生涯と作品-3
ヨーロッパの芸術運動
カンジンスキーとともに
デッサウヘと移転した新しいバウハウスでの日々
ヴアイマールを追われたバウハウスに救いの手を差しのべたのはデッサウのヘッセ市長だった。バウハウスに反対する市議会右派を押さえ、彼はグロピウスに校舎と教員住宅の設計を依頼した。
現代建築の記念碑ともいうべきバウハウス校舎と教員住宅が完成したのは移転の翌年、1926年のことで、主な教授陣が3棟の教員住宅に移った。クレー家の隣にカンディンスキー夫妻が暮らし、彼らは庭のテラス越しに毎日顔を合わせた。2階北側に壁一面ガラス窓のアトリエがあり、バウハウスを去るまでの数年間、クレーはここで存分に仕事をした。
グロピウスは財政難を解消するため、学内の各工房が開発した製品のライセンス販売にも努力した。しかし、再出発からわずか3年後、グロピウスはバウハウスを去り、建築家ハンネス・マイヤー(1889〜1954)が後任に就いた。これまで基礎教育を担当したクレーとカンディンスキーは自由絵画教室を新設して、自らの創作と教育の融和を図った。
クレーの絵画と音楽
あああ
エジプトの思い出
規則的でまっすぐ本通りとジグザグの脇道、どちらを通る?<本通りと脇道>1929年 油彩・キャンバス83.7×67.5㎝ エジプト旅行の成果として最も有名な作品。
絵画を「立体物」ととらえて独自の風合いを創出した
クレーにとっで芸術の表現とは、旧約聖書「創世記」にあるような神の創造に似た行為であった。彼はそれまで絵画には用いられをかった、意外な画材や工夫を凝らした方法で描くことに熱した。そしで、教自の見栄えの効果や奥行き、色彩の重なり、マチエール(絵の肌触り)を得て、新しい絵画世界を創出した。クレーにとって、絵画とは「立体物」であったのだ。
例えば、立体的なマチエールを生むために、クレーが考案したのが「糊絵具」である。これは、必ずしも糊だけを色素に混ぜた画材ではなく、不明な薬品も混入されている場合が多い(後年の皮膚硬化症は、そぅした薬品の影響ともいわれる)。 また、カンヴァスをあまり用いずに、板、石膏ボード、ハンカチーフ、ガーゼ、麻袋、新聞紙などの生活資材を愛用した。キュビスムの画家たちのコラージュなどにヒントを得て「現実感」を演出したのである。
西洋絵画の伝統を超えて発展する、月と星
「月」は古来、女性性あるいは母性の象徴とされてきた。とくに三日月はギリシア神話の女神で「純潔」の擬人像でもあるディアナの持物として、古くから西洋絵画に描かれてきた。一方、「星」も、古代ギリシア・ローマ時代には神々そのものとされ、やがでキリスト教と結び付き、多くの意味が与えられた。なかでも聖母マリアは「海の星」と呼ばれ、ルネサンス絵画では、聖母のマントの肩にしばしば星が描かれた。
しかしクレーの作品においては、伝統的な意味が作品を解釈する際にヒントを与えることはあっても、これらのシンボルは、変幻自在に意味を変える。例えば星は、ユダヤの象徴であったり、神秘的な場所を暗示する役割を果たしたりもする。クレーは西洋絵画の伝統的なモチーフも、その作品のなかで独自のシンボルに昇華させたのだった。
<左図>月と植物で示されたクレーの女性観 「花の神話」1918年 水彩・チョーク/ガーゼ・新聞紙・紙・厚紙29×15.8㎝
<右図>自由な線が躍るクレーの宇宙 「この星はお辞儀をさせる」1940年 糊絵具/紙・厚紙29×15.8㎝
故国を追われた画家はスイス亡命を決意する
1933年3月末、当局によリデッサウのクレー宅の家宅捜索が行われ、立ち退きを通告された。深刻な危機感を覚えたのは妻リリーだった。夫妻は5月にデュッセルドルフに転居。しかしすでに教授職の解雇を示唆されていたクレーは、亡命を決意する。そしてクリスマス前夜、クレー夫妻は相次いでベルンの父ハンスの家にたどり着いた。身の回りのものだけを持って、家財道具も作品もデュッセルドルフに置いたままだった。
ベルンに逃れて半年後、家財道具と作品、それに絵の道具の到着を待ちながらクレー夫妻は町外れのアパートに居を定めた。辛うじて一室を7トリエに充てることはできたが、そこは無名時代に暮らしたミュンヘンの家を思わせる質素な住居だった。 翌35年2月、ベルンの友人たちはクレーを支援するため、大規模な展覧会を開く。主にバウハウス時代の作品270余点が展示され、大半は売却の対象とされた。このときベルン美術館の友の会が購入したのが代表作《パルナッソスヘ》である。
病と闘い続けた最期の日々
失意のうちに過ごしたクレーの晩年は予期せぬ病との闘いだった。35年の夏、彼は気管支炎を患い、10月には慢性肺炎を併発。その後も体調が戻らないクレーに医師は麻疹との診断を下したが、それは5年後にクレーの命を奪うことになる難病、皮膚硬化症の最初の兆候だった。起居にも不都合が生じ、喫煙とヴァイオリン演奏を断念。制作数も36年には激減する。しかし39年の作品目録の余白に「Nulla dies sine linea(線を引かぬ日はなし)」とローマの賢人プリニウスを引用して書き込み、クレーは力を振り絞り絵筆を握った。 発病後、まるで迫り来る死に抗うかのように、これまで描いたこともない大作を次々に仕上げるクレー。晩年様式と呼ばれるそれらの作品群は、画家が到達した創造の奇跡であった。
1940年、南スイスの療養施設に入院する5月初旬まで、クレーは制作の手を休めることがなかった。そして6月29日の朝、マッジョーレ湖を見下ろす療養院の一室で、妻リリーに看取られ、画家は60年の生涯を閉じた。