彼女は徒歩でアルプスを越えローマに行った。やがてハノーヴァー出身の芸術家,クルト・シュヴィッタースとの長年にわたる交友が始まる。クルト・シュヴィッタースは,日常的な捨て去られてしまう事物の持つ観相学的な独自の意味を見出すことに情熱を傾けており,その結果、造形美術の世界に日常的な事物を持ち込んだ人であった。その彼と共に,彼女は1926年37歳,オランダに行き1929年40歳まで滞在した。

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 1932年43歳,デッサウのバウハウスで彼女の作品展が開かれるはずになっていたが,それは遂に実現の運びに至らず,作品は返された。ザクセン・アンハルト州のナチス政権が,バウハウスの閉鎖を指令したのである。この時から,ハンナ・へッヒの,理性に敵対し始めた社会的外界からの退場が,極度の生活難とともに始まった。この敵対関係におびやかされ,恐れと不安の結果,彼女は自分の内心においてその外界から遠ざかることによってのみ,抵抗することができたのである。

 1934年45歳から1945年56歳までは,作品展を開くことが許されもしなかったし,また,開こうとも思わなかった。が,彼女は描き続けた。当時,ハイリゲンゼーの彼女の家の壁には,彼女が描いた,危険性のない花の静物画が,招かれざる聞入者に対する偽装としていくつもかかっていた。告発され糾弾される危険なしにはなんにも見せることのできなかった作品は,屋根裏の煙突の裏側に隠しておいた。そういう作品が今回の展覧会に出品され,しかもその多くは初公開である。確かに芸術家も公共の為に仕事をし,またその作品の確証の為に公共を必要とする。しかしそれは,その作品が生まれたその時を支配している公共である必要は必ずしもない。ハンナ・へッヒは時代に合わない創作をし,それによって,時代を越えて仕事をしていたわけである。彼女は自分の作品をもって,その憩い時代に跳梁する悪を祓いその動きを阻止しようという,止むに止まれぬ衝動の証拠を残したのである。これを見ても,ハンナ・へッヒの,自分とは異質の世の中からの隠遁は,あきらめではなかったことがわかる。なぜならば芸術家が,創作後直ちに隠さねばならず,いつ人に見てもらえるか,そもそもそんな時がくるかどうかもわからないままに作品を創作するということは,自分の運命を創造的にきり開いてゆく大いなる確信があってのことなのである。

 ある時,ハンナ・へッヒは自分の絵を見ながら私にいった。「私は主義というものを持たない人間です。」彼女が何をいわんとしたのか,私は考えてみた。彼女は,芸術とは一つの道徳的決着であらねばならない,といおうとしたのだ。このように短くまとめると矛盾しているように聞こえるが。彼女がいわんとしたのは創作の際,いかなる様式的,美的な規則や手本や指示にも支配されず,逆に,自分自身の直感のみに導かれる,ということに他ならない。従って,彼女の作品がいかなる様式的分類にも組み入れられないというのは,確かにその通りである。このような無主義の告白には,美的様式的な連関をはるかに越えている人間としての態度が語られている。この態度は,ある意味にぉいて,反理想主義的である。理想主義というのは,通常の理解においては,善なるものとされている。理想を追う人間は,どんな方向にしろ人類の進歩への貢献とかいった具合に,人類の為に寄与しょうとする。その理想を根拠づける為に,かれらはある理念(イデー)を持ち出す。その故に,イデアリズムと名づけられるのである。その理念に構造を与える為に,かれらは理論を展開する。理論というものは,何らかの形で全体をまとめる性格を持っているので,往々にしてそれは全人類に関係してくる。その理論を行動に移す為に,かれらは一主義を作り出し,その主義から一つの方法を導き出す。このようにして,その主義,及び,その主義によって立っているところの理念から,一つの処方箋一イデオロギーというものが生まれる。その処方を遂行する為に,理想主義者たちはその信奉者を募る。その処方は,幸福と進歩についての統一的見解に従い人類全体を救おうという理論に基づいているので,理想主義者たちが主義となった理念をそこから導き出された処方に従って押し進めてゆくことは,多くの場合,非常に困難なのである。

