yellow 「民藝」とは、「民衆的工芸」或いは「民間の工芸」の謂いであり、無名の職人達が民衆の日常生活の為に作った実用品を指す語として、大正14年(1925年)に、柳宗悦と彼の同志である陶芸家の濱田庄司河井寛次郎によって作られた。彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかったそれら民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった、人間生活に欠かせない大切な美の相が豊かに示されていることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのである。風土と伝統の力に護られ、自然の恵みを受けながら、虚心に仕事をする無名の職人の手になる作物には、時として芸術家が作り出す作品に勝とも劣らない美が宿るのであった。

yellow 三春駒は、昔は高柴木馬といわれていたのを三春駒と名付けたのは高柴村故橋本広定と言われる。三春藩領高柴村(現在の福島県郡山市西田町高柴)は、もと三春藩に属し、現在の三春町に含まれていたが、郡山地域と三春地域の行政区分再編成の結果現在郡山市内に入る。そのため三春張り子・三春駒といわれる所以でもある。 「三春人形」の起源や成立の正確な時代についてはわかっていませんが、文化・文政期に最盛期を迎えています。馬産地の東北地方では古くから馬の玩具が作り出されてきました。馬の玩具は、三春駒、木下駒、八幡馬は日本三大馬玩といわれています。 三春駒の文様は、馬の化粧花模様である。模様の中に朝鮮の国の模様と近似しているといわれる。腹掛けの模様の黒は虎のしま模様と考えられる。前胸の花模様は梅か牡丹の花かと言われる。

三春駒や張り子人形で有名なデコ屋敷のある旧高柴村はもと三春藩領で古くは熊野新宮に年貢を納める熊野荘園でした。これを取り仕切っていた三春藩の重臣橋本氏の一族がデコ屋敷の祖先とする言い伝えがありましたが、平成元年になって観音堂から橋本元右衛門という人の像が発見され、この人が今から300年前の元禄時代に人形づくりを始めたことがわかりました。 現在の三春張子人形のふる里デコ屋敷は、昔の奥州三春藩高柴村にあり、何代も続く人形師の家が五軒ひっそりと軒を並べ三春張り子人形や張り子面、お正月のだるまなど作り続け,300年の伝統を受け継いでいる。代々文を尊んだ三春藩主の庇護は特に手厚く、人形師たちは三人扶持が給された。そのため文化文政の頃には数多くの名品がうまれた。代々伝わる張子人形の木型などが1000以上あり一瞬の動きをとらえた豊かな表情は、芸術的にも認められている。民芸のバーナード・リーチを始め多くの人に絶賛された自由闊達な動き表情もそのころ作られたものという。すべて、手作業で作る作業工程が目のあたりでみられる。本家は下にある恵比寿屋さんです。橋本家の分家になります。高柴の張り子作りは、幕藩体制の安定した元禄時代でこ屋敷の先祖橋本元右衛門を創始とします。土を用いる京都の伏見人形や仙台の堤人形に対して、和紙を用い日本一といわれる独特の張り子人形をこの山間の地で生みだした事は驚異といわれております。幸せを求める庶民の祈りや願いを基本に、あくまで素朴さを失わず絶妙優美な造形と描彩を忠実に守って、今も三百年の伝統を受け継いでいます

                トップページ

沢石小Webサイト
沢石小図工ギャラリー
■1年生活科リンク
■2年生活科リンク
■3年社会科リンク
■4年社会科リンク
■5年社会科リンク
■6年社会科リンク
■3年総合学習リンク
■4年総合学習リンク
■5年総合学習リンク
■6年総合学習リンク

福島県・映像画像情報リンク
■三春人形を生む町(1/2)
■三春人形を生む町(2/2)
■伝統三春の職人(1/1)(2/2)
■三春のまつり(1/3)
■自由民権運動(1/2)