第1部 ケーテ・コルビッツの出発
■第1部 ケーテ・コルビッツの出発
■社会へのまなざし
芸術家としてのケーテの本格的な出発は、1885年ベルリンの女子美術学校に入学した頃から始まる。だが、それ以前にケーテに絵を描く才能のあることを見きわめたのは彼女の父であり、すでにケーニヒスべルクで銅版画家に学ばせていた。ケーテの父は、開明的な一家の教育的・宗教的雰囲気の中で彼女が有能な芸術家に育つことを期待していた。
ケーテ自身も、自分の容貌や性格をも含め、何事にも非常に自覚的であり、すべて意識的に学ぶ傾向が強かった。美術家としても、色彩家としての才能よりも素描家としての才能を伸ばすことを早くから自覚していた。作品の主題も、常に自分や家庭環境の倫理的・宗教的精神や思想的・実践的態度を反映したものとなっている。
笑いや微笑の少ない、真剣な表情の自画像が生涯を通して多いのも、この作家の特徴である。しかし、ケーテは、決して内向的な性格ではなかった。ケーテは自分について妹と比べながら言っている。「わたしは功名心がさかんであったが、リーゼはそうではなかった。私には目標があった。」「わたしはこの途に徹する以外のことは、何も考えなかった。もしできることなら、わたしは自分の全部の精神的資産をあげて芸術の途に捧げ、この火をあかあかと燃えさせたいと思っていた。」(日記2003、29頁)
『織工の蜂起』は、最初の連作版画(石版画と銅版画)で、《困窮、死、協議、織工の行進、襲撃、顛末》の6つの場面からなっている。制作上の動機は、ケーテとほぼ同時代を生きたハウプトマンの『織工』に基づく。しかし、この戯曲における諸場面の描写ではない。ケーテはこの作品を自由国民劇場で見て、深い感銘を受け、この連作版画で「一流芸術家の仲間入り」をすることができた。『織工の蜂起』の最終場面には3つの部分からなる象徴主義的な場面が構想されていた。≪「多くの傷口から血を流す汝、国民よ」》(上図・上部分)《踏みにじられし者たち》(上図左下)≪窮乏と貧困の恥辱》(上図右下)などは、それに関連する作品である。しかし、この構想は断念され、一貫したリアリズムを保持することを選択した。
≪カルマニョール》は、『織工の蜂起』と「農民戦争』の間に生まれた作品で、ディッケンズの『二部物語』を読んで構想を得た。カルマニヨールとは、フランス革命期に流行した革命歌や輪舞を意味する言葉。ギロチンの周りで、歌と踊りに熱狂する民衆の恐ろしいほどのエネルギーが捉えられている。
『農民戦争』は、ルター時代の宗教改革期に起こったドイツ農民戦争(1524−25)を扱った連作銅版画。だが、必ずしもその歴史的・具体的諸場面を描いているものではない。場面は、《耕す人、凌辱、鎌を研ぐ、アーチの下での武装、蜂起、戦場、囚われた人々》(上図8作品)の7つの場面からなる。これは、『織工の蜂起』における<悲惨な現実一闘争一敗北>という展開とほぼ重なっている。しかし、『織工の蜂起』と『農民戦争』では、その造形的性格はかなり異なっている。『農民戦争』は数多くの構想や習作を経て全体的にフォルムが大胆になり、単純化の傾向を示している。その結果、きわめて迫力があると同時に象徴性またはモニュメンタリティを帯びた作品が見られる。F.エンゲルスに『ドイツ農民戦争』(1850)の著作があるが、ケーテは、少なくともW.ツィンマーマンの『大農民戦争全史』を読んでいたようである。(R.F.)
