ボイスの思い出
ボイスの思い出
アンソニー・ドフェイ
ヨーゼフ・ボイスの重要性を初めて教えてくれたのはわたしの妻である。1g77年にわたしと結婚する前のこと、テート・ギャラリーのキュレークーを務めている間に妻はボイスと知り合ったのだった。
結婚してから、1、2年の後、歴史的評価の定まった20世紀イギリスの前衛美術を主にあつかっていた小さな画廊を拡張し、現代美術を国籍にとらわれずに幅広く紹介しようと考えはじめた時、新しい画廊のオーフヒング展をヨーゼフ・ボイスに頼んでみようと思いついた。
画廊を新しくオープンするまで、わたしはボイスについて善かれたものなら何にでも目を通し、展覧会のオープニングがあれば必ずボイスの後について会場まで足を運び、いわばボイス漬けといった日々を送った。やみくもに後を追いかけてくる少々間の抜けた感じのイギリス人の心酔ぶりを見て、ボイスは面白がっているようだったが、少しずつ親しみを覚えるようになったのだろう。やがてわたしたちは友だちの間柄になった。
1970年代後半の出来事の中でわたしが心を躍らせたもののひとつに、1979年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で開かれたボイスのすばらしい展覧会がある。この展覧会のカタログはキャロライン・ティスドールが執筆し、テーーーームズ・アンド・ハドソン社と共同出版されたもので、20世紀に善かれた美術館書としてはまちがいなくもっとも重要なもののひとつなのに、残念ながら現在は絶版となっている。この展覧会は、素材、表現の手法のどちらを見ても従来の美術の範囲を逸脱し、伝統とは無縁なこと一旦瞭然の現代美術が、それにもかかわらず東西の過去の偉大な伝統とじかに結びついていることを示した最初の例のひとつだった。この展覧会からはボイスが人類進化の全局面、つまり文化、科学、社会、宗教、経済、政治といったあらゆる要素を視野に収めて活動していることがただちに見てとれた。
美術とはボイスにとってなによりもまず、人類にとって有用なものであった。ボイスは求められればどこにでもでかけていった。ドイツの緑の党や環境問題に関心をもったのも、教育に関わり、自由国際大学の設立に努力したものそのためである。1984年には7000本の樫を植樹するというプロジェクトに関連して訪日したこともある。またその一方で、現代社会で美術は大きな役割を果たしうると信じながら、実際には厳しい現実に直面しているわたしたちのような画廊の手助けも怠らなかった。
それからの5年間(亡くなるまでの5年間ということになった)、ボイスはわたしたちの画廊の大きな力になってくれた。またスタッフのだれもがボイスに心酔し、ボイスのためとあれば身を粉にして働こうという気持ちになった。わたしたちの画廊で5つのすばらしい展覧会を行うと同時に素描の展覧会も行い、これはイギリス国内の3つの美術館をはじめとして、アイルランドとアメリカ合衆国にも巡回した。
わたしたちの画廊で初めて展覧会をするまでにも、ボイスは数度イギリスを訪れたことがあり、英語も達者だった。ボイスはイギリスの文化、歴史、自然の生態のなんにでも夢中になったが、なかでもとくに興味をもったのがケルトの歴史である。1971年にはエディンバラ・フェスティヴァルで「ケルティツク」と題した大がかりなパフォーマンス作品、あるいはボイスの呼び方にしたがうならアクションを制作した。
ボイスが1980年にわたしの画廊で初めて行った展覧会では、現代世界と古代の歴史との関係が大きなテーマになっていた。「シャーマンの家の帯」と題されたこの作品(現在はキャンベラのオーストラリア国立美術館に所蔵されている)は12メートルにもおよぷ巨大なインスクレーション作品て\細長いフェルトを床に置いたり輪にして立たせたりして、そこに木の横、色とりどりの薬品の山、スイス軍用の大外套、毛皮のコート、革鞄を配したものだった。この作品はボイスが現代のシャーマンとしての役割を担っていることを明らかにするとともに、歴史を超越した伝統的な役割を果たしつつも、20世紀を迎えた人類社会にあっては魔術師として、ひとの心を癒す力をもつことを示したといえる。
