ここは、彦治民芸です。場所はもと高柴村にありました。現在は郡山市日和田町高柴に位置します。ひと昔の彦治さんで働く人たちここは、福島県の三春駒の里・でこ屋敷三春の地名の由来は、桜、梅、桃が一度に咲くところから名づけられたという南北に長い日本では、北国の春はこういう現象を生む 「でこ」とは、和紙を使ってつくる張子の人形のことである 三春駒は、子どものすこやかな成長を願ってつくられた縁起のいい木製の駒 「でこ屋敷」とは、この「でこ」をつくる集落のこという 現在は、5軒ほどがこのでこ屋敷をなしている
三春駒は、昔は高柴木馬といわれていたのを三春駒と名付けたのは高柴村故橋本広定と言われる。過去の写真を見て下さい。1979年2月ごろのノミを使用して三春駒製作の加工作業である。三春駒の文様は、馬の化粧花模様である。模様の中に朝鮮の国の模様と近似しているといわれる。腹掛けの模様の黒は虎のしま模様と考えられ、前胸の花模様は梅か牡丹の花かと言われる。次の写真は当時の着色作業である。色彩顔料は、ターナー色彩株式会社のネオカラーと言われる塗料メーカーのものを使用している。
三春駒の製作は、木材より帯のこでにて原型を切り出す。ノミを使って形を整える。そして黒塗りに模様を描く。最近は白の三春駒も製作されている。三春には昔、馬の競りが盛んな産地であったことでも三春駒と関係があった。地域には馬頭観世音での絵馬祈願が奉納されたことが過去の文献に残る。
本にも掲載されています。三春駒製作の方法から、三春駒のいわれの歴史や地域とどのように関わり今日まで橋本家の人たちにより張り子民芸が江戸から今日までの苦しい生活と戦後復興期までどのように継承されてきたのかを具体的に図録や写真で紹介されている。
日本で初めて年賀切手になった三春駒は先代彦治のものがモデルです。 また張子12支作りの元祖で特に腰高とらは10代目高宜作のものが平成10年の年賀切手に採用されました。
書籍コーナーより。この本の特色は、郷土玩具が生活に根付いたものであり、子供が健やかに成長を願うための魔よけや安全祈願と五穀豊穣など庚申様にもにた生活に欠かせない道具であったことも当時にしては大切なことだったのである。
玉兎の目は赤くなく黒いのはなぜか。これは縄文うさぎです。日本の兎は古来目が黒いのです。赤いのは中国のうさぎです。
三春駒は、昔は高柴木馬といわれていたのを三春駒と名付けたのは高柴村故橋本広定と言われる。三春駒の文様は、馬の化粧花模様である。模様の中に朝鮮の国の模様と近似しているといわれる。腹掛けの模様の黒は虎のしま模様と考えられる。前胸の花模様は梅か牡丹の花かと言われる。
ほうの木から製材し、乾燥したもの使う。まさ目に裁断し、木の性質を十分考慮する。一つの板木から二個組みの木地取りをする。大きさは高さで示す。一寸五分とか三寸五分とかであらわす。
細かい表現はノミを使って加工する。三春駒は全て直線で表現されている。鋭い刃先で勘所を見つけて鋭利な形を作ることが要求される。最後に現在電動式サンダーで研磨仕上げをする。黒の下地塗りに仕上がりが影響する。
橋本彦治家の家の中にはたくさんのがらくたがひしめき合っている。十六ミリ映写機からカメラや古時計・電話機の残骸が至る所天井に展示されている。見回すと至る所新旧取り混ぜて目に入る楽しさがあり時代の変化を理解できる。
この写真は秩父宮妃殿下ご高覧のおり撮影されたときのものである。製作中のものや製作行程の説明をしているところでもある。昭和57年9月19日である。
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