生の芸術(アール・ブリュット)
■生の芸術(アール・ブリュット)
倉敷市立美術館学芸員・佐々木千恵
ジャン・デュビュッフェは生涯、西洋美術の歴史の主流に参与することなく、精神病者や霊媒など、いわば美術の世界の枠外にいる人々の芸術、すなわちアウトサイダー・アートを称揚し、それらを〈生の芸術(アール.ブリュット)〉と名付け、一般への認知に努めつつ反伝統・反文化的立場を旨とする独自の芸術思想を展開した。同時代の画家と距離を置いたデュビュッフェの態度はいかにも特異であるが、デュビュッフェより前の世代のアヴァンギャルドたちは、非・西洋の美術−いわゆる“未開”美術や子供の美術、原始美術、精神病者の美術へ強い関心を寄せ、自らの芸術理論や作品に積極的に取り入れるという点で、デュビュッフェの先鞭をつけている。
本論では、〈生の芸術〉前史としてこうした先駆者たちによる美術の枠の拡張、更にデュビュッフェ自身によるその更新を外観し、<生の芸術〉という分類の持つ意味を考えてみよう。
精神病者が制作した作品は、前世紀末頃から精神病医によって精神分析の対象となると同時に、芸術作品として認知されるようになる。その先駆的な仕事として、精神病者の作品を収集したオーギュスト・マリイ博士は1905年パリのヴィルジュイフ精神病院に自らのコレクションによる「狂気の美術館」を設立する。
また、デュビュッフェが接触した精神科医の中でも、スイスのヴァルター・モルゲンターラー博士やシャルル・ラダム博士らの広範なコレクション等、今世紀初頭より精神病者の作品は保管され、単なる精神分析の材料としてでなく芸術作品として衆目に触れるようになるのである。更に精神病者の作品に多くの芸術家の注意を引きつけた、重要な著作にハンス・フォン・プリンツホルン博士の『精神病者の芸術作品(1922年)がある。博士の患者の作品のコレクションは既にドイツ国内で公開されており、この本はクレーらドイツ表現主義の作家たちやシュルレアリストたちに多大な影響を及ぼした。
そして、〈生の芸術〉に対するデュビュッフェの関心のきっかけともなった。絵画的創造性は万人にあるが、文明の発達によりこの創造的衝動は隠されてしまうというプリンツホルン博士の観点は、後のデュビュッフェの〈生の芸術〉の理念に明確に反映される。この本に接したデュビュッフェは「全てが許され、全てが可能であることに気付いた。精神異常の美術に対する関心と、制度化した文化に対する拒絶は、1920年代には大いに広まっていたと述べている。また同じ頃、兵役に服して気象台で働いていたデュビュッフェは、幻視者クレマンティーヌ・Rの雲のドローイングに出会い興味を引かれ、幾点かを入手している。
デュビュッフェはドイツ表現主義、中でもクレーに関心を寄せていたが、前世紀末から児童画の研究が盛んであったドイツにおいて、表現主義の作家たちは子供の芸術、更に“未開”美術や精神病者の美術を歴史的進化の原点にある始源の芸術として早くから評価していた。クレーのユーモラスでグロテスクな人物像は、デュビュッフェの人物像との親しい源泉を示している。デュビュッフェと同じく、高度な文化を身につけた洗練された知識人であるクレーは、最も新しい芸術にとって子供や精神病者の芸術は極めて有益であること、また彼らが現存の芸術を吸収し模倣しだすと、彼らの作品の価値が失われることを述べている。
1920年代デュビュッフェは詩人マックス・ジャコプとの交流を通しダダの芸術に触れており、非伝統的芸術に従来の芸術を侵犯する力を見いだす反文化的なダダの精神を、デュビュッフェはダダから引き継いでいるといえる。早くも1919年ケルンでのダダの展覧会では、精神病者の芸術が前衛芸術と関連づけて一般に公開されており、アフリカ彫刻、素人の作品、児童画、ガラクタ、精神病者の作品とダダの作品が並列して展示された。文化の抑圧から免れ、人間に普遍的な創造性を探究するこぅした展示法は、後にアヴァンギャルドを断罪するナチスの≪退廃芸術展≫において逆用されることになる。
またアウトサイダー・アートの一般認知における功績という点で、シュルレアリストとの共通点も多い。シュルレアリスムのオートマティスムは、意識に関する精神分析の理論から抽出されているが、同時に彼らはアウトサイダー・アートを積極的に収集・展示したことでも知られている。パリのサン=タンヌ病院では収容患者による芸術表現が奨励され、精神病者の作品の展示・理解に大きな役割を果たしていたが、そこにシュルレアリストたちは出入りしており、数々のシュルレアリスム国際展には同院の精神科医ガストン・フェルディエール博士のコレクションが展示された。2度の絵画放棄後、1942年に再び絵画に戻ったデュビュッフェは精神書者の芸術を探究することにし、戦争末期南仏ロデズの精神病院にアントナン・アルトを訪ね、また当時アルトの主治医だったフェルディエール博士から各地の精神病院の情報を得た。
