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ものの広がり
■李禹煥の彫刻について
倉石信乃
■自然と美術
さほど身がまえているわけではないふだんの時、たとえば通勤や通学の帰りがけにふとタ焼けにかがやく空をながめていたり、道ばたのコンクリートの割れ目から短くのびた一本の雑草の新鮮な緑に、しばし目をとめたりすることがあります。忙しさにかまけた日々のなかでも、時々ではあれ、そういうことはあります。よく見知つているはずの自然にたいして、たまに「美しい」とか「親しい」と思うこころは、「ものの方から私たちの方への「働きかけ」によって動かされたのでした。未踏の山や深海におもむいてはじめて目にする驚異に満ちた「自然」でなくても、すでに知っているはずの自然もまた、そのつど新しい働きかけをつねにくり広げています。日常のなかでも出会うことのできる自然は、この世界のなかにありながら、同時にどこか果てしない場所、遠いところへ、私たちの気持ちをいざなうように見えます。李禹煥はこう書いたことがあります。
自然は絶えず刺激的な他者であり、永遠に対象化出来ない外部なのである。
いつでも新しいすがたかたちで私たちに働きかける「自然」物に匹敵するものを、ひとの手で作り上げ、永遠不朽の揺るぎなさの下にとどめおくことは、古来からの人びとの関心事でした。自然の中にある本質的なものに焦点をあてて、もっぱらそれを引き出すこと、つまり「抽象」の芸術も、20世紀前半にはさかんになりました。しかし・夕日の空や一本の草のような自然にくらべて、ひとの手によってかたちづくられる美術を見る場合、私たちは、あらかじめ不必要なこわばりにとらわれてしまいがちなようです。また・とりわけ人工物に取りかこまれた現代では、自然について考え、その力を活かしていくのは、とても難しいしいことです。
■素材ではなく
李禹煥の彫刻は、一個の人間の「外」にあってたえず刺激的で新しい自然の力を活かしながら、このすっかり人工物にとりかこまれた世界をどうにかして変容させようとするいとなみから生まれます。
そのために李禹煥は、主に二種類の「素材」を使います。河原にころがっていたり、山や土の中から堀り出された自然の石と、工場で規格化され製造された鉄の板です。石の方は、自然そのもののいわば「結晶」です。鉄板の方は私たちの産業社会の典型的な「製品」である一方、鉄鉱石に由来しそこから精製された「もの」という点で、より純粋化した「石」という矛盾した意味もはらんでいます。鉄について、李は「人間の意識の限定によって対象化されたものであるにもかかわらず、それが人間味の薄い、そして自然を失ったものである」と言っています。
つまり鉄板とは、人間の勝手によってさまざまな用途にかなうように作られた物質であり、かつ自然の鉄鉱石から生まれたものなので、もっと人間の都合が顔を出したり、逆に自然のエッセンスを身に備えていてもよさそうなものですが、実際には「人為」からも「自然」からもずっと遠のいた、きわめて「観念的」な存在であるということです。
この「観念性」は、自然石の性格と対照的です。李は石を一種の「生き物」とみなして、例えば日本の石は「腐る」というような感覚を備えているのに対し、韓国の石が「蒸発する」のだと言います。
こうした「生き物」としてとらえられた「石」に対する李の繊細な感覚によって、産地によって異なる石の表情を、「選ぶ」という行為と「配置する」という行為によつて引き出し、たくみに作品が組み立てられていくのです。
人間の文明の歴史はせいぜい数千年にさかのぼるに過ぎないのに対し、今回の展覧会で李禹煥が屋外の展示の一部に用ている
茨城県真壁町で堀り出された「白ミカゲ石」
は、じつに1500万年もの生命を保っています。その途方もない「時間」が現実の「かたまり」として目の前に実際あること。そのことへの驚きが、石をそのま展示物として持ち込む、李禹煥の大きな動機づけです。
自然をあらわす石と、人為の極北をあらわす鉄板とを組み合わせる李禹煥の彫刻は、いささかも文学的ではないけれど、
具体的な「もの」と「もの」との重なりや隣接によつて生れる、
美術というジャンルにしかありえない
「劇的なるもの」を確かに私たちに伝えています。
ところで、李禹煥の彫刻の鉄板や石を語る際に、「素材」という言い方は、適切さを欠いているかもしれません。なぜなら、美術作品でいう「素材」ということばは、「完成作」の手前の段階をさしていて、「完成」までに、多くの「加工」がほどこされることを前提にするからです。李禹煥の「素材」は、選び出された後に、ほとんど何も手を加られていないか、加えられてもごくわずかです。
むしろ何も「つくっていない」ことをこそ、あらわそうとさえしています
。「素材」をなるべくそのままのかたちで活かそうとする李の考え方のうちには、「芸術作品」を「つくること」への激しい不信があります。
■「もの派」とつくらないこと
李禹煥がこのような「無作為」(つくらないこと)を重視する考えにたどり着くまでには、さまざまな試み行われました。
1960年代末の初期の作品には、
床の上に大きな目盛りのついた伸び縮みするゴムのメジャーをあわせ、その上に石を置いた作品があります。
(上写真) また、ひびの入つた鉄板の上にガラス板を重ね、さらに一個の石をのせたものがあります。これらの作品は、はじめ
「現象と知覚」
