前衛芸術運動との出会いが示した一流画家への道
1910〜12年は初期のクレーにとって最も実り多い時期である。当時、ミュンヘンのアートシーンを主導していた「青騎士」の画家たちとの関係もこの頃結ばれた。
「青騎士」はもともと、カンディンスキーとマルクがヨーロッパの新しい美術潮流と価値観を伝えるべく編集した年鑑の名前だった。既存の美術団体と袂(たもと)を分かった彼らは、1911年12月「青騎士展」を開催。そこに出品されたフランスの画家ロベール・ドローネー(1885〜1941)の絵に、キュビスムの色彩豊かな空間表現を見たクレーは衝撃を覚えた。
「青騎士」に参加したクレーではあったが、年鑑には小品が1点掲載されただけだった。クレーはまだ蚊帳の外にいた。一流の画家としてクレーが頭角を現すのは、もうしばらくあとのことである。
<左図>色彩のコンポジション《雨模様の小風景≫1913年(196)水彩/紙、厚紙 20×12㎝:ベルン、パウル・クレー・センター
ドローネーの影響から逃れられない圭l_ションを試みた。この作品ではモノクロに近い色を組み合わせて、起伏に富ん形を平面の連続性で見せ、抽象化している。
クレーの色彩画家宣言は 恣意的な自己演出?
『クレーの日記』のなかでチュニジア 旅行の記録ほど紙幅を割いた記述は ほかにない。「色彩画家クレー」の誕 生を自ら宣言した1914年4月16 日の日記(P望はあまりにも有名だ。 ドラクロワ(1798~1863)以 来、ヨーロッパの近代画家は北アフ リカのイスラム世界に新しい美の価 値を求めてきた。ただクレーの場合、 その地に見いだしたのはエキゾチッ クな主題ばかりでなく、ヨーロッパ にはない砂漠の乾いた風、夜空に瞬 く月や星、身を射るような太陽の輝 きであった。日記にもそうした自然 描写が強調して書かれている。 旅行以前のクレーがすでに色彩を 獲得していたとする説が、近年主流 になっている。確かにドローネーの 作品に出会ってから、彼は色彩の空 間表現に積極的に取り組んだ。そし てそれを後押しするように、チュニ ジアの強烈な光が、クレーを自由な 色彩へと導いた。チュニジア体験を 機に画家クレーが新しいステージヘ と歩を進めたのもまた事実である。
<右絵>≪赤と黄色のチュニスの家々≫1914年(70)水彩、鉛筆/紙、厚紙 21.1×28.1cmベルン、パウル・クレー・センター
赤と黄色の対比を意識しながら町の様子が抽象化されている。建物や樹木とは異質の、頭にターバンを巻いた人形のような4人の人物が描き込まれたことによって、ある種の遠近とリズムが生まれている。チュニジアではクレーのパレットから、より自由に色彩が紙の上に移された。
<左絵>≪赤と白のドーム>1914年(45)粗紙、厚紙14.6×13.7㎝ デュッセルドルフ、ノルトライン=ウエストファーレン美術館
モチーフはチュニジアだが、ここに描かれのは、実在する具体的な場所ではない。画面上方に赤と白の対比を置いて、コンポジションを表現しようと試みた。後年の絵に登場する黒い四角やバツ印(左下、中央下)がクレーの詩的な絵の始まりを示唆している。
油彩画への新たな挑戦
戦争が終結したのは1918年11月のことである。ドイツ帝国は崩壊し、国内は混乱を極めた。19年4月、ミュンヘンに革命政府「レーテ共和国」が樹立し、クレーは新政府の芸術家行動委員に名を連ねた。クレーの政治参加は珍しい。だが共和国は2カ月しかもたなかった。クレーは反革命勢力の追及を避けるため一時ベルンに逃れた。
残念ながら『クレーの日記』は18年12月で中断され、この「ミュンヘン革命」当時のドラマチックな出来事をそこに読むことはできない。大戦末期、存命する画家のなかで最も重要な一人と見なされるようになった彼は、周到に自分の地位の確立を図った。油彩画に取り組み始めたのもこの時期のことである。
ミュンヘン革命は失敗に終わったが、統一ドイツはヴアイマール共和国として新体制を発足させた。また同時にバウハウスが開校。クレーが同校に招かれるのは、革命騒ぎの翌年(1920年)のことだった。
<月は昇り、陽は沈む>1919年 油彩/厚紙 40.5×34.5㎝本格的に油彩画に取り組み始めたクレーの作品。ガラス宮のような透明感に満ちている。夜の訪れを待ちわびた画家の心情が南国の黄色い月の輝きに託されている。
有力画商の後援を得て広がる活躍の場
1919年の秋、クレーはミュンヘンの画廊主ハンス・ゴルツと総代理契約を結んだ。ゴルツ画廊は青騎士の時代に出入りした旧知の店で、度々作品を預けていた。契約は年間の最低報酬の保証、個展の開催などが条件で、結果1925年まで継続された。20年に開催されたクレー展では、実に362点の作品が会場に展示された。ゴルツのほかにも、この時代、クレーに注目し、その活動を支えた人々が次々に登場する。
ベルリンの有力画商だったヴァルデンもその一人だった。マルクの紹介で出会った彼は、芸術誌『シュトルム』の発行人で、将来有望な画家に活躍の場を用意した。もちろんクレーも、その恩恵にあずかることとなった。
バウハウスの教授となりようやく安定を手にする
