2.バウハウスとニューバウハウス
■バウハウスとニューバウハウス
1980年にニューヨークのライトギャラリーで開催された「ザ・ニュー・ヴィジョン:インスティテュート・オブ・デザインにおける写真の40年間」展と、同名の展覧会カタログの出版は少なからず論議を巻き起こした。論議の中心になったのは『アフターイメージ』誌に掲載されたアビゲイル・ソロモン=ゴデューの「ジ・アームド・ヴィジョン・ディスアームド:武器としての急進的形式主義からスタイルとしての形式主義」という論文である。「ザ・ニュー・ヴィジョン」展とそのカタログはインステイテュート・オブ・デザイン(以下ID)の創始者であるモホリ=ナジと彼が再現しようとしたデッサウのバウハウスの理想を、40年間に渡るIDの写真教育の基礎とし、教師または学生としてIDに関わった写真家をその理想の継承者として捉えている。それに対しソロモン=ゴデューは、継承者と自ら語るIDの作家の作品は、モホリ=ナジの思想的背景であったマシーン・エイジの倫理に裏打ちされているというよりは、アメリカ固有のアートとしての写真の伝統にその多くを負っているという仮説を提示し、モホリ=ナジとその作品及び論文、バウハウスの置かれた文化的、社会的、思想的、政治的背景を検証して、ハリー・キャラハンやアーロン・シスキンド等のIDの代表的作家と比較考察し、以下のように結論付けている。
キャラハンやシス フォーマリズムキンドが採る形式主義は、批判的精神からというよりはむしろ、美学的意図に因っているのは明らかである。それはアメリカのアートフォトグラフィの主流に等しく見られる態度である。ある意味で革命的思想の局面から生じ、同時にファシスト支配が強まる瀬戸際の資本主義社会において機能せざるをえなかったバウハウスの写真は、この二つの形式主義の中間に位置していたといえるだろう」。
「IDの伝統である実験的試みやシリーズとして写真を捉える方向性にもかかわらず、様々な装置や方法論が洗練されて繰り返されるばかりてアカデミックな試作以上のものは出てこない。アートフォげラフイの関心が単なる創造性や自己表現を越えることに、いったい何時になったら気付くのだろう」。
1920年代、30年代のモホリ=ナジの作品や理論がドイツおよび世界に与えた影響の重要さはいまさら言うまでもない。しかしモホリ=ナジの果たした役割を考えるとき忘れてはならないのは、彼の作品や理論、そして教育方針がアメリカの写真界に与えた影響だろう。IDの作家がモホリ=ナジの継承者であるか否かは別として、自分のルーツをニュー・バウハウスに求める多くの写真家が活躍し、ニュー・バウハウスの洗礼を受けた教育者/写真家が大学を中心とするアメリカの写真を指導している。良くも悪くも、そうしたアメリカの近代、現代写真は日本及び世界に侮り難い影響力を持つ。そしてソロモン=ゴデューを始めとするポストモダニストの理論家が問題 提起をしているように、スタイルとしての形式主義が、まさにヴァルクー・ベンヤミンが指摘したところの袋小路に陥っていることもまた事実である。モホリ=ナジが辿った思想的背景と彼の作品の意味と意図を考察することは、こうした現代の写真状況を考察するうえで有効かもしれない。
「未来の社会で文盲と呼ばれるのは、ペンと同じくカメラを使えない人だろう」。モホリ=ナジはこう言って、カメラの眼を人間の視覚の補完として捉えた。こうしたモホリ=ナジの写真に対する信望は、写真へのロマンティックな期待からではなく(実際、モホリ=ナジは自らを画家と称してはいても写真家と呼んだことはなかった)、マシーン・エイジにはマシーン・エイジの芸術が必要とされ、それは機能的で非個人的で合理的な物でなければならない、という信念に基づいていた。後に「ニュー・ヴィジョンと呼ばれるモホリ=ナジの思想を要約すると以下のようになる。即ち、カメラが創り出す眼に慣れない珍しいパースペクティヴやアングルは、我々を巡る環境に新たな視点を提出し、我々の世界観を拡げることができる、と。このニュー・ヴィジョンの思想はモホリ=ナジをまずフォトグラムの実験へと導くのだが、そちらに移る前に、モホリ=ナジのニュー・ヴィジョンと多くを通ずる当時の芸術の潮流、特にロシア構成主義との関わりを考えてみたい。
1910年代から30年代にかけては機械化が人々の日常生活にまで浸透してきた時代である。そしてまたその時代は、第一次大戦による古い価値観の崩壊、芸術領域で言うならば、表現主義に代表される過去の特権化された視点を拭い去り、技術と都市化への熱狂に支えられた反芸術の思想、未来派やデ・ステイル、チューリッヒやベルリンのダダ、シュプレマテイズム、そして10月革命を体験したロシアにラディカル・フォーマリズム、構成主義を生み出していく。