という題名がついていました。この頃の李禹煥は、
現実の場所で実際に生じていることがら(現象)と、目に見える見え方(知覚)とが、どうしてもずれてしまうことに注目したのです。つまり、計測の基準であるはずの「目盛り」の不確かさや、ガラスの透明さのおかげで、鉄板でなくガラスの方が石によつて割れているかのように見えてしまうことなど、私たちの目がいかに「錯覚」に左右されるかを、一種の「しかけ」を使って検証たのでした。
大きなざぶとんの上に自然石を置いたり、太い角材をロープで柱にしばりつけたりすることで、ふつうの展示空間の性質に異様な緊張をもたらしたのも、初期の頃の作品においてのことです。
それでは李禹煥は彫刻作品を作りはじめた頃、なぜそのような「しかけ」を使う必要があったのでしょうか。そこにはまず、あらゆるものごとを視覚でとらえるだけで理解可能とする、「視覚万能時代」または「映像万能時代」としての近・現代に対する批判があります
。
目で把握できる世界には限界があること、「目」はあくまで不完全な器官であることを、李
は、「
現象と知覚
」
のずれを強調することで、立証しようとしたのでした。
1960年代の終わり頃までに世界の美術の世界では、それまであたりまえと考えられてきた絵画と彫刻というジャンルはもちろんのこと、美術の約束事のほとんどが、作者と鑑賞者の生き生きとした体験をそこなう、古くさく、こり固まった制度の産物とみなされるようになりました。
彫刻に限ってみても、彫刻を成り立たせてきた「かたまり」の感覚や、ひとの身体になぞえてつくる「かたち」という基準、さらには「かたち」から離れることでもたらされた主に幾何学的なパーツを組み合わせる「構成」や「抽象」という考え方などが、ことごとく否定されるべきものになりました
。
「かたまり」の感覚が失われ、かぼそい輪郭だけの彫刻や、光や気体を使う彫刻、いちどに作品の全体を目でとらえきれない、展示空間いちめんに素材が展開する彫刻、さらには美術館や画廊の建築に寄生する彫刻、逆に展示空間の外に出かけていって、広い自然の中に「作品」を置く行為などが、次々に現れたのでした。
展示空間に、目の錯覚や異常な状態の「もの」の組み合わせを持ち込む、初期の李禹煥の試みもまた、新しい「彫刻」をつくるために必要なてつづきでした。しかし李本人や、李と近い考えで作品を制作した
「もの派」と呼ばれた作家たちはすぐに
、そうした
「トリック」の方法と決別します
。そして、なるべく「つくらない」こと、つくる場合にも最小限に作業をとどめながら、あまり厳密な「システム」にしばられずに「もの」を放置する、たいへんユニークな仕事に向かいます。
「ユニーク」(類例がない)というのは、こういう理由からです。つ
まり、同時代のほかの「過激な」好彫刻家、とくにアメリカの「ミニマル・アート」(最小限の芸術)の作家たちは、同一や類似のサイズの物体を厳密な規則にのっとってくりかえし配列したり、人間の身体のサイズや動作を想定した上で、展示空間全体をつくつたりするという意味で、「人為性」や「演出」をかえって強く主張するのに対し、
李禹煥たち「もの派」の作家は、それらをなるべく排除して、「あるがまま」や「おのずから」という形容がふさわしいような、「無作為」の美学を徹底しているからにはかなりません。
■余白の彫刻
李禹煥が自らの制作について、「余白」の意義を強調するのは、与えられた空間に置かれる、首尾よくつくりこんだ「もの」を示す従来の美術のやり方の限界をよく知っているからです。このことは李のなかで、
自然をほしいままに支配できると思いこんでしまう近・現代の「人間」一般の限界とつながっています。
そこで李禹煥は、つくらない「もの」をさりげなく置くことによつて、「なにもない」空間、「無」の場所に目に見えない波動が伝わっていって、空間の性質が変わったり、広がったりすることに賭けようとしています。一枚の鉄板、一個の自然石は、ひとが手を加える以前にすでに、「出来上がって」います。それ自体としてそれぞれの特徴と力をもち、人間の意思や感情とは別個の存在感に満ちているのです。しかし、通常の美術の文脈では推しはかれない「強さ」をもつ具体的な「もの」は、そのままではあまりにも茫洋とした不確定的な広がりを感じさせてしまいます。そこで、李は、いわば「もの」と鑑賞者との間にたつ「メディア」(媒介書)として、熟達した技術と百戦錬磨の経験にもとづく所作をほんのわずかに加えて、「もの」のもたらす世界の広がりを、見る人びとに開き示すのです。そのときの李禹煥は、ちょうど私たちの知らないことばで話すエイリアン(他者≡外国人=異星人)たる「もの」のことばを、私たちの知ることばに置きかえて伝える、「翻訳者」のような役目を演じているといってよいでしょう。
李禹煥の彫刻は、一個人の「自己表現」という狭いリミットを超えて、あくまで「もの」の方からしだいに広がっていく、目に見えない部分をも含んだ室内の広がり、世界の広がりをあらわします。それはものの広がりと人間との「出会い」を求める、
一種の「催物」(もよおし)=「祭事」(まつり)としての芸術です
。「もの」の配置がすなわち「出来事」となる場を用意すること。これこそが、かろうじて李禹煥によつて許された「つくる」こと、制作行為だと言えるでしよう。
[横浜美術館学芸部主任学芸員]
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