キュビスムと静物画

■存在の具体性と逆説としての抽象

是枝 開氏

現代の眠気をふりはらい、
影にかわる一力の造形
夢にかわる一人間を描きたい。
「現実になすことより夢みるほうがいいのでは?」
然り!然して、然らず!          <エズラ・パウンド「反逆」(抜粋)>

 イマジズムは、「主観・客観を問わず〈物〉をじかに扱う」という即物的な方法論を標榜し、歴史的にも現代詩の世界における前衛運動の先駆となつた。

イマジズム(英語:Imagism; 写象主義とも)とは、20世紀初頭のアングロ・アメリカの詩における運動であり、写像やイメージの正確化を目指し、明確ではっきりとした言葉を用いることを特徴とする。 イマジズムは、ラファエル前派以来、英語詩において最も大きな影響力のあった運動である。

 またヴォーティシズムは、運動としては短命に終わつたものの、パリから見れば周縁の地にすぎなかつたロンドンにも、新しい時代の感性を担う若者たちが次々と登場してきたことを告げるマニフェストになつた。

ヴォーティシズム とは、キュビスムや未来派の影響を受けて、1910年代半ばにイギリスに興った、美術に関する運動およびそのグループ。「渦巻き派」とも呼ばれる。 主たる参加者は以下のとおり。

 結果的には最初で最後となった第1回ヴオーティシズム展(1915年)のカタログのなかで、ルイスはこの運動の趣意を以下のように記述している。「ヴォーティシズムによって我々が意図するのは、

 1.ピカソの趣味の良い消極性の対極にある積極性、
2.自然主義者を有罪とする、退屈で逸話的な特質の対極にある意味性、
3.まがいものの映画的技法、すなわちばか騒ぎとヒステリーの未来派に対する本質的な運動と活力(革神的エネルギーとしての)」。

 この声明文からも、彼らが大陸から吹き寄せてくる新しい芸術の風に晒され、大いなる刺激を受けつつ対抗意識を燃やし、ロンドンならではの前衛運動を立ち上げようと躍起になっていたことが伝わってくるだろう。大陸の新動向を積極的に紹介した評論家ロジヤー・フライ(1866−1934)が、セザンヌら後期印象派や、キュビスム、フォーヴィスムを紹介する展覧会を2度にわたりロンドンで開催したのも、この時期、1910年と12年のことだった。

 芸術家一家に生まれ育ったニコルソン(1894−1982)は、このように大陸の新動向に敏感に反応しはじめたロンドンの文学界・美術界の空気を、いまだ年若き学生でありながらも、同時代的に深く大きく呼吸したことだろう。すでに1914年には第一次世界大戦が勃発し、世界中が激動の20世紀の実相を目の当たりにしてゆくことになるわけだが、絶望と希望とをないまぜにしつつ、多くの先達 たちが過激なまでに前衛たることをその使命としていったこの時代1910年代に、ニコルソンというひとりの青年が、パリではなくロンドンに住まい、パウンド、ルイス、ピカソらよりは一回り下の世代として多感な青年期を過ごしたという事実は、のちのニコルソン作品にとって、その特質を規定する重要な時代背景となっていることを、まずは確認しておきたいと思う。つまり、圧倒的な影響下にありながらも、前衛としてのモダニズム思潮の中心ではなく、ある意味での周縁に位置し、その発火点からは多少の時差=遅延をもって、彼は歴史に登場してきたということである。そしてそれゆえにこそニコルソンは、生涯にわたり、ある種黙想的な態度を貫き通すことになったといえるのではないだろうか。

 具体的には、パリを中心に大陸を席捲したさまざまなモタニズム絵画の動向のなかでも、とりわけピカソ・ブラックが創始したキュビスムは、ニコルソンにとって大きな意味をもつ事象となった。そのことは、これまでにも多くの研究者たちが繰り返し指摘してきたことである。それは単に若き無名の画家が、初期揺藍期に様式上、技法上の影響を受けたというにとどまらず、戦後にかけて展開してゆくことになるニコルソン絵画の全域において、根源的な影響を及ぼしつづける動向となったということである。その芸術の基底部をかたちづくる方法論に、キュビスムが抜き差しならぬ因子を付与したといってもいいだろう。また、キュビスムそのものがそうであつたように、ニコルソンの方法論にとって静物画という領域は、他に代えがたい重要な実験の場であり、それなくして恐らくはいかなるニコルソン絵画も誕生しえなかったという点にも留意しておきたいと思う。

