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ヨーゼフ・ボイス
■ヨーゼフ・ボイス
▶︎温もりの彫刻
フェルトは温もりの彫刻のすべてのカテゴリー
で、ふつうは脂肪とともに、用いられている。フェルトは脂肪から派生したものである。したがって、フェルトはたしかに温もりという性質を備えている。
つきつめてみれば、温もりという概念はそこにとどまりはしない。わたしが意図するのは、物理的な温もりではない。もし物理的な温もりを伝えたかったなら、パフォーマンスには
赤外線を使ってもよかったはずだ
。わたしが考えていたのはそれとは違ったものだった。つまり、
魂の温もり、進化の温もり、進化の起点である
。
▶︎歴 史
歴史は過程としてのみ生起する。ここでは、比喩として、
進化の過程と呼ぶ
としよう。これははるか彼方・・・
光、温もり、身体性
、そしてついには身体性の精査により到達する精神活動・・・にまでさかのぼり、それがために人間は創造的な存在とみなされる。結びつきはそこにある。概念はそこまでさかのぽれる。
温もりが進化の過程だというのは、その意味だ。
これははるか彼方にまでさかのぼる。
■マルティプル
なぜ
マルテイプル作品
なのか?なぜそれを流布させるのか?……あれ(マルティプル作品)はいかにもダダ風だし、まるで生の素材みたいなのに、話の方は形而上学的、精神的に聞こえるというひともあるだろう。
どういう関係があるのか?ということは、、つまりひとつの物体、たとえば限定制作された作品のひとつ、偶然の産物と、
人間の進化、人間性の理解について語ること
、あるいは政治・・・教育、自由、平等、博愛、といった、近い将来かならず話題にのぼるであろう諸々について語ることにはどのような関わりがあるのか。わたしは(マルティプル作品に)関心があり、
そのことは政治的な変化をめざす思想、哲学的な洞察力を深める思想を広める
ことによって、
将来いずれ人間を変えることに関心をもつのとすこしも変わりはしない。
■ひとは皆アーティストである
こうなると、「
ひとは皆アーティストである
」という発言がおもしろくなってくる。なぜなら、
わたしの作ったオブジェの助けをかりて、人々の体験するのは、まさにそれだからだ
。だれもが、自分はアーティストだと気づく。多くの人々は「わたしだってやろうと思えば、これと似たものを作れるのに」とつぶやくからだ。「ひとは皆アーティストである」というのは、
ただ単に、人間は創造的な生き物であり、創造者であるということ、そればかりか、ひとはまったく千差万別の方向で創造性を発揮できることを意味する。
わたしにいわせれば、出来上がったものが画家の作品だろうと、彫刻家、あるいは物理学者の作ったものだろうと、そんなことはどうでもいい。
■芸術と社会
定義を根源的に拡張することによってのみ、芸術、ならびに芸術に関連する活動は、芸術が唯一の進歩的/革命的原動力であることを証明することができる。
芸術のみが、いまだに
死線を彷徨いつづける耄碌した社会システムの抑圧的な働きを解体しうる。
解体を通じて「
芸術作品としての有機的社会組織
」を構築できる。「
芸術を社会の中に、社会を芸術の中に
」ICA1974年。
ひとは皆、それぞれの分野での活動を通じて、
人類学的な認識をめざすべきである。人生とはそこに関わるものであり、政治も同様である。もしわたしの教えた学生のひとりが、いつの日にか、よりよい子育てができるのであれば、わたしにとってはそのことのほうが、ただ偉大な芸術家を教えたという事実よりも大切に思える。
偉大な芸術家を養成するという古めかしいアカデミックな考え方はもう通用しない。そういう幸せな偶然はいつでも起こりうる。しかし、
芸術と、芸術を通じて得た知覚が人生に還流し、これを豊かにするという考え方を重視すべきだろう。
・・・・「芸術のなかには、たとえばヨーゼフ・ボイスのように」カリフオルニア州立大学1975年
■芸術と科学
創造性の持ち主である芸術家が、芸術(創造性)の革命的な力を認識するとき・・・さて、ここでもうー度、芸術、創造性、自由と書いておこう・・・
その瞬間にかれは芸術と科学の真の目的を理解するだろう
。さて、芸術と科学を結びつけて、いっそう広範な概念を創りあげる。
その中心を占めるのは、創造性だ
。
わたしは、ある種の問い・・・芸術について、科学について・・・に興味をそそられるし、そうした問いにできるだけうまく答えるには、紙の上に意思疎通の手段としての
表現を展開すること
、それによって
今日の文明が科学的、芸術的方法論、あるいは思想一般として提起するものを超えて、より綿密な議論を引き出すのがふさわしいと思う。
わたしはそうしたものの先にすすみたい・・・わたしは問いを発し、紙の上に表現としてのフイルムを記し、感受性や意図、そして、わたしは単に人々に考えさせたいばかりではなく、かれらを挑発したい。この挑発性が、素描ではとりわけ、あまり目立つことがなくとも・・・かえってそのために根深さを増す。
わたしの素描はある種の貯水池であって、わたしはそこからかけがえのない衝動をくみあげることができる。
言いかえれば、
素描はくりかえし使える原典なのだ
。
(翻訳:木下哲夫)
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