1.光の絵(クレー)
生来、色彩表現よりも、線描の扱いをはるかに得意としていたクレーは1900年代に先ず、皮肉なユーモアが異彩を放つモノクロームの銅版画〈インヴェンション》(上図4点)の連作で線描画家としてスタートをきった。そして色彩画において卓越した地点に到達するにはさらに研費を要したのである。1911年未にミュンヘンで開催された第一回「青騎士展」で、平たく彩色された幾何学的な形を構成して描くロベール・ドローネーの作風に感銘を受けたことが大きなきっかけとなり、それまで多少沈香な調子を湛えていたクレーのパレットは、光を含んだような透明感の獲得に向かった。やがて1914年春にチュニジアを旅し、その間の4月16日付けの日記には「色は、私を捉えた。私は、絵描きなのだ」と記している。この記述により長い間、クレーが色彩に開眼したのは北アフリカの光の中であったと考えられていた。
しかし今日のクレー研究では、日記のこのくだりが清書されたのは、少なくとも1918年以降と考えられている。また≪ある庭園の思い出》は旅行以前の作、≪無題》、《赤と白の丸屋根》はその直後に手がけられたと推定されており、その他のこの年の制作からも、現在では、チュニジアの光と色彩の体験がクレーにとって強烈なものであったことは間違いないものの、日記に記された啓示の時より以前に既にクレーにおいて透明な色面による構築的な画面への関心は高まっていたと理解されているのである。
色とりどりの方形の配列は、《ある庭園の思い出》では柔らかく濃やかに結合し、≪無題》《赤と白の丸屋根》では、より緊密なブロックを構成し、三作は抽象画に著しく接近している。しかし≪ある庭園の思い出》には、草や煉瓦塀の形象が、《無題》には画面右下に柱梁の細部や五つの小さな窓の形が見出せる。そして《赤と白の丸屋根》では、半円アーチの簡素な線が壮大な回教寺院の天蓋を表現する。そのように自然物や建築を暗示するイメージをわずかに潜ませることで、画中の色彩の微妙な重なりや澄みは、光や空気を想起させるものへと変質して活気づくのである。
1914年のチュニジア旅行以後、抽象的な色彩コンポジションヘと向うクレーは、その過程で「都市建築(的な)」という題名をもつ複数の作品を描いている。格子状の色面構造を用い、建築、都市、空間、石切り場など三次元空間をモティーフとしたそれらの作品は、いずれも緩やかな色彩の帯、方形や三角形の色面を画面に敷きつめたようなコンポジションである。
この≪二つの黒い面のある》と≪旗のある風景》(上図)は、それらのなかでもとりわけ厳格な構造をもつ作例である。クレーの関心は建築の三次元的な空間性を再現することにはなく、むしろ抽象的な色彩フォルムの運動や相互の緊張、あるいは光の充満する色彩コンポジションヘと向けられている。
偶然にも、この作品は、本展に多くの作品を出品しているシュプレンゲル美術館のクレー・コレクションを築いたベルンハルトシュプレンゲル(1899−1985)が、1949年に彼にとって最初のクレー蒐集作品として購入し、その後1962年に手放したことが確認されている水彩画である。シュプレンゲル・コレクションについては本書のウルリヒ・クレンベル「ハノーファーのシュプレンゲル美術館におけるパウル・クレー」に詳しい。
品番号から推察して、一連のミニアチュール作品の最初のものであり、唯一、画面周囲に金色の縁どりが施され、一見判然としない生き物のようでもある奇妙なフォルムが密集するコンポジションである点で、他の作例とは異なる印象を強く伴っている。
ミニアチュールヘのクレーの関心は、少なくとも20代前半まで遡るだろう。イタリア滞在の翌年、1903年3月5日付の婚約者宛て書簡はそう推論させる一つの資料である。クレーはその中で、「すばらしい美術史に没頭している(カール・ヴュルマン、書誌学研究所1900年)。それは第1巻〈古代〉で、とくに選りすぐりの挿図にね」と記し、ドレスデン絵画館館長を務めた美術史家カール・ヴュルマン(1844−1933)の大著「すべての時代と民族の美術史』(全3巻、ライブツイヒ/ウィーン、1900−11)のうちの第1巻『前キリスト教および非キリスト教民族の芸術』(1900)に言及している。 同書は、原始民族、古代オリエント、ギリシア、古代イタリア・ローマ帝国から北欧・西アジア、イ ンド・東アジア、イスラム世界に及ぶ広範な文化圏の美術について、多色刷を含む豊富な図版を参照しながら文化史的視点からも論じた美術史研究書である。ミニアチュール(挿絵・細密画)にも多くの頁が割かれ、とりわけ「挿絵」「テキストと絵を伴う書物」「文字絵」としてのそれが、多様な文化圏の芸術的想像力が豊かに出会う表現メディアであることを明確にしている。すでにこれまでにも日本のクレー研究において指摘されてきたように、彼はミニアチュールと同時期に文字絵を制作しており、おそらくこうした研究的な書物とのかつての出会いも、クレーにとっては異なる「時代と文化」「言葉と絵」を結ぶメディア=ミニアチュールを時空横断的で跳躍的なイメージ・ネットワークとして理解する揺藍であったに違いない。