 というのは,その際,かれらは〆かれらにとっては驚くべきことだが・・・自分の幸福についてそれぞれ全く異った見解を持っている為にその処方に抵抗する人たちに絶えず出会ぅからである。だが,理想主義者たちは自己の主義に確信を持っているので,抵抗する方がまちがっておりまた真理を正しく見通していないのだ,と考えてしまう。そこでかれらはそういう抵抗に,必要ならば暴力ででも打ち勝つのが自分に課せられた使命であると思うのだ。これが人類の歴史の要約である。いかなる理想主義も,その主義の傘下に投げ入れてしまおうとする人々にその主義に添った行動をとることを要求する。これが主義というものの道徳であり,すべしの道徳である。そこから,道徳主義が生ずる。その結果,道徳主義と攻撃性と戦争は,相互にかかわり合いを持っている。無主義というのは,そのような主義や法則や処方に支配されないという意志の上に成り立っている。その意味において,無主義というのは,単に一つの様式上の態度にとどまらず,恐らくは自分自身の世界観に根を持つ,一つの道徳的態度なのである。

 以上のような態度が芸術作品の中に具現されている場合,芸術とは一つの道徳的決着である。芸術家はその作品で社会を変えることばできないし,またその必要もない。そんなことは既に理想主義者たちの試みていることである。しかし,理想主義の横行に対する修正という意味で,時代精神の姿が奥深いところから現われてくるような鏡としての絵を描くことば可能である。勿論,その芸術家はそれによって見込みのない立場に立たされることが多い。また,その作品・・・鏡に写した時代精神の姿・・・を,しばらくの間そっとそのまま伏せておかざるを得なくなる。これが,道徳的決着としての芸術の独特な状況なのである。それは見張り人の状況である。とはいえ,それが向けられている当の相手には理解できない言葉を話す,見張り人の状況である。即ちそれは,荒野に呼ばわる者の声である。

 美術史的要約の方法は,多くの場合,専門家たちの間の暗黙の協定という形で行なわれる。そしてそれは規格化された観方に人々を導く。世界の出来事をひき起こす人間の行為を,賢明な懐疑と細心な危惧の念とをもって追ってきたハンナ・へッヒの作品を観に,今日多くの人が訪れる。その人たちは,たいていは、再びダダイズム詣(おまい)りをしようとしてくるのである。といぅのは,ダダは,かつての一銘柄だとされていろからである。しかし銘票をはられた物は,また,直ちにあのレッテルを押されてその価値をなくし,もほや本来のものではなくなってしまう。従って,ダダ考古学者たちほ,ハンナ・へッヒにおけるダダを探しにきて,ダダにおけるハンナ・へッヒを見落してゆく。そうして結局は,芸術家ハンナ・へッヒその人を見落してゆくのである。彼女が全く孤独だった頃に描いた作品,即ち時代の変転にかわりなく描き続けた作品と,真に とりくんだ者は,現在に至るまでまだいない。それらの絵は,彼女が自分一人の為に描いたのではなく,われわれ(未来の人類)の為に描いたのである。

■ 絵 画

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 ハンナ・へッヒの絵画における共通した特性は,いかなる符合的規則にもしばりつけられない,自由な象徴的表現である。1923年34歳から1926年37歳に創作された絵,「階段」は,彼女の最も重要な作品の一つである。それは夢想画である。漠然とした,現実には計ることのできない空間の中で,一つの階段が遠近法的一条の線で上に伸びている。そのシーンは,階段の踊り場に盛り上がって居丈高(いたけだか・人を威圧するような態度)に貧欲そうに咲きほこる一つの花によって押さえられている。その花の手前の手すりの上に,犠牲が,不釣合に大きなマスクによって顔がすっぽり隠されてしまっている人間の体が,横たわっている。巨大な花と並んで3本の小さい木が,有機的自然の具体化として踊り場の前の隅に立ち,花の後には,1本の鉄塔(エッフェル塔,または放送塔),そして,ガラスの円蓋の中にヘリコプターが技術のしるしとして描かれている。右手の2段目の階段にガラスコップがある。その中に大都市の高層建築(当時としてはまだ未来の夢であった)が詰めこまれている。ヘリコプターと同じく,この文明のシンボルも,固く冷く,可視的に捉えられている。その傍に地球儀が,標本としてのわれわれの地球が,台の上にのっている。後の方の階段の端に幼い子供が一人,腰をおろしている。斜に射しこんだ鋭い光線が光と陰のコントラストを強調し,それらの物のボリュームを浮き立たせている。それらの素材を並べる構成の仕方から,ハンナ・へッヒが,フォトモンタージュによって会得した技術の経験を絵画に移していることがわかる。この絵は,それを観る者に不安を呼びおこす。その不安を克服するためには,その不安が何であるか,はっきりさせなければならない。表面的に観れば,この絵は,シュールリアリズムに分類されるかもしれない。しかしながらこの絵ほ,単に主観的な個人的な夢想状態を描写してみせたのではなく,この夢想的な像が,われわれ皆に共通の存在の現実の体験を反映しているという点において,従来のいわゆるシュールレアリズムとは一線を画するものである。この絵の内容をすっかり解きあかそうという試みはまちがっている。なぜならば,大切なのはその自由な意味の空間であって,それほ自分の仕方で埋めてゆくべく,あくまで観る者一人一人にゆだねられているのである。