その後精神医学の世界と事く接触を持ったデュビュッフェはコレクションを充実させることになる。
こうした美術についての著作をガリマール社から出版するため、1945年スイスで作品調査を行ったデュビュッフェは、アドルフ・ヴュルフリ、ハインサヒ.アントン.ミュラー(図1)、アロイーズらを見出しその作品を収集、−狂気”“精神病者”といった言葉につきまといがちの先入観を配慮し、〈生の芸術(アール・ブリュット)〉という用語を考案する。更にデュビュッフェは、通常の文化に影響を受けていない芸術一般にまで、この語の包含する意味を広げた。
▶︎ハインリヒ・アントン・ミュラーくふたつの顔〉1917−22
1948年〈生の芸術〉を収集・展示・研究して世間に広く喧伝する活動を支援するための〈生の芸術協会〉が、ジャン・ポーラン、ミシェル・タピエ、アンドレ・ブルトンらを後見人として発足される。翌年ルネ・ドルーアン画廊で開催された〈生の芸術〉の展覧会のカタログに寄せた『文化的な芸術より好ましい〈生の芸術〉』で、デュビュッフェは〈生の芸術〉を定義して、「芸術文化で汚されていない人たちにより作られ、知識人の場合とは反対に模倣が殆ど、あるいは全く役割を果たしていない作品のことである。作り手は主題、素材の選択、置換の方法、リズム、書法などに関して全てを、自分自身の源から引き出してくる。
ここに見られるのは、全く自らの衝動に従って行動する作り手によって、全ての面において完全に再発明された、洗練されていない純粋な芸術的行為である」と述べている。実際に精神病院を訪問し作品を収集していたデュビュッフェは精神病理そのものには関心を寄せず、精神異常を理由に作家たちをひとまとめにして差別化する社会自体に強く反発していた。「芸術機能はあらゆる場合に同じであり、そこでは胃弱の人の芸術や膝の悪い人の芸術というものが無いのと同様、狂人の芸術というものも存在しないのである」。
1951年〈生の芸術協会〉は解散する。財政的困難と、〈生の芸術〉についてのメンバー間の見識の相違、とりわけ精神病者の作品をシュルレアリスムの枠内で捉え、デュビュッフェの〈生の芸術〉の分類を悪意的と捉えるブルトンとの対立が原因であった。その後アルフォンソ・オッソリオが〈生の芸術〉のコレクションをニューヨークの邸宅で10年以上にわたり管理することになる。同年デュビュッフェはアメリカにわたり、アートクラブ・オブ・シカゴでの回顧展に伴い、〈生の芸術〉の思想を伝える重要な講演「反文化的立場」を行った。そこでは西洋文化における人間中心主義、理性・観念偏重、分析的思考、美の観念などに反発を示し、その反定立として、本能、情熱、情緒、粗暴、狂気などの価値を持ち、自然物などとの全体の関わりで事物を認識する“未開人’’の思惟への憧憬を述べている。そして絵画を未開の思惟の側に置き、絵画は事物を力強く呼び出し、画家の内なる声を表現するため、世界について新たな認識を可能にするとしている。
1962年春には〈生の芸術〉コレクションはパリの〈生の芸術協会〉の新住所に移管され、一種の個人美術館として展示される。またデュビュッフェの重要な回顧展が開かれたパリ装飾美術館では、1967年美術館では初めて〈生の芸術〉の展覧会が開かれた。その後、〈生の芸術〉コレクションの寄贈先探しに奔走したデュビュッフェは、受入先にスイスのローザンヌ市を見出し、同市はボーリュー城内に最初の公立の〈生の芸術〉美術館を創設する。
先達の作家たちのように、常に新しさを求めるアヴァンギャルドの使命から既存の美術を転覆する力をアウトサイダー・アートに求めた図式に組み込むと、デュビュッフェと〈生の芸術〉との関わりはモダン・アートの歴史の一挿話にすぎない。しかし、〈生の芸術〉自体の価値を確立しようとしたデュビュッフェの功績は大きなものであり、また、同時代の美術の動きからあえて身を離し続けたデュビュッフ上の創作活動にとって、〈生の芸術〉への関心は生涯変わらず大きな位置を占めていた。ミルドレッド・グリムチャーは多様なデュビュッフェの作品の内に反響する、〈生の芸術〉の様々な局面を以下のように抽出する。強迫観念的反復、偶然性、オートマティスム、顕微鏡的な眼差しといった〈生の芸術〉の絵画制作上の慣習。透視図法や比率、自然主義的配色の拒否、およびイメージと文字の結びつき。ブリコラージュ[あり合わせの材料による器用仕事]への嗜好。テーマの日常性。目に見える世界の表現ではなく、内なる精神の疎外の表現。