正体不明の存在が宇宙に君臨している。彼の周りには得体の知れない力が働いていて、世界の秩序は乱れ、複雑に練れ合っている。それとも、彼の発するエネルギーが徐々に世界を秩序づけているのか。 紫と黄、二つの球・・・夕イトルには2という数が暗示的に隠され、ひときわ「運命の響き」の語が強く響いている。作品の成立年と10番というきわめて若い制作番号からは、否応なく、「運命の年」の書き出しで始まるこの年最初の『日記』の記述が想起される。「運命の年。1月末にルイ・モワイエ夫人が男の子、長男を出産して亡くなった。3月4日、友人フランツ・マルクがヴェルダンで戦死。
3月11日、35歳の新兵として徴兵される」(日記965番/1916年)。同じ日記には、このあと続けて、マルクの晩年に戦争と芸術をめぐって彼との間で経験した確執をふたたび反芻し、友の死への深い悲しみが綴られている。紫と黄、二つの球に象徴される2という数には、クレーとマルクとが重ねあわされているとも推測される。 画面中央の奇妙なモティーフは、たとえば同じ年の水彩画≪船の上の悪魔》(1916,65)に見られる悪魔のモティーフとよく似ている。≪紫と黄の運命の響きと二つの球》が、第二次世界大戦前には「幻想的な神」という題名で展覧会に出品されていることからも、画面に充満する悪魔的で神的な力を感ぜずにはいられない。
悪魔は、古代ギリシア神話や哲学においては生命的な世界や自然の中に現れる神的な力であり、一方、逃れ難い運命はその神的な力からこそ展開すると考えられていた。そして、ほかならぬ運命は存在の秩序そのものであり、人と宇宙との共感は運命との和解によってもたらされるとされた。まさに「運命の年」に描かれた《紫と黄の運命の響きと二つの球》に姿を現しているのは、存在の秩序=運命を司り、相対するものを共鳴へと導く悪魔的な力にちがいない。(F.G.)
切断された二つの画面が上下に並置して再接合されている。しばらく眺めていると、下の画面の右下隅の丸屋根のような四つのフォルムと、上の画面の左下隅の同様のフォルム群とがもとは左右に連続していたことに思い至る。そう、元来この絵は横長の画面であった。中央には遠近法的に前景から後景へと道のような帯が延び、例の丸屋根のようなフォルムが奥へ行くにつれ小さくなって連なっていたのである。全体に蔦(つた)らしき植物がはびこり、画面左には第一次世界大戦期のクレー作品における重要なモティーフの一つ、鳥が描かれていた。鳥は、墜落する戦闘機に重なるモティーフとして、苦難の時代における人間の運命を象徴するが、この作品の鳥も植物の葉か棘(とげ)に囚われ、身動きとれずに苦しんでいる。つまりこの絵は、もとは戦争主題的な物語も読み取ることのできる一つの風景であった。その風景を、クレーは抽象的な画面と囚われの鳥の描かれた場面とに切断し、さらに植物、鳥、道などにおける上への運動方向性を強調するように上下に並置し直したうえで、≪本の装飾》と名づけた。
ところで、この作品の成立と同じ1917年、兵役中のクレーは7月の日記に「今やふたたび理念の挿絵画家になることができた。そしていま私に見えるのは、もはやいかなる抽象芸術でもない。過ぎ去ったものの抽象だけが留まっている」(日記1081番/1917年)と記している。戦争という苦難の時代を生きる芸術家として、なお現実の世界に留まるべきか否かについて、芸術の抽象化という問題圏へと問いを連続させて迷い続けていたクレーが、その迷いに決別し、自ら「理念の挿絵画家」と宣言した言葉である。現実、すなわち戦争を示唆する鳥のいる挿絵的な画面の上に抽象的な画面が配され、下から上へと観る者の視線を導く≪本の装飾》は、美術史家ヴオルフガング・ケルステンが指摘しているように、第一次世界大戦期にクレーが辿った内省的な思索のプロセスを、切断というメスを介した逆転の構図によって提示している。(F.G.)