 1910年代から20年代にかけて、時代の趨勢とともに、ニコルソンは古典的な写実の画家であった父親の影響から脱け出し、早くも半抽象的な絵画を描きはじめている。そのニコルソンが、キュビスムとどのようにして出会い、どのような影響を受け、かつそれをどのように咀嚼して独自の絵画を生み出していったか。また、キュビストたちやニコルソンが大いなる絵画的発見を繰り返した実験の場としての静物画とは、いったいいかなる領域であったのか。この小論ではこのふたつの視点を基軸に、いくつかの具体的事例参照しつつ、ニコルソン絵画の特質の一端を分析してみたい。

■静物画という実験の場

 19世紀という時代が、その終焉とともに20世紀へ向けて、新しい時代の芸術とそれを支える新しい思潮や価値観を準備しはじめたことは、繰り返し語られてきた。20世紀の近現代美術=モダンアートの歴史は、新しい時代のメンタリティを土壌とし、そこで初めて声をあげたということである。その新時代の新精神のすべてとはいがたいが、その一端には、ニコルソン芸術に通じる顕著な時代的特徴がある。それは一言でいえば、経験論的、即物論的な実精神、すなわちある種の科学的な態度であり、またそれと拮抗すかたちで出現する芸術家たちの個としての主体性、何ものにも左右されない自主独立の創造空間の希求といったものだった。そてこの相矛盾するふたつの志向は、不思議なことに、静物画という領域においては矛盾することなく手を結び、他の領域に先んじて、逸早く20世紀的なる成果を生み出すことになったように思える。

 例えば画家はその画室のなかで、実際に絵筆を手にしてキャンヴァスに向き合う以前に、対象となる静物=モチーフをみずから選択し、配置することで、あらかじめ唯一無二の独自の世界を創出することができる。いかなる場合にも、自由自在にその世界を改変し、必要とあらばそれを破壊し、また新たに創出し直すことができるのである。

 このあまりに当然ともいうべき物理的な一事が、静物画をしてそれを風景画や人物画とは大きく異なる領域にしている。数秒ごとに表情やポーズを変えかねないモデルを相手にすることなく、また天候や光の向き、季節によって様相を違えてしまう風景に翻弄されることなく、静物が対象であるかぎりは、画家は気がねてく絵画空間そのものの創出に専心でき、その空間を優れて論理的に探求することができるのである。そしてこの対象物の設定の自在性、論理的な探求こそが、ひとつの必然として、画家たちを構成的な絵画、抽象的な絵画に向かわせたということもまた、恐らくは首肯(納得賛成)してしかるべきことだろう。林檎は球体となり、ワインの壜は円筒形となり、テーブルクロスや新聞紙はニュアンスをもった色面となって、画面を構成し、そうした造形上の構成要素は、さらに画面上で再び、自由自在に配置・転換されうる、というわけである。

 

 元来、静物画とはみずから動くことのない生命なきもの、たとえば果実、草花、食器、楽器、書物、あるいは死んだ烏や魚などを描いた絵画であった。古くは古代ローマのポンペイ壁画にも部分的にそのたぐいを見出すことはできるが、17世紀にオランダ、フランス、スペインなどで、狩猟の収穫としての鳥や魚が細密に描かれだし、初めて独立した画題になったのだという。ちなみにイタリアで初めて静物画を描いたのは、カラヴァッジョ(1573−1610)とされている。そして18世紀の初め、オランダのとわる美術史家兼画家が、これを「Still even=(動かないモデル)」と呼び、その英語訳がstill life」となつて、一方フランスでは18世紀半ばより「nature morte(死せる自然)」という言葉が定着し、そのイタリア語訳が「natura morta」となったということである。要するに静物画とは、画家がみずから動かさないかぎり動くことのない、まさに生命なき物たちの絵画ということになる。

 そしてこの死せる物たちに対する画家の自在性こそが、彼らの実験精神を鼓舞し、ひいては構成的静物画、抽象的静物画を準備したということは、繰り返しになるが歴史的な必然と受け止めていいだろう。また逆に、例えばピカソやブラックなどは、その自在性のゆえに、キュビスムの展開に相応しい実験の場として静物画を選び、あるいはセザンヌがそこで得た論理的探求の成果を、後世の抽象画家たちもまた論理的に継承することができたということもできるだろう。