■自画像について
コルヴィッツは数多くの自画像を描いている。素描もあれば版画も彫塑もある。その生涯を作品によってたどれば、様々な年代、様々な表情のコルヴィッツに出会えるだろう。本展でも20代から70代まで、20点あまりの自画像を目にすることができる。ゆっくりと、だが確実に老いてゆく姿。飽くことなくその姿を見つめ続け、真正直に自分と向き合っている。コルヴイブソは絞り込んだいくつかの対象を長い時間をかけてじっくりと追い求めてゆく人だった。その彼女の姿勢は自画像にもあてはまるのだ。本展を訪れた人々をまず出迎えてくれる自画像はケーテの笑顔だ(上図右上)。まだ幼さが残る、少女のように屈託のない笑顔。ケーテは十代の初め、生地のケーニヒスべルクで美術の勉強を開始し、ベルリンの女子美術学校へ進んだ。さらにミュンヘンでも画業の研錬を重ねている。ここにはミュンヘンでのびのびと画学生の生活を送る姿が活写されている。多くの友人に恵まれ刺激的で幸せな生活を送っていた21、22歳のケーテ。この時期、彼女にはもう婚約者がいた。相手は兄の友人でケーテの幼馴染、カール・コルヴィッツである。けれども、「ミュンヘンの生活が自由で居心地抜群だったので、早々と婚約したのが果たして賢い選択だったのかという思いがわいてきた」と書いている(1941年の回想より/Tagebucher.S.739)。右肩の横に旧姓「シュミット」をあらわす「Schm.」の署名が入っている。1892年頃の2点の自画像(上図・上左・中2点)は一枚の紙の両面に描かれている。まっすぐな眼と、少し横向きのものだ。これらの素描の自画像や<手の習作〉などに、確固としたデッサン力が発揮されていることはいうまでもないが、同時に、空間的にモティーフを把握する傾向が現れている。
立体作品に取り組むことへのこだわりがここに感じとれる。光の表現を意識したような繊細なべンの運びと、それとは対照的な筆による大胆な陰影づけもこの頃の特徴だ。1892-94年頃の<バルコニーの女性 自画像〉(上図左)、<祈る少女〉(上図右)、〈机に向う自画像〉(二つ上の図・左下)、これらも自分自身がモチーフである。現実的な面でいえば自分自身こそがもっとも身近なモデルだったのだろう。またく教会の壁で〉(下図左)や<腰掛ける女〉(下図中)、
〈揺りかごのそばの女〉(上図右)など、自画像とならんで終生、描き続けることになるベルリンの貧しい労働者たちの姿もある。また当時のコルヴィッツは「物語を感じさせる光景を描くこと」に心ひかれていたようだ(Tagebucher,S.307,1917年3月5日)。〈皇帝の誕生日(二人の男)≫(下図左)や〈居酒屋での喧嘩〉(下図右)、《『ジェルミナール』からの場面≫(二段下図)などがそのタイプだ。彼女の言葉のとおり、これらの素描にはたしかに演劇のワンシーンのような緊張感が感じられる。この傾向は「織エの蜂起』と「農民戦争』というコルヴィッツの名を世に知らしめることになる二つの連作へと展開されてゆく。(M.S.)
■版画連作『織工の蛭起』1893−1898年全6点
コルヴィッツの最初の連作版画。この作品によりドイツ国内において挿蒙として一躍注目され、海外においても評価されることとなった。全6点の構成で、第1〜第3葉の前半部がリトグラフィー(石版術)、第1~第6葉の後半部は銅版技法によって制作されている。
1893年2月26日、25歳のコルヴィッツはベルリンの自由国民劇場で「織工」という演劇の初舞台を観る。劇作家ゲルハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann/1862−1946)によるこの戯曲は、コルヴィッツの時代の半世紀前の1844年にドイツとポーランドとの国境沿いのシュレジェン地方で起こった、機織りたちの反乱を題材にしたものである。1884年(14歳)からハウプトマンと親交を持っていたコルヴィッツは内覧会に出席して観劇し、深い感銘を受けてこのテーマを作品化しようと決意したのであった。