それから2年経った1982年のこと、ボイスはロンドンで再び希有壮大なインスクレーション作品「内観鏡付の最後の空間」(1964−82年。シュトウツトガルト州立美術館蔵)を発表した。石膏、フェルトと蜜蝿を主材料に、作品の内部を映すバックミラーを取り付けたこの巨大な彫刻作品で、ボイスはクレーヴェの街で過ごした子供の頃の忘れがたい体験にかたちを与えたといえるだろう。ボイスが「F屋根の王子」であるとはどういうことか」を初めて‡里解したのはこの時代のことだった。これはとりもなおさず、要員脳、知能と心、意識と直観の力をボイスが感じとったことを意味する。この作品では、ボイスは頭脳をクレーヴ工の街の家々の屋根になぞらえている。しかし、あの有名な「脂肪の椅子」のヴァリエーションのひとつを組みこんだせいもあり、古い家具のある屋根裏部屋にも似ていた。ただし椅子は脂肪ではなく蜜蝋で分厚く包まれていて、まるで蜜蜂の大群が椅子の上で巣作りに励んだ後のようにも見えるのだった。蜂、虫臥蜂蜜と人間の亘頁脳、血液の循環との結びつきはボイスの作品においては1950年代の初期以来、一貫してある役割を与えられてきたし、彫刻の温かさ=冷たさについての理論、そして美術の社会的機能に関するボイスの視点にも関わってくる。
わたしたちの画廊で初めて開いた個展に際しては、一連の見逃せない素描作品の展示も行った。時の経過とともに素描は点数を増やし、1983年にはイギリスの公立美術館3カ所、リーズ市美術館、ケンブリッジのケトルズ・ヤード・ギャラリー、そしてロンドンのヴヤクトリア・アンド・アルバート美術館を巡回した。絵具、鉛筆といった旧来の材料から植物を絞った液、薬品、血やチョコレートまで、およそ想像可能なあらゆるメテンアを駆使して描かれたこれらの作品は、ボイスのデッサンカの優秀さと懐の深さを実地に示したといえる。またそれぞれの会場でボイスは満員の聴衆を前にして作品について、人顆の進歩というものに対する考え方について、そして将来の社会秩序を巡って講演を行った。
ロンドンでの素描展の会期中に、ボイスはわたしたちの画廊でも12のガラスの陳列ケースによる水際立った展覧会を開いている。陳列ケースには、共通のテーマによって嘩互に関連しながら、過去にボイスが行った様々な「アクション」のひとつひとつと具体的に対応する一群の小品が収めてあった。ボイスはこれらの小品をしばしば「アクション・ツーノ山(アクションに使う道具の意味)と呼んだが、小品は「ケルティツク」をはじめとする多くの重要なイベントを思い出させるきっかけにもなったし、またボイスの実践的な思想の広範で緻密なネットワークをも明らかにした。物とし⊂の存在感も強烈で、聖なる遺物を納めた器のようでもあれば、博物館の陳列棚のようでもあり、鰐卵器にも、またレントゲン照射を浴びて骨格を露にした巨大な動物が、細長い金属製の脚で部屋を闊歩しているようにも見えるのだった。
ボイスの残した作品のどの部分でもいい、そこに注目してみれば、ただひとりの人間がこれほど多くを感じとり、これほど幅広く物を考えることができ、これほどこと細かに、そして多様に関連する視点から物事を見られたとは、とうてい信じがたく思われるのではなかろうか。ただボイスの活動の全体を見渡すにはどうしても大規模な回顧展でなければならないとしても、作品の基本的なテーマやアイデアは長い年月の間にくりかえし登場している。鹿、兎、蜂、白鳥、シャーマン、女優といったイメージ、医学に係わるイメージ、地理的あるいは科学的なイメージ、社会秩序や教育、そして過去と未来の関連についての理論などである。ボイスを知ってからほどなくして、わたしたち夫婦と画廊のスタッフはこうした事柄を日頃からよく話題にするようになった。
作品の展示にロンドンを訪れるときのボイスは、家族と助ヨ手のハイナーり(ステイアンを連れてくるのが常だった。そしてノダーリング街9番地の2階、壁は板張りの画廊の一室がポイスの活動の舞台となった。ボイスは画廊に腰を落ち着け、果てしなくお喋りをつづけ、マスコミのインタウゝ一には辛抱強く答え、煙草をすい(医者の命令に背いて)、ハジス(羊の臓物を刻んで胃袋に入れ、煮込んだスコットランド料王里)やソーセージ、スープなどの食事をとり、世界各地から訪れる友人たちを暖かく迎えた。細かいところまですべて納得のゆくまで疲れを知らずに働くボイスを見ていると、まるで片時も身体を休めるときはないような気さえした。