 そのセザンヌやキュビスムに多大な影響を受けるかたちで画家としての人生をスタートさせたニコルソンも、おのずとこの実験の場としての静物画に没入し、終生変わることなくそこに重きを置くことになった。1910年代末頃の初期段階では、ニコルソンはいまだ古典的な手法で、例えばのような静物画を描いていた。これらは画家であり、好んで頻繁に

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《1919(光沢のある水差し)≫

フェルメール風、シャルダン風の静物画を描いていた父ウイリアムの画風をそのまま踏襲した作品である。

▶︎キュビスムとの遭遇

 エズラ・パウンドがロンドンに移住した1908年は、奇しくもルイ・ヴオークセルが「ジル・ブラス」紙上に、キュビスムという名を誕生させることになったあの有名な記事を書いた年でもある。パウンドがロンドンに滞在していた時期というのは、まさにパリで、パブロ・ピカソ(1881-1973)とジョルジュ・ブラック(1882-1963)が、めくるめくキュビスムの実験を展開していった時期と重なっている。

 

 周知のごとくキュビスムは、1907年から14年頃にかけてピカソ/ブラックが創始し展開した、20世紀芸術における最重要運動のひとつである。このキュビスムという名称は、ブラックがレスタックで描いた風景画を、上述のヴォークセルやアンリ・マティスが、立方体(キューブ)の集まりにたとえたことから生まれたとされている。

 ヴォークセルはその記事のなかでブラックの作品を、「形態を軽視して風景、人物、家などの一切を幾何学的図式につまり立方体に還元している」と書いた。[6] そしてこのピカソ、ブラックのキュビスムは、実は「自然を円筒、円錐、球として扱う」というセザンヌの言葉から多大なインスピレーションを受けて着想されたということも、たびたび語られてきたことだろう。

 1921年、ニコルソンはパリでキュビスムの画家たちの絵画展を見て、そのときの衝撃を以下のように書き残している。

 ポール・ローゼンバーグの画廊の二階にある小さな部屋の奥まった所で、ピカソのキュビスムの絵画に不意に出くわしたことを 覚えている。多分、1915年頃の作品だったと思う。当時の私には、それは完全な抽象画だと思われた作品であった。

 当時ニコルソンは27歳。その前年の1920年には、画家のウィニフレツド・ロバーツ(1893-1981)と結婚し、カンパーランドの古い農家とロンドンのチエルシーに、新たに居を構えた。また結婚後3年ほどのあいだは毎年、スイスのルガーノ湖近郊カスタニヨーラに買った小さな家で冬場を過ごすようになり、イギリスとの往復の際によくパリに滞在していたので、その折にでもこの画廊に立ち寄り、ピカソの絵と遭遇したのだろう。ニコルソンはその頃、例えば下記のような静物画を描いている。

左図《1921-22(静物一ヴィラ・カプリツチョ、カスタニョーラ)≫右図≪1924(最初の抽象画チェルシー)≫

 前出の《1919(光沢のある水差し)≫と比べると、大きな飛躍があることがわかるだろう。写実であることに変わりはないが、その描法は打って変わり、画面のなかのすべての物が均質な光で明るく平面的に描き出されるようになった。また古典的な遠近法を捨ててしまった画面のなかでは、例えば数個のパンが立ち並んで、奇妙な光景を生み出し、あるいは皿やスプーンが置かれた縞模様のテーブルが、それじたい歪んだ空間を作り上げている。キュビスムをはじめとする国際的な新動向に次々と接し、多大な衝撃を受けつつも、いまだそれらを消化しきれぬままいた若きニコルソンが、そうした模索期に描いた興昧深い静物画といえる。この時期の作品のなかでは、

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≪1924(絵画・・鱈)≫[cat.5]