 「夜のランデヴー」の絵は,1939年50歳,ハンナ・へッヒがハイリゲンゼーに移り住んだ頃のものである。脅迫圧迫,隠蔽,包嚢(ほうのう・原生動物において,体表に膜をかぶって休眠的な状態になったもの),別離。絵そのものと,そのタイトルが自らを明確に語っている。

 1940年51歳の作品「山岳風景」は,彼女が自分を社会から隔離して描き,そして,隠さねばならなかったものの一つである。荒れた熱帯の山の中に,様々の色に光る花が咲き乱れている。手前の岩の上を,ある奇妙な半分植物半分動物の生物がはっている。当時既にハンナ・へッヒは,花によるべを求めていた。

 終戦後数年たった1949年60歳,ハンナ・へッヒ「結晶」という絵を描いた。戦争は終ったが,彼女の懐疑的な疎隔の態度はそのままだった。彼女は既に「階段」で描いたモチーフを,再び鮮明にとりあげている。固い冷いクリスタル世界の中に,時代が捉えられている。閉じこめられていることを,クリスタルの中の陽気な踊り子は気づかない。

 1953年64歳の「帽子の婦人」は,彼女の全作品を支配しているやわらかなアイロニーの一例である。このやわらかなアイロニーは,やはり愛すべき,そして控え目な隠遁の態度の一つの表われであり,確かにこれ・・・外の状況に対して自己の尊厳を守る力がそこから出てくるところの,彼女の本質的性向の一つである。

 1954年65歳の「気質」は,自由な形の遊戯の一実例であるが,やはり一つのテーマを持っている。この絵がアブストラクトであるや否やについて論争するのは無意味なことである。ことに,抽象的なものと図型的なものとを定義的に決定的に分けてしまうという不運な傾向が,過去10年程の間,それでなくても美術及び美術評論のすぺてを不幸な混乱におとしいれている偽の対立性を深めているのであるから。

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 この論争がいかに無益なものであるかを,1954年65歳の「瀕死の良心」が証明している。即ちこの絵においては,写真の如き写実的明確さへの要求を拒む自由な形で,この時代の満ち足りた人々の社会のあり方への批判が,この上ない的確さをもって描き出されている。模倣の問題についての論争ほ,そこから主義が作り出されるや否や,それはもう,常に無意味な争いであった。

■水 彩 画 

 水彩画はハンナ・へッヒにとっては,彼女の芸術の最も個有な媒体である。この水彩画が自分に最もぴったりした技術であることを自覚している彼女は,この分野において,ちょっとみただけではさし当って見渡すことのできない程,多数の作品を生み出している。このようにしてふくらんだ水彩画の集積は,彼女の芸術的日記をなしている。従ってそれに応じて,今回の展覧会は,広く水彩画を紹介することに重点がおかれている。この日記にはすペてが含まれている。即ち,植物,動物,風民 生括情景,孤独,苦悩,解放,悲劇,悲哀,喜劇,やさしさ,機知,アイロニー,同情ユーモアーときにはこれらすべてが一枚に同時に表現されている・・・更に怪談,分裂や不和の使者の形で現われてくるところの小妖怪的魔物。これを描いた絵は悲劇と喜劇を刺戟的な仕方で合致させており,この芸術家の感受性と体験とをまざまざと感じさせる。人間は本性のハーモニーを持ちながら,絶えず不和分裂の中にある。また,宿命,マスク,マリオネット,人形,肉をむしばむ生物,及び存在の空洞体。この膨大な作品群を詳細に分賛しようとすれば,与えられた紙数をはみ出すので,ただ数点の紹介にとどめておく。