ロシア構成主義はロシア革命に直接結び付き、革命の推進者として過去の絵画、彫刻をブルジョア芸術として否定し、現実の素材による非再現的構成を理念とした。ロシア構成主義の代表的作家であるアレクサンドル・ロドチエンコは「近代生活において芸術の入り込む隙はない」として、芸術の名称を否定し、知覚の再構成と社会的発展の理想的装置としてのメディアを称揚した。知覚の再構成としてロドチエンコの採用した視覚の方法論は、例えば、対角線を利用した構成であり、水平線よりも垂直線を多用し、カメラを傾けて撮影する不安定な構図である。上からみた構図や下からみた構図、シリーズとしてのポートレイト、極端なクローズ・アップや様々な技術を用いた実験的試作、などなど。機械や技術が目覚ましく発展し、都市の構造が変容し、加えて革命によって流動する社会状況において、見慣れた光景を全く新しい視点で捉え直すこの構成主義の方法論は、モホリ=ナジの作品や理論と多くを共有する。
モホリ=ナジがロシア構成主義への理解を深めたのは、ハンガリーの行動主義者ラヨス・カシャックを通じてであろう。詩を愛好し、ブダペスト大学の法律専攻学生であった彼は、第一次大戦で負傷し帰還してからは絵画に傾倒した。友人とともに結成した雑誌『MA(今日)』にはカシャックなどの理論家が出入りし、ドイツ表現主義だけでなく、ロシアの前衛運動、シュプレマテイズムなどを紹介し、アーティストや作家の反戦争を昂じる無政府主義的なフォーラムとなった。第一次大戦後の混乱期にロシア革命にならって樹立されたハンガリーの社会党・共産党の独裁体制は、フランスの支援するルーマニア軍の侵入によって5カ月で打倒される。モホリ=ナジは『MA』の仲間たちとともにウィーンに逃れ、6週間の後にはベルリンに移った。
若干25歳ながら個展も開催し、ハンガリーの画家として名の知れた存在であったモホリ=ナジは、ベルリンで多くのアヴァンギャルド・アーティスト達の知己を得ることになる。ダダイストのラウル・ハウスマンやハンナ・へツヒ、ハンス・リヒター、そしてロシア構成主義者のエル・リシツキーなど。1922年にはベルリンでロシア美術展が開かれた。『MA』誌上に掲載されたモホリ=ナジの言葉はその影響を語っている。「技術、機械、社会主義、これが我々の時代なのだ。構成主義は本質的なものである。それは絵の額や台座に閉じ込められるものではない。工業や建築に拡がり、物や関係に及ぶ。構成とは視覚的な社会主義である」。
構成主義の影響はモホリ=ナジのベルリンでの最初の大きな展覧会でも色濃く現われていた。この展覧会は、評論家ヘルヴアルト・ヴァルデンが主宰したドイツの前衛芸術運動の最前線であるデア・シュトゥルム画廊(ヴァルデンは同名の文芸、美術の総合誌も発行し、ヨーロッパの前衛芸術の推進に大きな役割を果たした)で1922年の2月に開催された。リシツキーを思わせる素材の透過性に着目した非対象的絵画や純粋に色や形に焦点が置かれた彫刻は、この時点での構成主義の影響の強さを物語っている。しかしモホリ=ナジの名を世界的に有名にする写真作品はまだ発表されていない。
ホリ=ナジが最初のフォトグラムを制作し、集中的に写真作品を発表するのは1922年も半ばにさしかかってからである。写真に対する興味は、制作に先行して雑誌『MA』や『新芸術家読本(BuchneuerK血stler)』14)における写真の編集によって培われた。『新芸術家読本』には、機械と技術を称揚する近代の象徴である高層ビルが伝統的な建物であるニューヨーク公立図書館を囲む都市、ニューヨークの景観を空撮した写真が採用されている。また写真制作に先行して書かれた論文「生産と再生産」でも写真と映画について取り上げている。
機械の技術をアートに応用するというロシア構成主義的発想は、写真家である妻のルチア・モホリの助力を得てフォトグラムの形となって表わされた。レコードと写真と映画に工業化社会のコミュニケーション手段を見るモホリ=ナジは、写真の特性である感光性に着目し、光のマニュピレーションを創造した。それは従来の絵画とは全く違った視点を示しただけではなく、写真から離れ、純粋に形の関係性を追求した抽象的な構成である。