もまた特筆しておくべき作品である。ピカソのキュビスムの絵画を「完全な抽象画と感じたというニコルソンが、その数年後に初めて描いた本当の意味でのいわゆる抽象画である。いくつかの色面で構成されたこの画面は、しかしながら静物画的な構造に依拠しているようにも見える。同年ニコルソンは、字義どおり《1924(最初の抽象画、チエルシー)≫(fig2)と題した同種の作品を描いてもいる。この時期に何点も描いたとされるこうした抽象画は、のちにニコルソン自身が破棄してしまったらしく、現在では数点しか残っていないという。その意味でも、これらはニコルソンにとって、試行錯誤を重ねた模索期の実験的作品であつたということになるだろう。

■コラージュ:二重の具体性

 ピカソ、ブラックが1910-12年頃に手がけたキュビスム絵画は、誰もがすぐさま思い浮かべるあの茶褐色のタブロー群である。伝統的な遠近法を棄却してしまった画面上で、対象は切り子状に分断され解体されて、それにより多視点的な空間が生み出されることになった。この時期は一般に「分析的キュビスム」呼ばれているが、ニコルソンが最も強く影響を受けたのは、その後に展開することになるコラージュ技法を導入した「綜合的キュビスム」である。その最初期の作例としては、初のコラージュ作品として知られる

左図ピカソの《藤椅子のある静物≫(1912年、fig.3)右図コラージュ作品《果物皿とグラス≫(fig.4)がある。

 ここでピカソは、藤椅子の模様が印刷されたオイルクロス(カフェの椅子などに実際に使われていた製品)を切り取り、画面に貼り付けている。またピカソに続きブラックも同じ年に、木目を模した壁紙を画面に貼り付けたコラージュ作品《果物皿とグラス≫(fig.4)を制作。これは貼り付けた物が紙であることから、最初のパピエ・コレ(貼り紙)作品と称されるようになった。その後も下図下図ピカソ右/ブラック左は画面に新聞紙や楽譜などを貼り付けて、あるいはそれを従来どおり描きもし、双方を混在させた作品を多数制作した。

 ニコルソンがパリで目にして衝撃を受けたというピカソの作品は、1915年頃のものだとすると、このたぐいのコラージュ作品だった可能性もあるだろう。コラージュというこの新たな技法は、技法的には単純なものだが、絵画の歴史上は分析的キュビスム以上の衝撃をもたらす画期的な発想の転換を、しかも多義的に示唆することになった。例えば一枚の新聞紙はまさに「物」そのものとしての具体性をもち、と同時に、画面内での「イメージ」としての具体性をかねそなえている。その二重の具体性は、表象される物とする物とのあいだで絶えず相互に転換しつづけることになる。またときにそれを描く場合もあるということと、描かずして現前=存在させるということのあいだにある曖昧な関係性、果ては絵画というもの(=物)そのものじたいの物理的な存在の意味を、根底から考え直させるような刺激的な混乱を人々にもたらした。

 ニコルソンもけっして多数とはいえないが、1930年代に何点かのコラージュ作品を制作している。そのうちの1点《1933(コンポジションーブガッティ5リットル)≫[cat.no.21]では、現実の世界からの参入物として新聞紙、トランプ、銀紙、料理用のベイキングぺ-パ,が画面上に貼り付けられている。作品のタイトルにはその新聞紙の広告欄にある情報、高速自動車の商品名「ブガッティ」がそのまま転用されている。

 しかしニコルソンにとってのコラージュとは、そうした言語論的な意味の戯れや、レティメイド的な反芸術の志向を主眼としたものではなく、むしろより率直な造形上の問題、画面の構成上の問題を喚起するものだったように思える。この時期のコラージュをめぐる実験、あるいは物にまつわる二重の具体性の発見は、その後のニコルソン作品のなかで、物理的な構造の問題となって収斂していったといえるのではないだろうか。

 つまり、例えば貼り込まれた新聞紙一枚がもつ物理的な存在感、表面の質感とその厚み、わずかな三次元性とその凹凸、そしてそれらが誘発してゆく平面上の点・緑・面など、そうした異なる要素が織り成す複合的、重層的な関係性に、彼の真の関心は注がれていったということである。

▶︎画面の抽象化・立体化

 1931年、ニコルソンはのちにイギリス現代彫刻史にその名を残すことになる女流彫刻家、バーバラ・ヘップワース<1938年11月にヘップワースとニコルソンは結婚>(1903-75)と生活を共にしはじめ、翌32年には彼女とともにパリを訪れて、南仏に行く 途上ジゾールで降り立ちピカソのアトリエを訪ねた。またフランス北 岸のディエツプを訪れ、そこでブラックに出逢ってもいる。のみならず、この頃より二ニコルソンの交友関係は大きく広がり、例えばブランクーシ、ジヤコメツテイ、カルダー、アルプ、ミロ、モンドリアンらとも親交をもつようになる。

