■サム・フランシス
▶︎白に至る道
前田希世子(川村記念美術館学芸員)
サム・フランシスがその絵画に「白」を確立したのは1957年であった。彼は画面の大白地のまま残すという西洋絵画史上ほとんど前例のない大胆な試みをし、それ釣40年間の画業において、その「白」は画風の様々な変化に従って、多種多様な我をみせながら、常に彼の絵画の根幹をなすものとして画面に存在し続けた。
作家が残したメモに走り書きされた「君は 永遠から来た あの白なのか」という問いが提示するように、作家自身にとっても白は画業をとおして探求せずにいられない不確定なものだったにちがいない。だが、そもそもあの眩い白は一体どのように彼のキャンヴァスにやってきたのだろうか。1950年の渡仏から彼が世界旅行に旅立つ1957年まで、つまりパリ時代の作品群を制作年代順に考察することで、彼の「白」が生まれる過程を辿るものである。
■白の上の色彩
カリフオルニア大学で美術と美術史を修了したサム・フランシスが、制作の場として選んだ新天地はパリであった。今から考えると、この選択は意外に思われるかもしれない。当時、ポロックやロスコ、ニューマンなどアメリカの作家たちが次々に独自のスタイルを打ち出し、ニューヨークをパリに代わる美術の中心地へと変貌させていった時代に、この若きアメリカ人の渡仏はその流れと逆行するものだったからだ。
パリ到着直後の1950年から1952年にかけて、主に彼が手がけたのは、画面全体を無数の小さな(絵具の)筆致で覆ったモノクローム作品(下図)で、使用した絵具は緑、青、赤、黄、白と基本色のみに限られている。
それらの作品はいずれもメディウムで薄めた絵具を塗り重ね、刻一刻と絶え間なくキャンヴァスの表面の表情が変化するように見受けられる絵画面をつくりだす。それは通常目には見えない空気が、霧の存在や光の差す度合いなど、その時々の自然条件の違いによって見えるものとして提示されるのと似ており、それによってサム・フランシスはおぼろげな奥行きのある広がりをもつ空間を画面に生み出しえたのだ。1952年、父宛の手紙に彼はこう告白している。
「絵が宇宙的な感じになり、さらに大きな空間の広がりを持つようになってきた」。こうした画面の奥に広がる空間や空気感というものは、一見色彩に由来しているように感じられる。なぜなら画面を覆う色味の印象にまず目がひきつけられるからである。しかし、画面の広がりは色彩ではなく、むしろ絵具の透明感であり、重ねられた絵の具から透けて見える白地という要素によって生じているのだ。用いられた色が何であれ、それが薄められて透明となり、下地が透けて見えることによって、色とその背後にある白地の間に潜む空間を感じ取れるからである。
ここでサム・フランシスが一番重要視したのは、白地とその上にある色との関係性であったのではないだろうか。何色を使うかは、おそらく本質的な問題ではなく、明るい黄色、深い赤、又は静謐な白、すべての色が広がりの色となりえ、あらゆる色彩について同様に、その異なった効果を白地の上で実験されていたと考えられる。
この関係はモノクローム作品にとどまらず、当時徐々に展開していた数色の色を加えた作品(上図左)にもみられ、時には塗り重ねられた色彩同士の関係において奥行きを提示するものも出てきた。また、この時期《ディープ・ブラック》(上図右)にみられる、窓のような明確な形態の導入によって奥行きを強調するものも手がけており、それもまた絵画のなかの空間・広がりについてのフランシスの別の関心がうかがわれる。
これらは20年後の70年代にサム・フランシスの制作に訪れる重要な「マンダラ・ペインティンク」(下図左)や「マトリックス・ペインティンク」(下図右)などへの展開を予感させるが、この時期のフランシスの絵画空間を構築する手法としてはむしろ例外的なものであった。
■青という宇宙
1953年、
コンポジション
の「白」の形成へと繋がる重要な制作上の展開が起きる。青を基調とした作品群が集中的に手がけられ、今まで使われていた他のいくつかの基本色をさしおいてこの色に積極的な関心がはらわれるようになったのだ。このことは一見、彼の「白」の形成とは無関係にみえるが、実はこの青こそがサム・フランシスの白を誕生させるうえで、欠くことのできない重要な要素となってくる。1954年に制作された《コンポジション》(下図)にみられるように、この頃の青は絵具の濃度が高められ、透明度が減じているため、下地の自が透けてみえることはなくなる。そのため前年までの作品と異なり、絵具の物質感が強調され、キャンヴァスに留められたその滴りの跡は液体の流動感を生々しく目に伝える。また、無数の筆触の集積として空間を構成するかわりに、いくつかの広い色彩の領域を組み合わせて画面を構築するようになり、それまでのサム・フランシスの絵画が備えていた繊細で多層的な空間とは対照的な平面性が強調されはじめる。
奥行きの減少した画面で、次にサム・フランシスが試みたのは四方に拡張していく運動感をその平面上で実現することであった。1955年に着手された<ブルーネス〉(下図)は、それまであまり使用されなかった横長のフォーマットを7mという大きなスケールで実現し、作家の水平方向への意識をうかがわせる。