「織工」の劇の舞台となった19世紀中頃のドイツでは、労働者たちの生活は各国よりも遅れてやってきた産業革命の波に脅かされ貧窮に喘いでいた。資本家たちは織工が家内労働で生産した布を安く買い叩いて販売し、それを資金源に工場の機械化を進めようとした。このた織工たちの生活は追い詰められてついには蜂起するが、結局は敗北に終わっている。なお、この劇は当初1892(25歳)年に上演される予定であったが、社会性の強い主題ゆえに政治的な圧力で一旦は見送られ、翌年になってようやく初演にこぎつけている。
この演劇に触発されたコルヴィッツは、当時取り組んでいたエミール・ゾラの「ジェルミナール』を題材にした仕事をただちに取りやめて「織工の蜂起」の主監に没頭している。この連作の誕生の背景には、コルヴィッツ自身を取り巻く状況もおおいに関係していた。1891年以後、貧民区の医師であった夫カールとともに北ベルリンの労働者街に住んでいたコルヴィッツは、民衆たちの困苦を目の当たりにする生活環境いたが、この状況下で観た『織工」は厳しい現実のなかで生きる人間存在への凝視を呼び起こしたのだった。1893年には油絵とエッチングを「ベルリン自由美術展」に出品して批評家のユーリウス・エリアスに支持される一方、知己となっていたハウプトマンを訪ねたりしながら構想を練った。そして6年の歳月が費やされて1898年(31歳)に連作版画として完成している。シリーズは死が忍び寄る織工たちの悲惨な生活に始まり、反乱の企てと蜂起そして悲劇的な結末へと展開されていくが、劇の場面や事件のエピソードをそのまま描写するのではなく、美術家ならではの独自の解釈で造形化している。シリーズの題名に関しても、ハウプトマンの演劇タイトルである「織工」(Der Weber)や定冠詞付きの歴史用語である1844年に起きた「織工蜂起事件」などの名称をそのまま転用することはなく、あえて不定冠詞を付けた「織工の蜂起」とすることで、特定の事件を指さない普遍的な意味を込めたのであった。
リトグラフと銅版画という二つの異なる技法でシリーズが構成されているのは連作版画としてはきわめて異例であるが、これはコルヴィッツが1890年前後(23歳)にはいまだ銅版の技法に深く精通していなかったためであり、銅版画家としての習熟への移行期であることを示している。完成に至るまでには数多くの下絵素描や習作版画が試みられたが、とくにシリーズ前半の3点は銅版とリトグラフの両方の技法で制作され、最終的には完成度の高いリトグラフの方を連作に採用している。練り上げられた緊密な描写に基づく画面には、重いリアリズムのなかにも19世紀的な象徴主義をかいま見ることができ、マックス・クリンガーやエドワルド・ムンクなど北方の造形的伝統を拠り所にして、独自の境地を妬いていった初期のコルヴィッツの姿が浮かび上がる。作画的に見ても、遠近法の伝統に基づき前景・中景・後景などの設定軸に沿って人物モティーフを配しながら、奥行きのある空間の中に物語を紡いでいる。なお当初この連作版画の末尾には、宗教昧を帯びた象徴的な作品<「多くの傷口から血を流す汝、国民よ」〉(Kat・−Nr・22)が予定されていたが、最終的には切り離され連作はリアリズムに徹したものとして完結された。
「織工の蜂起」は1898年(31歳)にグルリット画廊での「女流芸術家展」で発表されたのに続いて、同年の「ベルリン大美術展」でも展示され、審査員であったドイツ美術界の大御所アドルフ・フォン・メンツェルらの称賛を得て「ベルリン・サロン小金メダル」賞を授与する手続きがなされた。しかし社会的な主題を扱う芸術に対して嫌悪感を抱いていた当時の文化大臣の反対により、皇帝ヴィルヘルムニ世はこの申請を却下している。
このような処遇にもかかわらず、1899年には画家のマックス・リーバーマンの推薦によってドレスデンでの「ドイツ美術展」でメダルを受賞し、さらに1900年に海外のロンドンでも賞を受けている。またこの作品の成功を契機として、ドレスデン版画収集館が彼女の版画を購入し始めるなど、公的なコレクションがコルヴィッツの作品に関心を抱くようになっていった。(S.M.)