 1933年にはそのモンドリアンの紹介により、アブストラクシオン・クレアシオン パリで結成された非具象主義カループ「抽象=創造」に加入して同展に出品。翌34年にはロンドンでヘップワース、ムーアらと ともに「ユニットワン」の展覧会にも参加した。さらに1936年には、初代館長アルフレッド・H・バー・ジュニアが企画したニューヨーク近代美術館での「キュビスムと抽象美術展」に招待出品している。

 ニコルソンの作品そのものも、1930年代にはキュビスムから受けた影響を独自の言語で咀嚼する段階に至り、大きな飛躍を見せ はじめる。その最たるものは、1934年頃から着手された代表作と称される〈ホワイト・レリーフ〉シリーズといえるだろう。

 これはタイトルにあるごとく白を基調とした半立体の作品群で、木を主たる素材とし、それを重ね合わせ、彫り込んで、表面をジェッソなどで塗装した限りなく彫刻に近い造形物である。

ジェッソは、アクリル系樹脂エマルジョンを媒体にした地塗り剤で、チタニウムホワイトと炭酸カルシウム等の体質顔料をアクリルエマルジョンに混合した白色の乳液状の液体です。

 そこでは一切の具象性が廃されて、円形や正方形、長方形といった幾何学的な形象のみに要素が還元されている。すなわち、純粋なる完全抽象の作品といっていいだろう。彫刻家ヘップワースとの出逢いが、このシリーズ誕生の契機のひとつとなったことは間違いない。実際にニコルソンは、このシリーズとよく似た表情をもつ自立した彫刻作品も、数点ではあるが制作している

 キュビスムという絵画の実験、コラージュという新たな着想と技法が、必然的にモダニストたちの画面を構成的、抽象的な方向へ展開させたということは、静物画との関連において前述したとおりだが、さらなる必然的展開としての立体化が、ニコルソンの<ホワイトレリーフ>シリーズのなかでも表面化していった。

 ここで我々は、あの有名なピカソの立体作品を、すぐさま想起することになるだろう。金属板と針金で作られたこのコラージュ技法の発展形としての立体作品は、彫刻史的にも大きな意味をもつことになり、例えば構成主義の作家タトリンがこの作品に啓発されて、史上初の抽象彫刻を生み出すことになったというエピソードは、多くの人が知るところだろう。こうした20世紀初頭の造形的実験の展開を、おおよそ20年の歳月を経たのち、ニコルソンもまた改めて辿り直している。しかし問題はそれほど単純ではない。

 ニコルソンが〈ホワイト・レリーフ〉に至る過程には、紆余曲折をはらむ幾筋もの経路があった。言うまでもないことだが、彼は上述のようなキュビストたちの造形的実験の展開を、単に反復的、単線的になぞっていたわけではない。そこには既にこの時点で完成を見ていた構成主義的な要素、あるいはシュルレアリスム的、ミロ的な有機的要素、また幾何学的要素への還元というモンドリアン的な発想などが、さまざまに織り込まれてもいる。そのうえで最も重要な点は、ニコルソン独自の感性、ニコルソン自身が醸成してきた造形上の現実が、ここに至ってある結実を見せているということだろう。

ピカソ《ギター≫(1912年、fig.5)

 例えば《1933(ギター)≫[cat22]や《1933(彩色した箱)≫(fig・6)など、〈ホワイトレリーフ〉誕生直前の作例を見てみたい。これらは、キュビストたちが好んでモチーフにした弦楽器を、木目を残した荒削りの板の表面に描いたものである。その木という支持体がもつ現実的な素材感と微妙に揺れ動く繊細な描線や暗褐色の色面とが、全体としてニコルソンならではの調和を生み出している。それは非現実のイリュージョナルな皮膜としての絵画ではなく、ある物質的現実を携えた触知的な絵画なのである。そして木を削り重ね合わせ、ジェッソを塗り、その凹凸の陰影に微妙な線の揺れ動きを生み出し、白やグレーの色面が独特のテクステユアを湛えている一群のくホワイト・レリーフ〉と、それはまさに等価な作品だということに、ここで我々は気づかされる。だとすると、前言を覆すことになるが、〈ホワイト・レリーフ〉を「純粋なる完全抽象の作品」といってしまうことには、一定の留保が必要となるだろう。その内側には、発想の源泉として、静物画をはじめとする具象画の構造が、厳然と存在しているということである。