すでに比較的初期の作品から晩年に至るまで、クレーはいったん出来あがった作品を鋏やナイフで切断し、切断したそれぞれの部分を独立した別の作品としたり、各部分を上下左右に反転させるなどして再度つなぎ合わせ厚紙に貼付するといった独特の手法を用いている。時には完成からかなりの時間を経た後に手を加えている。それによって、完成したはずの作品の意味は意図的に解体され、新たな意味や文脈を得て再び生成しはじめる。クレーはこうしてたえず自らの制作を聞いつづけている。
この作品もそうした一点である。切断以前の画面は横長で、縦方向の帯状をした色面による抽象的コンポジションのところどころに×と○が配され、さらに一目でそれとわかる人体部分(目、乳房、女性性器、両手)が本来の身体的位置関係を保つように描くかれていた。二度の縦方向の切断は、ちょうど両手を胴体から切り離すように行われ、中央部に当たるこの<アフロデイテの解剖学>は女神の胴体部に相当する。一方、それぞれ両手が描かれた左右翼部は天地反転のうえ台紙に貼られ、≪1915・45の両翼部》という別の作品に作り変えられている。
この作品の着想源としては、紀元前5世紀ギリシア古典期の大理石浮彫≪ルドヴイージの玉座》(ローマ、国立テルメ美術館蔵)が指摘されてきた。これは三連祭壇画のように三耐造をとる浮彫で、各面にアフロデイテの誕生と解釈されている場面・笛を吹く女・布を纏って香炊く女が表現されている。
クレーが当初の画面弓三分割し、そのうちの翼部には、三連祭壇画の示翼部を想起させる≪1915.45の両翼部》というタノトルを与えていることなどは<ルドヴイージの玉座>の構造に合致する。1902年には集中して解剖学教室に通い、少年時代より古典文学や神話に親しんでいたクレーは、この作品において、神話の図像とルネサンス期以降の芸術家にとって必須とされた解剖学の知識とを主題とし、その上で、実際に紙を切断うるという挑発的な行為によって近代芸術におけ解剖の意味を諷刺的に突きつけている。(F.G.)
