ブランクーシNo.2
1913年7月に美術家連盟展に参加するためロンドンを訪れた際,ブランクーシは前年の訪問の返礼としてエブスタインを訪ね,一緒にアフリカ美術を(また,本人は後に否定するが,アフリカ彫刻の影響を受けているエプスタイン自身の作品も)見たのではなかろうか。《脚の一別におけるアフリカの影響は,現れるまでに時間がかかったものの,エプスタインに出会って数カ月以内に現れてきた点は注目すべきである。 <最初の一歩≫は,アトリエのその後の写真に見かけないことからして,ぉそらくは1914年に破壊されたのであろう。仮にこの破壊が,この像のアフリカ的な外観故に行われたとしたら,1914−18年の《小さなフランスの少女》はどう説明すればよいのであろうか。
というのもこの作品は間違いなく,前の作品よりもアフリカの影響をさらにはっきりと示しているからである。例えば《最初の一歩≫は,≪小さなフランスの少女》にも,後のどの作品にも全く見られない,二つの伝統的な特徴を留めている。ブランクーシのアフリカニズムは,まさにそれらの特徴を排除することで育まれていったのである。その二つの特徴とは,即ち像と台の物としての連続性,および軸を木目と平行にせずに彫りだされた大きなフォルムでぁる<破壊された最初の一歩》の像の両足大腿部では木目が軸を斜めに横切っているが,この作品をもとに木の股で作られた後の≪若い男のトルソ≫においては大腿部の軸は木目に沿っている)。全体に垂直性が強いにもかかわらず,《最初の一歩≫は,とりわけ踏みだした右足に明らかなように,右に傾いている。この特徴もやがて消えていくことになる。これ以後数十年にわたって,ブランクーシの彫りの作品は(放蕩息子≫を除いて),アフリカの人物像のように,基本的に垂直で左右対称性が強調されていくのである。
≪小さなフランスの少女》(ブランクーシ自身の命名ではない)は,ざっと形が決められた初期の段階では,<最初の一歩≫に全体として似ている。完成作では腕が消え,上から下まで溝がつけられた先細りの脊柱・・・アフリカの彫刻によく見られる環を積み重ねたような部分をブランクーシが簡潔に変形したもの・・・・に首も胴も一体化している。
構成要素が少なく特異であるにもかかわらず,この像は短いスカートをはいた小さな少女を彷彿とさせるが,同時にあくまでアフリカ的である。頭部は《最初の一歩≫の骨格,目,鼻を繰り返しており,後者のアフリカニズムの反響は口とギザギザのついた髪の扱いによってさらに広がっている。そしてウイリアムルービンの述べるとおり,突きでた耳と環が積み重なった首と胴は,セヌフォ族のヘルメット型仮面を通じてブランクーシにはなじみ深いものだったであろう。セヌフォ族の仮面のヘルメットの部分はまた,ブランクーシの像のベル状のスカートの原型ともなっている0実際,ルービンが注目しているように,≪小さなフランスの少女≫はプラハにあるビジョゴ族の豊餞の人形となおいっそうの類似を示している0もっとも,ブランクーシが当時そうした人形を目にすることができたかどうかは疑わしい。この人形の図版は手に入らなかったし,そうした人形の他のヴァージョンは,ブランクーシ的と呼ぶには程遠い。プランクーシの像は,ヨーロッパの作品としては確かに大胆な手法で腕が欠けているが,西アフリヵやザイールのいくつかの様式ではよくあることである。ここでアフリカ的なのは,単に腕がないという点にとどまらず・・・ロダンの多くの作品においても,すでに腕がないことは有名である・・・腕がいわば故意にデザインとして除かれている点である。腕がないのは,ロダンにおけるように,実際に切り取ったり,切り取ったように作られた結果,見当らないのではなく,腕が戻されるべき適当な場所そのものがないのである。まっすぐに伸びた円柱状の脚もまたアフリカ的である。それは,ビジョゴ族の豊饒の像のように,くびれるような格好で部分に分かれており,先端の部分は,この彫刻が台座に固定されなくとも立っていられるような単純な形で終っている。