黒い背景に光の濃淡によって抽象的なテクスチャーを浮かび上がらせるモホリ=ナジのフォトグラムは、漆黒の宇宙に光の幻影が渦巻いているようにも見える。それは機械の眼を通して創られる新しい視点が人々の視点を変化させ、新しい社会を概念化させる、という理論においては構成主義の枠組に当てはまる。しかし構成主義的背景とは別に、工学的関心の強さもまた顕著であった。」
モホリ=ナジがワイマールのバウハウスに教授として招かれるのは1923年、彼が28歳のことである。1919年に建築家のヴァルター・グロピウスによって設立されたバウハウスは二つの指導理念に基づいていた。一つは「建築の下にすべての造形活動を綜合し、絵画、彫刻、建築が一体となった統一芸術を創造する」ことであり、またもう一つは「造形活動の基本は手わざにあり、美術家はみな手工芸あるいは手工作に立ちもどらねばならぬ」という理念である。
個人的な芸術教育を重視するヨハネス・イッテンに代わって、モホリ=ナジのバウハウスへの参加は、写真や映画やタイポグラフィを表現の手段に組み込んだだけではなく、表現主義に偏りがちな古参の巨匠たち、パウル・クレーやヴァシリー・カンカンスキー、リオネル・ファイニンゲルなどの教育に新風を吹き込んだ。そしてそれはまた、「アートとテクノロジー:新しい統一」というスローガンの下に、当初の教育理念である手工芸という個人的な手技から、社会的な工房制作へとバウハウスの方向性を転換させる契機ともなった。マシーン・エイジにはマシーン・エイジのアートを、とするモホリ=ナジの理念とそれは合致している。
ワイマールとデッサウのバウハウスでモホリ=ナジは予備課程と金属工房を担当した。彼の教育方針は「構成、静と動、均衡、空間の見地から学生の造形的な感覚と思考力を洒養すること」であった。金属工房ではマス・プロダクションのための光デザインも試みている。そしてバウハウスで教えた1923年から28年はモホリ=ナジの写真制作や理論構築にとっても実り多い時期であった。
バウハウスの出版事業にモホリ=ナジの与えた影響は計り知れないが、モホリ=ナジ自身もバウハウス叢書として、『絵画・写真・映画』(1925)と『物質から建築へ』(1929)20)(1928年にグロピウスの辞意表明に続いてモホリ=ナジもバウハウスを去っている)という二冊の本を著している。また、オランダの定期刊行物『i 10,Internazionale Revue』21)の編集に携わり、1929年にシュトゥットガルトで開かれが映画と写真国際展」では自作の出品の他、企画から出展作品の選択、タイトル・デザインまでも担当している。「映画と写真国際展」には97点の彼の作品、フォトグラムやフォトプラスティツク(写真と線描からなる写真コラージュ)そしてストレイト写真が展示された。展覧会と同時期に出版されたフランツ・ロー編集の『写真眼』にも彼のフォトプラスティックとネガ写真、そしてパリの下水管を接写した写真が掲載されている。それはどれも、身近な被写体を題材にして、見慣れた物の新しい側面を提示する、脱通俗化とでも呼べる姿勢に貫かれている。しかしそうした姿勢は失われないまでも、初期のフォトグラムに表わされたようなラディカルな構成主義の姿勢は次第に影をひそめ、特にフォトプラスティツクでは、より心理的にアンビヴァレントな意味合いが強くなっている。それは『物質から建築へ』に記されたバウハウスおよびモホリ=ナジの写真や教育理念が、『絵画・写真・映画』のそれよりもより柔和にまとめられているように、政治的には穏健路線を採ったグロピウスの影響かもしれない。ともかくも彼の政治的心情はどうあれ、モホリ=ナジの構成主義はロドチエンコやリシツキーのそれのように政治的イデオロギーを直接に表わすことはなかった。
モホリ=ナジがロンドンを経てシカゴに落ち着くのは1937年である。バウハウスを退いてからのモホリ=ナジはライトスペース・モデュレ一夕ーの制作(1930)や写真、絵画、彫刻の制作、論文の執筆の他、劇場デザインや雑誌、映画の仕事など幅広い活動を展開した。
モホリ=ナジがニュー・バウハウスの設立の地としてシカゴを受け入れたことは重要である。既にスティーグリッツがアートフォトグラフィの種を播き、ヨーロッパのアヴァンギャルド・アーティストが亡命の地と好んで選んだニューヨークではなく、ウェストンとその信奉者であるグループがストレイトフォトグラフィの実験を展開していたウェストコーストでもなく、芸術的には時代遅れのビクトリアリズムがいまだにはびこっていたシカゴを選んだのである。商業倫理が全て支配する芸術不毛の地シカゴはモホリ=ナジにとっては格好の原材料であった。アートにぉける革命は社会革命と切り離せず、アーティストの役割は人々に新しい意識を提供することである、とするモホリ=ナジにとって、マシーン・エイジの象徴とも言うべきシカゴは新しいアートの実験場としての適地に思えたことだろう。
