ジョセフ・コーネル

 

コーネル・・・忘却の淵から

セゾン現代美術館難波英夫

 はかり知れないほどの忘却がある。

 生によって記憶がうみ出され、また新たな生によって記憶は忘却へと移りゆくのだろうか。それともはじめから、記憶されることもないままに、記憶という意識もなく忘却という変容もないままに、闇から闇へと通り過ぎた何ものかがあるのだろうか。

 忘却にブレーキをかけ、記憶を集積し、そして構築する。つまり一般化し、普遍化すること、それが生を生きるということに違いない。そして一方には、無数の死んだ生がある。記憶と忘却のない、無反省な生がある。ひとはそれを「ミミズの人生」と呼んだのだろうか。

 人間という装置を通過する記憶と忘却によって成り立つ生、その通過あるいはパッサージュを人生と呼ぶらしい。装置の主体があまりに繊細で、あまりにも過敏に過ぎるとしたら、初夏の小川の流れのように緩やかに移りゆくべき人生は、どのような記憶と忘却とを繰り返そうとするのだろうか。

 ジョセフ・コーネルは、1903年12月24日、ニューヨーク市北部のハドソン河沿いの街ナイアックに生まれた。ヴイトリア様式の家屋が建ち並ぶ閑静で清潔な街並。裕福だが質素な、オランダ系の成功者の家庭。暖炉の傍での家族の団らん。二人の妹。そして重要な記憶となったはずの脳性小児麻痺の弟ロバート。正装して撮影した誕生日の写真。それがコーネルの少年期の記憶であっただろう。しかし彼が14歳になったときの、白血病による父の死は、絵に描いたような優雅な午睡を淋し気な黄昏へと追いやってしまったにちがいない。

 コーネルの箱の中の、時間が止まってしまったかのような静けさは、そういった記憶そのものである。

 そして17歳から働きはじめたマデイソン・スクエア近くのホイツトマン社への往き帰りに毎日眺めた花屋、本屋、レコード店、写真館、ペットショップ‥…・それらの記憶もまた箱に収められるのだ。箱とは忘却への抵抗の象徴なのだから。

 実際ナイアックの記憶がコーネルの箱の静寂感をつくったとすれば、ニューヨークのウィンドウ・ショッピングの記憶、そして好んだオペラという箱の中の演出法が、コーネルの作品に反映したはずである。勿論20代半ばに愛したシャブリェ、ドビュシー、サティ、ルドン、セザンヌ、さらに広重、ニューヨークのアート・センターで観たアンリ・ルソーの「眠れるジプシー」、ジョルジュ・スーラの「サーカス」、そして1928年にはおそらく米国での最初のキリコの個展をヴァレンタイン画廊で観た記憶をも、常にとどめたに違いない。

   忘却が意識下のものであり、生の必然であるとしても、コーネルは意識上のそれとして記憶を箱に収めねばならなかった。それは偶然には箱であり、精神の器でさえあれば、瓶でもコラージュでもよかったのである。実際、最初のオブジェのひとつであろう「グラス・ベル」(’32頃)は、文字通りガラスの鐘状の容器に、眠がコラージュされたバラの花、マネキンの手、扇が収められたものだった。また同年頃の作品「シェルレアリストの玩具」のように、ふたのある紙箱の中に収納され、出し入れできる作品もあれば、直径3センチほどの円形の箱の作品もあるのだ。

「ジョセフ・コーネル」(ニューヨーク近代美術館カタログ、1980年)のL.R・ハーチガンによる伝記に、この扇が日本の扇と記されていることは興味深い。しかし所在不明のこの作品の写真によるかぎり、日本の扇とはやや趣きを異にする。) 

 コーネルの作品には、いくつかのモチーフの流用、転用がおびただしい。あたかも忘却を恐れる者の繰り言のようである。しかも同じ様式のものが10年以上を隔てて繰り返されるのだ。

 星図、パイプ、おうむ、ガラスの小瓶、ボタン、コルクの栓、窓ガラス・・・つまり観る者が彼方に忘れ去ってきたものばかりなのだ。コーネルがそれらを飽きることなく反復して用いたのは、自己の忘却へ反抗する生の証しであったのだろうか。それとも美しい神話にあるように、脳性小児麻痺の弟への捧げ物であったのだろうか。

 いずれにしてもそれを覗き込む者のそれぞれに、忘却の淵に沈んだそれぞれの思いを浮かびあがらせる再生の箱の作者が、現実を超えるという意味での真のシェルレアリストであったことは疑う余地がないだろう。  (なんば・ひでお 西武美術館)


■生 涯

ニューヨーク州のナイアックで、テキスタイルデザイナーで小売商のジョゼフと幼稚園教諭のヘレンとの間に生まれた。4人兄弟の第1子で、妹のエリザベス(1905年生)、 ヘレン(1906年生)、弟のロバート(1910年生)がいた。両親共にオランダの名望家の家柄出身で、ニューヨーク州に老舗を構えていた。父が1917年に亡くなり、残された家族は苦しい生活を強いられ、同州クイーンズ行政区へ転居した。マサチューセッツ州のフィリップス・アカデミーに入学したが卒業しなかった。 アカデミーでの3年半を除いて、生涯のほとんどを同州ユートピア・パークウェイの小さな木造の家で、母と小児脳性麻痺の弟と暮らした。彼の人生は弟の世話に捧げられた。
ジョゼフは知らない人に対し臆病な性格だったので、 孤立した環境でアートを独学した。女優ローレン・バコールに恋をしたが、シャイな性格ゆえ叶わなかった。後年もニューヨーク州から滅多に出なかった。しかし、女性と話すのは好きで、多数のバレリーナと親交があったが、奇特な性格ゆえ交際には発展しなかった。

 一方で、草間弥生とは親友で、彼女に捧げた作品を複数発表している。
1920年代には家業である織物卸業を引き継ぎ家計を支えたが、世界恐慌により1931年に倒産し、訪問販売へと転向した。数年後母の知人の伝で、布地のデザインをする非正規職を得た。1940年代には育種所で働く一方、Harper’s Bazaar、View、Dance Indexのカバーとレイアウトのデザインや、雑誌のデザインを請け負った。

 ジョゼフの代表作、アッサンブラージュの箱は1950年代から1960年代にかけて十数点のみ制作された。素材を組み合わせアートワークを作るための助手として学生や芸術家を雇った。このころ、コラージュや映画制作者とのコラボレーションに目覚めた。1967年サンテグジュペリ『星の王子さま』の原画を2、3点保有していることを明らかにした。弟ロバートは、1965年に、母ヘレンは1966年に亡くなった。ジョゼフは1972年、69歳の誕生日の数日後に心臓の病で亡くなった。遺産は画商の手に渡り、売却益や著作権を保護するため「the Joseph and Robert Cornell Memorial Foundation」が設立された。