デュビュッフェの全画業を概観してこれらの局面全てについて言及する余裕はここではないが、例えば、〈生の芸術〉作家が自己表現への激しい衝動から、何であれ手にはいる身の回りのものを素材に自己流に制作し、素材との格闘から思いがけない効果を生みだしているように、デュビュッフェの40−50年代の作品においては、非伝統的な素材は、初期の厚塗りから蝶の羽のコラージュ、連作≪はかない命の小像〉≪植物的要素≫(図2)などに代表されるように、創造と独創性の源泉となっている。特定の“天才’’に限らず全ての人間には豊かな創造衝動があるとデュビュッフェは考えるが、生み出されてくるイメージも、物質との執拗な対話によって初めて伝達力を持ちうるまで強化されるといえよう。
(2)ジャン・デュビュッフェく迷えるロバ〉1959 (3)アドルフ・ヴュルフリ(聖アドルフ=宝物二小東屋=鍵》1913(4)スコティー・ウイルソン1950-51
また、〈生の芸術〉作品は強迫観念や体系的な妄想の産物であるため、現実から逃避した、閉鎖的で自己言及的な、独自の驚くほど精緻なシステムを築き上げたものが多く見られる。ヴュルフリの、テクストと細胞状の独特のモチーフが結びついた長大な自伝(図3)や、スコティー・ウィルソンのハッチング技法により編み込まれた反復する形態(図4)などが例として挙げられよう。
〈生の芸術〉への関心を新たに深め、コレクションをアメリカから手元に取り戻した1962年、デュビュッフェは代表的連作<ウルループ≫に着手しているが、ローレンス・アロウェイは、それらを分裂症の作家の作品における凝縮した秩序に類比する。論理的だが人工的で、体系的だが悪意的で装飾的なウルループの世界は、我々が現にいる世界からの逃亡であり、現実に対する空想の代替物を構成するのである。デュビュッフェがユートピアの道具と呼ぶ日常のありきたりのもの(cat.no.82-83)は、輪郭線で区切られ見慣れぬものに変化し、現実世界からの人間の疎外を表している。
■創作音楽
ところで、〈生の芸術〉だけでなく、子供の美術からも影響を受け、また“未開”美術へも関心を寄せていたデュビュッフェであったが、これらは〈生の芸術〉のカテゴリーから外されている。デュビュッフェの定義を繰り返すと、〈生の芸術〉は、美術的訓練や文化的影響を何ら受けない個人による、イメージを作り出そうという内なる激しい欲求のみによって動機づけられた自発的な創造活動である。この定義に従うと、独自の文化的伝統がある“未開”美術や、真の創造へ向かう精神的深みに欠け、観者から影響を受けやすい子供の美術、また文化的伝統をむしろ模倣しようとするいわゆるナイーヴ・アートは、〈生の芸術〉から除外される。
一方、狂気を芸術創造の側面から積極的に肯定するデュビュッフェは、狂気の生み出す他者や世界からの疎外が、内なる現実を探究するよう作家を駆り立て、それが作家の独自性を生み出す点を評価している。「狂気は、慣習によって押しつけられている現実の視点に立つことの拒否を表して」おり、それが作家を独自で新たなシステムの構築へ導く。
「芸術家は、自らに架された押しつけの宇宙を欲さず、それと平行する宇宙を自らの手で作り出す者である。それこそが狂気の定義なのである」。だが〈生の芸術〉の本質が各々の作家の強烈な個人性に存する以上、〈生の芸術〉は終始一貫したカテゴリーでなく、様々なイメージのコレクションで、共通の目的や統一性をその根底に持ちえない。脱文化的か否かという〈生の芸術〉のカテゴリーは、一見厳密なようだが実際に客観的に該当する条件が限定できず、デュビュッフェの主観に沿った、特に根拠のない悪意的なものといえる。
自分自身は文化的芸術の影響を被っており、〈生の芸術〉と呼ばれるに値しないと語るデュビュッフェが、〈生の芸術〉に託したのは、自らの芸術観を確立するための反文化的な真の芸術という位置づけであった。匿名の狂気にうち興じた多くのシュルレアリストと異なり、デュビュッフェは“精神病者”の作品に〈生の芸術〉という名を与え、作家各々の独自性と差異を認め、多数の著述によって公衆からの認知を与え、作品を精神病院から美術館に運んで公共の財産とした。
その結果として、〈生の芸術〉はデュビュッフェの名前や作品と分かちがたい独特のカテゴリーとして美術の歴史の中に位置を占めるようになり、“文化的芸術”となった。〈生の芸術〉の境地に憧れ、閉塞した西洋文化を打破する力を求めつつ、自らを芸術文化のインサイダーとしてのアウトサイダー、内側からの敵と見なし、文化を転覆するのは文化のみであると信じたデュビュッフェの弁証法的自己更新は、まさに西洋近代の思惟によるものである。
〈生の芸術〉が芸術の枠組みの内に取り込まれるという経緯における矛盾は、デュビュッフェの芸術を貫く矛盾でもあり、一芸術家が自己の芸術観を展開しつつ身辺に周縁の芸術を集積していく行為そのものの持つ問題点を、我々に示してはいないだろうか。
(倉敷市立美術館学芸員)
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