「ゴルツのためのリトグラフに彩色を始めた」。1916年8月からシュライスハイム航空学校に配属されて軍用機輸送の任に就いていたクレーは、その年10月23日の日記にこう記している。ここで言及されている「リトグラフ」が、ミュンヘンの画商ゴルツの依頼を受けて制作した《破壊と希望》である。すでに前年の初頭には線のみのコンポジションは完成していたが、それから1年以上を経た翌年秋になってクレーはそれを取り出し、新たに水彩で彩色を始めたのである。
『パウル・クレー版画総目録(レゾネ)』によると、この作品には、題名を≪破壊と希望》ではなく、《廃墟と希望》とした2点の試刷りが知られている。対角線状に交差する格子と細かな線によるキュビスム的なコンポジションは、戦争によって廃墟と化した世界を連想させ、星・月・三日月という色のある天体の記号がそれらの線と対照をなし、宇宙的なヴィジョンを現出させている。たとえば、同様に不吉な運命を象徴する六角の星が瞬き、此岸=生と彼岸=死の境界である港に天意を象徴する船が停泊する《世界劇場(寄席)》も、一見したところ遊戯的な情景でありながら、実は《破壊と希望・図上》に通じる悲劇的な世界像である。
ところで、≪破壊と希望》の彩色された記号的フォルムは、型紙で輪郭を定めて色づけするという方法によって描かれていることが、これまでにも指摘されてきた。ほかならぬその方法は、冒頭に引用した同じ日の日記に「飛行機の古い番号を改修し、新しい番号を先頭のほうに型紙を使って描いた」(1018番/1916年)と記述されている通り、軍用機の補修に際して行われていた方法であった。世界を破壊する軍用機をふたたび蘇らせるという軍事目的に用いられていた方法を自らの作品に応用し、《破壊と希望》と名づけたクレーの諷刺的態度がここに見て取れる。(F.G.)61
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして光が生まれた」-『旧約聖書』巻頭の書、モーゼ五書の第1書「創世記」冒頭、天地創造の物語である。神が原初の混沌から天と地とを創り、万物に秩序を与え、最後に神の姿に似せて人間を造られる、その業を物語るくだりの一節を、この小さな水彩画はそのまま題名にもつ。クレーは、光が誕生し、闇から分かれる瞬間を、万能の神の眼が画面の中で見守る感嘆すべき宇宙の出来事として絵画化している。
この水彩画の成立以前にも、すでにクレーは『旧約聖書』「創世記」を題材とする作品を制作している。1913年春、フランツ・マルク(1880-1916)が中心となり、ヴァシリー・カンテリンスキー(1866-1944)、オスカー・ココシュカ(1886-1980)、アルフレートクピーン(1877-1959)ら「青騎士」の仲間とともに参画する予定でありながら実現に至らずに終わった聖書挿絵計画のために、≪詩篇第137篇の下書き》(1913,156)という小さな線描を遺しているのである。
≪情熱の園・上図》と≪小さな河風景》は、いずれもこの詩篇のために構想された小品ときわめて近接して制作されており、3点にはいずれも平面を分割的に構築するキュビスム的な手法という共通性がみとめられる。
同じく『創世記』に題材を求め、クレーは1914年に水彩画《天体の生成(モーゼ第1書第1章第14節)》を描いた。この時は、聖書中の「こうして光が生まれた」に続く「神は言われた。天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ」を題材としている。《はじめに光ありき》と《天体の生成》の成立の問には4年の隔たりがあるものの、いずれにおいてもⅩのある方形の集積が構図上、重要な要素となっているという造形的特徴がみとめられる。「創世記」の物語を媒介とする造形の宇宙が出現している。
■追加情報
東京国立近代美術館で開催の
『パウル・クレー おわらないアトリエ』です。
以前にもクレー展は、行ったことがありますが、
今回は、一番数も多く、規模も大きいと感じました。
「クレーの作品は物理的にどのように作られたのか」という点を
そのプロセスから、6つに分けて紹介しています。
まずは、アトリエの中の作品たち
プロセス1 写して/塗って/写して
プロセス2 切って/回して/貼って
プロセス3 切って/分けて/貼って
プロセス4 おもて/うら/おもて
特別クラスの作品たち(非売品)
今日は、その中から、プロセス3にあった、
『窓辺の少女』をご紹介します。
この作品は、プリハードで取り扱いのある作品で、
もちろんよく見たことはありますが、今回来日していることは知りませんでした。
この絵を見つけて
「えっ?!こんなに小っちゃかったの?」
21×13.5cm
子供のお弁当箱くらいです。
プロセス3ですから、「切って、分けて、貼って」あるのです。
この絵の隣には、これがありました。「墓地」です。↓
現存している作品を元に戻してみると、このようになります。
「窓辺の少女」は、左から2番目の上です。
そして、「墓地」は、左下」。
なだかパズルのようですね。
これは、クレーの技法として捉えられていますが、
クレーは、最初から切るつもりで描いていたのでしょうかね?
描きあがってから、切ろうと思ったのでしょうか?
何点も何点も展示されていますから、切るつもりだったのでしょうね。
でも、大作を描いた後に、その自分の作品にメスを入れるというのは、すごいことですよね。
作品の縁を額で少しカットするだけでも、絵の印象が変わるのに、
それを、ぶった切っているのですから・・。