■第2部 日常の中の生と死
■暮らしをみつめて
ケーテは1886年、兄の友人で医学生のカール・コルヴイヅソと婚約した。その後、カールがベルリンで裁縫職人の健康保険医となったので、生活の目途がつき、91年に結婚した。そして、ケーテは夫の仕事を手伝いながら芸術家としての道を歩もうとしていた。ケーテの父は芸術生活と結婚生活を両立させることに悲観的だったが、選んだ道はまっすぐに進むようにと助言している。こうしてケーテは1891年1月北ベルリンの家に入り、そこに50年間も住むことになった。第2部では、必ずしもケーテ自身の生活から直接その主題がとられたわけではないが母と子をモティーフとした作品を中心に、その他、過酷な状況を生きていく人間(女性たちや子どもたちを扱った作品が多い)を描いた1917年頃までの作品を見ていく。
まず、1903年の≪女と死んだ子ども》(上図)。同名のエッチングは多くのステートがある重要作品。掛こ後者は人間的というよりも、より激しい本能的・動物的とも言える慟哭(どうこく・声をあげて激しく嘆き泣くこと)が感じられる。女の肉体そのものは、画面いっぱいに描かれた大きなフォルムによって達しく捉ぇられ、悲痛にゆがんだ顔は、子どもの体の中に深く埋もれている。
1910年(43歳)ごろになると≪死と女と子ども》(上図)の主題が現れる。ここでは、子どもを生の領域に踏みとどめようとする女と死との争いが見られる。同年の別の系列である≪死と女》では逆に背後から母親が死に絡め取られようとしている。それを子どもが何とか生の領域に引きとどめようとしているかのように懸命に引っ張っている。裸女の絶望的な表現にはミケランジェロ風の力動的な肉体表現を思わせるものがあり、これに対して、前者では、より静的で象徴的・神秘的な気配が濃厚である。
《青いスカーフをした女性労働者の胸像》(上図左)、<乞う女≫、≪娼婦>、これらは、第2部にかて、ケーテの作品の中でもとりわけ強い印象を与える。女性たちは、優美な方向に向かっては少しも理想化されていない。むしろ、その逆である。ケーテはこうした女性たちにこそ真実の美を見出す。
≪待望》は、不安を抱きながらの待望であり、それを象徴的に表現した作品0第1次世界大戦に出征した兵士の帰還と関連している。しかし、ケーテの次男ぺーターは、ケーテ自身の<待望>を満たすことはなかった。1914年10月、ぺーターは戦死した。
≪1906年のドイツ家内労働展のポスター》(上図右)も単純な画像ながら強烈なインパクトを与える。下からの光線によってモデルの相貌が闇の中から浮かび上がっている。当時の支配者層に、このような作品は、ある無気味さ、もしくは嫌悪感を与えた。しかしケーテに とっては、これらの作品はいずれも人間の生と死、もしくは愛と死を凝視しようとしたところから生まれた作品である。死を対極に置いた生、または愛こそケーテの究極のテーマであろう。
社会の中で経済的に困窮している人間、そうした人間が生きていく上で見せる真実の姿、人間が懸命に労働している現実の姿などに心を惹きつけられ、そこに美を見出す感受性、これは実際ケーテの中に幼いころから芽生えていたものである。後からイデオロギ一によって導き出されたものではない。「わたしが描写に当たって、ほとんどいつも労働者の生活をえらんだ本来の動機は、この環境からえらんだモティヴ は、わたしには単純で、かつ無条件に美しいものとして感じられたからである」(日記2003、60頁)とケーテは、はっきり言っている0(R・F・)
■版画連作『戦争』1921−23年
7枚組の木版画集。コルヴィッツの版画連作としては3番目にあたる。主題には、先行する2つの連作からの確かな継承が感じられる。一方で、表現においては明瞭な深化と、新しい展開が見られる。その背景には、前シリーズ「農民戦争」から本連作までの間に、第一次世界大戦と、志願した息子の死に遭遇し、主題が単なる画題であることを越えて内面に抱え込まれ、心に刻まれたことが大きかったと考えられる。体験が、作品構想のプロセスで徐々に客観化されていったとしても、不必要な物語的・説明的要素の再び入り込む余地はなく、それは、この版画集の大きな特徴になっている。