しかし、1985年、ロンドンでは最後となる展覧会のために「ブライト」(fig.11,12)を制作したときには、すでに病状はかなり深刻な状態にあった。治療法のないきわめて稀な肺の感染症に侵され、しかも身体の他の部位にも感染が拡がりはじめていたため、ボイスは時々刻々衰えゆく意思の力を振り絞って、ようやくこの傑作を仕上げたのである。現在はパリのボンピドゥー・センターが所蔵している「ブライト」のそもそもの始まりは、侵入してくるピル工事の騒音を抑える消音彫刻にあった。しかしできあがってみると、作品はそれよりはるかに大がかりなものになっていた。作品はボイス自らの置かれた個人的な状況や存在のあり方に深く関わりながら、その作品の性格は特定のものというよりむしろ普遍的なものに変化した。「ブライト」の内部は二重構造になっており、周りを囲まれたふたつのスペースは繋がっている。素材はグレーのフェルトのロールに原毛を詰めたもので、窓はなく、出入口は内側から隠してあるので見えない。最初の部屋にはグランド・ピアノ、楽譜の載った黒板、そして温度計が置いてある。次の間は空っぽでなにもない。
外からの刺激を遮断するフェルトの力を活かした作品のなかでも、これが最高傑作であることはまちがいない。ボイスが初めてフェルトの力を知ったのは、第二次世界大戦中にクリミアで墜落したときのことだった。助けてくれたタタール族の人々は、ボイスを脂肪とフェルトにくるんで、身体を温めようとした。かつて一度は命を救ってくれた思いやりある魔術が、ふたたび自分を蘇生させてくれるのではないかというかすかな望みをボイスは抱いたのかもしれない。
「ブライト」には見るひとの身体に働きかけてくるところが多分にある。外からの吾が遮断されているうえに、温か味のあるフェルトに囲まれているせいで、体内の音がよく聞こえるようになり、肉体的な知覚、感覚が鋭さを増す。この作品で採られている意思疎通の手.段は、ことばによっても表現できるアイデアやイメージが数多くとりあげられているとはいいながら、ボイスにしては珍しくことばとは距離を置いたものといえるだろう。この作品の内部に身を置くと、子宮の中にいるようでもあり、墓の中にいるようでもある。作品は生誕の場と追憶の場の交差するところ、記念碑であるかもしれない。
この傑作をもって、ヨーゼフ・ボイスとの仕事はほぼ終了した。ここで最後の1章を加えて結びとしよう。それから2、3週間経ったクリスマスのこと、わたしたちはナポリに向かうボイス一家に同行した。ナポリにでかけたのは最後の彫刻作品レ〈ラヅソォ・レガーレ」(fig.1,2,3)を設置するためだった。この作品は現在デュッセルドルフのノルトライン=ウゝストファーレン州立美術館に所蔵されている。作品はふたつのガラス陳列ケースからなり、中に収めてあるのが、この世でシャーマンを象徴する品々と、間もなくでかけることになる長い旅路への備えであることは明らかだった。一目見れば王の安息の場であることはすぐに分かる。作品は壮大な墓であり、偉大な魂の住む宮殿(「最後の空間」に登場する「屋根の王子」にまで遡る)なの.だった。
肉体の居場所としてはすでに作品であるガラス・ケースの中のほうがふさわしいようにも思えるのに、まだ作品のまわりを(やっとの思いで)歩いている作家の姿を見るのは、奇妙な体験だった。ボイス自身もこのことをはっきりと意識していて、肉体の死とはなにを意味するか、そして体外体験について、しごく当たり前のことのように自分の考えを述べていた。
それから2カ月後、ボイスはとうとうこの世を去った。画廊にはまだボイスがいて、わたしたちを導いていてくれるような気がする。ボイスからはまだ学びたいことがいくらもあった。いまでも毎日、わたしたちはボイスから学びつづけている。ボイスが亡くなってからの数カ月の間に起きた出来事のうち、わたしたちにとってなにより大きな意味をもったのは、ボイスが死の間際に仕上げた偉大なブロンズの彫刻作品「鹿と落雷、稲光」(フィラデルフィア美術館蔵)の初の設置に携わったことだった(作品のタイトルをどうするか、ナポリでボイスと語りあったことが思いだされる)。この作品は、1988年にロサンゼルスの現代美術館の開館記念展で初めて発表された。妻とわたしは、ボイスの気に入るよう作品を展示するのに長い時間をかけて作業をつづけた。その間にも、わたしたちはそれまで気づかなかった多くをボイスから学んだように思う。創造性について、直観について。それはボイスが日頃から、理性の最高の現れであると主張しつづけたものであった。1993年6月(翻訳:木下哲夫)
Top