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5.イメージの遊び場
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1.光の捕獲者・モホリ=ナジ
2.バウハウスとニューバウハウス
音楽関連
Roger Muraro
辻彩奈(Vn)
年譜と作品
1925
5月22日、カトリック系の夫婦、シャルルとジャンヌの一人恵子として
スイス、フリブールに生まれる。
■1927
一家は
パーゼル
に移る。
■1939
この頃、森で水車にたくさんの空き缶をくくりつけて遊ぶ。
■1941(16歳)
ショーウインドウ・ディスプレイの見習い職人として
デパートに勤める
。パーゼルの美術工芸学校の授業に顔を出すようになる。同校の
ユリア・リス
のクラスでは、鉄や木を素材にコラージュを手がける。「
動き」を制作に取り入れるきつかけ
をつくつたのもリスであった。
戦中戦後は思想書、特に
ステイルネルを耽読し、左翼思想に染まる
。
■1943(18歳)
就業態度に問題ありとの理由で
デパートの見習いを解雇
される。室内装飾の職人ヨウス・フッターのもとで修業を続ける。
■1945(20歳)
シュヴィッタース、クレー、シュルレアリストたちに傾倒する。戦後の数年聞はフリーランスのデザイナーとして働く。
■1948(23歳)
パリの共産党婦人協会パヴィリオンのショーウィンドウの仕事で、動く仕掛けつきのディスプレイが注目を浴びる。
■1951(26歳)
美術工芸学校で知り合った
エヴァ・エップリ
と結婚。長女ミリアムが生まれる。50年代初期に
ダニエル・スペーリ
と出会う。
■1952
パリに移住。
■1954(29歳)
パリのアルノー画廊で初の個展。
『メタ・メカニカル・レリーフ』
『
メタ・マレーヴィチ
』など
機械彫刻を展示。
第9回「
新現実展
」にも出品。
■1955(30歳)
ブランクーシなど美術家たちのアトリエが集まるロンサン袋小路へ引っ越す
。スウェーデンの美術批評家ボンテュス・フルテンの協力を得て、ドニーズ・ルネ画廊で
「動き」展を開催し反響を呼ぶ
。
ティングリーのほかデュシャン、カルダー、ヴァサルリ、ソトー、アガムが出品。
ティンゲリーは
『ドローイング機械No・1、「オートモービル」など機械彫刻でさまざまな動きを試みる
。
「新現実展」
の出品作において、初めて音の要素を作品に取り込む。
イヴ・クライン、ニキ・ド・サンファルと知り合う。
■1957(32歳)
自動車事故で重傷を負う。
■1958(33歳)
6月9日、イリス・クレール画廊にて育と視覚によるパフォーマンス『
私の星−7つの絵画のためのコンサート
』を開く。イリス・クレール画廊でイヴ・クラインとの二人展「
純粋な速度とモノクロームの安定性
」。
■1960(35歳)
3月17日、ニューヨーク近代美術館の中庭で、巨大な機械彫刻が自壊するパフォーマンスに
「ユーヨーク賛歌』
を行い一躍有名となる。
批評家ピエール・レスタニーが、
ティンゲリー
と
イヴ・クラインを中心に
ヌーヴオー・レアリスム
のグループを結成
。
ニキとアトリエを共有し、同棲生活を始める
。
■1961(36歳)
アムステルダムの市立美術館で開催された、
キネティツク・アートの展覧会「動かされた動き」に28点を出品。
6月20日、パリのアメリカ大使館にて、ラウシ工ンパーク、ジャスJト・ジョーンズ、ニキ・トサンファルなどとともにパフォーマンスFコンサート』を開催。パリのリーヴ・ドロワット画廊にて「パリとニューヨークのニュー・リアリズム」展。
ニューヨーク近代美術館の「アッサンブラージュ芸術」展
に出品。
■1962(37歳)
3月21日、ネヴァタ砂漠にてハプニング「世界の終末のための習作No・2』を開催
5月4日、
ケネス・コツチの劇「ボストンの建設』にラウシェンバーク、ニキ・ド・サンファルとともに出演。
6月6日、