また、本連作が前2連作と相違するもう一つの理由は、既にコルヴィッツが、多様な表現手段の模索を始めていたことにもよる。この「戦争」シリーズは最終的には木版で制作されたが、それを最適だと決意し選択するまでには、多くの試行錯誤があった。コルヴィッツは、銅版画(とりわけ「農民戦争」シリーズ)によって既に達成していた構成力を基盤とし、石版による試作や、関連する彫刻の構想との間を行きつ戻りつしながら、7枚の構図をそれぞれ幾度も考え、削ぎ、練り直していった。現在私たちが目にしている版画集にしても、それが最終的な「回答」だったのかどうかはわからない。表現される内容(主題)と表現する形式との間の偽りのない関係に挑んだコルヴィッツの、迫力に満ちた問いであったような気さえする。たとえば、第3連<両親〉は、1920年の素描や石版画などから、1932年のロッヘフェルデ(ディクスムーデ)の軍人基地の<父〉と<母〉の群像(下図)へと至る、長い道程の途上に位置する作品である。
第5葉<未亡人Ⅱ〉のように、第7ステートの段階で半身から全身へと構図が変えられた作例もある。第6葉<母親たち〉も、(両親〉同様、後に小群像(母親の塔〉へと発展していくことになる。もちろん銅版連作時代にも試行は繰り返されていたが、木版や彫刻、さらにはポスターなど、選択できる手段の増加が、翻ってコルヴィッツの版画表現の幅も広げたであろうことは疑いない。とりわけ、1910年代の彫刻の試み(と一種の挫折)が、版画制作上にも何らかの影書を与えていた可能性は高い。上述した物語的・説明的要素の排除も、彫刻的造型思考と全く無関係であったとはいえないであろう。
そして、この時期の木版の試みは、再び、次なる彫刻群の制作へと引き継がれていく。連作「戦争」は、1920年代以降コルヴィッツが目指していた造型上の展開である「木版を経由して彫刻へと至る」道筋を確実に示しながら、その時点で可能な限りの力を尽くした渾身の版画集だったと言うことができるだろう。
■版画連作 『プロレタリアート』全3点より≪飢餓≫
連作『プロレタリアート」は3点の木版画からなっており、アカデミー展に出品するために1925年(58歳)に制作された。「プロレタリアート」とはドイツ語で「労働者階級、無産音階級」をさし、コルヴィッツが生涯を通じて取り組んだテーマである。この三連作では、失業と飢餓と死という、貧しい労働者の家庭を襲う三つの不幸をテーマに選び、それを「トリプティーク」、つまり「三幅対」(さんぷくつい)として構想している。三幅対というのは、中央と右と左、合計三つの画面が組みになっている作品のことで、もともとは教会の祭壇に用いられた形式だ。祭壇画の場合、左右の画面が中央部に蝶つがいで結合されて、扉のように開閉できる仕組みなっていることが多い(そのため左右の画面は「翼部」と呼ばれる)。
プロレタリアート』の三幅対は、実際に祭壇のように組み立てるわけではないけれども、この宗教性の強い三連祭壇画の形式を借りている。なお、1893−97年の≪「多くの傷口から血を流す汝、国民よ」≫(上図)は一画面の中に三幅対を作り出しているし、1900年の〈踏みにじられし者たち≫(下図下部分左)でも三幅対のかたちを借りている。この連作では向かって左にそ失業都(36×30cm)、右に〈子どもの死≫(36・5×27・5cm)、中央に〈飢餓〉(58.4×42.馳m)が配置されている(本属ではこの2作品は展示されない)。
サイズからわかるように、中央の<飢餓>の画面がもっとも大きい。また、左右の作品がそれぞれ3ステート程度で完成しているのに対し、<飢餓〉には15段階にものぽるステートがある。本展では15ステートのうち貴重な初期の段階の9ステートに試作も加えて全部で11点を展示し、コルヴィッツの創作のあとをたどった。この過程を見てゆくと、錯綜する線が整理されて、線も形態も単純化されてゆく中で、図像は象徴性を帯び、個々のモチーフが全体としてひとまとまりとなって見る者に強い印象を与えるようになってゆくのがわかる。一度目にしたら忘れられない訴求力の強い画面を生み出すコルヴィッツの手法である。
試行錯誤の末に作りあげた本連作だったが、長男ハンスには「前の繰り返しで、あまり気に入らない」作品だったようだ。ハンスがそういう感想をもったのは、<飢餓〉が<ウィーンは死にかけている」〉のポスター(1920年制作)を下敷きにしていたせいかもしれない。そしてコルヴィッツは、「ハンスがこんなことをいうのはほとんど初めてのこと」で「残念」といいつつも、「ハンスのいうことにも一理あるのだろう」と認めてもいる。なぜなら、「この連作は悪くない、いや、いい出来だと私は思うけれど、私のなかで昔の作品ほど切羽詰った必要性に駆られて作ったわけではないから…」と書き留めている(Tagebucher,S.604,1925年11月1日)。(M息)
■第3部
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■第4部 別れ