 ハンナ・へッヒの作品の根本主題は,既に初期の作品に多く見られる植物,風景,クリスタルなどであるが,1920年代の水彩画の小品,即ち,「小さい策略」「人は叫ぶ」「永遠の闘い」「誘惑」「舞踊」などに現われている理性の転倒の具現としての妖怪も,彼女の根本主題である。こうして作品のタイトルを並べて読んでゆくと,それはそのまま一つの詩である。これらの作品は,創造過程における彼女の瞬間瞬間の感情を,それぞれ個別に,そしてこの上なく繊細にそのまま再現している。

 1926年37歳の「オランダの砂丘」は,おだやかな平和に満ちたやすらかなハーモニーをもって描かれている。1929年の「戦闘」は,それと全く対象的に,この上なき緊張をもって現在の凝視と未来の予感とを描いている。それほ,どこまで堪えられるかという一種の試しである。主義どおしが戦いを始め,その素顔をあらゆる醜要さをもって現わしたのである。1931年の「雨の植物」,「夜の植物」,そして,1932年の美しくもやさしい「恋人たちと守護天使」。神よ守り給え。事実守護天使が必要だったのだ。

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 そして,1933年44歳が始まった(ナチスが政権をとった年)。ハンナ・へッヒはグワッシュ「平和」を描いた。平和は眼を閉じ,眠りに落ち,そして悲しくも石化してしまう。この石化は,同年の「レクイエム」と「あきらめ」の2点においてその極点に達してしまう0世界の出来事のショックと個人的な体験のショックがとけあっている。次に続くのは自然への回帰と沈潜で,これは1930年代の植物や風景を描いた水彩画にその結実が見られる。だが,暗鬱(あんうつ・気持ちが暗くふさぎこんでいること)な音は,やはりそこまでも響いてゆく。例えば「黒い白鳥」である。1940年51歳のグヮッシュ,「巫女」は,空想の自画像であろうか?それと対応して続くのが,「リヴァイアサン(旧約聖書に現われる巨大な海獣)」である。海底を騒がすリヴァイアサンの頭が絵の中に突き出ている。腕に子供をかかえた人間の姿が見える。彼は子供を奪ったのか,隠そうとするのか,それとも救おうとするのか?顔にはマスクをかぶっている。それは,1923年一1926年の絵,「階段」の手前の人物のそれと同じである。1942年53歳から1943年54歳に彼女は「苦難の時代」と「死の舞踏」の二つの連作を描いている。抵抗のドキュメント,恐怖と苦難と悲嘆の集大成であるこの二つの連作ほ,彼女の創作途上の決定的段階を表わしている。

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 戦後は,交わりの中での孤独,形と色の遊び,創造的自然への成長のリズムへの沈潜などのシリーズが続く。が,しかし,悪魔は追い払われてはいず,薄暗い天井からその顔をのぞかせる。1967年78歳の数点ほそれを証している。その境初の作品はこう問いかけている。「球はいずこへ行く?」。第二作は「威嚇」,第三作は「あおざめた者たち」,そうして第四作は遂に「知者」。それは予言者である。そしてその知は無力である。

■コラージュ

 ハンナ・へッヒの持つやわらかなアイロニーへの性向は,そのコラージュにおいて最も明確に現われている。それは恐らく,制作の為に与えられている素材,即ち写真が,撮影者によって真性の,即ち事実起った現実の断片的証拠という意味で提供されているということと関係があるだろう。写真ほど滑稽なものはなくまた同時に刺激的な,美しい,気味の憩い,そして悲劇的なものはない。写真は事実を引き合いに出すのでその効果の強烈性を獲得する。従って彼女としては,写真に写された現実を,その核心,即ち美しい,または調和のとれた,またはグロテスクな,または非合理な核心へと引き戻す為に,ただその現実の断片であるその写真を切りとり,新たに並べかえ,相互に足し合わせるだけでよい。彼女ほそれによって,撮影された現実に新たな次元,即ちファンタジーと,より深い意味の次元を与える。