1919年、敗戦直後のドイツに出現した総合工芸学校バウハウスは、どこか急進的な印象を与えるが、実際には1904年開校のヴァイマール大公立工芸美術学校が新政治体制のもとで再出発した施設であった。学長には気鋭の建築家グロピウスが任命された。芸術と工芸との総合を目指した、14年間に及ぶバウハウス活動の成果は今日から見てもあまりにも大きい。
1920年10月、クレーはバウハウスから教授として招碑(しょうへい)を受け、翌年1月から授業を開始した。15年間の無名時代への決別であった。13歳のフェリックスもバウハウスに入学した。毎月一定の報酬を受け取り、生計の不安なく画業に専念できる境遇をクレーがどれほど歓迎したかは想像に難くない。市民社会のシステムがクレーを迎え入れ、彼はようやく職業画家としての地歩を手に入れた。戦争中ロシアに逃れていたカンディンスキーもドイツに戻り、同じくバウハウス教授陣に加わリクレーの同僚となった。
だがバウハウスの歩みは平坦ではなかった。政局は不安定を極め、バウハスウスに反対する勢力が台頭していた。開校からわずか5年後の1924年、ヴァイマール国立バウハウスの存続は不可能になる。
だが幸いにも新興工業都市デッサウが同校を受け入れ、グロピウスは当地での再起を図った。やがてナチスが政権を掌握し、バウハウスを廃校へと追い込むことになるのだが。
バウハウスの廃校と失職忍び寄るナチスの影
時代に翻弄されたバウハウスだったが、クレーにとってはその黄金期とも呼べる実り豊かな時期であった。デッサウの教員住宅(マイスターハウス)の2階には広いアトリエがあり、夕食後、クレーは決まってヴァイオリンを演奏した。「バウハウスの仏陀」とあだ名されたクレーは学内の政治抗争におそらく無縁であったが、複雑な人間関係と激務に耐えてきた彼は、1931年4月、デュッセルドルフ美術学校に職を得てバウハウスを去った。
クレーはそのままデュッセルドルフ美術学校の教授として画家人生を全うすることを望んだに違いない。悲劇は、ヒトラー政権が勢いを増すさなか、同校を解雇され、国外への亡命を選ばなければならないことだった。
バウハウスの教授として
(左図)切れ切れの線で描かれたつなわたり師のアート《つなわたり》1923年(121)水彩、油彩転写素描、鉛筆/紙、厚紙 48.7×32.3cmベルン、パウル・クレー・センター (右写真)デッサウ・バウハウスのクレー(1926年)
かすれた線を生む「油彩転写」
ク レーは絵具や紙だけでなく、技法にもさまざまな工夫を凝らした。1919年以降の作品で用いられるようになった油彩転写素描もその一つ。黒の油絵具を全面 に塗った紙を半乾きにし、その面を白い紙に重ね合わせて上から鉛筆や鉄筆のような先のとがったもので描線を描いて紙に写す方法である。写された油性の描線 は、水彩を施されてもにじむことがなく、はっきりと表面に残る。そのため、クレーはこの技法を用いる際には、水彩を併用し、独自の効果を創出した。油彩転 写による描線は手の動きを感じさせず、まるで神の手で異界から写し取られたような印象を与えている。線描を描く際に、手の圧力で思わぬところに絵具の面が 移ることも。天地に、水彩の「たらし込み」によるグラデーションを施して空間を上下から挟み込み、つなわたり師のパフォーマンスの緊迫感を際立たせでいる。油彩転写によるかすれたような線が独特の味わいを生んでいる。複数の遠近法で描かれた幾何学的な構造物からは、同僚たちと影響を与え合ったバウハウス時代のクレーの充実した環境が推察される。
古都ヴアイマールで教育と創作に専念
18世紀後半にはゲーテ(1749〜1832)とシラー(1759〜1805)という二人の文豪が暮らしたヴァイマールは、ドイツ中東部のなだらかな丘陵地帯に広がる由緒ある小都市である。城と庭園が美しい風景になじんでいる。クレーが家族と住んだ家は、庭園に沿ったアム・ホルン通りに今でも残されている。
設立当初からバウハウスには、旧大公立美術学校派と前衛芸術派との間に対立があった。予算は乏しく、学長グロピウスは学生の食糧確保にまで努力しなければならなかった。それでもクレーには幸福な時間に思えただろう。家事から解放され、授業と制作に専念すればよかった。
教師陣にはカンディンスキーのほかイッテン(1888〜1967)、シュレンマー(1888〜1943)、モホリ=ナギ(1895〜1946)らの才能がそろっていた。クレーは学生たちの作品を講評・指導する一方で、自作を見せて造形理論を展開した。教育者クレーは、講義のためのメモをもとに多くの著作を残している。
オレンジ、青、墨 そのグラデーションが織りなす美 左図<襲われた部屋>1922年 水彩 墨 鉛筆/紙 厚紙 ベルン・クレーセンター 地下世界を思わせる場所が描かれているが、クレーの眼目には色彩のグラデーションにあった。透明水彩の性質を利用したこの手法は、まず明度の高い色(薄い色)を全面に敷き、徐々に濃い色を塗り重ねて行く。この作品には オレンジ・青・墨しか使われておらず、明度のバリエーションが豊かな画面を創出している。