李禹煥

■李禹煥

■交通

 李禹煥

 私は完結的で自立的なテクストより、内部と外部が出会う見通しの長い媒介項が好きだ。芸術作品は、観念そのものにも現実そのものにも成り得ない。それは観念と現実の間にあって、両方から浸透されつつまたそれらに影響を与える両義的なものだ

 私の試みは、近代主義的な全体性や自立した対象物を作り出すこととは異なる。描くことと描かざるもの、作ることと作らざるもの、能動と受動を刺激的に関係づけることが重要である。手と筆と絵具を用いてカンバスにわずか(一つまたは二三)のタッチを書けることによって、描いていない部分が反響する余白の空間を催す。

 自然状態の石とその要素を抽象化した鉄板とそこにある空間を対応させ、響き合う場所を開く。つまり作ることを限定し作らざるものと関わらせることによって、外部性を取り込み非同一の世界をあらわすのである。

 もちろん作品に未知性をもたらすためには、外部性と渡り合える高度な精神性が要請され、コンセプトやテクニックや訓練を徹底化しなければならない。こうして開かれた関係の形成が私の立場であり、解体や再解釈の時代を超えて、新たに絵画と彫刻の出発点の提示となる。

 超越を夢見ながら生きるのが人間であろう。それゆえ芸術表現は、反省と飛躍を暗示するものでありたい。人間が内と外の接点である身体的存在であるように、作品もまた自己と他者を媒介し高揚させる生きた中間項でなくてはならない

■余白の芸術

 アートは、詩であり批評でありそして超超的なものである。

 そのためには二つの道がある。

 一つ目は、自分の内面的なイメージを現実化する道である。
 二つ目は、自分の内面的な考えと外部の現実とを組み合わせる道である。
 三つ目は、日常の現実をそのまま再生産する道だが、そこには暗示も飛躍もないので、私はそれをアートとはみない。

 私の選んだのは二つ目の、内部と外部が出会う道であるそこでは私の作る部分を限定し、作らない部分を受け入れて、お互いに浸透したり拒絶したりするダイナミックな関係を作ることが重要なのだ。この関係作用によって、詩的で批評的でそして超越的な空間が開かれることを望む。

 私はこれを余白の芸術と呼ぶ。ところで私は、いろいろな画家の絵画の中にみられるような、ただ空いている空間を余白とは感じない。そこには何かのリアリティが欠けているからだ。例えば、太鼓を打てば、周りの空間に響きわたる。太鼓を含めて、このバイブレーションの空間を余白という。

 この原理と同じく、高度なテクニックによる部分的な筆のタッチで、白いCanvasの空間がバイブレーションを起こすとき、人はそこにリアリティのある絵画性を見るのだ。そしてさらにフレームのないタブローは、壁とも関係を保ち、絵画性の余韻は周りの空間に広がる。

 この傾向は、彫刻において、一層鮮明である。例えば、自然石やニュートラルな鉄板を組み合わせて空間に強いアクセントを与えると、作品自体というより、辺りまで空気が密度を持ち、そこの場所が開かれた世界として鮮やかにみえてくる。

 だから描いた部分と描かない部分、作るものと作らないもの、内部と外部が、刺激的な関係で作用し合い響き渡るとき、その空間に詩か批評がか超越性を感じることが出来る。

 芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。