芸術・工業協会と契約して、改装されたマーシャル・フィールド邸に35人の学生を迎え、ニュー・バウハウスはスタートした。予備課程はデッサウのバウハウスと変わらず、6つの工房が設けられ、「芸術、科学、テクノロジーの、真に密接な結びつきをはかる教育原理の達成」が理想として掲げられた。
しかしこうして始められたニュー・バウハウスも芸術・工業協会の突然の援助打ち切りで頓挫してしまう。資金繰りのためにアメリカの企業を飛び回ったすえ、モホリ=ナジと彼を支える教授陣は私費を投じて1939年に再開することになった(1944年には大学となりスクール・オブ・デサインと改称。1955年にはイリノイ工科大学の一部となる)。
モホリ=ナジの死の一年後、1947年に『ヴィジョン・イン・モーション』という本が出版されている。これはモホリ=ナジが第二次大戦中に書いたもので、1929年にまとめられた『ザ・ニュー・ヴィジョン』の改訂版ともいえ、アメリカに移ってからの彼の理論を付け加えた、二つのバウハウスのサマリーとなっている。アートによって、そしてアートやデザインを教えることによって、世界はよりよい方向に変化する、という彼のオプティミスティックな視点は健在である。しかし政治的土壌の違うアメリカで経験し、かつて熱狂したマーシン・エイジの不信感も芽ばえる時代になって、新しい分野への関心を修正、付加している。それは知性および情緒教育の必要性であり、精神分析にまで論が及んでいる。そしてアメリカの資本主義社会の現状を睨んでのデザインへの関心を示している。
ソロモン=ゴデューの問題提起したスタイルとしての形式主義への答えはモホリ=ナジの作品の背後にある彼の態度にあると思う。彼の構成主義は決してそれ自体が目的ではなく手段であった。それはソロモン=ゴデューの論じるとおり、政治的批判精神に裏打ちされた、工学的、美学的興味であった。常に〈現在〉を見据える姿勢であり、その姿勢によって採るべき方向性を選び、その態度は彼の一生を通してその作品や理論に表わされていた。
もしIDの作家たちがモホリ=ナジの作品制作の動機に目をつぶり、モホリ=ナジの実験的方法論だけを模倣し、フォーマリズムその作品がスタイルとしての形式主義になっているならば、彼らはもちろんモホリ=ナジの継承者の名に価しない。フォーマリズムスタイルとしての形式主義が袋小路に陥るのは、モホリ=ナジの志向から最も遠いところにある、スタイルのためのスタイル、アートのためのアートとしての作品制作態度にある。
モホリ=ナジの精神と作品は、もちろん、社会的、時代的所産である。優れた芸術は多かれ少なかれ、そうした側面を帯びる。1950年代以降にモホリ=ナジの構成主義的論理の枠組を応用することが、まったくの愚の骨頂であるように、社会や時代や、自分の周りの環境に目をつむったままの自己完結したスタイルとしての形式主義は、アートの名にもふさわしくない。
IDの作家全てに当てはまるわけではないが、スタイルとしての形式主義は現代写真において袋小路に陥っていることは前にも書いた。それについては、IDに限らず、アメリカにおいては50年代以降、写真の中心的役割を果たしている大学や美術館の責任は免れないだろう。ただそこで考慮すべきは、スタイルとしての形式主義がはびこっているのはアメリカに限らず、大学や美術館が充分に機能していない、例えば日本においても見られる傾向であり、そして、そうした状況への理論的批判や、まさにモホリ=ナジの精神的継承者といえるような、過去の写真史の反省にたち、現代を見詰め自分を見詰めた作品が、IDを始めとするアメリカの大学から主に輩出しているのもまた事実である
そう考えていくと、現代写真がモホリ=ナジの作品に学ぶべきことは明確なのではないかと思う。 グロピウスはモホリ=ナジの追悼として以下の言葉を捧げている。
「(モホリ=ナジは)たえず新しいアイデアを発展させながら、彼は偏ることのない好奇心の状態に自己自身を保持した。そこから新鮮な観点が生まれたのである。認められることを意に介せず、ただ鋭い感覚を本質的なものに行使し、機敏な感覚の観察でその途上に現われるすべてを研究した」。 (東京都写真美術館学芸員)
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