少女の像が,(台座や支えを全く想起させない)この彫像とびったり合うという事実は,《小さなフランスの少女≫を同じくバンパラ族の像とも関連づけ,また実際,アフリカの彫刻に広くみられる人間像の一つの表現方法に結びつける。自身の脚で立つ独立体としての像は,いかなる大きさであれ,呪術的な存在である。ブランクーシは,人間の像をそれを置く道具立てと連続させるというヨーロッパの慣習を放棄することによって,この呪術を取り入れた。像とその台とが一つの物として連続していることは,逆にその像と台が異なる物質・・・例えば肉体と大地・・・でぁるというイリュージョンを胚胎(みごもること。はらむこと)させる。ブランクーシはすでに,底が広く,安定した形の≪接吻≫のいくつかの作においてこのイリュージョンを斥けていたが,≪小さなフランスの少女≫では,典型的にアフリカ的なやり方でこれを拒否し,これ以後,アフリカの彫刻にもあまりみられないほどの徹底ぶりで拒むことになる。そして《接吻≫が二つの生き物の抱擁・絡み合い・・・地につけた足に劣らず一つのイリュージョンである・・・・を示しているのに対し,1913年以降に生れた新しいイメージはいずれも,二つ,あるいはそれ以上のものが互いに触れ合っているというイリュージョンを内包していない。1914年以降,ブランクーシの彫刻は我々の空間に呪術的に存在する単一像のかたちをとることになる。
ブランクーシが1914年から制作し始めた《カリアティード》でまず目につくのは,それまでの彫りの作品の中で最も背が高いということである。足は下方の台座に載っており−しかし連続してはいない,それによって《小さなフランスの少女》で表明された像の独立性という原理が再確認されている。≪小さなフランスの少女》と同じく,≪カリアティード≫には,先に確認した典型的なアフリカ的特質である滞彫りを繰り返した部分が見られるが,これは両側面において,より一般的な鋸歯状の形で再び現れている。同時に,アフリカで広範囲に見られる環状モティーフが,この彫刻の背に平たくなった形で登場している。《カリアティード≫では,アフリカ的要素が簡潔で装飾的=建築的なイメージのうちに吸収されているが,そこでは,わずかに暗示的ではあるが,純然たるデザインが,人体解剖図に取って代っている。1914年にブランクーシは彼の彫刻の中で最も「アフリカ的」な《マダムL・R.≫に着手したが,彼はこれを1918年まで完成しなかった。
この作品はその中心に位置する一本脚で立っており,徹底して抽象的である(現在では台の部分は残りの部分から分かれており,再構成されているが,もともと単体の木の塊に彫られていた)。解剖学的な特徴を模倣した形跡は全く見られないものの,頭の上の「櫛」や下方のマッスの緑の中央にあるくぼみを度外視しても,全体のイメージは非常に女性的な性格と姿勢を有している。
《小さなフランスの少女≫の場合と同様,腕はなく,腕がどこにつくべきか想像することも不可能である。そのはっきりとしたアフリカ的雰囲気は,主にその頭部によって醸しだされており,その形態は,ガボンのオングウェ族による銅箔を被せた遺骨容器の守護像のキュビスム版というべきものである。オングウェ族の像から,ブランクーシは外の輪郭線のみでなく,中央の垂直の帯と「櫛と化した先端の角ばった突出部を採り入れている。こうした遺骨容器の守護像には・・・これよりよくみかけるコタ族のものと異なり一頭部に対して垂直に交叉する支柱があり,したがって,ルービンの述べるように,正面からは一本脚とみてとれるであろう。《マダムL.R・≫はその主題といくつかの親緑性をもつものの,デザインの点で非常に概念的である。[モデルを使ったアフリカの芸術家を想像できますか」とブランクーシは1955年に 言ったことがある・・・彼が,この作品の制作にあたってモデルを使うことはもちろんなかった。ブランクーシは《小さなフランスの少女≫と《マダムL・R・≫それぞれの第2作を彫ったが,いずれも《最初の一歩≫と同じ道命を辿った。つまり胴体が失われ,頭部が残されたのである。
Top