 コラージュの技術は,ハンナ・へッヒが自ら発明した。既に1916年27歳,まだ学生だった頃,自分のスケッチのあちこちの部分やレースや型紙などから,初めてのコラージュ作品を生み出している。ハンナ・へッヒのいうところによれば,彼女は1918年,ラウル・ハウスマンと共にバルト悔のグリボウに旅行した。そうして一軒の古い農家で,兵隊時代の記念として,制服を着た様々な兵種(歩兵・戦車兵・山砲兵・工兵・輜重(しちよう)兵・飛行兵など)が描かれている色刷りが額入りで壁にかかっているのを発見した。その記念の絵は,制服の衿と帽子との間に白く残っていた場所に,その兵隊の顔写真をはりつけて,肖像画らしくしてあった。グリボウで見たその絵によって,ハウスマンと彼女はフォトモンタージュの発想を得た。ハンナ・へッヒは今も尚,その記念品を大事に持っている。

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 このフォトモンタージュは,ベルリンにおけるダダイズム運動にとって,恰好な時代風刺の道具となった。ハンナ・へッヒの1920年の作「ケーキナイフで切る」や,1922年の「ダダ・ダンス」などは,そういう作品である。当時の政治上の事件がそういう作品で,直接しかも辛辣に批判された。フォトモンタージュの技術はやはりハンナ・へッヒの絵画の技術にも影響を及ぼしていった。このようにして生まれたのが,1925年の「ローマ」と「ジャーナリストたち」の二つの絵でありその構図にフォトモンタージュの経験が役立っている。押さえた風刺を好んで用いる傾向は,1920年代の終り頃のフォトモンタージュにも見られる。そしてそれは,愛すべきものになったあてこすりをして顔を出している。社会批判がその奥に観相学的様相を帯びてきている。「ドイツ娘」はその一例である。

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 戦後始めて大きなカラー写真の入った画報が出た時,そこにハンナ・へッヒは,それが自分に提供している可能性を見てとった。即ち,フォトモンタージュを作る際に,そこに色を足して使う必要はもほやなく,最初から写真そのものが,彼女に,色を素材として同時に提供しているのである。ほほえむアイロニーは後期の作品にも見られはするが,しかし初期のそれの如く明らかにそれとわかるようなものではなく,現実の夢想的な変貌の要素としてかろやかな,詩情あふれたものとなっている。ハンナ・へッヒは,現にあり,現に起こることから,寓話と譬(たとえ)話を語り出すのだ。1965年の作品に,たくさんの眼を持った花束のフォトモンタージュがある。その花が,われわれを見つめる。それは比喩というだけではない。ハンナ・へッヒその人なのである。

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■ミニアチュア

 何年か前から,ハンナ・へッヒは,3センチから4センチ大のごく小さい,水彩画,コラージュ,カラースケッチなどを制作している。それは時と共に膨大な収集となり,彼女はときどき,その中から友人や知人に贈物をする。これらのミニアチュアには,ハンナ・へッヒの芸術家としての表現力の無尽蔵な多様性が見事に包括され,そしてそれが最も小さい空間の中に広げられている。その中には明るい作品あり,暗い作品あり,まじめなものあり,陽気なものあり,おかしいもの,空想的なもの,グロテスクなもの,植物的なもの,クリスタル的なもの,あるものにほ動物が,あるものには人間が,またあるものには天使が描かれている。これらすべてのミニアチュアを一しょに集めてカード遊びのように並べ広げれば,それはやはり,すべてをまとめるハーモニーを持った朗らかさの印象を与えてくる。一つの水滴の中に,大きな世界が小さく写り得る。しかし,太陽の光が暗い雨雲の壁に当って屈折すると,すべての水滴はいっしょになって虹を作り出す。虹は自然の秩序のはたらきによって現われ出たものである。つまりそれは,主義というものとは反対の一例なのである