イヴ・クラインが心臓マヒで死ぬ
。
ラウシェンバーク、ニキ・ド・サンファル、ダニエル・スペーリ、ウルトヴェットなど6人の作家による合同のプロジェクト、「
DYLABY
」をアムステルダム市立美術館で実現
アレクザンダー・イオラス画廊での個展に
「ラジオ彫刻」
を出品。これはラジオ受信機のダイアルを一定の速さで回していき、断続的に入つてくる
音声や雑音を聞かせる仕掛けの装置であつた。
■1963(38歳)
2月に初来日、
4月に日本初の個展を東京の南画廊で開催
。
この年の末、ロンサン袋小路の芸術家たちのアトリエ取り壊しにともない、ニキとともにソワジー=シュル=エコールにある、もと旅館であつた
建物「白い馬」にアトリエを移す。
■1965(40歳)
12月22日、=ユーヨーク、ジューイッシュ美術館で上演された
殺人劇『ティンゲリーの機械の神秘またはカルカの情死」に自作の彫刻3点とニキとともに出演
。以後は役者として舞台に立つことはなかった。
■1966(41歳)
ストックホルム近代美術館にて、
ニキ、ウルトヴェット
とともに
大彫刻「ホーン』(副題は大聖堂)を制作。
■1967
スイス政府の委嘱により、モントリオール万国博のスイスに
「落ち葉のためのレクイエム』を設置。
またフランス館の屋上に、
ニキと共同で「幻想の楽園」という彫刻庭園を作る。
■1968
フリブール近郊の村、ネイルーズにあった
古い農家
「黒い鷲」
を購入し、新しいアトリエにする。
■1970
ミラノで開かれた
ヌーヴオー・レアリスム10周年記念祭
のために、男根をかたどった彫刻
『勝利』を大聖堂の前に設置した。
■1971
ニキと書類上の正式な結婚をする。
ニキ・ド・サンファル、ベルンハルト・ルジンビュール、ダニエル・スペーリ、エヴァ・エツプリの協力を得て、ミリーの森で『首』(またの名を『一つ目小僧』)の制作が始まる
。
■1972
エルサレムのラビノヴイツチ公園
にて、
ニキの巨大な滑り台彫刻
「
ル・ゴレム
」の制作を手伝う。
■1973
ミシュリーヌ・ジガックスとの間に息子ミランが生まれる
。インディアナ州、コロンバスの市民会館のために
「カオスI」
を手がけ、翌年完成する。ベルギー、クノッケのネレンス家のためにニキが設計した、
屋外子供部屋「ドラゴン』の建設
にかかわる。
■1977
バーゼルにて
「カーニヴァルの噴水」
の落成式。
■1978
「おとぎ話のレリーフ』制作。母の死。
■1981
動物の頭骨とキリスト教の祭祀用具を作品に組み入れ始める。
ニキの『タロット・ガーデン』のため、彫刻の骨組を組み立てる。
■1983
ニキと共同でパリのボンピドゥー・センター前の広場
に
「ストラヴィンスキーの噴水』を制作
。フリブールの名誉市民となる。
■1984
フリブールの名誉市民となる。フリブールで「
ジョー・シフェールの墳水を制作
。
「地獄の首都No・1」
を高輪美術館の依頼で制作、その展示のために来日。
■1985
秋、ミュンへンのヒポ銀行文化財団で回顧展が始まる。同展はベルギーのクノッケ、フムレべックのルイジアナ現代美術館へ巡回。冬、心臓の手術をする。
■1987
京都のカフェ・ギャラリー「ティングリー」のために、日本製のオートバイでスクラップを材料にシャンデリアを作る。
ヴェネツィアのパラッツオ・グラッシで回顧展が始まる。同展はトリノ、パリに巡回。
■1988
ミッテラン大統領の依頼で『
シノン城の噴水
」をニキとともに制作。
「哲学者たち」の連作を制作。
■1990
モスクワのトレチャコフ美術館で回顧展。
■1991
バーゼルのア小・フェアにおいて、エヴァ・エツプリ、ベルンハルトルジンビュールら、6人の友人と共同で、
貨車を利用した移動可能なインスタレーション空間を作る。
■1991
8月30日死去。
■1992
ミレナ・パラカルキナとの間に次男のジャン・セバスティアンが誕生。
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