▶︎持続的な現実感、全感覚の動員

 キュビスムの絵画は、現実のなかの存在物としての静物たちの関係性、例えば目には見えぬ物の裏側や、後ろに隠れた物、物と物との距離や重なり合いの具合などを、多視点的に描くことで、我々の実生活上の視覚体験を、むしろよりリアルに正確に再現したといえるだろう。一点透視図法的な情景などは、実はこの現実の世界には存在せず、誰も見たことがないというあまりに当然ともいうべき一事を、長きにわたる絵画の伝統を打ち破って、彼らは改めて我々に知らしめたともいえる。ニコルソンが静物画という領域において希求してきたこともまた、このキュビスム的な認識の延長線上にあるといえるだろう。つまり実生活上の現実的な体験そのものを深手するということである。彼は次のような言葉を残している。

 私は、自分が絵に関心をもっているとすれば、それは、実感することとか、体験することであって、絵を描くということではない・・そう考えるようになった。それは、ある生の体験にもとづく持続的な現実感の創造と関わるなにものかだといえる。この生の体験は、純粋な視覚によるものではなく、全感覚をもって得られるひとつのリズムである。

 ここでニコルソンは、「持続的な現実感」をもつものとして、「最上の中国の花瓶」や「セザンヌの林檎の絵」を例にあげている。一過性の興奮や劇的印象を与えるだけの絵画ではなく、時間とともに色槌せてしまうことのない現実的な存在感を携えた絵画、現実的な体験の積み重ねに裏打ちされた絵画ということだろう。そしてそれは、視覚のみならず触覚を含めた全感覚を動員して初めて達成される絵画ということになる。あるいは、絵画そのものを幻影としてではなく、現実として存在させることが、ここでは目指されているといつてもいいだろう。

 その現実的存在としての絵画の在り方に絡めて、ニコルソンはフレームの問題にも触れている。彼は絵画を、キャンヴァスの矩形や額縁の内側のみの出来事として限定的に捉えることを批判し、そうした慣習こそが、「絵画をその真の方向から外へ押しやり、さらに私たちの生活に対して自然のままの直接的な関わりあいから遠ざけてしまった」としている。さらに続けて「絵画の全形態というものは、ちょうど彫亥l」の全形態の意味するものと同じように考察すべきものなのだ」とも語っている。

 ニコルソンは頻繁にみずからフレーム(額縁)を作り、それを彩色・塗装している。それはまさに、「絵画の全形態」を彫刻のごとく捉える発想から生まれた所作といえるだろう。また半立体の彫刻的絵画のシリーズである〈ホワイトレリーフ〉は、まさにこのフレームの問題、絵画と彫刻をめぐる問題意識に対するニコルソン独自の解答として制作されたということもできるだろう。

 一方、慣習的な枠組を外側へ打ち破ってゆく彫刻的な志向とは反対に、画面のなかで異なる位相、異なるフレームを組み立てて、そこで虚実を転倒させ、内側へとその枠組を突き崩してゆく発想も具現されている。例えば風景画と静物画とを合体させる画面構成は、最初の妻であった画家ウイニフレツドとともに、既に1920年代からニコルソンが試みてきた独自の世界であるが、などでは、小物が置かれたテーブルの奥に窓からの夜景が広がっていたり、逆に屋外の風景のなかに突如として室内の静物画が挿入されていたりする。

 1930(グノスマスの夜)≫や《1947.11.11(マーゼル)≫《c.1927(花)≫

《1931−36(静物−ギリシア風景)≫

 また、といった作品においては、平板なテーブルが、まさに画中画のごとく第二のフレ「ムの役割を担っている。テーブルという場を別種のフレームに見立てることにより、既存の矩形からの逸脱を図っているということだろうか。いずれにしても、ニコルソンによるこうした作品全体の構造的な換骨奪胎(古人の詩文の表現や発想などを基にしながら、これに創意を加えて、自分独自の作品とすること)は、まさに全感覚を動員することで発想され、実現されているとともに、それを鑑賞する者にもまた、同様に全感覚を動員することを求めているといえるだろう。