■来るべき世代にたくすもの
『死』は、8点の連作石版画。この連作は、《死に身をゆだねる女、死が少女を膝に抱く、死が子どもたちをつかむ、死が女を襲う、路上の死、死が友として認識される、水中の死、死の呼び掛け》(下作品群)からなる。この連作のうち、最初の作品(今回不出品)と最後の作品は、それぞれ、差し伸べられた<死>の手のみが描かれている。また≪死の呼びかけ》におけるモデルは、ケーテ自身とされる。
<死>は、西洋の伝統的な図像では、しばしば骸骨の姿で表され、マントや頭巾を被っている。ケーテの作品でもこの画像伝統の名残が見られるが必ずしも骸骨としては表現されていない。ケーテの作品では擬人化された<死>は描かれていても、背後から描かれていたり、茫漠とした暗い影の中にあったりして、作品の享受者や第三者からその顔はあまり見えないように描かれていることが多い。それゆえいっそう無気味でもある。そこにその顔を誰もはっきりとは見たことがないが、確実に存在し、突然に訪れ、子どもたちにも襲いかかる<死>の非情さや無気味さが暗示されている。<死>は襲われたものにしかその姿を現さないのである。
ただ、ケーテ自身がモデルになっていると思われる《死の呼びかけ≫において、もはや<死>は恐怖や不安の対象としては表現されているようには見えない。ここでは<死>は、それほど非情な存在ではないようであり、むしろ対話が可能な存在のようにすら見える。
貧困による死、病による死、事故による死、息子ベーターのような戦死、様々な死があり、ケーテもこれまで≪カール・リープクネヒト追悼》(下図)のような強制された悲惨な死や幼い子どもの死などを描いてきた。時代状況から見れば、事実そうなのであるから、理不尽な死がまた強制されようとしているように思えたに違いない。もちろん、誰も死そのものから逃れることはできない。だが、強制された理不尽な死は誰も受け入れることができない。確かに今やケーテ自身も、死の呼びかけが聞こえる年齢となり、それとの対話を始めているのかもしれない。ケーテはこの「死の呼びかけ」がどんなものか見極めようとしているのだろうか。
ケーテの作品は、人生における愉悦的な側面をあまり描いていないことは確かであろう。「人生には愉快なこともあるのに、なぜお前は悲惨な面ばかりを描くのか。」ケーテは、父のこの疑問に答えることはできなかった。だがケーテがプロレタリアの生活を描くのは、もとより同情や共鳴から描くのではなかった。まして多くの作品を社会主義国家のプロパガンダやイデオロギrへの奉仕としてのみ描いたとは思われない。むしろ彼女にとって、それは「単純に美しい」と感じられたから描いたことを彼女は強調する。
だが<死>の場合はどうなのだろう。死はやはり美醜の問題を超えている。それはおそらく「単純に美しい」ものとは言えない。むしろケーテが自らテーマとして描いたものは、描くことがそのテーマに対する彼女の思考そのものであったからと思われる。高い意識を持った彼女はもちろん言語によって考えることもできた。しかし、彼女が制作することは、彼女の方法で最も深く考えるということであったに違いない。(R.F.)
■版画連作『死』1934年-37年
コルヴィッツは生涯に四つの版画連作を制作した。その最後がこの連作である。画家が選んだテーマは「死」だった。リトグラフ8葉からなり、本展ではそのうち第2葉から第8葉までの7点が出品されている。1934年(67歳)から37年(70歳)にかけて、画家60代の後半に制作されたが、60歳を迎える頃には早くもその構想が浮かんでいたようだ。日記には「死をめぐる版画を制作せねば「必ず!」「必ず!」「必ず」と強い調子で書きつけている(Tagebuer,St624,1927年2月13日)戦争、飢餓、貧困…どれも画家が長年こだわりつづけてきたテーマであり、そこにはいつも「死」が内包されていた。いわば「死」はコルヴィッツの作品の多くを貫く通奏低音といってもよい。一例をあげれば、画家40代の1910年頃には「女と子どもと死」という主題があらわれ、骸骨の姿の「死」が裸体の女を羽交い締めにしている壮綾なエッチング<死と女〉(Kat.-Nr.67)でひとつの頂点に達している。本連作になると、「死」の表情は単調ではなく、各葉でさまざまに変化に育んでいる。生涯にわたって取り組み続けたこのテーマの集大成にふさわしいといえよう。大胆なチョークの運びと簡潔な描写とがこの連作のもつインパクトをさらに高めている。
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