▶︎存在の具体性と逆説としての抽象

 ニコルソンの独自性は、再現性と非再現性のあいだを矛盾なく行き来したところにある。その生涯において、彼は〈ホワイト・レリーフ〉以前・以後を通じ、つねに具象と抽象のあいだを自在に闊歩してきた。例えばきわめて早い時期に完全抽象の画面を描きもし、また〈ホワイト・レリーフ〉制作期にも、並行して具象の静物画や風景画を描いている。さらに晩年に向けて、再び集中的に抽象的な画面を描く時期が何度か訪れたが、その間も絶えず具象的な素描やタブローを描きつづけてきた。言うまでもなくその両者が完全に混交し、融合した画面も多数描いている。マルセル・ブリヨンはその著「抽象芸術」(瀧口修造訳)のなかで、ニコルソンの絵画を以下のように評している。

 理論的な図式化に敵意を抱くベン・ニコルスンは、人が、自分を 具象画家と呼ぽうと、抽象画家ときめようと、ほとんど気にしなかった。同じタブローのなかでさえ、しばしば具象的な要素と抽象的な要素がならぶことがある。この両者の結合は、ときには不調和を生みださずにはいない。それは、そこからまったく新しい効果をつくるための意識的な不調和なのだ。完全に純粋抽象に 改宗してしまったかのように思われる今日のある種の絵画に対して、かれの風景や物のデッサンをみると、ベン・ニコルスンが、今なお現実的なものについての緩慢な深い労作によって様式化される、幾何学的な構成の原理を、自然の映像のなかに求めていることが明らかにわかる。

 一般には往々にして、イギリス現代美術を代表する「抽象の画家」と称されてきたニコルソンは、確かにその画面の一部を極限まで抽象化してもいる。しかし重要な点は、彼が抽象絵画そのものを予定調和的に希求してきたわけではないということである。むしろ 逆に、現実世界の事物の存在を深く探求し、その存在の具体的な有り様を根源まで問い詰めていったときに、おのずと作品が抽象へ向かっていったということなのではないだろうか。

 例えば、彼が生涯にわたり好んでモチーフとして描いてきた水差しは、彼のアトリエのなかで彼の眼前に紛れもなく存在し、必要とあらば手に取ってその重みや手触りを確かめることができる。それは縞模様、あるいは花柄の紋様をもつものかもしれず、色面として捉えうる白や茶の無地かもしれず、また艶やかな光沢を放ち、あるいは光を吸い込む陶の肌合いをもつものかもしれない。さらにその輪郭は陰影のなかで強固に立体としての量感を浮き彫りにする場合もあれば、逆に消え入るほどの繊細さをもって背景のなかに溶け込んでしまう場合もあり、角度によっては直線的でもあり、曲線的でもあるかもしれない。何の変哲もないひとつの水差しがそこに存在することをめぐり、画家の思索は、かくも果てしなく認識と表現の可能性を模索しつづけることになる。

 ブラックは、「もし静物が私の手の届くところになかったら、それは静物であることをやめる」と語ったという。触知的な空間としての静物画のなかで新たな意識のもと「絵画的事実」を構成してゆくことを目指していたブラックは、現実の諸物が湛(たた)える物質的存在感を、画面そのものの存在感に直結させていったといえるだろう。絵画は幻影ではなく、それじたいが物質として存在する実像なのであって、そこには抽象も具象もない。

 この点こそがまさに、ニコルソンがこの先達から受け継ぎ、深化させていった最も重要な部分といえるかもしれない。他界する半年ほど前、既に86歳という高齢に達していたニコルソンは、一枚の小さな静物画を制作した。そこでは、油彩の白地に黒のインクで水差しの輪郭線が二重に折り重なって描かれている。ふたつの水差しの存在の具体性が、極限まで抽象化されることにより、逆説的に強固なものとなって、視覚のみならず触覚の次元での現実感を高めている。ここで最後に再び、冒頭に掲げたパウンドの詩のなかの言葉を繰り返しておきたいと思う。「現実になすことより夢みるほうがいいのでは?

(神奈川県立近代美術館主任学芸員)